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冬の友達

作者: 有瀬里希

 「わあ……」

 晴人は冷えた縁側に立ち尽くした。

 夜半から降り続いた雪で、世界が真白に染まっている。昨日初めて見たときは、ここはどこの公園だろうと思った祖父の家の広い庭は、どこもかしこもがふっくらとした雪化粧で覆われていた。

 晴人たち家族の住む静岡では滅多に雪が降らない。だからこんなにもたくさんの雪を目の前で見るのは生まれて初めてだった。

 急に目の奥が痛くなったような気がして、晴人は何度も瞬きを繰り返した。しんとした空気を引き裂くように強い光が降り注いでいる。雪が光を反射して、世界が光の中に放り込まれてしまったみたいだ。

「晴人、そんな格好をしていると風邪をひくぞ」

 振り返ると、書斎から出てくる祖父の姿が見えた。

 昨日、5年ぶりに会った祖父は背の高い老人だった。

 深い皺のよった顔に黒縁の大きな眼鏡をかけている。その奥の瞳はいつも何かを睨んでいるようだ。

 祖父が近づいてくると、深い藍色の着物からかすかに箪笥の中のような匂いがする。晴人は普段から着物を着ている男の人に初めてあった。

「どうした?」

 じっと着物の裾を見つめている晴人に、祖父は怪訝そうに尋ねた。

 晴人は黙ったまま首を横にふる。人見知りする性質の晴人は、まだ会ったばかりのこの老人が少し怖かった。

 居心地の悪い沈黙が流れ始めたとき、不意に祖父はぽつりとつぶやいた。

「お前は、いくつになった?」

「……7さい」

 たっぷりと時間をかけて晴人は答えた。

「そうか……もうそんなになるんだな」

 晴人はおずおずと祖父の皺だらけの顔を見上げる。

 目尻がわずかに下がって、皺がぐっと深くなった。ひょっとしたら笑っているのかもしれない。たったそれだけのことで、眼鏡の奥の瞳が優しくなった。

 もしかしたら、そんなに怖い人ではないのかもしれない。

「……ねえ」

「なんだ?」

「庭で、遊んでいい?」

 祖父はまぶしそうに白銀の庭に目をやった。

「もちろんだ。ただし朝ごはんを食べて、ちゃんと着替えてからにしなさい」

「うん!」

 晴人は弾かれたように台所へと駆けだした。

 小さくなっていく孫の後ろ姿を祖父はにこやかに見送る。


「お母さん!」

 声を上げながら晴人は走る。

勢い余って、晴人は曲がる角を一つ間違えた。目の前には見たことのない階段がそびえ立っている。

「あれ?」

 ここはどこだろう。

 ゆっくりと振り返る。

 目の前には同じような細い廊下が二つある。右から来たような気がするし、ひょっとしたら左だったかもしれない。

 裸足の足の裏が冷たい。

 知らない家の匂いがする。

「お母さん!」

 泣きそうな晴人の声ががらんとした廊下に響いた。

 しばらくして、とんとんとリズムよく階段を下りてくる音が聞こえてきた。晴人はびくりと上を見上げる。

「晴人? こんなところで何してるの」

