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十三枚目 世界はそれを愛と呼ばないんだぜ―3

 揚々と星術師協会へと踏み込んだ二人。彼らを一番最初に歓迎したのは――


「……おぐぅ!」


 強烈、そして熾烈な、激臭。つい最近になって、やっと慣れてきたと思った世界全体の空気感の違和が、嗅覚全体に襲い掛かる。

 はっきり言って臭い、わけではない。決して悪いものではないし、数時間いれば慣れるだろうとは思う。だが副都心にあっていい香りではない。

 森林、海辺、湖のほとり、岩肌の露出した山岳地帯、動物の跋扈するサバンナなどの自然臭をない交ぜにした上に、それら全てをオゾンで割ったような、最悪とも最高とも違う方向へ吹っ飛んだ独特の香り。

 その中に、リップの潮の匂いが加わり、更に空気感は混沌としたものへと変じていく。


「どうした? キャプテン」


 鼻を抑えて蹲る和泉を心配し、顔色を覗き込むリップと目線がかち合う。彼女は平気なのだろうか。


「リップ。キミよく平気だね……」

「何が?」

「この匂いだよ。臭いわけじゃないけど強烈じゃないか」

「あー……人間の世界って不気味なほどに無臭だからなぁ」


 合点がいったようにリップは頷く。

 東京は確かに、世界有数の無臭国家だ。道路やシステムだけでなく、衛生面までも整然とされている。その整然さは和泉が生まれる前からずっと続いてきていたはずだった。

 その価値観を大きく揺るがす、星術師協会(ネビュラクラン)というロケーション。


「……おええっ……」


 無菌室で育った子供がガンジス川に投げ出されたようなもの。または、妊婦が生鮮売り場の匂いを『生理的に』受け付けられないような拒否感に、和泉は膝を付き、吐いてしまいそうになる。

 有害ではないのだが、相性が悪すぎる。


「ああっ、ちょっとキャプテン! こんなところで吐くなって!」


 世界がぐるりと、和泉だけを取り残して大回転する。

 リップの声だけが、和泉の世界の中で正常に響いていた。悲しくも痛くもないのに、涙腺が緩んで涙が滂沱と溢れ出す。口の中では唾液が大量に生成されていた。このまま脱水症状を起こして死んでしまうのだろうかと危惧してしまう。


「……一度出ようか?」

「い、やっ……!」


 リップの手を掴み、手繰り寄せ、無理やり立ち上がる。

 万華鏡のように回転しながら光る景色に目を凝らし、三半規管を必死で立ち直らせた。


「平気だ。すぐ慣れる」

「そうか? ならいいんだが……トイレは下の階行きの階段を下ってすぐのところだからな?」

「……」


 基本的な構造は、和泉の元いた世界の都庁とまったく変わらない。

 和泉は残った方の手で前髪をぐしゃりと握りつぶす。違和感と類似点が相乗効果を起こす狂った世界を歩くのに、こんなところで躓いてはいられない。


「こんなところで躓いてられないからな」


 戦う覚悟を決めたようなその表情に、リップは愛しさを覚える。ゾクリと脳幹や内臓が震えあがり、知らず知らず笑みが浮かんだ。

 やはり彼を選んだのは正解だったと心底思う。


「……キャプテン」

「なに?」


 世界の回転が収まってきたあたりに、絶妙なタイミングでリップの声が優しく滑り込む。

 疲れに半眼になっている和泉がリップの方を向くころには、その表情はいつも通りの子供っぽいものに戻っていた。


「朝ごはん食べたい」

「……え? 朝ごはん?」


 ぐぎゅる、と二人の腹の虫が同時に高らかに声を上げた。

 リップは恥ずかしさに目を逸らし、和泉は脱力して溜息を吐く。


「そういえば朝、食べてなかったかもね」


 幸い、金ならあった。


◆◆

 和泉の懐事情を知ってか知らずか、値段設定は普通の定食屋よりは幾分高かった。

 都庁四十五階、星術師限定解放の食堂『すばとり』は洋食の店で、朝はBLTサンドやフレンチトーストなどを出している。この寒い時期にソフトクリームまで取り揃えていた。暖房が効いているこの階層で気が緩んでいるのか、食事を終えたリップはこれを可愛らしさを装って要求。

