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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第九章 南北戦争
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大道寺政繁の最期

「やっぱりいたんじゃないか!」




 戦前のあの混乱の時、あそこまでではないにせよ武田の伏兵を危惧している兵はいた。

 実際山の方に偵察に向かって戻って来た兵たちはそのうかつさを現在進行形で責められ、同時にその伏兵に攻められていた。


「何が伏兵はいないだよ!」

「あいつらは何を見て来たんだ!」


 北から覆いかぶさるようにやって来る武田軍に対し、大道寺軍の兵は悪態を付きまくる。

 もっとも悪態だけで敵を殺せるなら刀も鎧も要らないし、ましてや身内の失態に対する悪態など何の正の意味もない、

 その間に風林火山の旗を掲げた兵が迫り、刃も迫って来る。


「逃げろお前!俺が逃げられねえだろ!」

「戦えよ!」

「じゃあお前がやれ!」


 そんな情けない事この上ない争いの間に、先ほどから叫んでばかりいた二人の兵は二つの死体に変わった。

 ついこの前まで小田原城の側の田んぼを耕してばかりだった、祝言もまだしていないような二十歳にもならぬ二人の命が、何の意味もなく消えて行く。

 それが戦だった。


「さあ一気に押し切れ!」

 もちろん武田はそんな悲惨な現実を前にしても手を緩めない。やらねばやられると言う真理の元、次々と犠牲者を増やす。

 負けじと信勝軍と言うか三枝軍も前進し、大道寺軍を追い詰めて行く。


「わしが西を抑える!その方らは北の敵に当たれ!」


 作戦が露見しようが知った事かとばかりに政繁は吠え、自ら盾となって三枝軍に当たる。

 その間に残っていた兵を北側に向かせ、横と縦の壁を作った。

 隙間に北条軍本隊以下の軍勢を入らせる算段だ。


「もう少し、もう少しだけでいい!お館様が来てくれるぞ!」


 あともう少しだけ、あともう少しだけ!

 政繁は将として、指揮官として、最大限の努力を怠っていなかった。


 だが、来ない。



 肝心の北条軍本隊が、隙間を埋めに来ない。







 いや、来られない。







「北条軍本隊も北からの攻撃を受けているようです!」

「いったいどこにそんな兵がいるんだ!」

「ああ松田様も!」

「虚言癖もいい加減にしろ!」


 ありえない報告を受けた政繁はさらに吠え散らかすが、現実はその言葉通りありえないほどに残酷だった。


 北からの攻撃は大道寺軍だけでなく北条軍本隊にもおよび、さらに後方の松田憲秀軍さえも攻撃を受けていた。

 当然両軍に大道寺軍救援の余裕などある訳もなく、敵奇襲軍を抑えるのでいっぱいいっぱいになってしまった。



「やっぱりダメじゃないかぁ!」

「やっぱりダメじゃないかぁ!」



 武田、北条の両方から飛ぶ言葉。片や嘲笑、片や失望。

 二つの力がひとつになる。


「逃げるな!逃げた所で道はない!」

 もう武田軍の耳に入る距離になってしまった政繁の焦燥に満ちた声がますます武田軍の戦意を煽り、北条軍の犠牲を膨らませる。

「うわああああああ…!」

 中には武士らしく突撃して相手を斬って死ぬことを求める人間もいたが、どちらの方向に進んでもあっさりと斬り落とされた。


 まさしく、蟷螂の斧だった。


 故事成語で説明できるほどにありふれた死。


「もう少しましな腕になってから戦場に出て来い!」


 その一人の兵士のありふれた勝ち台詞。


 そして増える犠牲者。




「おかーちゃーん!」

「お館様、お助けくだせー!」


 積もりに積もった火薬に、ついに火が点いた。




 とうとう、大道寺軍は爆発四散したのだ。




「おいこら!南だけは駄目だ!」


 政繁の言葉が耳に入っている兵など、もう一人もいなかった。


 西は論外、北はもう無理、東は味方に塞がれている。


 では南は—————となるのはもっともだったが、そこには桂川があった。


 鎧を着たままそんな川に入れば、深みにはまって溺死する。

 ほどなくして刺し傷や切り傷にうめく兵たちの声に、溺死しそうになって酸素を求めてもがく兵たちの声が混じり出した。中には泳ぎ切って逃げ延びた兵もいるが、もちろん戦力として数える事などできない。


