徳川家康、三十一にして死す
「ふーん……」
家康主従がずいぶんと感動的な別れの挨拶をしてから半刻後。
武田信玄は少ないあごひげを撫でながら、浜松城を眺めた。
二か国の大名の居城にふさわしい程度には大きな城。
甲信の城ばかり見て来た信玄からしてみれば駿府城ほどではないが、それなりに珍しい城。
だがその城は、正直間抜けだった。
「お館様、これは……」
かがり火を焚き、門を大きく開けている。
いかにも攻めてくださいと言わんばかりである。
「どうも危険に思えます」
にもかかわらず小姓頭の武藤喜兵衛は、どこか及び腰だった。
この時武田の死傷者は、四千以上いた。
石川数正を討ち取っただけで後の将は西側へと逃させ、浜松城へと入れないようにした。それこそまともに動ける二万の内一万で浜松城を包囲し、五千で酒井や本多と言った徳川軍を追いやり、残る勝頼率いる五千でその徳川の連中をさらに睨ませている。
「酒井や大久保などは」
「三方ヶ原と言う原っぱにて陣を張っているようです」
「まったく、逃げん軍勢ほど恐ろしい物もないな」
先ほど武田の死傷者は四千以上と言ったが、徳川のそれもほぼ同じであった事を信玄は把握していない。
「被害は少なくないはずなのに、体力が伴えばまだやる気らしいな……」
二万五千の中の四千と一万の中の四千とは訳が違うはずなのだが、それでもなお徳川の将兵は闘志を失っていない。朝からまともに戦っておらず疲弊していない勝頼軍が残っているとは言え、まだまだ油断ならない。
「で、どうしろと言うのかね」
「この浜松城は孤城に近い状態です。街道に陣を張り酒井らを防ぎその間にゆっくりと攻撃をかけ、追い詰めるべきであると愚考いたします」
喜兵衛の考えた策と言うのは、きわめて一般的なそれだった。
まだ二万が動ける以上、多くても三千の家康軍しかいない浜松城をあわてて攻める必要もない。下手に攻撃をかけて返り討ちに遭えば、あと一歩であったはずの勝利を取り落とす事になる。
「どうして一気に攻め込まぬ?」
その常識的な判断に対して語尾を上げて反論された喜兵衛は、改めて門に目をやる。
やはり無警戒であり、ある物と言えば柵とか櫓とか常識的な防備しかない。
だが、本当にそうなのだろうか?
「確かに酒井や大久保などを西側に追いやりました。ですが追いやっただけで滅ぼした訳ではございません。下手に攻撃をすれば我々もまた傷を負うと思われます。差し出がましくはありますが、我々の兵たちもかなり疲弊しております」
「動ける兵は何人いるかわかっているのか」
「正確な数はわかりませんがおよそ一万五千、いやそれよりやや少ない程度かと……」
ずーっと有利だったとは言え、徳川軍の抵抗も激しく武田はずっと押していなければならなかった。勝負の帰趨が見えたのは勝頼軍がゆっくりと戦場にやって来てからであり、そこまで必死に戦っていたのだから武田軍の疲労も半端ではない。
二万とか言うが実際に戦えるのは七割で、残る三割は石に枕している状態だった。
「十分ではないか」
十分ではないか—————————————————————————。
確かに一万五千全部を注ぎ込めるのならばできなくはない。
だが実際には酒井や大久保らを抑えるためにも元気な兵は必要だし、既に辺りは薄暗くなっている。夜に真正面から城攻めなど下策であり、正直—————
「は?」
「行くぞ。聞こえとらんのか」
「いや、その……」
「陥穽と言えどもこの数を葬れる訳もなし。いざとなれば勝頼に託せばいい!」
そこまで行ったきり、信玄は自ら先頭に立って浜松城へ向けて突っ込んだ。
さすがに先鋒の座こそ内藤昌豊に止められて譲ったもののそれでも二番手に立ち、昌豊の露払いを頼りに突進する。
「進め!」