 降ってきたのは聞き慣れた母親の声だった。

「おかあさん……」

「どうしたの。迷子になったの? 仕方ないわよね。この家無駄に広いんだもの」

 ぞうきんのかかったバケツ片手に母は言う。

「迷子になんか、なってない」

 ぼそぼそと弁解する晴人を見て、母は愉快そうに笑った。

「わかったわかった。それより晴人、朝ご飯は?」

 そうだ。今は朝ご飯だ。

「食べる! それから着替え!」

 そして、雪で遊びに行くんだ。

 突然元気よく答えた幼い息子に、母は驚いたように何度もまばたきをした。


「おじいちゃん」

 先ほどと同じように縁側にたたずんでいる祖父を見つけて、晴人は勢いよく駈け寄った。

「着替えてきたな」

「うん! ねえ、これで遊びに行っていい?」

 毛糸の帽子にマフラー、ふかふかした上着に着替えた晴人は目を輝かせて祖父を見上げる。その手には、新品の長靴が握られている。準備万端だ。

「ああいいぞ。わしも一緒に遊んでやれればいいんだが……」

 祖父は小さくため息をついて書斎を仰ぎ見た。

「僕一人で大丈夫だよ。それにおじいちゃの仕事の邪魔しちゃいけないんだ。おじいちゃんは大ベストセラー作家のさえきかんじだから」

 大まじめな顔で言う孫の顔を、祖父はまじまじと見つめた。そして照れたような、困ったように晴人から目をそらす。

「そんな大それたもんじゃないさ」

 晴人はじっと祖父の顔を見あげる。深い皺の刻まれた目元がほんのわずかに赤くなっている。

「だいたい、誰がそんなことを言ったんだ?」

「お父さん。お父さんはおじいちゃんの大ファンなんだって。ねえおじいちゃん、僕一人でも平気だよ。行ってきていい?」

 祖父は気を取り直すように二、三度咳払いをした。

「あ、ああ。庭の中ならどこに行ってもいいが、池には近づくなよ。氷が張っているが、いつ割れるかわからんからな」

「わかった!」

 晴人はぱっと縁側に腰掛けて長靴を履くと、雪の上に飛び降りた。そのあまりの素早さに、祖父は低い声で笑った。背中越しに響く声も晴人の耳にはまったく届かない。

 目の前に広がる真っ白な世界。足を踏み出すたび、深く足が沈み込む。

 積雪は20センチほどだろうか。

さらに前に進むと、雪の上に灰色の足跡が残った。一歩一歩雪の上に足跡を刻む。それがおもしろくてどんどん進む。そのうちに晴人は走り出した。

庭の真ん中で晴人は立ち止まった。右を向いても左を向いても真っ白だ。晴人は今、雪の真ん中に立っている。

おもむろにしゃがみこんで晴人は手袋を外した。白い雪をそっと両手ですくってみる。遠くからだと真綿のように見える雪は思ったよりも少し重くて、そして思ったとおりに冷たかった。

 じっと見つめているうちに、雪は手の上で消えた。

「つめたい」

 晴人はほうっと息をつくと、ズボンで手を拭いて手袋をはめて歩き出した。

 その時、不意に背中の方からどさりと音がした。

「うわっ」

 首に肩に何か冷たいものが触れて、晴人はびくりと身をすくませた。

 何かいる?

