遊び
「僕を心から愛してくれている君が、心から憎い」
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どこか遠くへ行ってしまいたいな。
ピアノの音しか聞こえないくらい、そんなところまで。
僕はその日、音楽準備室の、狭いごちゃごちゃしたところに身を折りたたんで、隙間に座っていた。
太鼓を背中に寄りかかり、前のアコーディオンに足をかけて、行儀の悪い姿勢で、僕は本を読んでいた。
本のタイトルは忘れた。内容もそんなに面白く無いと思いたい。思いたいけれど、たぶん面白いからこんな窮屈な姿勢に耐えて呼んでいるのだ。
でも、読み終える頃に僕はその本を面白いと思った自分がよくわからなかった。こんな本、と言えてしまったらいいのだけれども。
その時扉がぴしゃんと開いて、僕を見つけたとばかりに彼は笑った。
「今野星、見つけた」
僕を星と呼んだ、短髪の少年は、僕のほうまでくると、僕がたった今まで読んでいた文庫本を取り上げた。
「なんだい? これは」
「わからない。本と答えたら納得するの?」
「しないな。なんの本だ?」
彼、時任清は僕の本を無断でぱらぱらめくり、僕に投げ返してきた。
「面白くなさそうだ。女々しい」
「そうかい。ならば、僕が立ち上がるのを手伝ってくれないか。君がくだらないと言った本を読むのに疲れて、腰が抜けている」
僕は清に向かって手を差し伸ばす。清は僕の手を掴んで僕を引っ張り上げる。
「女々しいな、星」
「君ほどじゃないけどね。ああ、この本が女々しいことは認めるよ。ただ、音は好きだな。すごく綺麗。ピアノの音みたいだ」
「だから女々しいんだよ。俺は内容なんざ読んでない。ピアノみたいにポロンポロン鳴らしてる感じが好きじゃない」
僕は目を細めて、ふうん。とつぶやいた。
「勉強会の最中にかくれんぼしようとか言ったのお前だろ。さあ、返し給え。俺の貴重な捜索時間。字余り」
「字余りすぎでしょ。勉強に飽きたって言ったのは君もだ」
僕たちは並んで音楽準備室を出る。
無人の音楽室に、偉大な作曲家たちが並んでこちらを見つめている。
「偉くなるために勉強するんじゃない」
僕は思わず呟いた。清はこちらを振り返りもせずに、音楽室の外に出る。
「偉くなりたくて、勉強したいんじゃないよ。清」
「わかってるさ」
廊下の向こうから声。僕は清を追いかけるように廊下に出る。
「偉くなりたくて勉強してるんじゃないとは、たいそうな言い分だね」
最初に勉強していた、僕と彼の教科書のある演習室に戻ったあと、清はそう口にした。
「偉くなりたいわけじゃないよ」
僕はもう一度言う。
「なるほど。君は偉くなりたくないと。でも勉強しようねー?」
清はそう言うと、僕の頭をぐりぐりと撫で回し、そして目を細めて笑った。
「遊びたいよ、僕だって」
「いつから勤勉さに遊びが劣るようになったの?」
「太古から」
「嘘だ。古代ギリシャ時代には遊びと競技は同じくらい大切だった」
「じゃあ近年かな」
「いい加減だな」
僕たちはほぼ同時に、数学の教科書と、英語の教科書をひろげる。
「遊びたい」
「我慢しなよ。高校に入るまでさ」
「遊びたいよ……」
駄々をこねるように言う僕に、清はこう言った。
「遊びと同じくらい好きになることだよ、星」
知ってるよ、それが正しいことくらい。
僕は閉口する。本当は、そんなこと正しくないと言ってやりたいのだけれど、遊びがどのくらい、どのくらい人間にとって大事なことなのか、勤勉さよりも上達よりも、ずっとずっと、向上心よりも、ずっと向上心のあることなのか、伝えられるすべがなくて、閉口してしまった。
どこか遠くへ行ってしまいたい。
ウォークマンでサティを大音量で流しながら、穏やかな海の中で浮き輪に乗ってゆらゆら揺られたい。
昔、ノートに書いたその幼い逃避の詩を、清がある日見つけた。
僕はもう、高校一年生だった。
窮屈だった僕の涙が、大海原になったみたいな詩だなと思った。
「汚れた海は許せないな。たとえ僕の詩であったとしても」
僕は、この僕の恥ずかしい思い出を掃除中に見つけ出した清にノートをぶつけてそう言った。
「君の幼心を馬鹿にすることを俺は許さない。君自身だとしても」
「そうかい。僕は君の詩も見てみたいね」
そしたら心から思う存分笑ってやるというのに。
清は大まじめに言った。
「俺はこの詩が好きなんだ。だから、馬鹿にしたら許さない。著者である君でもね」
「じゃああげるよ」
「もらったわ。君の詩を愛してる」
「気持ち悪い」
ノートに恭しく口付ける友人からそっぽを向く。
僕はいつしか、遊びが勤勉さに勝ると思わなくなりだしていた。
そうしてあの時、勉強勉強といっていた清は、僕のくだらないセンチメンタルな詩をありがたがっている。
わからないな、と思いながら羨ましく感じる。
羨ましく感じると同時に、すごく憎たらしい。
(了)