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十枚目 ワールドギャップ

 家の中も、やはり大幅に差異が認められるものの、面影だけは残っていた。不思議なもので、一度この場所を自分の家だと認識すると、どれだけ目を凝らしても自分の家にしか見えなくなる。

 まるで騙し絵の登場人物になった気分だった。

 ただ一つ、どうしても拭い去れない違和感の塊が目の前にいることに目を瞑れば、自分が異世界に来ていることなど忘れてしまいそうだった。


「……ねぇねぇ。いつ料理をするようになったの?」


 台所で包丁を華麗に扱い、鍋の火加減を調節し、エプロンで手を拭う女性は、恐ろしいことに『行動以外の全て』が猫宮陸美そのものだった。

 容姿はもちろん、匂い、雰囲気、動き方と声のトーンに喋り方。見慣れたものが多すぎて束の間の安心感を覚える。

 だが、その安心感はすぐに違和感の化け物に丸飲みされた。姉は包丁など、この世に誕生してからまともに握ったことすらないのだ。朝ごはんの担当は基本的に弟の和泉頼みだし、夜ご飯は父親の作り置き。昼食は固形栄養食品ひと箱と、何とも灰色な食生活に文句ひとつ言わずに生きてきた。

 はずだ。はずなのに。いや、そうでなければありえないのに。

 姉であって姉ではない不可思議な生命体は和泉の方を振り向き、不思議そうに首を傾けた。


「いつって……えーと、そうね。確か一年前、中学一年のときだったかしら?」

「一年前……」

「父の日に父さんに料理を作ってあげようって思って、そこから。だと思う。多分?」


 このアンニュイな語り口調。聞いてるだけで眠くなってくるようなトロい声。

 目を瞑れば、それが自分の姉だと断言できるのだろう。だが、制服の上にエプロンを着て、オタマで鍋の中身を掬うその姿は姉のものではない。姉のものであっていいはずがない。

 和泉はこの生物のことが心底恐ろしくてたまらなかった。テーブルに肘をつき、頭を抱えて神に懇願する。


「ヒイイイイイイイ……許してぇ……もう僕をお家に帰してぇ……元の最強銀河究極ダメなねぇねぇを返してぇ……!」

「可哀想な和泉ちゃん。そんなに震えて……外がそんなに寒かったんだね。はい!」

「!」


 陸美は、和風な容器によそった肉じゃがと味噌汁とご飯をテーブルに人数分並べ立てると、和泉にかけより、その体を抱き寄せた。ふわりとした、姉の体温と匂いを感じる。


「鍵をなくしちゃったんでしょ? でももう大丈夫。ねぇねぇが付いてるから! 人間湯たんぽー」

「……」


 温かい。

 姉もどきの体温もそうだが、心遣いも。

 ポカポカと春の陽気のような笑顔を浮かべる彼女は、まるで慈母のようだ。皮肉なことに、この出来事が決定打となって、和泉はこの姉もどきと自分の本当の姉を完全に区別できるようになった。


「ニセねぇねぇ……」

「ニセ!?」


 ニセだ。何故なら和泉の本当の姉は、和泉に甘えることはあっても和泉を甘えさせようという発想には絶対に至らないからだ。

 似ているが、徹頭徹尾完全に別物。そう心の底から思うことができれば、何ら恐ろしいことはない。


「ありがとう。完璧に吹っ切ることができたよ」

「え? うん? よくわからないけどよかったねぇ」


 よくわからないなりに笑みを返し、陸美は和泉から離れた。

 どうやらこのニセ姉はイジメを受けていないようだ。両目が健在な上に、外に対しての恐怖感もない。

 更に――


「ねぇねぇ。大丈夫? さっきの通り魔から襲われたときに怪我はしてない?」


 先ほど和泉の傍を走り去った影の一つ、通り魔。それを自力で撃退し、あまつさえあらゆる証拠を隠滅して退散する胆力を持っていた。これならイジメを受けたとしても返り討ちにできるだろう。

 和泉の至極真っ当な心配を受けたニセ姉は、最初その意味がわからないように茫然としていた。だがやがて、意味を理解した途端に顔を朱に染める。


「え? ええっ? なに? なになに、どうしたの和泉ちゃん?」

「ん?」

「だっていつもの和泉ちゃんなら、もっと冷たく私をあしらうんだもの! 気安く抱き着こうものならドライバーで鼓膜を破られても文句は言えないってくらい!」

「この世界の僕最悪すぎるーーー!」


 冗談だろうか?