 機械仕掛けの人形のようなぎこちない動きで振り返った。そこにはただ背の高い松の木があるだけだ。

 首をかしげながら数歩後ずさる。

 晴人は大きく息をついた。

「なんだ……」

 犯人は木から落ちた雪だった。木から落ちた雪が地面の上にこんもりとした小山を作っている。

 雪の小山を見つめているうちにいい考えが浮かんできて、晴人は目を輝かせた。

「そうだ!」


 祖父はぼんやりと窓の外を眺めていた。

さっきからほとんど筆が進まない。書いては消して、また書いて消す。同じ作業ばかりを繰り返している。

 窓の向こうを晴人の姿がよぎった。こちらに背を向けて雪の上にうずくまって、しきりに手を動かしている。

 祖父は一つ息をついて立ち上がると、窓を開けた。冷たい風が置いた身に染みこんでくる。

 声をかける前に、気配に気づいたのか晴人はこちらを振り返った。

「おじいちゃん」

「何をしている?」

 晴人は雪の上でぺたぺたと手を動かしながら答えた。

「雪だるま、作ろうと思ったんだけど……」

 なるほど、晴人の前にあるのは小さな雪山で、雪だるまからはほど遠い。どちらかといえば小さなかまくらに見える。

 雪の少ない街で育った子供だ。雪だるまの作り方など知らないのだろう。

「始めに小さな雪玉を作るんだ。それを雪の上で転がす。そうすれば、だんだん大きくなる」

 言われた通りに雪玉を作って、晴人は歓声をあげる。

「すごい!」

 そんな些細なことで喜ぶ孫に、祖父は目を細める。五年ぶりにあった孫に、最初はどう接したものかと悩んだが、こうしているとそんな悩みは雪のように溶けてしまう。

「ありがとう。おじいちゃん!」

「どういたしまして。もし必要なものがあったら倉の中のもの好きにを使うといい」

「うん!」

 今年の春、長年連れ添った妻が死んで初めての年末を迎える今、久しぶりに娘夫婦が孫を連れて帰ってきた。

 ここ何年かは自分と妻の二人きりだった家に、娘夫婦と晴人がいる。年甲斐もなく、心の中がざわついている。ここ数ヶ月この家に一人きりだったのだ。家の中で他の誰かがいるだけで、こんなにも落ち着かない気分になるとは思わなかった。

 けれど、それは決して居心地の悪いものではない。

「あ、おじいちゃん」

 一心不乱に雪玉を作っていた晴人が、弾かれたように顔を上げた。

「どうした」

「あの……お仕事の邪魔してごめんなさい」

「邪魔だなんて思っていない。謝ることなんかないんだよ」

 祖父は晴人をなだめるようにぎこちなく微笑んだ。ここ何十年も笑おうと思って笑ったことなどついぞなかった。

「……うん。それじゃあ、お仕事がんばってね」

「ああ」

 祖父はゆっくりと窓を閉めた。

 今なら書けそうな気がする。早く原稿を上げて、晴人と遊んでやろう。そして、原稿料が出たらかわいい孫におもちゃの一つでも買ってやれる。

 気持ちを新たに、祖父は原稿に向かった。


「よし……!」

 できあがった雪だるまを見下ろして、晴人は満足そうに息をついた。

 大きさは晴人のお腹くらいまでしかない。目や鼻、口はは近くに落ちていた石で作った。手は折れた箒の柄だ。とても立派とはいえないけれど、それでも晴人が初めて作った最高の雪だるまだ。倉の中で見つけた赤いバケツと、革の手袋が様になっている。

 晴人は数歩後に下がって、ちょっと離れた所から雪だるまを眺めてみた。口がちょっと下がっていて、なんだか怒っているみたいに見える。口の所を少し直してみると、こんどこそ笑顔の雪だるまの完成だ。

 晴人はにんまりと微笑むと、雪だるまに背を向けて歩き出した。今度はもうちょっと離れて見ようと思って。

 その時、背後から晴人を呼び止める声があった。

「おい」

 びくりと振り返ると、雪だるまの前に一人の少年が立っていた。

 いつのまに?