城門へと飛び込んだ先にはさすがに矢弾の歓迎が待っていたが、それでも数が違った。百や二百を討ったとしても後から後からやって来る武田軍をしのげず、本来ならその混乱に乗じて攻撃を書けるはずだった守備軍も機能しない。
「この!この!このっ……」
一万以上の兵を必死に撃ち殺さんとする兵士に憐れみを覚える事もなく、信玄は無慈悲に兵を進める。かがり火をも奪って松明に変え、火を点けて投げ込む。城内の門も櫓も燃え出し、城を火に包んで行く。
「引くな!引けば踏み殺されるぞ!」
信玄のこの上なく汚い言葉に兵たちは焚き付けられ、動かない体を無理矢理動かしながら突っ込んで行く。実際に転倒して踏みつけられて臓物を撒き散らした武田兵もいたが、信玄は眉一つ動かさない。逆に、それで動揺した敵兵の存在を知って内心ほくそえんでいたほどだった。
「お館様……」
「何だ」
「二俣城と言い浜松城と言いお館様は…………」
「下手に長引かせて抵抗をされるよりこっちの方がいい。それだけの事だ」
二俣城でも、六百の兵を皆殺しにするのに五百の兵を死なせその倍の兵を負傷させた。
そのため実際には勝頼の兵は実際四千もいなかったが荷駄係やその他の存在をかき集めて五千に見せ、負傷兵は二俣城よりもっと後方に置いていた。
そして今また、浜松城を強引に攻めている。
「徳川家康は」
「ああ、わかっているだろう。家康に付き従う連中の恐ろしさを。信康はまだ十四の正真正銘の小僧だ。それがどう育つかはまだ分からんが、少なくとも当分は脅威にはならん。この悪逆非道な武田信玄への怒りだけで動く事しかできん連中に対する手間など、今この時のそれに比べれば易い」
「それは!」
「わしはただ、思うがままに生きようとしているだけよ。
五十にして天命を知るとはよく言ったものよ、わしはわしなりに天命のまま動いている、それがこれだと言うだけだ」
敵には容赦ないとか言う次元を通り越した信玄。その信玄の迷いのない平板な言葉は、間違いなく武藤喜兵衛の心を貫いていた。
(我が子たちにこの主君の姿をどれほどまで伝えるべきか……)
兄の源三郎は九歳、弟の弁丸は七歳。
元々自分自身三男坊で家を継ぐ見込みはなくその子たちだって大差ないだろうが、普段あれほどまでに鷹揚でありながらいざとなれば相手を砕くためにしっかりと策を練る男、ではなく犠牲を顧みず敵を叩き潰す男—————と言う主君の実像を思い知らされた彼はこの時、その男の側にいる自分と父親としての自分、二人分の人生を生きねばならぬ運命に内心嘆息していた。
※※※※※※※※※
「駄目か……」
苛烈を極める攻撃。
一人倒せば三人向かって来る。三人倒せば十人向かって来る。その十人を殺す間にこっちも十人殺される。
空城の計。
あえて無防備そうに構え、中にとんでもない陥穽があるかのように見せる。
そして何があるかと身構えた敵を怯ませ、後退させる。
そのつもりの策だったのに。
実際まるで無為無策な訳でもなく一般的な防備体制は引いていたはずだったのに、それでも武田軍の攻撃は滅茶苦茶だった。
策を仕掛けておけば数人がかりで力任せになぎ倒し、こっちの弓矢にはその数倍の矢をもって強引に圧し、右も左もないとばかりに前に立つ連中を殺す。それ以外の事は何もしない。
「この城を捨てましょう!」
「無理だ……」
家康は天守閣にてただ二人、大久保彦左衛門と共にあった。
自分が編み出した策がこうして破られてしまった以上、もうどうにもならないとばかりに澄み切った顔をしている。
「まだ間に合います!南からお逃げ下さい!」
「敵は二万だぞ……」
「今すぐ!」
彦左衛門は胡坐を組む家康の手を引きはがして持ち上げようとするが、家康の肉体はちっとも動かない。
「お前は何を期待している?」
「何って、それは無論殿と兄上たちに!」
