表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/16

二枚目 アナザープラネット!

 余裕を装っているが、和泉の心の中は動揺により激しく揺れていた。

 陽炎の中は、世界全体が変容したかのような違和感の坩堝だった。


(この路地、なにか……)


 背筋が寒くなる。明らかに、この陽炎の中は異常だ。五感ではなく、六感に訴えかけてくるような不気味な空気が充満している。

 初めて一人部屋で寝たときのことを思いだす。襲い掛かる孤独感と、暗闇の中に潜む見えない恐怖に負けて、結果的に姉の部屋にかけこんでしまったことがある。この空間は光に満ちていても、あのときの一人部屋とまったく同じ恐怖が渦巻いているような気がした。

 後ろを振り向けば、陽炎はどんどんと薄くなって、消えてしまいそうになっている。


(……そうか。これ、陽炎なんかじゃない)


 直感的に、やっとのこと理解したときには遅すぎた。温度は変わらず最低のままなのに、冷や汗がどっと噴き出す。


「世界が変わったんじゃない。変わったのは僕の立ち位置だ!」


 むかし姉に読んでもらった不思議の国のアリスのように、期せずして得体の知れない穴に飛び込んでしまったのだ。そのことを和泉はあっさりと理解する。この肌を突き刺すような世界全体の違和感に、あらゆる荒唐無稽を塗りつぶすリアリティを覚えていたのもある。目の前に二本足で人間のように立つ人魚がいたことも一因かもしれない。空に、月と同じような大きさに見える『水星』と『金星』があったのがダメ押しだろう。


 十二歳の少年でもわかる。この場に存在するものは全て、自分が元いた世界には何一つとしてあってはならないものだ。いやむしろ、この世界にとって異物なのは間違いなく――


「ああっ!」


 急いで閉じようとしている陽炎にかけよるも、それは和泉が触れたか触れないかの位置で溶けてなくなってしまった。一瞬途方に暮れるが、すぐに頭を振って考えを改めにかかる。


(落ち着け僕……世界を移動するなんて、そんなSFじみたことが現実に起こるはずがない……空に浮かぶ天体は目の錯覚か何かだ! このお姉さんも、かなり精巧な特殊メイクを施した女優さんだと思おう!)


 ことここに至り、既にそれは現実逃避そのものだった。やはり不気味な空気は和泉を取り囲んでいるし、何度空を仰ごうと天体が消えることはない。

 こちらを怪訝そうに覗いている人魚の少女の傷は、深すぎて視覚トリックの扱える範囲を完全に越している。そこから溢れ出しているのは相変わらずの白い泡だ。

 しかし、最後の最後の砦はまだ破られていなかった。和泉の周りにある街並みは『ほぼ』変わりない。これならば辛うじて、自分が違う世界に放り出されたのだという世迷言を受け入れずに済む。

 冷静さを強引に連れ戻した和泉は、人魚の少女の方を向く。


「逃げよう?」



 ――とっくのむかしにハロウィンは終わったよね?

 白い眼を携えた和泉は、口を半開きにしてスクランブル交差点を眺めていた。

 電柱に括りつけられている住所表を先ほど確認したが、やはりここは新宿で間違いないらしい。だが、白昼の元を歩く人々がどこか変だった。


 白く透き通る肌を携えた美人OLが、スマフォを耳に当てながら生き生きと仕事をしている。その手をよく見てみると、指の駆動部分が球体関節になっていた。歩くときの音はどこか決定的に『無生物的』だ。身も蓋もない言い方をすれば、全体的に固い。

 ――生きた人形(リビングドール)のオフィスガール。


 社会科見学だろうか。髪を短く刈り上げたジャージの体育教師のような大柄の男が、黄色い帽子を被った小学一年生たちを引率して歩いている。ふと、彼が上を見ると、ビルに埋め込まれた液晶ディスプレイにちょうど満月が映っていた。

 見る見るうちに体育教師は毛深くなり、口が避け、顔面が前面に突出し、肉食系然とした容姿に変わる。筋肉が隆起し、ジャージの節々が破けてしまった。小学一年生たちはそれを見てケラケラと笑い『ドジだなぁ』と囃したてている。