 ドライバーで鼓膜を破る話に関しては冗談だろう。だが、姉を冷たくあしらうという部分はきっと真実だ。不信感を与えないために、すぐに取り繕うことにする。


「え、いや、僕だって……ねぇねぇを心配するときもあるん、だぜ~?」

「だぜ?」


 傷口を広げただけだった。失意に両目を覆い隠したくなる。


「もう放っておいてくれよ。今日は色々ありすぎて疲れた……」

「うん。それはいいよ。速めにお風呂入って、歯を磨いておやすみなさい。でもちょっと、これだけは確認しておきたいかなぁ」

「……」


 何のことだ、とは口が裂けても言えない。彼女が興味を示しているのが何かなんて、考えるまでもなかった。


「はぐ?」


 肉じゃがを頬張りながら、猫宮姉弟に向き直るのはリップだ。陸美は当たり前のように三人分の料理をよそっており、リップはそれを『いただきます』の号令もかけない内に貪っていた。

 陸美の困ったような笑顔を受けながらも食事の手を休めていない。


「……この子、誰?」

「あー……僕のデッキハート、かなぁ?」


 世間一般で星術師がどういう扱いを受けているのかはよくわからない。

 しかし、野次馬たちのあの態度が『星術師になることがそんなに悪いことではない』ということを証明してくれている。見ず知らずの和泉に拍手まで送ってみせたのだから。

 陸美は和泉の、ほぼ考え無しの適当な受け答えを聞くと、少し目を大きく開いた。リップに視線を向けて、その容姿をまじまじと見る。


「……なんでこんな可愛い子が契約してくれたの?」

「助ける手を差し伸べたら、手ごと命を食いちぎられた」


 肉じゃが中の糸コンニャクをすする和泉は半眼だ。

 自分の弱味を握られ、そしてその代り相手の弱味を握りこまされた不思議な契約のことを想うと、頭が痛くなった。状況はまんじりとも好転しないくせ、こうしなければならなかった押し付けの関係だ。正直、祝福されるのすら煩わしいし鬱陶しい。

 どういう反応を返すか、和泉にとってそれすらもどうでもいい。どっちにしろ関心を示されるだけで不快だ。陸美はしかし二人に対して


「そう」


 と一言だけ頷くと、少し暗い表情になって何も言わなくなった。

 ずきり、と和泉の胸が痛んだ。この表情を和泉は知っている。これは胸中に、マイナスの感情を溜め込んだときの表情だ。いつもの和泉ならここで姉にフォローを入れるのだが、今日は本当に疲れている上、相手は自分の本当の姉ではない。無視をするのが得策にして最上策だ。


