一枚目 トリップ
日本に帰国し、一夜明け、迎えた朝は好晴の空だった。
まるで自分の活躍を、天すらも祝福してくれているような気分になる。リビングルームの隅に設置されたガラスケースの中に入った新しいトロフィーを眺めながら、自慢げに少年は鼻を鳴らした。
「僕、天才」
うっとりと呟き、目を輝かす。金色のトロフィーは覇者の証だ。ガラスケースの中には、この他にもトロフィーや金メダル等が飾られている。
そのどれもが、TCG――つまりトレーディングカードゲームの大会で鮮やかな勝利を飾った少年、猫宮和泉を屈託なく称えていた。
冬休みを利用し、ラスベガスへと赴いて『マジックウィズソーサリーズ』というカードゲームの世界大会に参加した彼は、並み居る強敵を薙ぎ倒し見事に優勝を飾って、子供の小遣いにしてはえげつない程の賞金を持って帰還したばかりだ。
時差ボケのせいでまだ瞳はどんよりと曇っているが、頂の輝きはその曇りを貫く程に強く温かい。
和泉は、ことTCGにおいては紛うことなき世界最強のプレイヤーだった。それも種類を問わず、古今東西どのカードゲームでも、戦えばその勝率ほぼ一〇〇%。
カードゲーム専門雑誌にインタビューを受けたことも一度や二度ではない。その道の者で、彼の名を知らない者は最早誰もいなかった。
「おんやぁ? 和泉ちゃん、もう帰ってきてたの?」
我に帰り、声のした方を向く。癖のある髪を伸ばし放題にして、その身には大きすぎる上に着古してダルダルになったTシャツ以外には、女物の白いパンツしか身に着けていない女性がいた。
顔は伸ばされた髪のせいで大半が隠されているが、その切れ間から片目だけが除き、こちらを覗いている。暗い印象とは対照的に、人好きのする丸く柔らかい眼差しだ。
「ねぇねぇ。いい加減髪切った方がいいよ」
「帰ってくるなり最初の一言がそれぇ?」
『ねぇねぇ』と呼ばれた彼女は、うんざりしたように首を傾けた。長すぎる前髪が流れて顔の大半が見えるようになり、長い間外に出ていないために色素が抜け落ちた白い肌が露出する。こころなしか唇の色まで不健康そうに見えるが、その顔立ちは十四歳という年齢を感じさせない程に綺麗だ。
「私が外に対してどれだけ恐怖感を持ってるか、もう和泉ちゃんはイヤってくらいわかってるでしょお? 床屋に行くのだって恥ずかしい」
「もうすぐ受験生なんだから、そろそろ引き籠りライフから卒業してくれないと困るんだけど……」
「生きるとは、籠城戦と見つけたり」
彼女はサムズアップを掲げ、それを和泉の鼻先に突き付ける。面食らい仰け反った和泉は、一拍置き、溜息を吐いて反論した。
「格好よく言ってるけどその籠城、補給来ないから悲惨な結末しか待ってないよ」
「生きるとは、パラサイトと見つけたり。養って和泉ちゃん!」
「アンタを殺して僕も死んでやる」
「一気に話をグロくしないでよ! 愛憎渦巻く姉弟サスペンスなんて誰も望んでないから!」
「アンタが弟離れしてくれれば話はもっとシンプルになるよ」
興が冷めた和泉は、自らの体を抱いて身をよじらせている姉の横をすり抜け、テーブルの上で稼働しているオーブントースターを見る。それを待っていたかのようにトースターは一回だけチンと音を鳴らし、加熱が終わったことを知らせた。
取っ手を引き、ハムの乗ったパンの上に、チューブに入った緑色のペーストを塗りたくる。姉、猫宮陸美はテレビのチャンネルを探しながら和泉に訊く。
「お父さんは今日も仕事?」
「僕を迎えた後、すぐに警察署に行っちゃった。何か事件があったんだってさ」
「ああ。『クイックブラッド』でしょ」