 ――小学生教師の狼男(ウルフマン)


 交番の中にふと目を向ける。一見して誰もいないが、中にいる人の良さそうな老婆がしきりに、誰かに向けて『はいはい』と等間隔に頷いていた。注意深く見てみると、老婆に道案内をしている女性の声が聞こえる。

 真昼だから気付かなかったが、交番の中には金の微粒子が発生しては空気中に溶けて消えるを繰り返している箇所があった。更に目を凝らすと、そこに透明な羽を持った身長十センチにも満たない女性の警察官がいる。

 ――妖精(フェアリー)のお巡りさん。


「……も、もう誤魔化せないなぁ」


 あははははははははは、と虚無的な空笑いが自然に漏れ、涙が止まらなくなる。街並みだけは変わっていないと思っていた。思いたかった。だが実際のところ、それは目を逸らしていただけだということに気付く。

 実はさっきの崩壊寸前の元アパートの中心点、上から俯瞰したときに重心になるであろう場所に大きな神樹が、屋根を突き破るように生えているのを必死で見ないふりしていた。

 それにできた樹洞の中から、いかにも今の騒ぎのせいで起きましたという風体の女性が出てきて、自分たちを不機嫌そうに睨んでいた。女性の背中には、人体にあつらえたような巨大な青い翼があった。

 ――鳥人(バードマン)の不法滞在者。一刻も早く立ち退き要請が出ることを願う。


 今の新宿も似たようなものだ。さっきから車道を走る自転車に混じり、白い虎のような獣に乗った人間、黒い馬に乗った首のない騎士、ペンギンが四隅を担う神輿のような玉座に座る王様ファッションの男などが和泉の横を平然と横切っている。どうやら全部軽車両扱いらしい。


「ココジャナイロボ……」

「何を言ってるんだ?」


 ハッとして涙を拭き、後ろを振り向く。そこにはまだ、先ほど助けた人魚の少女がいた。呆れたように腰に手を当てている。


「まさか道に迷ったなんて言わないよな? 私だって、東京にはつい最近来たばかりなんだぞ。お前がそんなんじゃ困る」

「え? 何でついてきてるの?」


 至極真っ当な問いだったはずだ。だが直後、少女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。


「……えっ!? ここでお別れするつもりだったのか!?」

「いや、どころか既にお別れした気分だったんだけど……」


 狼狽する少女に、和泉の方が呆れる。ここまで来ればもう安全だろう。すぐそこに交番もあることだし、実害も出ているようだから突っぱねられることもないはずだ。

 しかし少女はまだ突っかかるのをやめない。


「いやいやいや! 私はお前との出会いに運命的なものをひしっひしと感じていたんだぞ! そう簡単にお別れしてもらっては困る!」

「小学生に対して何を言ってるんだよ……」


 和泉は手をひらつかせ、少女の元を去ろうと歩き出す。こんな世界に行く当てがあるとは思えないが、一先ずは区役所だろう。一体この世界における自分の戸籍はどうなっているのだろうか、と考える。戸籍謄本は小学生でも見れるのだろうか。


「だから待ってって!」

「ッ!?」


 ――超痛い!

 一体何事かと後ろを見れば、泣きそうな顔をしている少女が和泉の顔を引っ張っていた。


「引き留めるにしても服とかだろ! 何で髪!?」

「あ、ごめん……習性で」

「人魚にそんな習性が……」


 関心を示し始めている自分に気付いた和泉は、それを振り切るようにもがく。何本か髪が千切れてしまい、歯を食いしばって痛みを耐える。もがく力に気付いた少女は、彼を気遣って急いで手を離した。

 解放された和泉は頭をさすり、険のこもった瞳で少女を睨む。


「……何の用? ただの小学生にできることなんて限られてるんだけど」

「その……何だ、あれ……」


 少女の歯切れは悪く、何度か意図を口にしようとするものの、それは水の泡のように都会の喧騒に紛れて消えてしまう。

 待っても無駄だと判断した和泉は、肩をすくめて無言で踵を返し、また歩き出す。少女は慌て、また髪を掴もうと手を伸ばしたが、本能を何とか抑え込み手を掴むことに成功する。

