定点観測
鍵盤を這う彼女の指先を見ていると、思わず連想されたのは六月の夕暮れ時の波打ち際であった。海岸線に人影は見当たらず、ただいつもよりも黒みを増しているらしかった。空と海の境界は曖昧になって、クリームじみたグラデーションが広がっている。その画面を、フォンタナのように切り裂いたのは一羽のカモメだった。いやに白いそれはしばらく宙を旋回すると、打ち上げられた空き瓶のそばに降り立った。空き瓶の中に閉じ込められていたのは、一羽根のウスバカゲロウだった。
彼女はひどく弱っていた。言葉を発しなくなってから、どれくらいが経つだろうか。窓際には、書き込みの激しい楽譜が数枚、無造作に置かれている。彼女の存在表明は、時折の瞬きに収斂していた。それ以外には何もなかった。ただ一度に数回だけ、薄い貝殻を重ねるように瞼を重ねた。それが悲しみであり、喜びであり、畏れだった。
未完の交響曲は不思議なもので、それが途中で途切れたあとも、メロディは何処かで鳴り止むことがない。おそらく音源は、ずっとずっと薄い場所に隠されている。むしろ未完であることで、その交響曲は永遠の旋律を手にする。この定点観測のように。