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AM2:00 海を見に行く

作者: 高岡たかを


 私、木原寛子には、記憶から消えない風景がある。

 幼い頃の話だ。

 唐突に母が眠っている私を起こして、まだ日の出前だと言うのに車に乗せたのだ。

 夢の続きかと思うほどに現実感の薄い深夜のドライブ。

 助手席でうつらうつらと船を漕いでいた私は、車が止まった事に気づいて目を覚ました。

 見覚えのある場所だった。

 去年、まだ父が家にいた頃、両親に連れて来てもらった岬。

 私は生まれて初めて朝日を見た。

 朝日が水平線に眩いばかりに輝いていた。

 記憶のフィルムに焼き付いて離れない風景がある。

 薄青の海と白い空。

 新しい陽の光が母の赤く腫れた目元を照らしていた。

 あの日、母は泣いていたのだと思う。

 しゃがんだ母は私を抱いた。


「お父さんね、他に好きな人が出来たんだって」


 もう父は家に帰って来る事はないのだと私は知った。

 そして、もう父の事を口にしてはいけないのだと悟った。




 時は流れ、私は大学三年生になった。

 突然切り出された別れ話は深夜の一時までもつれこんだ。かける言葉は尽き、後は沈黙があるばかり。

 重苦しい空気は時計の秒針に絡み付き、時間の流れさえ遅くしている気がする。

 時間が問題の解決にならない事もある。特にもつれにもつれた感情には。

 彼――別れ話を持ちかけてきたこの人をまだ彼氏と表現して良いのかは疑問だが――青柳正志が、壁かけ時計をチラリと見た。その仕草は二分ほど前にも見た。そして、思ったよりも進んでいない時計の針を見て、失望のため息を吐息の中に隠すのも。

 朝が来れば、解決するのか。

 そうは思えない。

 私はクッションから腰を上げて言った。


「疲れたから帰る」


 正志の表情に、一瞬安堵の色が表れたのを私は見逃せなかった。


「送っていくよ」


 そう言って正志はテーブルの上にあったタバコとライターを掴んだ。

 車の鍵は玄関の定位置。そんな事も私は知っているのに。

 正志が購入費用を親に半分以上出してもらったランサーエボリューションは真夜中の街を走る。

 私はこのうるさいスポーツカーが嫌いだった。オーディオから流れるパンクロックも騒音にしか聞こえない。甘ったるい香水の匂いにタバコの煙が混ざるのも好きじゃなった。

 車は好きになれなかったけれど、正志の事はわりと好きだった。

 子供っぽく甘えた所も、普段は強気なクセに、責任が伴う決断ができない所も許せていた。

 私は後ろに滑って行く街灯と、窓に映る自分の顔を見つつ、レザーシートを撫でた。冷たい手触りが返って来る。もう二度とこの助手席に座る事はないだろう。次にこのシートに座るヒトは、この車を受け入れられるヒトなのだろうか。

 ハンドルを片手に、無言で二本目のタバコに火を点ける正志は私の言葉を待っている。

 私が「いいよ」と言うのを待っている。

 二人の間の出来事は、わずかな時間の間に私一人の出来事に変質してしまった。

 私が決めるのだ。

 言えばいい。正志の望むように。

 疲労した心の中、窓に映る私が言った。

 私は認めるのが嫌だった。明日から何事もなかったかのように、何年か経って、正志に「そう言えばそんな事もあったな」と思われるのが嫌だった。

 だったらどうする? ズルズルとダダをこねて関係を続けるの?

