六枚目 スレイヴ・ソウル・リヴェレイト
「ねっ、ネコヒゲさーーーん!」
アトランタは、屍となったネコヒゲを貫く槍を高々と掲げた。まるで黒ひげの最期を連想させるような、小学生には刺激的すぎる光景。そのとき、アトランタの表情を見た和泉は背筋が凍る。
ぐったりと槍に体重を預けるネコヒゲを見て、悦に浸ったように笑っていた。爬虫類の顔面を綻ばせている。和泉にとっては異常な光景で間違いないそれは、アトランタにとっては酒の肴という意味合いしか持たない。圧倒的な価値観と、世界観の差を実感して吐き気がこみあげてくる。
胃の内容物を吐瀉しそうになり、蹲ったそのとき――
「なに?」
「え?」
気の抜けた声を聞いて顔を上げた。
そして、予想以上にこの世界に慣れきっている自分を認めてしまった。数時間前の自分であったなら悲鳴を上げていた光景を見て、胸を撫で下ろしてしまう。
ネコヒゲは槍に貫かれながらも、何事もないかのようにこちらを向いて、純粋に疑問符を浮かべている。何故自分の名が呼ばれたのか本気で気付いてない。
「い、いや。大丈夫ですか!? 思いっきり腹に槍突き刺さってますけど!」
「タメ語でいい。面倒だからぅぁ」
気分を害されたのだろう。アトランタは槍を振り、ネコヒゲの穴が開いた体を自分の足元に投げて、その背中を滅多刺しにし始めた。
奇妙なことに、槍が抜き差しされる度に肉が飛び散ってはいるものの、血がまったく出ていない。ネコヒゲは酸鼻極まる光景をその身で体現しながら、のっぺりと声を出す。
「助けて。超痛い」
「ええっ!?」
最早手遅れに見える、いや、とっくのとうに息どころか生体機能を全体停止させていてもおかしくない。そんな人間に助けて、と言われて和泉はどうすればいいかわからなくなった。
いつの間にか平静を取り戻し、和泉に抱き着いたままのキャントリッパーは指であるものを指す。
「戦闘不能になった星駒はソウルストックに移動だ」
「ソウルストック?」
「私のカードの真下に、上下逆転した縦向きで置けと言っている」
盤を見る。《死刑囚ネコヒゲ》のカードは、まるで灰で形取ったように色彩を失ってしまっていた。持ち上げれば脆く崩れ、風にさらわれて行ってしまいそうな頼りない様相になっている。
和泉はそれを迷うことなく持ち、《キャントリッパー》のカードの真下に上下逆転の縦向きに置く。
《死刑囚ネコヒゲ》のカードの色彩が戻り、目の前で骨を露出させ始めていたネコヒゲが煙のように掻き消える。
「……墓地なの? ここ」
「私たち星駒のカードに死という概念はない。ただ質量を失って、魂だけの状態になっただけだよ。ほら、ちょうどお前の周りにふわふわ浮かんでるだろ?」
ぼう、と光に横顔を照らされ、そちらを向く。燃える球体が熱を発することなくふわふわと浮かんでいた。その人魂には顔があり、鼻の周りには猫の髭アンテナが立っている。
「……まさかネコヒゲか!?」
「せーいかい。あー、やっぱりこの姿が一番楽だわー。肩コリしないし」
「肩がなくなってるんだよ!」
もしも和泉がこうなったとしたら、間違いなく正気を失ってしまうだろう。しかしネコヒゲは自己の境遇にまったく関心を示しておらず、あくびまでしている。
その非常識さを和泉は呆れ半分に見るしかなかった。それが原因で、アトランタにあと一回の攻撃権が残っていることを失念する。
曇り空に存在する僅かな光を障翳するアトランタを見上げ、彼がすぐ傍にいるということに気付き、キャントリッパーは一瞬頭が真っ白になる。
和泉はああ、と思い出して、ネコヒゲに訊ねた。
「《死刑囚ネコヒゲ》の効果は既に発動しているんだよね?」
「安心しろ。既にできあがってる」