ひく、と和泉は体全体を小さく引きつらせ、陸美の方を見る。
「クイックブラッド?」
「連続殺人犯の俗称。あなたが日本を離れている間、何人か犠牲になってたのよ。今ニュースでやってるんじゃないかしら……っと」
チャンネルを発見した陸美は、電源の赤いボタンを押してテレビを付ける。しばらく黒い画面を映していたテレビは、ぱっと明るくなり彼女の意を組んだようにニュースを映す。
画面左上には現在の時刻が表示され、右上にはニュースの見出しが書かれている。『またしても……クイックブラッド事件、未だ進展せず』というものだった。
深刻そうな声で、ナレーターは近場の警察署を大写しにしている。
「どういう事件?」
「詳しいことはわからないんだけどね。殺人現場は北海道だったり、沖縄だったり、東京だったり長野だったり石川だったりとてんでんバラバラ。被害者にも一切の接点がなく、殺人の周期も死亡推定時刻も一切の偏りが見られない謎の連続殺人犯だよ」
「ん?」
子供心に妙な話だ、と思った。それなら連続殺人ではなく、それぞれが独立した殺人事件だと判断した方が自然だろう。陸美は和泉のそんな心情を読みとり、腰かけた椅子の背もたれに体重を預けかけて続ける。
「たった一つだけの共通点は、被害者の殺され方なのさ」
「殺され方?」
「全身の血が一滴残らず『消え失せてた』。それが共通点」
和泉は目をぱちくりさせて、ニュースを流しているテレビに再び目線を移す。最低限の情報をやっとのこと飲み込めたからか、ナレーターの声がいっそう脳へと刻み込まれていった。
「吸血鬼でも出たっていうの?」
「少なくとも首筋に噛み傷が残ってたって話は聞かないなぁ。これは噂なんだけど、死体には一切の傷が残っていなかったらしいよ?」
「それはいくら何でもありえないでしょ……」
「ついでに、豆知識を披露しようか和泉ちゃん。人間の血流は死ねば止まるけど、流血は血が流れている間しか起こらないんだよ。血を吸い取っている途中で相手が死ねば、体の中には相当量の血が残ることになる。一滴残らずスッカラカンになることはありえない」
陸美は上機嫌な笑いを浮かべながらそう語る。
「でも現実にスッカラカンになってるわけでしょ?」
「犯人に豊富な医療知識があれば無理を通せる可能性はあるけどね。どっちにしろ体に一切の傷がないってのは確かにありえない。どこかしらに注射痕に似た傷は残ってるんじゃないかな?」
「……大丈夫かな。父さん」
心配になり、そう漏らすと陸美は呵呵大笑した。髪のせいで顔の大半に影がかかっているため、その明るさにギャップを覚える。
「流石にあの強面ジジイの血を欲しがる吸血鬼はいないと思うなぁ。チュパカブラだってアイツの血を吸った瞬間に蒸発するよ」
「父さんにそんな人外じみた能力あったっけ?」
「あーっはっはっは! 笑った笑った。あ、ところで今日はどうするの? 予定なければ私と一緒に格ゲーでも」
「学校に決まってんだろ寄生虫」
「っ!?」
学校というワードを聞いた途端、今まで一貫して上機嫌だった陸美の顔が強張った。カレンダーを確認し、息を飲む。一月の七日までの日付にすべてバツが付いていることを認識した彼女は、みるみる内に顔色を失くした。
「……そう。寄り道せずに帰ってきてね」
痛みを耐えるように俯き、沈んだ声でそう言われると、何も悪くないはずの和泉は訳もなく罪悪感を覚える。猫宮家に伝わる伝統料理『わさびハムパン』の乗った平たい皿を、最愛の姉の前に置き、しばらく考えて、意を決する。
「ねぇねぇ、あのさ……何か欲しいものはない?」
怯えて萎縮している陸美は、ゆっくりと和泉の顔を窺がう。和泉は出来うる限り優しく笑いかけた。
