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序章

 夜の街と昼の街とでは匂いが違う。

 濡れそぼった地面が、ゆっくり熱を放射させる匂いは、おそらく朝と夜の狭間にしか嗅ぐことができないだろう。空気中の水分が集結し、霧を生成していく過程を、その少女は特等席で眺めていた。

 この世に存在し、熱を有する物は全て電磁波を放っており、少しずつそれを外界に放出している。母なる大地とて例外ではない。特に、このような寒く晴れた日には、放射冷却という自然現象が起こりやすい。曇っていれば放射される熱、電磁波を雲が再び大地に投げ返すため、そこまで冷えはしない。だが、空に何もなければ電磁波はひたすら宇宙空間へと逃げていくだけだ。

 地面に仰向けになって寝そべり、段々と霧がかかって霞んでいく星空を見ている少女は、地面と一体になって同じく空に熱を奪われていた。

 震えはもう起こらない。寒さも感じない。自分の体がどうなっているかの確認すらできない。おそらく五体満足ではあるし、凍傷の一つも起こってはいないだろう。細かい擦り傷切り傷を除外すれば、無傷と言っていい。

 だが少女の命の灯は、明滅を繰り返しながらゆっくりと消失へ向かっている。何故生きているのか、少女自身が不思議に思う程に、彼女は死にかけていた。少し目を細めれば、モザイクが薄くなるような感覚で彼岸が見えてきそうだ。


「……負けちゃったよ。リップ」


 傍らに膝を付き、嘆きの涙を静かに流している相棒に語りかける。「うん」という声が返ってきて、その声が今にも崩壊しそうに震えた涙声だったものだから吹き出してしまう。

 不可思議だった。シチュエーションも湿度も空の色すらも、全てが悲劇的なのに気分は晴れわたっている。


「ごめんねぇ。もうちょいあなたたちと一緒にいたかったんだけど……全部ダメになっちゃった」

「うん」

「……全力出して戦ったから私は満足してるんだけどさ……私が死んだ後が心配だなぁ……」

「なら死ななければいいじゃん」

「無理臭いなぁ……」


 静夜に二人の少女の会話だけが溶けていく。死にかけた少女の方は、困ったような笑いを絶やそうとしなかった。道の終わりを目前にして、その声は涼やかだ。


「……リップ。最期のお願い。一度しか言えないからよく聞いてて」

「うん」

「新しい主人についたらね? 守ってあげてほしいな」

「そんなの言われるまでも……」

「言っておかないと私のこと引きずっていきそうだもの。寿命がない分、あなたたち(たが)ってものがないし」

「……」


 リップと呼ばれた少女はしばらく逡巡し、目を瞑った。静かに頷き、冷たくなった主人の手を包むように握る。


「……承りました」

「ちゃんと言うこと聞いてあげてね」

「うん」

「訊ねられない限りは、前の主人のことは話しちゃダメ。比べるのも御法度」

「うん」

「……私の復讐とかも考えたらダメだよ」


 心臓のすぐ傍を弾丸が通っていくような衝撃が、リップの全身を震わせる。思わず目を見開き、少女の方を見た。視線を受ける少女はくすりと笑う。


「……言っといてよかったぁ」

「どうしてっ! こんな屈辱を受けて、どうして黙っていなきゃいけない!」


 星空を遮るように現れたリップの顔は、涙と悲傷のせいでぐしゃぐしゃだった。できることなら拭ってあげたいが、少女の体はもう口以外はまともに動かせそうにない。そのことに、初めて少女は感傷を覚えるが、それに浸っている暇すら惜しい。


「あなたに復讐は似合わない。それだけ」

「……何だ、それ……」

「強くないとか、弱いとかそんなの関係なくってね」


 目の前が暗くなっていく。耳の傍を通る空気の音も、段々と遠ざかっていく。電源を一つずつ落としていくように、思考が閉ざされていく。少女はその中で、必死に振り絞った。


「復讐というアクセサリーは、あなたを幸せにすることはできない。むしろ不幸になっていくばかりだよ」

「……?」

「ねえリップ……あなたの魔法はね。誰かを笑顔にするためにあるの……わた、しも……たのし、かった、よ……」

「……!」


 先ほどからリップは何故口をぱくぱくさせているのだろう、と疑問に思い、答えを見つける。ただ単純に、少女の五感から聴覚が真っ先に消え失せたのだ。自分の声だけは洞穴に響くように虚しく聴こえるから、気付くのに少し遅れた。

 既に時間は十秒も残されていないのかもしれない。最期の最期に、どんな言葉を残そうか。

 次に星明りが消えていく。スポットライトが絞られるように、自分とリップを中心とした世界が闇に変わっていく。正に終幕という風情だった。

 中々気が利いている。少女は素直にそう思った。


「……――――」

「っ!」


 演出が大仰なものなら、そこまで難しいことを言う必要はない。至極当然なことを、微笑みと一緒に伝えた。これでリップの方が笑顔の手向けを放ってくれるのなら、本当に完璧だったのだが。

 贅沢は言うまいと、少女はゆっくり目を瞑る。

 寒くもなければ暑くもない。苦しくもなければ心地よくもない。何も見えなければ、何も聞こえない。もう戻ることは二度とない。少女はリップの目の前で、完全なゼロへと落ちていった。


「……我が主人(マイキャプテン)……何の気なしに言ったんだろうけど、そりゃキツイよ……」


 脈の消えた手を強く握る。もう血の気の一切が感じられない冷たい感触が、底なしの悲しみを伴って返ってくるだけだ。それでも、こうしていなければ一瞬後には全て消えてしまうようで、離せなかった。既に全て失くなっているとは認めたくなかった。 

 いつの間にか霧は、リップと少女の周囲を覆い隠す。リップの悲叫すらも闇と霧に隠されて、いつしか聴こえなくなった。


◆◆

 隣り合う二つの世界がある。

 一つは、太陽を中心に恒星が公転する地動説の世界。科学技術が発達し、肥大化し、魔法や神の類が隙間へと追いやられた宇宙。

 もう一つは、地球を中心に全てが転輪する天動説の世界。朝には空に太陽と、水星と金星が浮かぶ。夜には火星と木星と土星、それと人の手の及ばない遥か彼方より到来する星々の煌めきが見える。


 地動世界と天動世界。

 二つの世界は、基本的には交わることはなく、片方の地動世界に至ってはもう片方の世界に気付きもしていなかった。


 地動説の少年が、天動説の少女と出会うまでは。

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