粘土細工の手の林 1
なぜか扉を開けると同時に、見るも怪しげなスモークが漏れ出してきた。変なガスじゃないよな? 不安を殺して仰向けになり上半身を起こす、さらに右肩を壁に押し付け無理やり起き上がる。そして最後に急いで振り向いた。一瞬でもそっちに背を向けていたなんて考えたくもないが、伏せているままのほうが怖かったのだからしょうがない。起き上がる直前にスモークと一緒にあふれてきた匂いは、とてもそのままやり過ごせるようなものではなかった。
ここの不思議は……名前は忘れたが、簡単に言うと粘土の手がたくさん出てきて人の首をもぎ取る……だったか。つまりこの先にあるのは、
「やぁ、なかなかだなこれは」
「……」
「君も見るだろう?」
首なしの……
「うげ☆※▼◎♭%◉……」
ミロのヴィーナス。ここにある石膏像の種類はそれだと伝わっている。その首元が、真っ赤に染まっていた。黒髪で、鮮血に濡れたヴィーナス。
何よりもまずそれが目に入ってきた。
そしてその姿を視界に納めると同時に、恥も外聞も無く。僕は吐いていた。
ミロのヴィーナス。本来は右が二の腕の半ば、左は肩から先が存在しない石膏像だ。その腕がいかようなそぶりを見せていたのかという命題は、数多くの芸術家や学者達が頭を悩ませる一つの課題であるが未だに答えは出ていない。今ではかの像の魅力の一端はその腕が無いことにあるとまでいわれている。
かつてルーブルで一度だけ型取りされ、レプリカやらなんやらが作られたわけだが、この旧校舎にあるのもその一つだ。ただ、ここ《人喰い旧校舎》にあるモノには一つの特徴がある。
頭が無い。両腕だけではなく首から先がさっぱりなくなっているのだ。単に両手も首も無い石像が欲しいのであればサモトラケのニケーでも良かろうものだから、おそらく元々あった頭が何かの拍子に失われてしまったのだろう。事故だかなんだかは知らないし、別段知りたいとも思わないが、とにかくその頭はこの部屋のどこにも存在していない。
では俺の目の前にある、美術室の真ん中に鎮座する長い黒髪を湛えたヴィーナスは何者なのか。
少し話を変えるが、この美術室はなにもヴィーナスだけのものではない。いくつかの油絵もあるし、何より場所を取っているのは窓辺に並んだ粘土細工の腕だ。それも、石膏で型を取って作る、よく見る手首から先のモノではない。肩から先のものばかりだ。あるいはそれを型取り石膏の腕を作り上げ、ヴィーナスと並べるつもりだったのかもしれないが、とにもかくにもその腕達には一つの執念が宿っていた。
己こそがヴィーナス像にふさわしい腕であることをアピールすること。
その為の手段が、自分たちでは足りないものを補ってみせること。
すなわち、哀れな犠牲者から首をもぎ取り、像にのせること。
「へぇ? 吐くんだ」
「面白そうに……いいますね」
いくつもの腕がうごめく中心で、黒髪のヴィーナスに取り付いた腕が髪をかきあげる。悲しいかな、首の太さがそもそもかみ合っていないが、彼らにはどうでも良いことなのだろうか、それともあの揺れにはそれを非難する意図があるんだろうか? そして脇には、心底どうでも良さげに2つの体が転がっている。腕の1つたりともそちらを向いてはいない。
「まぁ良いさ……壊すよ、全てをね!」
そしてGBも、ちらりともそちらに目をやらずバットを振り上げた。
運動と言うものには良し悪しがある。効率がいいとか、形が美しいとか。一番よく聞くのはフォームが綺麗、と言うやつだろう。
そういう点で見ればGBのそれは最低だった。
「おおおおおおおっらぁ!!」
ストレッチでもするみたいに振り絞った腕をただ力任せに振り抜く。握られた金属バットに殺気は無く、何かを壊そうと言うイメージがあるとも思えない。だが、バットが描く軌跡の上にあった『手』達がへし折れていく。
