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十一枚目 世界はそれを愛と呼ばないんだぜ

 朝。

 どうやら雪は積もらなかったようだが、毛布にも包まず剥き出しになっている体に突き刺さる冷気は情け容赦のないものだった。

 気が付けば、書斎の天窓から日の光が差し込んできている。和泉は何故自分は書斎で眠ったのだろうと考え、すぐ自分の大失敗に気付き、椅子から飛び降りて回りを見る。

 体の節々が痛むがそれどころではない。和泉は、自分ではない自分の家で眠ってしまっていたのだ。もう一人の和泉が、寝ている内に何食わぬ顔で帰ってきたら面倒な事態になる。

 もしかしたら既に、この家にいたのかもしれない。和泉が夕ご飯を食べている最中、少し早目の就寝を取っていたのだとしたら。

 スリープ状態のパソコンを叩き起こし、時間を確かめる。

 午前九時。学校に行っても余裕で遅刻の時間帯だが、こんな世界でまともな精神状態を保ったまま学校に行けるはずもない。保てたとしても、この世界の和泉との鉢合わせだけは御免こうむる。


「……この世界の和泉はどうしてるんだろう」


 普通に考えれば、きっと学校に行ったのだろう。書斎に籠っていたのが功を制したのか、誰も和泉のことを認識しないまま出て行ったようだ。家からはあらゆる気配が消えている。

 行動を開始するときが来たようだ。さて、まず最初に何をしてやろうかと考えたところで――


「キャップテーーーン!」


 破顔したリップが書斎のドアを勢いよく開け放ち、和泉に抱き着いた。最早彼女の定位置は和泉の直近になりつつある。人魚はどことなく冷たいイメージがあるが、布越しに伝わる彼女の体温は人のそれだ。じんわりと熱が広がる。


「……ん?」


 熱と一緒に、何か湿っぽいものも伝わってきた。一度リップをやんわりと振りほどき、自分の服を見る。リップのくっ付いていた部分が赤く染まっていた。リップの黒衣から転写されるように、くっきりと。ほんのりと鉄の匂いがする。


「臭い。何これ?」

「あ、すまない。ついさっき怪しい男を撃退したことを忘れていたぞ。失敗失敗」

「怪しい男?」

「あれ」


 とリップが指さす先は書斎の入口。

 そこにいるのは顔をボコボコにされ、鼻血を吹き出し、白目を剥いて気絶する強面の男だった。スーツを着ていて、歳は見た目からすると大体五十代かそこらだろうか。


「うわうわ、うわうわうわうわうわ、うわわわわわわわ……」


 和泉は起きて早々頭を抱えるハメになった。リップは相変わらずニコニコしていて、和泉の褒辞を今か今かと待っている。

 だが和泉はリップを褒め称えはしない。というかむしろ怒鳴り散らしたかった。だが、善意でそれをやったリップを叱りつけるのは憚られる。辛うじて、口を回せるだけの冷静さを取り戻した和泉は、その強面の人物に向かって悲鳴を上げる。


「父さあああああああんっ!」


 家中に響き渡るその声を聞いたリップは笑顔のまま固まり、やがて表情を動かすことなくドッと汗を吹き出す。ゆっくりと強面の人物の方へと向き直り、一定の体勢を整えた彼女は鮮やかに土下座した。


「申し訳ありませんでしたあああああああああああ!」


 かくして猫宮家の朝は、血臭漂う中、悲劇によって幕を開けたのだった。


◆◆


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい許してくださいだからどうか契約解除だけはやめてください本当に何でもしますからすみませんアイムソーリーごめんなさい……」


 リップには『謝罪の言葉千連発』の罰を与えることにして、和泉と父親は書斎の中でゆっくり話し合うことにした。

 本棚にかかる階段状の梯子に腰かける和泉は、その梯子の元で土下座の姿勢のまま罰を遂行するリップに一瞥もくれず、モダン机に備え付けられた椅子に座る父親をずっと見ている。

