中途退学
僕は福祉の恩恵を受けるためにしかるべき機関に足を運んでいた。
施設の中は血の匂いでいっぱいだった。見れば自分の目を引っかいて血を流している人がそこかしこにいる。まるで同じ目的を持ってグループを結成し活動している人々のように見えた。つまり俗に言う障害者団体ってやつだろうか。
受付に足を運ぶと職員のお姉さんにあからさまに嫌そうな顔をされる。なるべく紳士を装ってここまで歩いてきたのだが一発で僕がきちがいであることを見抜いてしまったようだ。さすがプロの目はごまかせない。こんにちは。
「お母さんに障害者と言われてしまいました。いくら頭がおかしいからって障害者呼ばわりなんてひどいなあと思って、僕は正しくあることにこだわってきましたから。でも気づいたんです。正しくなくてもいいんだって。だってこの国じゃ障害者は健常者より優遇してもらえるんでしょう? だったら僕の一人勝ちじゃないですか。お金ください。書類だったら何枚でも書くので」
珍しく流暢にそう伝えると、お姉さんは無言で何かの装置を取り出した。それは僕の顔と同じくらいの大きさの円形の機械に太い持ち手がついたフライパンのような形状だった。彼女はその丸い部分を僕の胸板のあたりで平行になるようにかまえてスイッチを押した。心電図を彷彿とさせる一定周期の電子音がしばらく鳴り続けていたが、ふと、やはり心電図と同じくピーッという長い音に変わった。ご臨終か?
「お客様、申し訳ありません。あなたは障害者の中でも下位の障害者ですので、このくらいの保障しかしてやれません」
スイッチを切って装置をしまい込みつつそんなことを口にしたかと思えば、注射器を取り出して僕の腕に打ってきた。ちくりとした感触に驚く。なんだ、お金はもらえないのか。……下位? 下位ってなんだ。障害者にランク付けがあるのか。まあ健常者にもあるんだからそれはあってもおかしくないな。ともかく僕は福祉社会にもほぼ見放された底辺の存在らしい。
「帰れウジ虫!」「二度と来んな!」
後ろから出てきた職員たちにそうも言われ、気分が悪くなってきたので施設を出た。
完全に即日お金を受け取れると当て込んで行動していたので以降の予定が全てパアになった。とぼとぼ歩く。家にも帰りたくない。果てしなく惨めな気持ちだった。久しぶりにサークルにでも顔を出すかと思い、そこから二時間二十分ほど歩いて大学へ。サークル棟がどこだったか思い出せずさらに三時間さまよったが、なんとか目的の場所に到着してドアを開ける。
「あれ、柚木先輩じゃないですかあ」
狭い部室では後輩の女の子こと田口ちゃんが一人で出迎えてくれる。この子の顔を見るのも久々だ。しっかしこいつ相変わらずおっぱいがでかいな。でかすぎて急に動かしたら音速を超えてしまうんじゃないだろうか。
「しっかしこいつ相変わらずおっぱいがでかいな。でかすぎて急に動かしたら音速を超えてしまうんじゃないだろうか」
「考えてることがそのまま口に出てますよお」
両腕でがっちり胸をガードされてしまった。数週間ぶりに会う先輩に対してずいぶんな態度である。じゃれ合っていると部室のドアが開く。部長が来た。
「おう珍しいな柚木。どういう風の吹き回しだ。障害者手帳でももらい損ねたか?」
さすが部長はよく分かっていらっしゃる。
そこへさらに数人現れ、軽く挨拶を交わす。中には僕がいない間に加わった人もいた。合わせて七人。総員が十人くらいなのでかなり集まっている方らしい。部長が活動開始を宣言した。
「さあ恋愛ラト、定例会議だ」
我々のサークルは恋愛を研究するという主旨のもとに結成された。ラブ・ラボラトリー、略して恋愛ラトってなわけである。この珍妙なネーミングセンスは部員が増えない理由その一としてもたびたび槍玉に挙がるが、命名したのは部長であって僕に責任はない。
「議題は『恋愛の定義』だ」
「また初歩的なとこ行きましたねえ」
「基本から確かめ直すべきだと思うんだ。やはり正しく理解してこそ充実した恋愛が出来るというもの」
もっともらしいことを言っているが、はたして真っ当に恋愛している世間の人たちは恋愛というものの定義を訊かれてきっちり答えられるのだろうか。
「広辞苑には『互いに異性として恋い慕うこと。また、その感情。』とある」
「なら同性愛は恋愛じゃないんでしょうかねえ?」
