発端
令和二年六月十五日。
間もなく五十四歳となる戸嶋恒太は、赴任したばかりの、大阪府南部に在る複合型商業施設のテナント店長会議に初出席をしていた。
会議が始まる約五分前に席に着いたと同時に、着ていたジャケットの内ポケットに入れていたスマートフォンが、着信を知らせるバイブレーションを内ポケットの中で震わせた。
『いったい誰やろ?』
恒太が、内ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見ると、スマホの画面には、半年ほど前から連絡が取れなくなっていた、今年中学一年生になったばかりの涼太からだと知り、恒太は驚いて眼を見張ると、慌てて電話に出ながら会議室から飛び出した。
「もしもし、涼太か?」
「お父さん、お父さん…僕、どないしたらええ…助けて、助けてお父さん…。僕、どうしたらええ…」
半年ぶりに聴く息子の声は、昨年の十一月末に最後に会った時に較べ変化していて、涼太より九つ年上の次女の声と間違えるほどに似ていて、瞬時判別がつかなかった樹久は、涼太の名前を呼んで確認したほど似ており、恒太の頭の中を走馬灯のように様々な思い出と、そして胃の腑を握り締められたような思いが、恒太の胸の中を黒く横切ったのだが、敢えて呑気な口調で涼太に応えてみる事にした。
「久しぶりやなぁ〜、元気にやったんか?お父さんメッチャ心配してたで。どないしたんや涼太。何があったんや?」
「おっ、お父さん…お願い、今から迎えに来て…助けてお父さん…」
「一体どないしたんや涼太…落ち着いて話ししてみて」
「いまお父さん、どこに居てるのん…今からお父さんの家に行ってもええ…?」
戸嶋恒太は、つい三ヶ月程前に転職を果たし、長年住み慣れていた神戸の街から、新たに入社した会社からの要請により、大阪府南部の岸和田市へと引っ越しをし、関西空港近くの複合商業施設へと赴任していた。
現在から約五年程前に、DVだとか浮気などが原因ではなく、離婚をする約二年前。
恒太が経営していた居酒屋が、まさに不眠不休の努力の甲斐もなく廃業した後に、二十年以上連れ添った妻と恒太は離婚をしていて、現在大学三回生になる長女と、一歳年下で大学二回生の次女、そして小学校六年生の長男である涼太と別れ、既婚時代に住んでいた恒太名義だったマンションから程近い場所で、1LDKの単身者用マンションを借りて生活をしていたのだ。
その恒太が住んでいた、狭い1LDKのマンションしか知らない涼太。
「どこ…?何処にお父さん居てるん。お父さん…お願い助けて…」
「涼太落ち着け。お父さんは現在、関西空港の近くでお仕事をしてるねん。涼太は今はどこに居てるんや?」
「A宮駅の近くやねん…今から僕、どこに行けばええのん…?お父さん教えて…」
「えっ!? A宮って一体どこや涼太…ゆっくりでかめへんから、落ち着いてハッキリ話してみて。大丈夫やからな」
「お父さん助けて!僕、殺される…新しいお父さんに殺されそうやねん!お願いやから、早く助けに来て…」
『あっ、新しい父親に殺されそう?一体どないな事なんや…』
スマホから聴こえてくる涼太の口から放たれる言葉の内容に、胸中複雑な恒太の顔からは、サッと血の気が引き、そして髪が逆立って眼が引き攣りながら、込み上げてくる激情を、ぐっと呑み込むようにして、ゆっくりと唇を開く。
「涼太、お父さんがついてるから大丈夫やで。A宮って、何電車の駅かな?大丈夫やから、落ち着いてゆっくり話したらええよ。」
「さっ、山陽…山陽電車のA宮駅の近くに在る公園やねん…。早く助けに来て、あとどれくらいで来れるん?」
よほど慌て脅えているのであろう涼太の問い掛けに、只事ではない切羽詰まった事態を感じる。
儀礼的で半ば親睦を兼ねたような商業施設の会議など、これまでの経験上熟知している恒太は、このまま南海電鉄かJRに飛び乗って、涼太が救いを求めているA宮まで駆け付けようかと思案したが、如何せん関西空港近くからでは、A宮までは、どうしても二時間半近く掛かる事になる。
一度自宅に戻り、所有している大型バイクに乗って駆け付けようかとも思案していた時に、不意に電話口の涼太の声が上擦った。
「おっ、お父さん、またすぐに電話するから、絶対すぐに出て助けに来てな!」
「おっ、おい涼太、どないした、大丈夫か?なんかあったんか?もしもし、もしもーし…」
恒太はスマホに向けて叫んだが、スマホから返ってくるのは涼太の声ではなく、ツーッ、ツーッと言う通話が途切れた乾いた音ばかりだった。