「賞金、たくさん貰ったからさ。ちょっと豪華なケーキくらいは買ってこれるよ?」
第一印象通り薄暗くなっていた顔色は、和泉の言わんとすることを理解し、みるみる内に明るくなった。
◆
甘やかすことが正解か否かはわからない。おそらく和泉はもちろんのこと、姉弟の父親ですらそうだろう。和泉は姉の陸美のことを心の底から慕っているし、父親の方も姉弟に対して惜しみない愛情を送っている。
陸美の方も同じくそうだ、と和泉は自信を持って答えられる。普段は何でもないふうを装っているが、実は心の底で二人に深い慙愧の念を抱いているのを時たま感じる。
彼女とて好きで引き籠っているわけではない。中学一年のころに、ちょっとしたことでイジメを受けるようになった彼女は、階段で背中を押されて頭を強く打ち、片目を失明してしまったのだ。背中から押されたので陸美は犯人の顔を見ておらず、クラスメートがあっという間に口裏を合わせたため犯人はわからずじまい。
すぐに父は転校届を出して陸美を避難させたが、心に刻み込まれた恐怖心はどこに向かおうと彼女を苛み、数日待たない内に陸美は不登校になってしまった。
彼女元来の明るい性質を一番よく目にしていた和泉からしてみれば、彼女の変容ぶりは見るに堪えないものだった。だが、それでも一年前よりは数段よくなってきている。
人の心の構造なんてものを大真面目に考えても、やはり陸美の心の傷は想像するに余りある。それでもこうやって日常通りに振る舞っていれば、いつかは元に戻るのだと和泉は信じるより他になかった。
(……まさかケーキよかゲームを御所望とはねぇ)
学校からの帰り、ランドセルを揺らしながら歩く和泉は手に持つ青い袋を見て、苦笑いを浮かべた。袋にはでかでかとゲーム販売店のマークがプリントされている。イジメがどうとか関係なく、自分の姉は色気より食い気、食い気より遊びっ気らしい。
(とことん女が死んでるな。ねぇねぇ)
青い袋の持ち手をブレスレットのようにかけ歩く。今日は晴れているが、まだ寒い。吐く息は笑える程白かった。鼻歌混じりに歩いていると、ふと脇道に目が行く。
「ん?」
疑問が眉間に皺を作る。和泉は目をこすり、細い路地に再び目を向けた。気のせいだろうか、こんな寒い時期だというのに陽炎が見える。近くの料理店が出す熱気が空気を歪めているのだろうか、と考えたが、ここは閑静な住宅街だ。大量の熱を排出するような機構は見当たらない。
それに和泉が見る限り、そういう規模ではない。陽炎が大きすぎるし厚すぎる。それと、そもそも陽炎なのかという疑問が頭をもたげる。
陽炎とは本来、温度差によって生じた空気の密度の違いによって光が屈折した結果起こる自然現象だ。だが和泉の目の前で起こっているそれは、空気の密度ではなく『人間の与り知らない別の物質』の差によって生じているような危うさと妖しさを放っている。
しかし、いくら不可解だろうと首を突っ込む道理はない。妖しいものには近づかないが吉だ。和泉自身、そのことを正しく理解していた。
彼の歩を止めるに至るのは、陽炎の中から聴こえる誰かの泣き声だけだ。脳の中に、顔すらわからない女性の泣き顔がフラッシュする。悲痛な声だ。どんな迫真の舞台であろうと、このリアリティには敵わない。心臓を物理的に鷲掴みにするような悲叫。
「……」
この場には和泉しかいない。つまりこの叫びを聞いているのも彼一人ということになる。だが、それがどうしたというのだろう。和泉はバカらしいと首を横に振る。
さっさと家に帰って、愛する姉と一緒にゲームをするのだ。余計なことに構っている暇などない。