 そのあざとさに軽く顰蹙したが、今は金銭面に余裕がある。断る理由はないので要求を飲み、ソフトクリームを購入し、リップに渡した。


「あーん、美味しっ」

「たっく。そのノーテンキさを分けてほしいよ」

「ん?」


 ――この女、聞こえている上でスルーしてんじゃないだろうな。

 嫌味と皮肉が通じないことに軽い苛立ちを覚え、しかしそれを悟られまいと表情の裏に隠した。顔を逸らし、周りを見る。

 食堂とそうでない空間には仕切りが立ててあり、食堂内の空間から見える窓外の景色は、食事をする者だけが独占することができる。代わりに、当然食堂の外の景色は見えないのだが。


「……静かだな。まだ早いからかな」


 そういえば、この臭いの主たちの姿を未だに認識していない。

 それはこのフロア全体に染み渡っているものであって、本体がすぐそばにいたということもなかった。

 だが、先に入ったはずの茶恋寺とアトランタの姿すら見えないのはどういうことだろうか。


「対抗戦でもやってるんじゃないか?」


 リップは天気の話でもするような気軽さで答えた。


「何それ?」

「星術師協会の支部同士にはそれぞれ思想ってヤツがあってな。ほら、さっきブラッド売っただろ? 売ったブラッドをどういうふうに使うかの大まかな方向性を決めるために、星術師協会同士で戦うことがあるんだよ」

「……ブラッドの使い道の意志決定? 株主総会みたいな?」

「ここで、いや星術師同士でモノを言うのは株じゃなくって実力だけどな。さっき受付嬢が言ってただろ? 命は万能のエネルギーだって。ワクチンの開発、発展途上国の支援、国力の底上げ、その他いろいろなことに使えるってさ」

「そんなマクロな考え方してたっけ?」


 星術師にとって、即時得になるようなことを言っていた気がする。星術カードの開発などは、金さえ持っていれば購入はたやすいのだろう。そして金はブラッドで買える。

 しかしリップは一笑に付した。


「アイツの言っていたことは正しいよ。自分がそれをやるとも、それを勧めるとも言ってないが」

「……ブラッドの使い道は自分たちで決めろってことか」

「面倒事は御免だというふうにも聞こえたな」


 意地悪そうに笑うリップは、ソフトクリームに再び意識を向けた。しばらく和泉に話しかけることはないし、話に参加するつもりもなさそうだ。

 だが、なるほど。これで茶恋寺がどうして協会に誘ったのかの理由がわかった。要するに彼は、同じ協会中に強い仲間が欲しかったのだ。おそらくは何らかの目的のために。


「この協会、思想如何によっては所属を変えないとな」

「んん」


 和泉の提案は、できることにはできるらしい。リップは賛同の意を適当に示して見せる。

 たとえばこの協会(クラン)の目的が軍事力増強などの理由だったとしたら、それが善か悪かは置くとして、居心地は良くない。

 もっと平和な目的のために、自分のブラッドは使ってほしいものだ。

 窓外の景色をぼんやり眺めながらリップの食事が終わるのを待っていると、リップが不満気な声を上げた。視線を戻すと、ぎょっとする。

 自分たちの席の傍に、いつの間にやら少女が立っていた。

 肌が白磁細工のような、人間味を犠牲にした綺麗な白色で、瞳は葡萄のような深い紫色。髪の色は燃え尽きたような灰褐色。服は黒と白のゴシックロリータ。歳は和泉と同じか、それ以下だろうか。少なくとも小学生だろう。

 腕には、どこかの童女向けアニメに出てきそうな丸いフォルムの白いぬいぐるみを抱いていた。

 その少女は腹を適度に空かせて弱った猫のような目付きで、リップのソフトクリームをじーっと見つめている。リップは警戒し、ソフトクリームを少女の目線から庇うように身をよじらせる。


「なんだよ。あっち行けよ」

「欲しい」

「あん?」

「それ、欲しい」


 少女の声は、鈴の音のように儚く食堂に響く。しかし内容は、リップにとってとても受け入れがたいものだったようで、彼女はふんと鼻を鳴らすと――

 ごしゃばりばりごくん! と品性の欠片もない音を出して、ソフトクリームを一気食いしてしまった。


「お、大人気ない……せめてダメな理由を並べ立ててから食いなよ五世紀」

「今は小学生だ」


 誇らしげに笑うリップは、急激に冷やされ、鋭い痛みが走るこめかみを押えている。実に様にならない。確かに精神年齢は小学生以下だった。

 さて、リップの厳然な拒否を受けた少女の方はというと――


「……ソフトクリーム……」


 ぬいぐるみに顔を埋め、目に見えて落ち込んでいた。更に弱った目付きになっている。

 可哀想になった和泉は、彼女に新しく奢ろうかと考えて――


「……ッ!」


 うなじに走る、ピリリとした直感に身を強張らせる。リップは少女からそっぽを向いているので気づいていないが、異常は少女の瞳の奥にあった。きっともう数秒、彼女のことを観察していればリップは悲鳴を上げていただろう。