 年は十五歳くらいだろうか。晴人から見るとずいぶんなお兄さんだ。地味な灰色のコートを襟元まで締めて着ている。目鼻立ちのはっきりした、意志の強そうな少年だ。

 晴人を見下ろすようにして少年は尋ねた。

「お前、ここの子か?」

 ここはおじいちゃんの家だから、正確には晴人の家ではない。だけど晴人のおじいちゃんの家だから、やっぱり晴人はここの子でいいのだろうか。

 ずいぶん長い間ぐるぐる考えて、結局答えが出せないまま晴人は小さな声で答えた。

「……たぶん」

 少年はいぶかしげに眉間に皺を寄せる。

「たぶんってなんだよ」

 低い声でつぶやく少年から晴人はおどおどと目をそらした。ひょっとして怒らせてしまったのだろうか。

「おいおい、そんなにおびえるな。まあ、いいや。お前、佐伯登志郎を知らないか?」

「さえき、としろう?」

「知ってるか?」

 晴人は首をかしげた。聞いたことのない名前だった。おじいちゃんの名字は『さえき』だけれど、おじいちゃんはとしろうなんて名前じゃない。

「ううん。しらない」

 少年はひどくがっかりしたように肩を落とした。また眉間に皺が刻まれている。

「そうか……」

 それきり少年は黙り込んでしまった。どうすることもできずに、晴人はただ少年の向こうの雪だるまばかり見ていた。

 少年は親指で鼻の下を拭って、何か考え込んでいる。しばらくして、少年は口を開いた。

 少年は晴人の雪だるまを指さした。

「これ、お前が作ったのか」

「そうだよ」

 少年は目を細めてにいっと笑う。

「すげえな」

 うれしくなって晴人も笑い返した。

「お前、一人なのか?」

「うん」

「お母さんやお父さんはどうした? ここの庭は危ないぞ。池もあるしな」

 少年はじっと言い含めるように晴人の目を見つめる。

 なんだかお母さんたちが悪いと言われたような気がして、晴人は弾かれたように口を開く。

「お母さんは掃除だし、お父さんは家の修理してし、おじいちゃんはお仕事があるんだ。しょうがないんだ。それに! ぼく、平気だよ。雪だってあるし……だから、お母さんたちを怒らないで……」

 必死に両親や祖父を擁護しようとする晴人に、少年はからりと笑った。

「別に怒ってなんかねえよ。そう聞こえたんなら悪かった」

 少年は晴人の方に手を伸ばした。しかし、その手は晴人に触れる寸前で止まった。

「?」

「いや、なんでもない。よし、じゃあ俺と一緒に遊ぶか?」

「いいの?」

「ああ」

 少年は急に晴人に背を向けてしゃがみ込んだ。

「どうしたの?」

 ひょっとして急にお腹でも痛くなったんだろうか。心配になって肩越しに少年の顔をのぞき込む。

 次の瞬間、大量の雪が晴人の上から降り注いだ。

 あまりの冷たさと驚きに、晴人は一瞬呼吸を忘れた。

「うわっ!」

 雪を抱えて立ち上がった少年は、人の悪い笑みを浮かべて告げる。

「雪合戦だ!」

 しばらく呆然としていた晴人もすぐに我に返って、駆けだした少年を追って走り出した。

「待ってよ!」


 祖父はどてらの前を合わせながら白い息を吐いた。

 ふと、子どもたちのはしゃぐ声を聞いたような気がして祖父は庭に目をやった。庭の裏側に出ているのか、ここからでは晴人の姿は見えない。

「晴人。昼飯ができたそうだ。お母さんが呼んでるぞ」

 精一杯の声で祖父は晴人を呼んだ。久しぶりに大声を出したせいで、唾液が喉に絡まって些かむせてしまった。なんとも情けない。

「わかった!」

 元気な声がして、晴人が駈け寄って来た。そこからほんの少し遅れるようにして、もう一人少年が走ってくる。中学生くらいだろうか。今時めずらしく、古めかしい灰色のコートを着ている。

