雌伏の時
翌九月半ばに二度目となるH裁判所での調停に赴いた恒太は、前回の相手方である元嫁の主張と事件の経緯について三十枚程に纏められた冊子を受け取り、それについて調査官からの説明を受けながら冊子に眼を通すと、婚姻時代からは想像がつかないような内容の主張をしており、恒太は読み進めて行くうちに、軽い目眩を覚える。
・相手方(戸嶋恒太)は、養育費以外(進学やクラブ活動に係る費用)を支払おうとしない。
・長男である涼太は、内縁の夫であるFを含め、家族内で決めて約束事であった掃除を手伝う事をしばしば怠り、その罰則として夕食を与えず、外周二百メートルの公園内に設けられたグラウンドを二十周走せたが、これは長男涼太も納得しての事であり、決して虐待に当るとは考えられない。
・長男涼太は、しばしば虚偽の報告をする。
・事件発生時、親権者である母親は仕事に出ており、現場には居合わせ無かったのだが、涼太も内縁の夫であるFに対して反撃を行い、膝に擦り傷を負わせた。
・相手方(戸嶋恒太)は、現在独り暮らしであるので、涼太を育てて行けるとは考えられない。
・内縁の夫も、長男涼太に対して暴行を加え怪我を負わせた事に対し反省しており、これからは仲良く暮らして行けるものと確信している。
・相手方(戸嶋恒太)は身寄りも少なく、また付き合いも殆ど無いので、緊急時に頼れる人が居らず、養育を任せられるとは考えられない。
・長男涼太、相手方と一緒に居てもつまらない事が多いと、常々口にしており、上手く付きあって行けるとは考え難い。
等と、約二十項目に渡り主張が纏められているが、養育費以外も含め、以前の元嫁と涼太を知る恒太には、どうにも理解し難い内容である。
その相手方からの主張に対しての反論、もしくは意見を求められた恒太は、助言を得て用意して来た文書と、今まで支払った養育費の振込明細書。
元嫁と離婚後に交わした、メールやLINE等を撮影した写真、更にはFacebook等、離婚後に涼太と絡んで過ごしている様子をアップしたものを撮影したもの。
及び、数少ない親戚と、自営時代に借りていた店が入っていて、廃業以後も気にかけて頂いていた、ビルの管理会社の社長さんに連絡し、涼太の監護体制に協力を惜しまないと署名捺印して頂いた書面を提出し、相手方からの主張に対して意見を述べた。
「まず養育費以外における、掛かる費用の支払いをしないとした件ですが、このLINEの遣り取りを見て頂いて判るように、長男が中学校進学時に掛かる費用を支払うと言いましたが、相手方からは何ら返答もなく、振込先も判らない上、現金書留にて送ろうとしても、住所は教えたくないでは、どうにも出来ないと思いますが。
更に、以前居住していた神戸から引っ越して以降、長男涼太とも一切連絡が取れない状態にされ、非常に心配していたところへの、今回の事件ですので、胸が張り裂けそうな思いであります。
更には、決められた家庭内での約束事を守らなかったので、夕食抜きとか、何キロメートルも公園を強制的に走らせる事に対しては、長男は本気で同意したのでしょうか?何かしらの脅えの中で、約束させられたとも考えられると思いますが、この事に対しては、私は部外者ですので、これ以上は何とも言えませんが。
嘘をつくとか、良くわかりませんが、よくも我が子に対して、これ程悪しざまに言えるものと呆れを覚えますね…嘘をつかざるを得ない状態だったのかも知れないとも思えたりもします。
相手方の内縁の夫Fの暴行に対して反撃して膝に怪我を負わせたとありますが、その事件発生時の状況は、はっきりとは詳しく聞かせて頂いていないので分かりませんが、当時小学校六年生もしくは、中学校一年生になったばかりの長男に、殴る蹴るの暴行を加え、更には口や瞼が切れて出血する傷を負わせて、そんな大人からの一方的な暴力から逃げる為に出た最低限の反撃だと思います。
もしも立場を替えて、私が暴行を加えた内縁の夫であるとするならば、十三歳になるかならないかの子供に蹴られて怪我をしたとは、余りに恥ずかしくって口が裂けても言えないですけどね…。
私が独身で独り暮らしであるから、育児が出来ないと言うならば、母親と成人している次姉、それに内縁の暴力夫の三人が長男を育てた上での、この結果ですが、世の中に母子家庭は多く存在しておりますが、父子家庭も少数ながら存在致します。
これを男だから無理と決めつけるのは、性別への偏見であり、また別の事案となると思います。
それに私は調理師であり、自営していた居酒屋時代には、当時中学生だった二人の娘、それに会社員である相手方、店のバイト君の弁当を、定休日以外は毎日作って手渡しておりました。食に関する事に対しては、私はプロであり、自信を持っております。
相手方の内縁の夫が反省していて、これからは仲良く暮らして行けるとは到底考えられません。
言い方は良くないですが、反省は猿でも犬でもします。
暴行を受けて怪我をし、更には児童相談所に引き取られた長男は、身体の傷は消えても、心の傷は決して消えるとは思いません。』
そう恒太は意見を述べる。
恒太からの意見や資料を纏めた調査官は、次は相手方である元嫁と対するので、約一時間半程の時間が空いた恒太は、裁判所を出て、近くのコンビニ前に設置されている灰皿に辿り着くと、ようやくタバコが吸うことが出来た。
タバコによる、心地よい軽い目眩を楽しみながら、午後から行われる聴き取り調査の後半戦に向けて、じっくりと思考を巡らせてゆく。