風切り音を鳴らし、突き立てられようとした槍はピタリと止まった。アトランタが更に押す力を強めても、空間に固定されたようにピクリとも動かない。初めて焦燥を目に浮かべたアトランタに、和泉は得意気に笑ってみせた。
この言霊が反撃の狼煙だ。傲岸不遜に挑発する。
「《死刑囚ネコヒゲ》の効果は、自身が破壊されたときに発動する。このターン、水星出身のハートおよびフィールド上の星駒は破壊されず、ブレインはあらゆるダメージを受けない!」
「その装備は既に、呪われてる」
人魂状態のネコヒゲがニヤニヤ笑いを浮かべ、嫌がらせのように舌を出す。アトランタはその槍を何としてでもキャントリッパーの首筋に突き立てようともがくが、やがて舌打ちをすると攻撃の手を引き、バックステップで茶恋寺のところへ戻っていった。
キャントリッパーは和泉の顔をまじまじと見つめ礼をする。
「た、助かった。ありがとうキャプテン」
「いや、礼を言うならネコヒゲに……」
待てよ、と和泉はそこで口を閉じた。間近にいるキャントリッパーの可愛らしい顔を直視し、眉を曲げる。彼女は長い睫毛を何回か瞬かせた。
「なんだ?」
「何故ハートのキミを攻撃したんだろうって思って。普通はブレインの僕を攻撃しにかかるんじゃないか? ただでさえ僕たちは毎ターン十万のブラッドをチャージできるんだから、相手も毎ターン十万以上のブラッドを削らないと、勝利の勘定が合わないよね?」
げ、と彼女は引き攣った笑いを漏らし、ホールドを解除して和泉から数歩離れ、背中を向ける。わざとらしく口笛を吹いてみたりもするが、唇が渇いているせいか上手く鳴ってない。
「……キャントリッパー。何か隠してるね?」
「なっ、ななななな何かって、何!? 全然心当たりないぞ!?」
しらばっくれるキャントリッパーは、持っている傘状の杖を指で忙しなく弄り始める。ストレスをため込むタイプの行う典型的な動作だ。和泉は無言で、傍らに浮遊するネコヒゲの方を向く。
彼は快く教えてくれた。
「ハートが打倒されると、次の自分のチャージステップで『治療費』を払って回復させなくっちゃならないんだよ。その値はハートのCPそのまんまだ」
「十万のブラッドポイントが吹っ飛ぶ危機だったのか!」
傘をいじくっていた人魚は、びくりと肩を震わせる。指先が止まった。
「それだけじゃねぇ。そのターンのチャージフェイズでチャージを行う権利すら消失する。つまり実質、損をするのは治療費分だけに留まらず――」
「――それプラス、稼げるはずだった十万ポイントを稼げない。総計二十万ブラッドの大損……」
ネコヒゲがいなければ本当に危ないところだった。
見栄を張って主を危機に晒そうとした、この人魚の面の皮の厚さを計り知る。額に青筋を浮かべ、和泉はキャントリッパーの方へゆっくり首を向ける。錆びた歯車を回すようなギギ、という音が耳に響いていた。
「キャントリッパー。キミ、ちゃんと勝つ気ある?」
「いや、その、これは色々と理由があるというか……あんなことが起こりさえしなければまったく問題にならなかったことというか……」
同じくこちらを振り向こうとするキャントリッパーは顔面蒼白で、歯の根が合っていない。目の焦点も左右で違うところを見ているんじゃないかと疑うほどに震えていた。
しかしこればかりは情状酌量の余地はない。和泉は彼女の背を腹癒せに軽く叩く。
「しっかりしてよ。カードゲームである限り、僕はこの戦いに負けたくない」
「う……」
「他に、これを覚えていなければ致命的ってルールは?」
彼の質問に口を開きかけ、キャントリッパーは愕然とする。彼が問いかけているのは自分ではなく、ネコヒゲだったからだ。
信用を失ってしまったことを暗に悟り、ショックで喉が枯れて声が出なくなる。かつて自分の客だった人魚の娘のことを思いだした。美声と引き換えに、人間に擬態する方法を教えてあげた彼女のことだ。声が出ないというのはここまで虚しく悲しいことなのかと今、実感する。