「背中を叩く事を許すような相手だと思っておるのか?おそらくそなたの兄たちはすでに岡崎へと向かっておる」
三方ヶ原で少し体を休めた酒井軍に導かれるように大久保・本多・石川残党などはすでに浜松城から離れており、武田軍も塞げばよしとばかりに追っていない。
「そのような!兄上たちが!」
「いや、それでいいと思っている。ここに兵を注ぎ込んだ所で屍が増えるだけだ。ああそなた、武田の屍が増えるからいいかとか思わなかったか?徳川が消え、武田が立てなくなるだけだ。そうなれば遠江の人間たちはどうなる」
「ですからそのような民思いの!」
「黙れ!」
家康はついに腰の刀を抜き、彦左衛門に突き付けた。
「わしからの最後の命令だ。わしの首を刎ね、岡崎へと持ち帰れ」
「そんな!」
「わしはここで腹を切る。まさかわしの首を信玄に見せる気か」
「そんな……そんな……!」
「地の壁を 砂地の中に 打ち立てて 水呑干して 高天原行く」
必死に抵抗する彦左衛門の前で、家康は柄にもなくそんな事を言ってのけた。
大地を覆う壁を砂地のような弱い場所にも打ち立て、全てを襲う水を飲み干して守り、その先は天照大神の待つ高天原へと向かう。
まぎれもない辞世の句であり、あまりにも大きな家康の夢を体現したかのような一句。
普段歌道など全く興味のない家康らしからぬ句の記された短冊を渡された彦左衛門の手が、家康とは好対照に震えている。
それほどまでに大きな夢も今、絶えようとしている。
「……わかり申した!次会う時は老爺になってまいります!」
「よく聞き届けてくれた!」
「しかしこの浜松に残りし者は!」
「好きにさせよ。武田に下ろうが、逃げようが、ここで死のうが構いはせぬ」
何もかもを決心した主がいつの間にか鎧を脱ぎ、腹を開いている。
十三歳の少年はその主の後方に回り、主から賜った刀を振り上げる。
「では行くぞ……!」
「ごめん!」
徳川家康の小刀が腹に突き刺さるのとほぼ同時に、大久保忠教の刀が舞い、首が落ちた。
「……殿……」
主君の首を布で包み、ひそかに脱走を決行。
普段から鍛えてきた脚力で誰にも見つからぬように走り、その過程で食料を少しだけくすね、さらに路銀として家康から受け取っていた銀を懐に抱える。
それほどまでの真似を一人で成し遂げたのは大久保彦左衛門の身体能力と忠義心と、無念のなせる業だった。
「殿の無念……必ずやこの大久保彦左衛門が!」
やがて宵闇の中で一人っきりとなった彦左衛門は、主君の首を抱えながら涙を流し、北東の方角をにらんだ。夜を照らす灯に闘志を燃やし、主の魂魄に復讐を誓った。
「徳川家康……あっぱれな男よ。あと十年あったら武田がこうなっておったな……」
浜松城が陥落したのは、彦左衛門が姿を消してから四半刻後の事だった。
家康の自裁を知った兵士たちが投降やら逃亡やら万歳突撃やらで四散したとか言うとあっさりに思えるが、実際には万歳突撃した人間たちにより武田の被害は増幅され、もうこれ以上西進を続ける余力がなくなっているのも事実だった。
この戦いに置いて武田軍は、五千以上の死傷者を生んでいた。うち死者が二千五百に上り、そしてその内五百が最後の浜松城突入戦だった。
「しかし……」
「そこまでせねばならなかったのだ、わしの手でな」
「それでは」
「勝頼に会って来る。あやつはどこにもいなかったのだからな」
武田勝頼—————この戦において存在感のなかった男。
信玄はともかく勝頼は大した事などしていない。
その印象を植え付けるために何杯もの泥水をがぶ飲みした信玄の顔は、浜松城と言う名の松明に照らされ、赤々と輝いていた。
さて第一章終了に付き、一日お休みをください。
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