 いい加減うんざりした和泉は振り返り、どきりとした。少女の顔は朱に染まり、焦りのせいで呼吸が浅くなっている。


「お、お前! 星術師になってみる気はないか!?」

「な、何?」


 星術師、という聞き慣れのない言葉を聞いたから仰け反ったわけではない。既にそんなもの食傷を起こすくらいに見ている。怯んだのは造作の整った顔を、吐息がかかる程近くに目にしたからだ。

 和泉は半ば強引に抱き寄せられている。おそらく、往来にいる何人かの人間がこちらを興味深げに野次馬していなければ気付かなかっただろう。公序良俗に真っ向から反するような大ハプニングの当事者になっていることに気付き、和泉の顔まで真っ赤に燃える。


「早い話、私のデッキブレインになってくれ!」

「話はわかったからちょっと離れてーーー!」


 刹那。世界が眩く光り輝いた。

 恥ずかしさに任せて手を押し出すと、ふわりとしたそよ風の感触を残して、手は空振りする。混乱していたせいで自分が光に包まれていることに気付くのが随分と遅れた。


「……『話はわかった』、ね……契約、完了……」


 姿が見えなくなったわけではない。少女は、未だ和泉のすぐ傍で笑っていた。背中がぞくりと震えるような、邪悪な笑顔だった。悪巧みが上手くいったと言わんばかりの朗笑。

 少女の体質が著しく変わっている。先ほどまで質量があったはずの彼女は、光の塊になって、だんだんと姿を崩し、いずこかへと消えた。


「……あれ? お姉さん?」


 あとに残ったのは、地面にへたりこんで尻もちを付いている和泉だけだ。何が起こったのかわからない彼は、周りをきょろきょろと見回している。

 見えるのは、何か微笑ましいものを見ているような野次馬だけだ。何人かこちらに拍手を送っているのが気になるが、それどころではない。人が一人消えたのだ。

 立ち上がり、また周りを見渡す。


「……ん」


 ポケットの中に異物感。嫌な予感を感じつつ、まさぐる。出てきたのは、小学生の手には少し余る大きさの箱だ。


「デッキケース……かな?」


 質感は大理石のそれに似ている。色は黒。天の川のような煌めきを放つ光点が、ところどころに認められる。まるで手の平サイズの夜空だった。軽く振ってみると、何かが入っているような感覚が返るが、継ぎ目が一切なく開け方がわからない。


「悪い冗談だな。まさかガキに先を越されるとは」


 瞳孔が開き、息が詰まる。野次馬をかき分けるように、オレンジとも茶色とも付かない髪を揺らして一人の男が現れた。恐る恐る彼の顔を窺がえば、その顔は嗜虐的な笑みを浮かべている。先ほど少女を襲っていた女衒もどきに違いなかった。

 ――まずい。逃げなきゃ。すぐ傍の交番にっ。

 しかし足は震え、靴の裏はなかなか地面を掴むことができない。せいぜいが後ずさりする程度だ。それを見咎めた彼は、ポケットの中からある物を取り出し、和泉に向ける。

 色は紅いが、和泉の持っているデッキケースとまったく同じ形の箱だった。


「――心臓招聘(ハートインヴァイト)


 バクン、と和泉の心臓が大きく鼓動した。

 痛みはないが、今の心臓の動きは通常のものからは逸脱している。疑問に思い、胸に手を当てていると、目の前に光の塊が構築されていくことに気付いた。

 見慣れない光だったが、見覚えはある。そう、ちょうど先ほど少女が変わった光とまったく同質に見える光だった。違うのは、彼女の場合光になって消えたのが、今回は光が凝固して何かに変わろうとしているところだ。


「龍人・アトランタ! 出番だ!」


 バキン、とガラスが割れたような音が響き、光を切り裂くように突如、爬虫類の生物が現れる。

 大きさは二メートル前後。二本足で立ち、鎧を着こみ、皮膜の羽を背中に携え、手にはその体躯に負けない高さの大槍を持っている。

 先ほどから人外をイヤという程に見てきた和泉は、その眼を見て初めて命の危険を感じる。敵意はないが、純粋に殺意だけが宿る野獣の眼光。殺すために殺すという純粋な狂気が和泉の心臓を射抜く。

