穴と鏡
これは、ある1人の女性の物語である。彼女はどこにでもいるような人だった。
ある日、彼女はいつもと変わらぬ朝を迎えた。朝食を終え、一息つくと仕事へ行った。会社に着くと、これもまたいつも通り自分に回ってくる仕事を卒なくこなすつもりだった。しかしその日彼女はミスをしてしまった。気にするに値しない小さなミスだったのだが、完璧主義者の彼女には耐えられないほどの屈辱だった。
その日の帰り道、彼女はミスをした時の自分が頭の中で映像となりグルグルと流れた。そのため彼女はさらに自分を恥じた。〝穴があったら入りたい〟彼女は初めて心の底からそう思った。その瞬間、彼女の身体は一瞬、宙に浮いかたと思うと体の下にぽっかりと空いた真っ暗な穴の中へ落ちていってしまった。あまりのことに彼女は気を失った。
彼女が目を覚ました時には真っ白な壁の小さな部屋にいた。おいてあるものと言えば彼女の目の前の壁を一面を覆うように置いてある茶色い豪華な淵をした大きな姿見鏡だけだ。その鏡にはミスをした時の自分が映っている。この姿見鏡はただの鏡ではないのだ。彼女は誰もいない空間に向かってここは何処なのかと尋ねた。しかしその問いに答える声はなく代わりにどことなくこんな声が聞こえてきた。
「壊して、早く、その鏡を、壊して!」
彼女はその声が自分のものであることにすぐ気が付いた。
「誰なの、壊すってどうやって?」
彼女は震える声で尋ねた。すると答える代わりにドスンと木槌が落ちてきた。彼女は恐る恐るそれを手にして姿見鏡に向かって思いっきり木槌を振り落とした。すると鏡は鋭い音をたてながら砕け散り、床に落ちた破片がドロドロした銀色の液体になった。その液体は蒸発して跡形もなく消え去った。しかし彼女はその様子を見る前に、正確には鏡が砕けたと同時にもといた場所に戻ってきていた。そして彼女の頭からはミスをした時の自分とあの部屋にいたときの記憶は消し去られ、その記憶の隙間を埋めるように、作り物の楽しい記憶が入れられたのだった。その次の日から少しでも気に入らない事が起こると彼女は毎回あの部屋に落ちていった。そして自分の声に促されて大きな姿見鏡を砕くのだった。そしてそのたび嫌な記憶とあの部屋の記憶を引き換えに楽しく幸せな記憶が入り込むのだった。そんなことが何ヶ月もそして何年も続いた。しかしもちろん、そんなことが起きていることを彼女は微塵も知りはしなかった。ある日のことだった。彼女はまた穴に落ちていった。そしてここは何処なのかといつものように尋ねた。そしていつもと同じように返事はなく、代わりに彼女自身の声が目の前にある鏡を壊せと言い、彼女はそれに従う。ここまではいつも通りだった。しかし、この日は嫌な記憶とその部屋の記憶だけではなく、忘却の手は彼女の大切な思い出がしまってある長期記憶まで奪ってしまった。そして楽しく幸せだが、作り物でただ虚しいだけの記憶を入れ込んで地上に帰したのだった。彼女は自分の記憶がすべて作り物だと気が付くはずもなかった。気に入らないことは次の日も彼女を襲った。そして彼女には制御ができない穴の中へまた落ちていった。しかし、どこかがいつもと違った。彼女がここは何処なのかと尋ねなかったのだ。そのためか、その鏡を壊せという声もなかった。彼女は何も言わずに立っていた。それもそのはず。彼女が奪われてしまった長期記憶には言語も含まれるのである。つまり彼女は言葉を話せなくなってしまったのだ。それに自分の名前、住所や年齢、いや、1年という概念すら失われてしまった。赤子のようになった彼女は興味本位で鏡に近づいて行った。そして穴に落ちる原因となった場面が映っている鏡に手を触れた。しかしそこは流れる水のようになっており手が鏡の中へ入っていった彼女が鏡の中に手を入れたことに気が付いた鏡の中にいたもう1人の彼女は彼女に向かって走ってきた。そのことに驚いて手を引っ込めようとしたが、もう遅かった。もう1人の彼女が彼女の手をしっかりと握りしめ、ずるずると彼女を鏡の中に引きずり込んでしまったのだ。なすすべもなく彼女は全身鏡の中の世界に入ってしまった。感情は長期記憶には含まれないので彼女は当たり前の恐怖を感じた。
「いらっしゃい」
そういったのは何処から来たのか、1人のおじいさんだった。その顔はにこにこして優しそうに振舞ってはいるものの、腹の底では何か血も凍るようなことを考えていることを隠しきれてはいなかった。
「そろそろ手を放しておやり」
おじいさんがそういうと、もう1人の彼女は彼女の手を離した。彼女は恐ろしさのあまり気を失ってしまった。その間におじいさんは彼女の人間らしさ、つまり感情や性格、考え方の癖までもをもう1人の彼女に移し替えてしまったのだ。
「よし、これでお前はもうこの女になったのだ!」
彼女のすべての記憶はこの彼女そっくりのロボットに移されてしまったのだ。そしてそのロボットは鏡の外に出ていき、地上へ行ってしまった。そして誰かにばれるまで彼女として暮らしているのだった。
一人の女性をロボットにしてしまったも同然のこのおじいさんもまたロボットだった。このおじいさんはもともと人間だったのだが、死期を悟り自分のすべての記憶や性格を自分の作ったロボットにインプットして自分の記憶を生かしたのだった。それから記憶をなくした本物のおじいさんは亡くなり、ロボットを操作する人間がいなくなってしまった。そのためロボットは自分自身をコントロールしはじめた。このロボットは中途半端に頭が良すぎ、世界を自分の仲間でいっぱいにしたいと考えるようになった。そして実行した。その例が彼女だ。そして他にも犠牲者はいないとは限らない。もしかしたらあなたも...。
最後まで読んでくださりありがとうございました。