 指がカーオーディオに触れた。

 騒音を停止させる。


「いいよ。別れよ」


 パンクロックを止め、ピリオドを打つ言葉。

 点滅する赤信号を渡る間の短い沈黙。


「ごめんな」


 返ってきたのは、一言だけだった。

 涙は出なかったが、意外にも思わなかった。

 涙の代わりに冷たい何かが喉元を滑り落ちていった気がする。




 ここでいいよ、と下宿に近いコンビニの駐車場に降ろしてもらった。

 買いたい物があるからと言ったが、それはウソだ。


「じゃあね」


 車高の低いスポーツカーを降り、正志はわざとらしくアクセルを吹かしてターンした時。

 赤いテールライトが見えた時。

 私の胸の中で、黙りこんでいた何かが目を覚ました。

 いろんな感情が、竜巻みたいに強い力で渦巻いて荒れ狂っている。竜巻の中心になっているのは怒りだ。

 衝動的に私は、夜の闇に消え去ろうとするテールライトに向かって履いていたミュールを投げつけた。


「バカヤロー!」


 叫びは排気音にかき消されて届かず、ミュールも放物線を描いただけでアスファルトの上に落ちた。

 エンジン音が遠のいていく。

 一瞬の熱を持った胸は急に冷え込み、音もなく忍び寄る虚しさに、私は囚われる。

 惨めだった。バカなのは私の方だと思った。

 激情にかられて、思わず投げつけてしまったミュールを拾いに行く。片足で跳び、数歩進むが、身体に力が入らず、地面に素足を着けてしまった。

 砂と小石。湿ったアスファルトの感触に、惨めさが増した。

 いけない、と思うよりも拍車のかかった感情があふれ出る方が早い。

 数メートル先に転がったミュールを取りに行く事すらできない。たまらず、その場にうずくまりかけ――


「木原さん。大丈夫? ……な訳はないよね」


 かけられた言葉に俯いた顔を上げた。

 知った顔だ。同じ学科コースの山中くんが、ミュールの片方を手に立っていた。

 慌てた私は乱暴に涙を拭う。多分メイクは伸びてとんでもない事になっているだろうけれど。


「見ちゃいけない、って思って無視しようかとも思ったんだけど、あんまりにも深刻そうだったからつい――」


 それから山中くんは、別に説明を求めた訳でもないのにこの場にいた理由を話し始めた。友達の家でレポートを作っていて、遅い時間になったとか、夕食を食べ損ねて、弁当でも買おうかとコンビニに寄ったとか。

 私としてはクラスメイトに醜態の一部始終を目撃されていた事実の方が重大だった。

 山中くんは何度も「ごめん」と繰り返した。正志の同じ言葉よりも、よほど心がこもっている気がした。

 何だか、体からいらない力が抜けて、笑ってしまいそうだった。


「私ね。今、失恋したばっかなんだ」


 自分で口にしてみると、ひどく単純な事のように思える。


「オレ、車なんだけどさ。木原さんが良かったら、ドライブに行かない?」

「え? 今から? マジで言ってんの」


 突拍子の無い申し出に、私は戸惑った。


「うん。今から。海を見に行こうよ」


 不思議な事に私は迷わなかった。


「いいよ」


 でもその前に。


「山中くん。とりあえず靴返してもらってもいいかな?」


 私のミュールはまだ山中くんの手の中だ。



 山中くんの車は古い軽四だった。


「ごめんね。散らかってて」


 たしかに助手席は狭く感じたが、言われるほどに散らかっているように思えない。むしろ、男の子の車としては片付いている方だと思う。タバコの匂いも汗の匂いもしないし。正志の車なんて――


「…………」


 私は窓に側頭部をぶつけた。考えてはいけない事を考えていた。


「どうしたの?」


 山中くんが訊いたが、私は答える事が出来ない。


「ねえ、なんで海なの?」


 代わりに話題を変えたくて、口にする。コンビニの明かりで顔の半分だけ照らされた山中くんが、少し難しそうな顔をした。


「定番じゃない? 失恋して海って」

「そうなの? でも、どうして失恋したら海なのかな」

「オレに聞かれてもね。昔のドラマでやってたんじゃない?」

「見た事あるかなあ。そんなシーン」

「え、オレあるよ。海に向かって指輪を投げてた」

「ダメじゃん。海に物捨てちゃ」

「そうだけど。後でスタッフがちゃんと回収したんだよきっと」


 山中くんは一度言葉を切った。


「これはオレの私見なんだけど。海って何でもかんでも飲み込んでくれるんじゃないかな。だから、再生とか、新しいスタートのイメージが定着したんじゃない?」

「山中くん詳しいね。失恋した時の事」

「そりゃあ、連戦連敗だからね。いわば敗戦処理のベテランなのさ」


 おどけた声音につられて、私も笑った。


「山中くんは失恋したら、海に行ったの?」

「……いや、行かなかったな。そう言えば」

「自分は行かねーのかよ」

「うん。始まる前に終る事が――って何を言わせるかね、この人は」


 二人で笑う。多分、この優しさの乗っかることも、大切な事なんだって思うから。


「それでは発進します。シートベルトつけてね」


 私がシートベルトを締めるのを確認すると、山中くんはゆっくりと車を出した。

 コンビニの看板がミラーから消えて私は気付いた。たしか、山中くんは夕食を買うためにコンビニに寄ったのではなかったか。

 何か言いかけてやめる。

 優しい人なんだ。山中くんは。

 それに、今からコンビニに引き返すとは思えない。


「ねえ。どんな海?」

「少し遠いけど、キレイなとこ」


 もしかしたら、昔私を連れて海に向かった母も同じ気持ちだったのかもしれない。

 再生と。新しいスタートを願って。

 記憶から消えない風景が一つ増えるかもしれない。

 それともう一つ。私は運転席の山中くんを盗み見た。

 力を抜いて、薄っぺらいシートに体重を預けて思う。

 もしかしたら。

 もしかしたらなのだが。

 いや、やっぱりやめておこう。



                 ――終

 


十五年ぐらい昔、海をテーマにした小説賞に応募した際の作品を一部加筆修正したものです。

枚数制限がやたらとシビアで、容量を削ることに苦心した思い出があります。

舞台設定が2000年代前半のため、出てくる小物がいちいち古くて恥ずかしいですね。

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