 あまりの畏怖に呼吸が止まりかけ、悲鳴を上げることすら不可能になる。


「こうなったら正々堂々と戦って奪うしかないな」


 和泉は、首を鳴らしてから足の幅を取って腰を落とす女衒もどきに意識を向ける。


「お前も星術師(ブレイン)になったのなら、化身(ハート)をさっさと出しな」

「へっ?」

「……む」


 素っ頓狂な声で応えた和泉を見て、女衒もどきは『そういえば』と思い当る。


「そうか。今なったんならわからなくってもしょうがないな。やり方は俺がレクチャーしてやろうか?」

「ん?」


 ――あれ? この人、いい人そうだな。

 何が起こっているのかはまるでわかっていないが、和泉は子供心にそう思った。アトランタと呼ばれた竜人は、指示を待つようにその場を動いていない。相変わらず和泉をショック死させかねないような危険な眼光を放ったままだが。


「よく聞け。まずは自分の心臓に意識を向けろ。あとはカードがお前を導く」

「カード……?」

「俺は短気だ。さっさとやらないとアトランタに首をもがせるぞガキ」

「……」


 ぶっきらぼうなその物言いが、不思議と和泉を落ち着ける。和泉は深呼吸を繰り返し、心臓に手を置き瞑目した。ドクン、ドクンと鼓動が手に伝わってくる。女衒もどきのアドバイスが聴こえる。


「ブレインとハートは一心同体かつ異体同心だ。契約した今、それが破棄されない限りヤツはお前と共にある。繋がりを見つけろ」

「いや、ついさっき会ったばかりなのに繋がりも何もあったもんじゃ……」

「黙ってやれぇ!」

「はいィ!」


 全身をびくりと震わせて、また心臓の鼓動を感じる。

 暗闇の中に、彼の言う繋がりを探す。

 それと同時進行で、和泉はつい先ほどのことを思い出していた。


『話はわかった、ね。契約、完了』


 思えば、あのとき恥ずかしさに任せて訳も分からず放った言葉が何らかのトリガーとなってしまったのだろう。これで『契約』だというのだから片腹痛い。法律上、契約は双方がまともな精神状態でないと成立したことにならないからだ。


 ――あのお姉さんに、もう一回会いたい。会って文句を言ってやりたい。

 和泉のその感情が、心臓に不可思議な力をかけて、鼓動を強める。彼女の声が耳朶に深く染み渡る。


『お姉さん、じゃない』

「じゃあ何て呼べばいい?」

『そういえば自己紹介がまだだったな。私は深海の魔法使い。美麗な声を人間の足に変え、流麗な髪を刃へ変える。その身に、その眼に、その耳に刻め。私の名は――』


 カチリ。

 頭脳と心臓の歯車が噛みあい、滑らかに回転を開始する。目をゆっくり開き、デッキケースを掲げ、口を動かす。


心臓招聘(ハートインヴァイト)――」


 光が発生、凝固。質量が和泉の目の前に構築されていく。


「キャントリッパー!」


 パキン、とデッキケースが砕けた。中に入っていたのは予想通り、札の束(カードデッキ)だ。その中から一枚が集結する光の中へと向かい、同化。そして、それを合図に光は姿かたちを女性に変えた。

 服は魔女そのもののような黒衣にマント。頭にはとんがり帽子。手には杖、の代わりに何故か児童向けの小さな傘が握られている。


「招聘に応じてただいま参上! 何なりとお申し付けを! 新しい主人(マイキャプテン)!」

「……」


 和泉は絶句していた。野次馬の何人かも首を傾げている。そうさせるのは人魚の少女、キャントリッパーの容姿だ。当の本人は首を和泉に向き直ると、可愛らしく小首を傾げてみせる。


「……何だ? どうかしたか?」

「いや……小さくない?」


 少女の容姿は、何故か見た目年齢十六歳から、少年と同い年くらいの見た目年齢十二歳くらいにまで低下していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