 はて、このあたりにあんな子どもがいただろうか。

 少年はゆっくりと立ち止まった。そして縁側の上の祖父を見上げてにやりと笑った。

「お前は……」

 祖父は大きく目を見開く。

 派手な目鼻立ちの顔。意志の強そうな眉。その顔は、かつての友の若い頃に酷く似ていた。

「久しぶりだな。登志郎」

 記憶の中の友人よりもわずかに甲高い声で少年は言った。

 そんな。まさか。

「おじいちゃん?」

 晴人は不思議そうに祖父と少年を見比べている。

 少年は親指で鼻の下を拭うと、晴人の方に向き直った。そんな仕草もよく似ている。

「お前、飯食ってこいよ。俺はじいさんに話があるんだ」

「……え、うん。でも」

 自分が仲間はずれにでもされると思ったのか、晴人は少し不満そうだ。

「大丈夫だよ。飯食ってきたらまた遊ぼうぜ」

「ほんとに?」

「ああ。約束する」

 晴人はまっすぐに少年の目を見上げた。

「ぜったいだよ」

「ああ。絶対にだ」

 同じように目を見返した少年の言葉に納得したのか、晴人は長靴を脱いで縁側に上がった。

「ぜったいに、ぜったいにだからね」

 最後にそう念を押して長靴をつかむと、晴人は台所の方へを駆けていく。ぱたぱたと小さな足音だけが残った。

 少年は苦笑して、晴人の後ろ姿を見送る。 それを、祖父はただぼんやりと眺めていた。

「さてと、話を戻すか。ん? どうした登志郎」

「お前は……」

 祖父の、登志郎の喉からかすれた声が漏れる。

 かつての友によく似た少年は、唇の端を持ち上げて登志郎の言葉を待っている。

「お前は、寛二の隠し孫か何かか?」

 縁側の下で、少年は派手に転んだ振りをした。

「おいおい! 隠し孫ってなんだよ。俺だよ登志郎。俺が正真正銘の高山寛二だ」

 自称寛二はそう言ってまたにやりと笑う。

「……そんなはずはない。寛二は四十年も前に死んだ」

 登志郎の親友だった高山寛二は、四十年近く前、登山先の山で死んだ。山が好きな奴だった。考えたいことがあると言っては山に登っていた。

「だいたい、お前は子どもじゃないか……年寄り相手に悪い冗談はよしてくれ」

 寛二が死んだのは二十四歳の時だ。

「冗談ね。そうだな悪い冗談みたいな話だ。俺だって信じられないさ。自分があっさり死んじまったことも。今お前の前に化けて出てることも」

 大きく息をついて、少年は腕を組んだ。親友の名残を残した親父くさい仕草だった。

「化けて、だと」

 それなら今目の前にいるのは幽霊だとでも言うつもりだろうか。

 半眼の登志郎い自称寛二は少しむっとしたらしい。

「なんなら触ってみろ。ほら」

 突きつけるように登志郎に手を差し出す。

 馬鹿馬鹿しい。そう思いながらも登志郎は手を伸ばした。

 無意識のうちにその手はかすかに震えていた。

「なんだ、怖いのか」

 妙に楽しそうに少年は笑う。

「そんなわけないだろう!」

 やけくそ気味に伸ばした登志郎の手は、少年の白い手をすり抜けてむなしく空をかいた。

「どうだ。これで信じる気になったか」

 登志郎は中途半端に手を伸ばしたまま動けなくなる。

「おい、登志郎?」

 少年は登志郎の顔をのぞき込むように背伸びをする。

 ぼんやりと宙空をみつめながら、登志郎はつぶやいた。

「……わしはもう駄目かもしれん」

「おいどうした」

 登志郎は目を閉じて頭を抱えた。

「幻覚が見える」

 目は閉じても声は聞こえてくる。それとも、これは登志郎の罪の意識が見せている悪い夢なのかもしれない。

「幻覚って俺のことか?」

「しかもその幻覚がしゃべっておる」

 悪い幻を振り払うように登志郎は何度も頭を振った。血圧が上がっているのか、かるい目眩がする。

「お前は、相変わらず頭が固いな。それで良く小説家なんかが勤まるもんだ」

 どれだけ頭を振っても目の前の幻覚は消えなかった。

「ほっといてくれ」

 力なく登志郎は吐き捨てる。

 少年はふっと目を細めた。

「年は取ってもあいかわらずだな」

「何がだ」

 ゆっくりと登志郎は顔を上げた。

「なにかあるとすぐに『ほっといてくれ』だ。変わってないな、登志郎」

 懐かしむような少年の顔に、親友の姿が重なった。

「寛二が、いつだって考えろ考えろとうるさいからだろうが」

 何事も直感で決めがちな登志郎とは違い、寛二は考えるのが好きな奴だった。一つのことを決めるために山に登って三日も思索にふけったりする。考えて考えて考えたことは間違いようがないというのが持論だった。