「ああ、こら、どうして……!」


 政繁は気が遠くなるのをこらえながら、必死に槍を突き出した。


「どうして、どうして、こんな事に……!」







 —————複雑な話ではない。




 単に大道寺軍が街道から二町(約二二〇m)ぐらいの幅しか調べていなかったのに対し、武田軍はその五倍以上遠くに控えていただけだった。


 あえて言えば索敵していた兵の存在を甲斐忍びが一方的に関知し、大道寺軍が関知できなかった事。それが唯一最大の責めだっただろう。

 もっとも、甲州街道から二町どころか半町しか離れていない所を走っていたとは言え風魔小太郎ですら関知できなかったのを素人に関知するなど無理な話であり、責めを負わせる理由にはならない。







「そんな馬鹿な、いったいどこにそれだけの兵がいるんだ!北条軍は一万以上いるんだぞ!」


 そんなある意味冤罪人となった政繁は三枝軍の兵を必死にいなしながら喚く。

 広範囲にわたる山中からの攻撃。仮に信勝軍が来たとしてもそんな余分な兵力が武田にあるはずないのに。

「さすがは信玄様だ!手空きになっていた内藤様の兵を寄越してくれるとはな!」

 その疑問に答えるように、丸に花菱の旗が上がる。


 文字通りの内藤家の旗に、北条軍本隊さえ踵を返して逃げ出した。


「いよいよ本格的におしまいだなあ!」


 武田軍から出た言葉と共に、次々に首と刀が舞った。

 耐え切れなくなった兵がついに降参を選び、そうしなかった人間たちが殺される。

 これまた自然の摂理だったが、どこまでも残酷な現実だった。



 武田が内藤の旗を掲げたのは、まったくのはったりでしかない。

 内藤と言う少なくとも四千は兵を持っていそうな将の存在を示し戦意をさらに削るためであり、この圧倒的優位な状況でなければそこまでの意味はなかったはずだ。


 実際、北条勢を北から攻撃している軍勢は二千五百しかいない。伸び切った北条軍を叩くために武田軍も伸び切っており、厚さそのものは極めて薄くなっていた。


「ぐがあああ!」


 もちろんそんな事など知らない政繁は、一番厚い所に向かって必死に得物を振るっている。

 怒声を出し過ぎてこれまで以上のしわがれ声となった政繁の刃はなかなか赤くならず、顔ばかりが赤くなる。

 そして、鎧も赤くならない。

「どうしたぁ!わしを討てんのかぁ!」

 返り血を浴びる事も浴びせる事もないまま、政繁は打ち合っている。

 その事にようやく気付いた政繁は元気を取り戻して吠えるが、それに乗っかる北条軍の兵は一人もいない。



「もうこれ以上ここで戦う理由はない!」

「大将様も早くお逃げ下せえ!」



 最後の最後まで正気を保っていた連中が、次々と逃げ出したのだ。

 理由は言うまでもなく「お館様が逃げたのだから」であり、こうなるともうどうにもならない。

 四散した中での中核、大道寺家の譜代とも言うべき人間たちまで戦場から逃げ出すような状態で、政繁に何ができると言うのか。と言うか逃げなかった連中は桂川ではなく、三途の川にいる。

「もういいだろう!」

 守友の声と共に、今まで受け止めるばかりだった兵たちが次々と襲い掛かって来る。

 誰かおらぬのかと吠えたかったが、本当に誰もいない。


 一人ずつ、一人ずつ減らされて行き、最後に残ったのが自分。


「この首は大将以外にくれてやるほど安くはないわ!」


 政繁は必死に最後の意地を見せるが、次々と雑兵の槍が飛んでくる。

 十本の内三本しかいなせず、残り七本分の穴が体に開く。

 甲州街道をさらに赤く濡らし、その代わりのように顔が青くなる。


「もうよかろう。最期はこの身が請け負おう」


 そうして部下をすべて失い、死に掛けの状態になり、ようやく政繁の望みはかなえられた。


「小山田殿か……!」

「武士の情けと言う物だ……どうか受け取られよ!」


 政繁は最後の力を振り絞り、必死に得物を振るった。

 小山田直茂は政繁の一撃を丁重に受け止め、その上で己が得物を胸に突き刺した。


「首を取る必要はない。誇り高き勇士であったと伝えこのまま送れ」



 仰向けに倒れ込んだ政繁の顔には苦痛の色はなく、どこか爽やかだった。



 すべての恐怖から解き放たれたような、まるで童子のような死に顔で、政繁は永遠の眠りについたのである。

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