瑞々しく動いていたつい先ほどまで、あるいはまだ立っているそれらと違い、砕け落ちたそれらはどう見てもただの石膏像でしかない。肉ではない、粘土などでもない、間違いなく石膏だ。足下に転がった『指』を拾うことはできないが、見ればわかる、舞い散る白い粉も、砕けたその断面のざらつきもそれでしかない。要するにただの石ころ。それがなんで、どうやって動いていたのか想像もつかないしわかるとも思えない。今更だけど、もう本当に今更だけど、これは本当に幽霊とかなんとかそういう、手に負えない、理解できないものなんだ。だけど、
「むぐ」
袖で口元を拭う。吐いたときに被ったし、この服はもう駄目かもわからんがそんな場合じゃない。動かなければ。
まだある。可能性が。調子に乗ってるGBが無頓着に『手』達を粉砕している。その脇、誰にも注目されていない場所。倒れている二つの体。片方、あるいは両方ともまだその首はついているかもしれない。ヴィーナスに掲げられた首は一つきりだし、首が無いのを確認したわけじゃない。だから、
「無駄だよ」
「え」
「こいつらはただ一つずつこなしていく」
無視。壁に肩を押し付け、GBの影から教室の中に入っていく。もしかしたらGBには匂いがわかるのかもしれない。僕の鼻はさっき吐いたときにわからなくなってしまったけど。
「まだ見てない」
「そう」
一歩、一歩。
後ろでは少しくすんだようなモノが砕ける音が連続している。わかりきったことに興味は無い。
天窓から刺す星と月の明かりで教室の様子を伺うことができる。かすかに伺えるその体。
赤い床。
赤と白のまだらな棒状のもの。
赤く汚れた、金髪の首が脇の流しに。
「ああ」
バキリとまた一つ、背後で腕が壊れた音がした。
流しには、やけに大きなバケツが一つあった。開きっぱなしの蛇口から、どこからきてるのかもわからないが水がこんこんと流れている。
淵から赤黒く濁った水があふれ、水面から半分のぞいた顔は水に踊らされくるくる向きを変えている。そこそこの長さがありそうな金髪が、一部は水とともにバケツの淵から流れ出て、また一部はくるくる回る頭に絡み付いてく。絡み付く金髪の隙間からのぞく目はことさら虚ろで、何を訴えかけてきてるのかはわからない。いや、死体が何かを訴えるなんてことは無い。そんなのは幻想だ。どんなに恨みがましく見えても、その表情に意味は無い。だけどまるで振り向くように、何度も何度もこちらを見やる。
一歩一歩足が前に出る。壁にこすりつけられる右肩が痛くてしょうがない。
流しの前。自然、両の手が前に出ようとして、松葉杖が引っかかる。右袖が赤黒く染まり、冷たい何かが絡み付く感触に背筋が凍る。
馬鹿か、僕は。
勢いよく引き抜いた手を自分の頭に向け、掌底でこめかみを打ち抜く。
顎が痛い。
ああ、あまりの痛みに重心が狂ったか。それで前のめりに倒れたようだ。体のあちこちがずきずきするが、とりあえずおいておいて、体を横に倒す。
GBは未だにノリノリで『手』を粉砕している。なら僕はここにいても何にもならない。右手に絡み付いた髪の毛を払い、再び身を起こす。ここを出る。僕は、何もできない。僕は何もできない。今の僕には何もできない。ならせめて邪魔にならない。彼らが僕に気づいても、首を奪われることが無いように。
知るためなら死んでもかまわない。でも、ここで死んだところで何もわからない。
何も得られない。ならば。
来た道を戻る。壁に肩を押し付けて、足の不自由さに辟易した。勿論後ろ向きに壁伝いに移動できるわけも無いし、壁をぐるっと一周するなどと言う方法は論外であろう。あ、肋骨に響く。息が苦しい。歩くどころか立ってるの辛くなってきた。でも足を止めてる時間は、無い。
「っあ?」