ネコヒゲは視線を泳がせ、記憶を探りながら答えた。
「ほとんどない、かねぇ? 基本ルールはこれで全部だと保証はできるが」
「そう。よし。わかった、ありがとう」
「あ、でもこれだけは覚えておけ。ハートゾーンにいるカードに『フィールド上に発揮されるカード効果』は影響しない。フィールドにいる扱いを受けないからな。ついでに、効果テキストに特記されていない限り、ハートはハートでしか攻撃できない。以上だ」
ネコヒゲのアドバイスにより、キャントリッパーの『問題にすらならなかったはず』の意図を飲み込めた。ハートはフィールド上に星駒がいる場合、攻撃することができない。そして、ほとんどの星術師は星駒を大量に並べての複数回攻撃を旨とするらしい。彼女の予測通りにことが運んでいれば、キャントリッパーは永遠に安全圏にいることができたのだろう。だからと言って、黙ってていい理由にはならないが。
これでルールは大方覚えた。
――さあ、本格的な反撃の開始だ。
和泉の闘志に呼ばれ、盤が表面を向けて和泉の目の前へと浮かび上がってくる。駆動音が耳に心地よく、盤に手を付けば細かい振動が伝わってきて、まるで血が巡っているようだった。
「スタートステップからドローステップへ」
カチリ。
盤のギアが変わり、デッキの一番上のカードがめくれるようになる。和泉は盤に置いていた手を離し、その手をデッキの上に持ってきて、ゆっくりとカードを引いた。
「ドローステップからチャージステップへ。《キャントリッパー》でチャージ!」
カチリ。
片手を人魚の魔法使いに向け、ブラッドを稼ぎ自らの体へ納める。そろそろ、このゲームにおける急激な血液変化にも慣れてきた。
所持BP四十万。
「チャージステップからメインステップへ!」
カチリ。
段々と気分が高揚していき、心臓が熱を持ち、速く動くようになる。カードを眺め、和泉は朗らかに笑う。キャントリッパーが今まで見てきた、大人びた少年の浮かべるものとは思えない程の、子供っぽい無邪気な笑顔だ。
「夢眼とウミウシコチョウを召喚!」
キャントリッパーが魔力タスクを引き受け、両脇に星駒を召喚させる。
夢眼は、実在するナマコであるユメナマコによく似た、ピンク色の体躯をしている。そこに大きな人の眼球を一つ入れたような、不気味なデザインの星駒だ。これが海生生物だと知らない者からすれば、無重力状態のピンク色の培養液中に眼球を一つ入れているようなデザインに見えるだろう。その生物は水の中にいるかのように、空中に揺蕩っている。
ウミウシコチョウは、黄色い粘性の、ナメクジのような羽根を持つ巨大な蝶だ。ぬらぬらと光る粘液塗れの羽根は生理的嫌悪感を催すが、それと同時にずっと見ていたくなるような怪しい色気を放っていた。
現実の蝶のように激しく羽ばたいておらず、それどころか蚊が止まりそうな程にゆっくりと羽根を規則的に動かしている。それなのに、高度を一切下げることなく宙に浮かべているのが幻想的だ。もしかしたら重さがないのかもしれない。
二つの星駒の姿を認めた和泉は、深呼吸を繰り返し、集中した。雑念はない。ただ勝利への渇望だけがある。いつも通りの、勝負における猫宮家流コンセントレーション。
ワクワクしていた。現実にカードの絵柄が出現し、それが自分の目の前で戦うという臨場感。男の子としては、楽しまずにはいられない。鼻の奥がむずむずする。
この世界から帰ろうと、まだ思っているが、今は目一杯闘うより他にないだろう。なにより和泉の頭の中に住む楽観性が、速く次へと進みたいとさかんにせかしていた。
「……メインステップ終了」
カチリ。
盤が、今までにない駆動音を響かせ始めた。
「アタックステップ、スタート!」