 既に消毒と包帯による患部圧迫は済んでおり、父親は腕を組みながら唸っていた。


「まさかお前が星術師になるとはなぁ……」

「反対だった?」

「いやまあ反対とは言えないが。だけどお前、進路がかなり限定されることになるぞ?」


 いきなり話が現実味と渋味を帯び始めた。どうやら星術師になることは、いいことばかりではないらしい。


「どういうこと?」

「物騒な連中が多いからなぁ。履歴書に『星術師』って書くと拒否感を示す企業も結構多いんだよ。前科持ちと似たような扱いを受けることも間々ある」

「そこまで酷いの!?」

「あくまでも一つの側面だけどな。星術師ってだけで手放しに喜んで、すぐに雇い入れるところもあるっちゃあるんだが……うん。その。何だ……あの……」


 その歯切れの悪さで十分わかった。おそらくロクな企業がないのだろう。もしくは『企業なんて言葉で表せないような場所』が大半なのだ。

 早め早めにこの世界を出たいと切に願い、和泉は眉間に手を当てた。


「ごめんなさいごめんなさいヤーヴィナヴァートごめんなさい……よし終わり! これで千回!」


 リップは土下座の状態から立ち上がり、父親に向き直って腰を九十度曲げ、再び謝罪した。


「キャプテンの御尊父とは露知らず、とんだご無礼を働いたことをお許しください」

「ん。いや、いいよ。そうやって謝ってくれれば、ちゃんと許す」

「でも……!」


 曲げた腰を上げ、父親を見るリップのその眼には憐憫の涙が溜まっていた。


「私のせいで……私のパンチのせいでお父様の顔が、泣く子もショック死する程の強面に!」

「こいつ俺をバカにしてんの?」

「素だよ! 恐ろしいことに!」


 リップの本性のことがわかってきてしまった和泉は、蹲って塞ぎ込んでしまいたかった。

 この女、余計なことしかしない。

 ただ、確かに猫宮父の顔は擁護のしようがない程の恐ろしいものなのは事実だ。顔には刀傷。あごには無精髭。瞼は一重。顔は全体的に角ばっており、まるで鬼の面のそれのよう。

 この遺伝子を丸ごと踏み砕いて陸美と和泉が産まれ出てきたあたり、母親の遺伝子はとても強く有能なものだったと言わざるを得ない。

 強面のことを気にしている父親は、ぶつくさ言いながら目を泳がせ、パソコンの時計を見てとあることを思い出す。


「お前、学校は?」

「あっ」


 和泉はしまった、というふうに反応を返してしまう。

 流石に、親として年季の入った観察眼は違う。その眼はギラリと鋭くなり、途端に声色も重く低いものとなる。


「おい……まさかサボるつもりか?」

「あー……いや、そのー。なんと言いますかー……」


 上手い言い訳が思いつかない。当たり前だ。何故なら、この父親は、親であると同時に凄腕の刑事でもあるのだから。

 子供と容疑者とで、その力の発露のベクトルは違うものになるだろうが、真実と真意を暴き出すことにかけて彼の右に出る者はいない。


「あのな。お前、小学校生活がもう少しで終わることぐらいはわかるよな? 友達と思い出を作れるのもこれで最後かもしれないんだぞ?」

「むぅ」


 その通りだ。

 だが、その友達はここにはいない。むしろ学校に行けば、その友達と再会するチャンスすら逃すかもしれないのだ。

 時間が惜しい。何としてでも、小学校卒業までに帰りたい。

 父親は和泉の眼の中の、悲しい決意の色を認識すると怪訝な顔になり、できるだけ優しい声色で問いかける。


「……和泉。何かあったか?」

「あったよ」


 梯子から飛び降り、リップの傍らに立つ。リップはすぐ傍に和泉が来ると磁石のようにくっつき、見せつけるように父親の方を見つめ、笑いかけた。

 和泉は引きはがすのも億劫がり、頭を掻きながら父親に答える。


「……見ての通り、何もないとは言い難いよね」

「おおう……」


 顔面を引き攣らせ、和泉に応える父親の声が震える。和泉自身こんな方法で黙らせたくはない。かなり不本意だ。

 しかし和泉のその回答が、どうやら『女の子の相手をしているから忙しい』という意味ではないことが父親に伝わる。やむにやまれぬ事情があるのだと。


「卒業までにやることがあるんだ。だから学校には行けない」

「そうか……」


 和泉の父親はそれきり沈黙して、和泉と顔を合わせなくなった。

 理解してくれたわけではない。和泉に何らかの事情があるのだということを、理屈でわかっただけだ。これ以上、話を続けても不毛だと悟り、和泉はリップと共に外へ繰り出そうと書斎のドアに手をかける。


「あ、着替えてから行けよ。職質かけられるから」

「んっ!」


 自分たちの服が血塗れだったことを思い出し、二人は行先を変更する。まずは和泉の部屋の中へ。


◆◆


「ようっし! お着替え終わり!」


 和泉の服に身を包むリップは、一度くるりと回って着心地を確かめる。胸のあたりに違和感を感じたらしく、下に目を落として両手で胸を覆う。


「……キャプテン。絆創膏とかあるか?」

「え? 探せばリビングにあると思うけど、なんで?」

「乳首が――」

「やっぱいい! 言わなくていい! 無神経に訊いた僕が悪かった!」


 昭和二十年代前半、初潮の起こる平均年齢は十四歳だったらしい。

 だが近年、栄養状態が改善されてきたため、現在の初潮が起こる平均年齢は十二歳あたりに下がったのだそうだ。

 つまり最近の十二歳の少年少女は、昭和二十年代の十四歳の少年少女と同じ肉体年齢を持つということになる。よく見れば僅かではあるものの、この年代になると女性と男性とで体格が段々と変わってくる。

 一緒の部屋で着替えたのは失敗だったと和泉は痛感することになってしまった。よりにもよってこの小物少女相手に。

 学校からの帰り道、道に捨ててあったエロ本を悪友たちと見たときと同じような動悸を覚え、自分の不覚さにただただ悔しさがこみ上げてくる。


「変態じゃない……僕は変態じゃないんだ……」

「どうかしたか?」

「ううん、何でもない」

「そうか。ところでキャプテン」


 リップは脱いだ黒の魔女服を摘み上げ、思案気な表情を作った。


「ここら辺でクリーニング屋ってあるか? 水星の極寒水中都市原産の水星カシミアヤギから作った超高級品だから洗濯機では洗えないんだ」

「よくわからないけど腹立つなぁ」


 ――カシミアって確かインドの地名じゃなかったっけ?