「うむ、確かに。現在は同性愛に対する世間の目も昔に比べればだいぶ寛容になってきて、性別による選択ではなく個人を個人として愛するといったような考え方も少しずつ広まってきているように思うが、やはりそもそもの語義的には恋愛=生殖を前提としたものという価値観があったのかもしれない。だがこういった専門的な考察は面倒なので我がサークルでは行わない」
「おいおい」「何だそりゃ?」「なんのためのラボラトリーなんだ?」と疑問の声があがっている。
「うるさい黙れ! 静粛にしろ! いいか? 皆も知っているとおり、俺は田口にひたすらフられ続けている!」
部員が増えない理由その二で、部長からして恋愛に失敗しているというのがある。やたら恋愛論を語りたがる人間に限ってろくな恋愛していないを地で行ってしまっている哀れな男だ。外部の人間からしたらサークルの存在意義そのものが疑われてくる重大な事実である。
「そこでだ。たとえば……このようにしてみよう」
そう言いながら部長は、田口ちゃんの右乳をわし掴みにした。
「…………」
時が止まった。あまりに突然かつ自然な動作でそれが行われたので、揉まれた本人すらもポカーンと固まってしまっている。部長は平然と話を続けた。
「これは恋愛だと思うか? 柚木」
「犯罪だと思います」
「赤沢この野郎ぶっ殺すぞてめええええっ!」
ようやく我に返った田口ちゃんが部長(赤沢)の手を払いのけてブチ切れた。怒りのあまり相当はしたない口調になってしまっている。さらになだめようとする部長の右頬に渾身の平手打ちが叩き込まれる。それを間近で見せられた他の部員たちはなぜか揃って拍手していた。
「おい柚木、このビンタは恋愛か?」
「制裁でしょう」
「そうだ。おっぱいに触ることは恋愛だが、力任せにぶつことは恋愛ではない」
「頭おかしいんですか?」
そもそもこれは会議ではなく演説だろう。部長はさらにもう一発攻撃を加えようと飛びかかってきた田口ちゃんをひらりとかわし、振り返って何やら罵詈雑言を絞り出そうという態勢に入った彼女をすかさず抱き寄せて唇をふさいでしまった。
さすがに予想外だったのか息が苦しいだけか真っ赤になった田口ちゃんは部長が離れると完全に戦意を喪失し、その場にへたり込んだかと思うと今度はめそめそ泣き出した。もうめちゃくちゃだ。
「つまりこれは俺にとっては恋愛であり、彼女にとっては恋愛ではないのだ。何が言いたいか分かるか?」
「『警察を呼んでください』ですかね」
「すなわち恋愛とは相互の関係性ではなく、各々において成り立つものであるということだ。その辺でイチャコラしてるカップルはその状態を恋愛と呼ぶだろうが、実は女のほうは男を好きでもなんでもなかったとしよう。だがその事実を知らされないかぎり、女にとっての茶番も男にとっては恋愛であり続ける。第一、相手が自分のことをどう思っているかなど実際に確かめようがない。つまり恋愛とはどこまで行っても主観的かつ一方的であり、偶然それが相互的に成立している状態を観測できるのは神のみ、よって恋愛を関係性で考えるのは無意味ってわけだ」
「これ見よがしに接続詞連発して論理的なふりしてくれてますけど意味が全く分かりませんし辛うじて理解できそうな部分も筋が通っているとは思えません」
その瞬間、体全体に亀裂が入るような鋭い痛みが走った。なんだろう。全身のその亀裂から少しずつ何かが漏れ出ているようだった。何かが損なわれていく感覚。しかしそれは恐ろしげな変化などではない。むしろ元の状態に戻っていっているのだ。
「「恋愛! 恋愛! 恋愛! 恋愛!」」
少し考えを巡らせるだけですぐに気づけた。施設でもらった注射の効果が今まさに切れたのだ。どうりで今日の僕は常識的すぎだし生きるのがうますぎると思った。頭がおかしいのに大学のサークルなんかで楽しくやれてるわけないんだ。それを思うと急に死にたくなる。やがてCDの音飛びのごとく時間の流れが歪んで同じ数秒を繰り返し始めた。
「帰ってきましたね」
そこでハッと覚醒する。職員のお姉さんが最低な笑顔でこちらを見ていた。寝起きでモヤがかかったような視界のピントを合わせていくと、下位の障害者の方には楽しい幻覚を無償配布しておりますという爽やかなポスターが目に入る。
「楽しかったですか?」
へらへらと曖昧に笑って曖昧な返事の代わりとし、どうにも腑に落ちない気持ちを抱えながらその日は帰路についた。