 そして時々、その考え方を登志郎に押しつけてくるのだ。

「懐かしいなあ。あの頃はお前も、俺も若かったなあ」

 どう見ても十四、五の少年がそんなことを言うのはなんだか妙だ。しかしその言葉は年を経たもののように、妙な重みを持っていた。

「……お前は、本当に寛二なのか?」

 意を決して登志郎は尋ねた。

「そうだ。やっとわかったか登志郎」

 寛二は登志郎を見上げて、懐かしい笑顔でにやりと笑った。

「……それにしても、お前なんでそんなに若いんだ」

「雪だるまから出てきたんだ。おっさんだと問題があるだろう」

 至極真剣な顔で寛二は答える。

「そういう、ものなのか?」

「さあな。俺がなんとなくそう考えただけだが」

「そうか……」 

 奇妙な感慨に襲われて、登志郎は言葉を繋ぐことができなかった。四十年前、何も言わずに突如として登志郎の隣から消えてしまった友が、目の前にいる。

「たぶん、そんなに時間はないんだ。だからさっさと用件を言わせてもらう」

 寛二は少し神妙な顔になった。

「用件とは、なんだ」

 登志郎は寛二から目をそらして、押し殺した声で尋ねた。

「伸恵さんのことだ」

「俺に恨み言でも言いに来たのか」

 登志郎は汗ばんだ手のひらをきつく握りしめる。皺の浮いた指にかすかに爪が食い込んだ。痛みは感じなかった。

 登志郎の妻だった伸恵は、元々寛二の恋人だった。

 突然の恋人の死を受け入れることができないでいる伸恵を慰めるうちにいつの間にか二人は惹かれあい、結婚した。

 どれだけ時間がたっても、どれだけ穏やかな年月を積み重ねても、親友を裏切ってしまった後ろめたさが消えることはない。

 寛二は黙って登志郎を見つめている。

 額のあたりに寛二の視線を感じながら、登志郎は断罪の時を待った。

 しばらくして、寛二は大きく息をついた。

「違う。俺はそんなことを言いに来たんじゃない。いいか登志郎。俺はお前に謝りに来たんだ」

「謝る? どうしてだ。謝らなければならんのは俺の方だ。すまん、寛二」

 登志郎は深々と頭を下げた。

「ったくお前は……人の話を聞け!」

 若干苛立った寛二の声が聞こえたと思ったら、目の前を白いものがよぎっていった。それは登志郎の顔を通り抜けて寛二の方へと戻った。感覚はないが、どうやらそれは寛二の手だったようだ。

「こういう時死んでるっていうのは不便だな。思いっきりぶん殴ってやるつもりだったんだが」

「寛二……」

 登志郎はぼんやりと寛二の顔を見下ろした。少年は怒ったような、すねたような顔をして腕を組んだ。

「俺は知ってたんだ。お前が伸恵さんに惹かれていること」

 登志郎は息をのむ。

「どういうことだ」

「お前、鈍いだろう。俺はそれが心配だった」

「だからそれはどういうことなんだ」

 話の行方がまったく見えずに、登志郎は苛々と寛二の顔をのぞき込む。

 苦いの寛二は顔でまた一つため息をついた。

「話を聞け。あの頃、お前は二十過ぎのいい大人のくせに自分の気持ちにも気づかない大馬鹿だっただろう。知っていたか? あの時、伸恵さんに親戚筋からの縁談があったこと」

「え?」

「だから、お前を焚きつけるために伸恵さんに交際を申し込んだんだ。まさか、本当に俺がつきあうことになるとは思わなかったがな」

 庭の雪が太陽の光を弾いている。鮮やか過ぎる白に、頭の中まで焼かれている気分だ。

 登志郎は混乱していた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。それじゃあ、お前は伸恵のことが好きで交際していたんじゃないと言いたいのか?」