 とにかく胡散臭いが、しかしあの黒衣は事実、とても触り心地のいいものだったので、安物ではないことは真実なのだろう。

 クリーニング店でなければ血の汚れもきっと落とせない。


「お父さんに頼んで、クリーニング代出してもらってもいいけど。まず間違いなくクリーニング屋さんに悲鳴を上げられるよね」

「なにか恐ろしい犯罪の片棒を担がされているのではないかと疑われること必至だな」

「……まあ何もかも、お父さんの顔が怖かったのが悪いんだ。僕たちが気にすることはないさ」


 酷いことをさらりと言ってのける和泉に、リップは曖昧な笑みを返すばかりだった。


◆◆


 マフラーを首に巻き、手袋をはめ、小さい体をぶくぶくと大きく着膨れさせるほどの厚着になった和泉は、リップに先導させてある場所に向かっていた。

 昨日、この世界の姉に会ってなければ行っていたはずの星術師協会だ。

 後ろの和泉の方へ頻繁に振り向くリップの顔には、楽しみだと大々的に書かれてある。リップが駆け足で和泉との距離を開けては、遅れている和泉をはやくはやくと急き立てる。

 そんなことを数度繰り返した末、たどり着いたのは、天を摩る巨大な楼閣。周囲のビルを悠々と超す、超高層ビル。


「……都庁だよ?」


 和泉のいた世界では東京都庁と呼ばれている場所だった。

 もっと限定して言うならば東京都庁舎。角ばり出っ張りしながら大きく伸びる大樹のごとき威容。ポストモダン設計の巨躯に映える灰色と、無数に存在する窓が反射する太陽光は、和泉にとっては見慣れたものだ。


「都庁だな。それが?」

「なんで都庁?」

「都庁じゃダメか?」

「いやダメってことはないけどさ……」


 都市計画などの行政に関わる事務を多く引き受ける東京都庁。この世界において、星術師の運動が行政に関わるようなものであるならば、別段ここに星術師協会があることはおかしくも何ともない。

 和泉の世界の東京都庁には政治家から教職員まで幅広い人材がここに通っていた。世界が変わった以上は、もっと大量の人材を要していても自然だろう。


「さっさと行くぞ?」

「うん」


 リップが引き続き先導。和泉はポケットに手を入れながら中へと入る。

 入った途端、違和感を覚えた。五感のどこで感じ取ったのか、と問われれば和泉は首を傾げるだろう。だが確かに感じたのだ。最も顕著なのは嗅覚に訴える、微かな獣の臭い。


「……そうか。なるほど。確かに星術師の協会があるのは本当みたいだ」


 獣。人ならざる者、星駒(サテロイド)

 人の形を保っているリップですら、体に鼻を埋めると潮の匂いを感じる。元々獣や魚などに近い生態の星駒が大量にいれば、この空気も納得というものだった。

 カラーリングも若干、どこがとは言えないがおかしい気がする。全体的に色が淡く、和泉の知っている都庁よりも明るかった。

 感心し、観察しながら歩いていると、リップの姿を見失う。

 広いことには広いのだが、視界はその分開けていたため、探すと五秒ほどで見つかった。

 北棟、展望台行きのエレベーターで警備員と話し込んでいたリップは、何事かの商談を纏めるような口調だ。警備員は首を横に振り、リップは困ったように周りに目を向ける。

 和泉の姿を視界に入れると、ほっとしたような顔をした後に手を大きく振り始めた。周囲から微笑ましいものを見るようなクスクス笑いが漏れてきて、恥ずかしくなった和泉は小走りでリップに近寄る。


「キャプテン! こっちこっち! 基本人類(ゼオセントロイド)星駒(サテロイド)とで一緒じゃないと星術師協会入れてくれないんだってさ!」

「先に行くつもりだったのかい?」

「まさか。一緒に付いてきてたと思ってたら、キャプテンの方が消えてたんじゃないか」

「ごめん」


 素直に謝っておく。リップは特に気にしたふうでもない。警備員に再び向き直る。

 警備員は、二人の少年少女を訝しげに眺めた。


「……学校は?」

「休校なんです。創立記念日で」


 あらかじめ用意しておいた嘘を、和泉はすらりと答えた。

 警備員は『へぇ』と一言漏らしただけで、それ以上追及しない。二人をエレベーターの入口まで通してくれる。

 エレベーターの待ち時間の間、警備員も暇だったのか、気安く二人に話しかけてきた。


「キミたち、いくつ?」

「僕は十二歳の小学六年生です。こっちは五世紀」

「へぇ~」


 エレベーターが一階にまで降りてきて、ドアを大きく開ける。和泉とリップは乗り込んだ。

 ドアが閉まる寸前、警備員の呟きが聞こえる。


「最年少より一歳年上か」

「……なんだって?」


 訊きかえすころにはもうエレベーターは上昇を始めていた。

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