◆
水星と金星がよく見える白昼。
既に人の手が入らなくなり、崩れる一歩手前になった元アパートの壁に背を預け、追い詰められる少女は目の前の男を見ていた。
オレンジとも茶色ともつかない髪。鋭い目。手にはゴツい指輪が幾重も装着されている。見るからにチンピラという体の男だ。
「ぐっ……」
少女は、深い切傷がついた二の腕を右手で押える。奇妙なことに、その傷口から溢れ出すのは紅い鮮血ではなく『潮の匂いのする泡』だった。苦悶の表情を曝け出すのを耐えながら、敵意に溢れた目付きで怒鳴る。
「何故私なんかを追う……っ! 見ての通り、私はブラッドゼロの奴隷だぞ!」
「ああ、知ってるさ。だがスレイヴにはスレイヴなりの使い方があるからなァ」
蛇のように舌を出し、唇を舐めて男は近づく。少女の体躯に対して、男は見上げる程に大きい。恐怖心が増すが、少女は尚も睨み付けるのをやめない。
「なんなら俺のデッキハートにしてやってもいいんだぜ? そこまで邪険に扱うことないだろうよォ」
「ここまでしておいてよく言うな」
「……やれやれ。減らず口もここまで来ると愛おしさすら覚えるな」
更に近づく。太陽が遮られ、少女の顔に影がかかる。頭の中に潜む弱い自分が、どんどん露出していく。
――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
「……ッ!」
「どうせ『お前ら』は通常の手段で死なないんだ。一生俺に逆らえないように、延々と痛めつけてやるよ。従っても痛めつけるが」
「この、下衆がぁ……っ!」
既に強がっているのは、彼女の言葉だけだ。今まで崩すまいとしていた仮面はついに割れて、塞き止めていた涙を流してしまっている。
それを面白そうな顔で、嘲り混じりに見下ろしている相手が憎くて、悔しくて堪らなくなる。
「何とでも」
「――ッ!」
身を縮こませて、目を瞑り顔を逸らす。次の瞬間――
「がっ!」
顔を覆っていた影が晴れた。少女は目を開ける。
さっきまで自分を手籠めにしようとしていた男の顔面に、黒いランドセルが張り付いているのがスローモーションで見えた。
そして、そのスローモーションは、ランドセルを更に男の顔面に押し付けるような蹴りによって解除される。
「ごもげぇぇえええええっ!?」
間抜けな悲鳴を上げて吹っ飛ぶ男がついさっきまで立っていたポジションに、少年は軽やかに着地した。その顔はこともなげな無表情で、吹っ飛ばした男の方を感慨もなく見送っている。
「……うちのお姉ちゃんは誰よりも救いようがないんだ」
「は?」
小学生くらいの体躯の彼は、肩をすくませた。
「女衒もどきに襲われる女の人一人救えないようじゃ、弟失格なのさ」
少年――猫宮和泉は少女の方を見た。
少女の見た目年齢は十六かそこら。髪は水色。長い髪は後頭部でバレッタにより止めているらしい。都会の中心だというのに、潮の匂いが香るのが奇妙だ。だがもっと奇妙なのは、彼女の顔だった。
「んっ?」
彼女の顔はほぼ人間のそれだ。第一印象では陸美と対抗できる程に美人だろう。しかし彼女の右眼から頬にかけて、一筋のラメのようなものが見える。よくよく観察すると、それは太陽の光を反射する魚の鱗だった。
特殊メイクかと思ったが、それにしてはどこか生気のようなものを感じる。下手を打つと、最後の外出が半年前の陸美よりも生き生きとしていた。
潮の香り、魚の鱗、傷口からは泡。これではまるで伝説の――
「……人魚?」
「せ……正解?」
双方にとってあまりに衝撃的な邂逅だった。少女の方が、首を傾げながら疑問形で答え合わせしなければならない程に。