「最初はな」

 少し微笑んで、寛二は縁側に腰掛けた。

「どういうことだ」

 いつまでも寛二を見下ろしているのもおかしな気がして、登志郎も寛二の横にに腰を下ろした。縁側はひどく冷たかった。

「初めは、それだけのつもりだった。まさか自分が本当に惚れるとは夢にも思ってなかったさ」

「寛二……」

「今更何を言っても言い訳にしかならなかったけど、俺も悩んだんだぜ。お前が伸恵さんを好きなのを知っていたからな。でも、そのせいで伸恵さんに辛い思いをさせて、お前にしかられたっけな」

 どこか遠くを見るように、寛二は目を眇める。

 寛二が死ぬ直前のことだ。

 登志郎は伸恵から寛二のことで相談を受けた。近頃寛二が冷たい。ひょっとしたら自分ではなく、他に好いた人ができたのかもしれない、と。

 登志郎は寛二を行きつけの喫茶店へと呼び出した。詰問調子の登志郎とは反対に寛二はめずらしく煮え切らない態度で、結局二人はつかみ合いのけんかになった。店主や常連客たちに引き離されて、やっと収まるくらいだった。

 その別れ際、寛二は言った。

「山に登って、きちんと考えてくる」と。

 登志郎はあえて何も言わずに踵を返した。

 心の中はまとまらない苛立ちでいっぱいだった。

 寛二の奴は一体何を考えるんだ。伸恵さんのことが好きなら好き、そうでないならきちんとそのことを告げるべきではないか。もっと伸恵さんの気持ちを大切にしてあげるべきだ。山になんか登ってなんになる。結局逃げているだけじゃないか。帰ってきたらもう一度きちんと抗議してやる。

 しかし、寛二が山から帰って来ることはなかった。

 登志郎はゆっくりと口を開く。

「それでも、俺は」

 きっかけがどうであれ、寛二が伸恵を好いていたのなら、登志郎の罪は変わらない。しかしそれ以上どう言葉を続けるべきなのか、登志郎にはわからなかった。

 呆れたように、寛二はわざとらしくため息をついた。

「これで何度目だ? 人の話は最後まで聞けよ。俺が謝りたいのはな。お前にそういう重荷を背負わせちまったことだ。あのまま伸恵さんと付き合うにしろ別れるにしっろ、俺はきちんとけじめを付けなきゃいけなかった。けど、それができないままさっさといなくなっちまった」

 登志郎は黙って寛二の顔を見つめた。その年若い顔には後悔と郷愁がにじんでいる。

「まあ、どっちにしろ全部昔のことだしな」

 ただ静かに登志郎はうなずいた。

「伸恵さんにこの話をした時も笑って聞いてくれたよ」

 思わず登志郎は腰を浮かせた。

「お前、伸恵に会ったのか」

「ああ。まあ俺も彼女も死んでるからな。そういうこともあるさ」

「そうか」

 ゆったりと笑って、寛二は遠くを見つめる。そののんびりした調子につられるように、登志郎も肩の力が抜けた。

「お前に話せてすっきりしたよ。これなら心おきなく成仏できそうだな」

「成仏するのか?」

「いや。もの例えだ。これからどうなるのか、俺にはわからん。今だって、気がついたらお前の家の庭で、雪だるまの前に立っていた。せっかくだから謝っておこうと思った。それだけだ」

「そういうもんか」

「ああ」

 登志郎は大きく息をついた。

 四十年分の胸のつかえが一気に氷解してしまった。

「寛二、お前が来てくれてよかった。これでもういつお迎えが来ても安心して逝ける」

 寛二は勢いよく立ち上がった。

「馬鹿言うなよ。お前はもっともっと長生きして、孫の成長を見守ってやれ。伸恵さんからの伝言だ『孫が結婚するまでは死んでもこっちに来ないでください』だとさ」

 登志郎は一瞬眉根を寄せた。死んでも、とはおかしな表現だ。死んでも死ぬなとは。

 しかし伸恵らしい言葉だ。ふっと登志郎は笑う。

「そういえば登志郎、伸恵さんから聞いたぞ。お前、小説家って惚れた腫れたの話ばっかり書いているそうじゃないか。世紀の大恋愛作家なんだって? 自分の気持ちにも気づかない奴がよくよやるなあ、おい」