 純粋な、しかし確かな殺気が少女の瞳の奥にわだかまっていた。スイッチは『ソフトクリームを譲ってもらえなかったから』という非常に些細なものであるにも関わらず、親を目の前で殺されたとでもいうような巨大な憎悪が見え隠れしている。


 ――まずい。この女、普通じゃない。なにが普通じゃないかはわからないがとにかく異常だ!


 アトランタを目の前にしたときと種類は同じだが、脅威度はこちらの方が段違いに高い。

 彼女の白磁細工の手が、ゆっくりとリップの首に向かって伸びていく。和泉は思わず立ち上がり、その手を掴みたい衝動にかられるが、恐怖に全身を絡め取られて身じろぎ一つできない。

 まるでその手に触れた途端、命の糸がプツンと切れて、一瞬で事切れてしまうような思いが沸き起こる。自称不老不死のリップとて例外ではない。

 しかしどうしても悲鳴が上げられない。少女のオーラを浴びているだけで、全身の筋肉が掌握されてしまったかのようだ。脳の中で必死に束縛にもがいているその内にも、リップの方に手は伸びて行き――


「メード!」


 名前――か?――を呼ばれた少女の挙動がピタリと止まり、殺気と憎悪が掻き消える。少女とリップが声のした方を向くと、そこには茶恋寺がいた。朝会ったときより、少し服が破けたり、汚れたりしている。

 メードと呼ばれた少女は首を傾げた。


「どうかした……?」

「今日は対抗戦だろ。忘れたか?」

「……忘れてた」

「……ああそう」

「でも思い出した」

「たった今俺が言ったからな!」


 茶恋寺に怒鳴られたメードは、ぎゅうとぬいぐるみを絞めつける力を強める。


「茶恋寺、怖い」

「なに言ってやがる。その気になれば、この協会にいる連中を皆殺しにできるくせによ」

「……へ?」


 和泉が素っ頓狂な声を上げて、茶恋寺の方を見た。

 ――冗談だろう?

 そうは言えない。束縛から解放されたばかりで、体力が回復していないからだ。茶恋寺は和泉を一瞥すると、ばつが悪そうに頭を掻く。


「行くぞ」

「……うん」


 メードを連れ、茶恋寺は消えていく。

 もしかしなくても、茶恋寺に助けられてしまった。体中から力を抜いて、椅子に全身をもたれかけさせる。今まで生きてきた中で一番の恐怖だった。安心の反動も大きい。


「っはーーー!」


 肺に溜まっていた二酸化炭素を全て吐きだす勢いで深呼吸をすると、リップがビクリと肩を震わせた。


「……どうかしたか?」

「ある意味知らない方がいいかも、ですね」

「んお?」


 二人に入れ替わるようにして、あの受付嬢が食堂に入ってきた。彼女は周りを軽く伺いながら、こちらに歩いてくる。


「いやぁ、すいません。この協会のローカルルールをまだ説明してませんでした」

「ローカルルールゥ?」


 怪訝そうに眉を動かすリップに、受付嬢は答える。ただし、今回は無表情だ。営業スマイルを消して素に戻っている。


「できるだけでいいんですが、メードちゃんに真っ向から反抗しないでください」

「……なんだそれ?」

「言いなりになれ、とは言ってないんです。ただ、彼女はちょっと危険ですから。味方としては頼もしいんですけど」

「なんだよ。アイツの親、権力者かお金持ちかなのか?」

「あの子自体が危険なんですよ」


 リップの目に浮かぶ疑問符が、どんどん多くなっていく中、受付嬢は二人が消えて行った方を見て呟く。


「メード・インヘブン。この星術師協会、最年少の星術師にして、最強の星術師。彼女に目を付けられて、無事で済んだ者は誰一人としていません」

「随分とふざけた名前だな」

「私のネーミングセンスにケチ付ける気ですか?」

「付けたのお前かよ!」


 リップと受付嬢のやり取りを、横眼で見ている和泉は思う。

 ――心底どうでもいい。

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