「……ぬ」


 しかし、いくら目の前にいる人物が自分の本当の姉ではないとは言え、しこりが残る。肉じゃがの味が一気に色あせた。

 ――ええい無視だ無視。無視無視無視。断固として無視。

 葛藤を表に出さないようにもくもくと食事を済まし、食器を台所に置いて、さっさと寝てしまおうとそそくさ行動に移す。

 そんな一連の流れの中、視界の端から姉を追い出すことがついにできなかった和泉は、リビングから出ようとしたところで立ち止まった。


「ねぇねぇ。なんか言いたいことがあったら聞くよ」


 え、と声が上がる。陸美はまだ食事を終わらせてはいなかった。

 ばつが悪そうにうなじを掻き、和泉は後ろにいる姉の気配を意識して続ける。


「……その、なんだ。兄弟は他人の始まりって言うけど、僕たちはまだ姉弟だろ? だから」


 本当の姉弟ではないけど。その言葉を飲み込んだ上で、恥ずかしさに体温を上げながら言い切った。


「あんまり抱え込まないでくれよ」


 この世界では、まだ手遅れじゃないのだから。


◆◆


 和泉が傍目でも照れ隠しだとわかる早歩きで去った後、陸美はしばし、リビングの出入り口を眺めていた。その間、弟がなんと言ったのかを頭の中で何度もリフレインする。


「……一体どうしちゃったのかしら?」


 この呟きには二重の意味がある。

 一つは、昨日まで冷え切っていた姉弟間の関係を感じさせないような優しさを、何の前触れもなく和泉が発揮しはじめたことについて。

 二つ目は、自分の顔にどんどん熱が籠っていくことについてだ。両手を当ててみると、その熱さは一入(ひとしお)伝わってくる。

 自分よりも遥かに頭の良かった弟。羨望をいくら露わにしても、軽蔑の眼差しをくれるだけで姉弟間のやり取りは終わり、それ以上は一向に絆の進展はなかった。それでも弟は自慢の弟だったし、これからもそれでいいと思っていた。

 だが――


「……やっ、やだ」


 いくらなんでも思考回路が飛びすぎだと自覚しつつも、何故か顔の熱は収まらない。

 頬が緩むのを止められそうにない。

 陸美は弟であって弟ではないその少年に、弟だと誤認したままときめいていた。


「顔真っ赤」

「ひゃあ!?」


 黒衣の魔法少女に指摘され、陸美は椅子に座ったまま数センチ飛び上がる。

 この少女がいることをすっかり忘れていた。顔の熱を振り払い、頬の緩みを急いで整える陸美は、何事もなかったかのように少女に向き直る。


「……おかわり、いる?」

「んん」


 今日の肉じゃがと味噌汁は自信作だった。それを口いっぱいに含みながら、少女はご飯茶碗を陸美に差し出す。


「ふふ。可愛い」

「んん?」


 口をもごもご動かす少女を観察しながら、陸美は正気を取り戻していく。


◆◆

「……マジか」


 和泉がいるのは、父親の書斎だった。下手に荒らしたりしなければ、自由に出入りしても構わないその部屋には、モダンデザインの机が設置してある。

 その上に鎮座しているノートパソコンを叩き、和泉は苦い顔をしていた。前の世界の一部の界隈でほぼヒーロー同然だった猫宮和泉の経歴を調べていたのだ。

 だが、彼自身の名前でいくら検索をかけてみても、その全てが空振りに終わる。

 この世界の和泉は、何の華々しい経歴も飾ってはいないようだ。

 自分の居場所がなくなったことを再び突き付けられたようで気が滅入ってしまう。和泉は椅子の上で膝を抱き、寒さを耐えるように蹲った。


「……ねぇねぇ……父さん……会いたいよ……」


 やがて部屋の中には、和泉の嗚咽が響き始める。暖房の効いていない空間の中、その声が反響し、自分の耳に返ってきて、みじめな気分にさせられる。

 ひとしきり泣いた後、和泉は気絶するように急に意識を手放して、座った姿勢のまま睡眠に入ってしまった。

 数時間の時が経ち、誰かが書斎に恐る恐る入ってくる。その誰かは和泉の姿を認めると、嬉々として、しかし静かに和泉の傍に近寄る。


「……ふふふっ。本当に運命の神様ってのは粋なことをしてくれるな」


 涙の跡も隠さずに、安らかな寝息を立てる主人の顔を、リップは笑みを浮かべながら見ていた。やっとのこと手に入れた大粒のダイヤを、愛おしげに眺めるように。


「マイキャプテン。私はあなたのためなら、本当に何でもするつもりだぞ。だが許せ。その代り、私の願いも叶えてもらう」


 涙を手の平で拭い、手に付いたそれをゆっくり舐め上げ、リップは尚も答えの返ってこない独白を続けた。


「私はキャプテンの全てを愛す。骨の髄や、髪の毛先に至るまで。その身に宿る寄生虫までも愛してやろう。この身の全てを代価にして、あなたを愛し尽くすことをここに誓おう。だから――」


 膝を抱え込むその手の平に、リップは自分の手を重ねる。


「あなたの愛を、泡一つ分でもいいから私によこしてくれ」


 それは契約の裏に隠された、リップの思惑。

 前の自分の主人、牡丹の仇を討ってくれという――純然たるエゴから来る身勝手な願いだった。

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