 意地の悪い笑みを浮かべて、寛二は登志郎の顔をのぞき込んでくる。

「……それとこれは別の問題だ」

 皺の寄った頬を微かに赤くして、登志郎はうつむいた。

 登志郎の反応に満足したのか、寛二は大きくうなずくと、少しだけ神妙な顔になった。

「まあ、この年まで続いている上にそこそこ成功してるんだ。お前にはそれが天職だったんだろうな。なあ、佐伯寛二大先生?」

「おい寛二。頼むから、そういう言い方はよしてくれ。お前の名前を勝手に使ったのは謝る。悪かった」

 贖罪のつもりだった。

 寛二から伸恵を奪って、一人だけ幸せになろうとする自分を戒めるために、寛二の名前を背負った。名前が売れれば売れるほど、寛二への罪悪感は強くなる。しかし、今思えばすべては登志郎の身勝手な自己満足に過ぎない。

「別にかまわないさ。その、なんだ。何もできずに死んじまった俺の名前が残ってるみたいで、嬉しいような気もしないでもない。まあ、仕方ないからもうしばらく貸してやるよ」

「ありがとう」

「はっ、お前に素直に礼を言われるのもなんか気持ち悪いな」

 軽快に笑い飛ばして、寛二は晴れた空を見上げた。ふと、何かを考えるような表情になる。

「どうした?」

「そろそろ時間のようだ」

「また会えるのか?」

「ああ、たぶんな」

「たぶんって、ずいぶんいい加減だな」

 登志郎は渋い顔で寛二を見返す。

「仕方ないさ。先のことは誰にもわからない。考えても、山に登っても、それこそ死んだってな」

 悟りを開いた僧侶のような横顔で寛二は言う。

「そういうものか」

「ああ、そういうもんだ」

 二人で顔を見合わせて、ほぼ同時に吹き出した。

「でも……そうだな。また今度の冬、孫と一緒にまた雪だるまをでも作ってくれ。そうすればまたあえるような気がする」

「気が、か」

 登志郎はかすかな笑いを浮かべて聞き返した。

「ああ。気だ。奇跡が起こったら会えるかもしれん」

「奇跡、奇跡か……」

 今度は声を上げて二人は笑いあった。

「さて、俺は行く」

 ひとしきり笑い終わったあと、寛二は雪だるまの方へと歩き出す。

 登志郎は慌てて縁側の上から立ち上がろうとした。しかし、長い間あぐらを組んでいたせいで、足がしびれて上手く立ち上がれない。

「寛二!」

 雪だるまの前で足を止めて、寛二は振り返った。

「じゃあな。雪だるまのこと、忘れるなよ」

「ああ、わかった。わかったよ」

 にやりと笑うと軽く手を挙げて、寛二の姿は雪の中に溶けた。日の光に照らされた雪だるまだけが残っている。太陽の熱で溶けてきたらしく、腕になっていた箒の柄がどさりと地面に落ちた。

 登志郎はしびれの残る足で立ち上がった。縁側の下から雪に埋もれたサンダルを掘り出して履いて、雪だるまの前に立つ。

「寛二……」

 箒の柄と一緒に落ちた革手袋は、寛二の遺品だったものだ。ゆっくりとしゃがんで、手袋を拾い上げた。

「おじいちゃん!」

 台所の方から声がして、晴人が走ってきた。縁側の上で立ち止まって、首をかしげる。

「あれ、お兄ちゃんは?」

「帰ったよ」

 とたんに晴人は泣きそうな顔になった。

 そういえば、寛二は戻ってきた晴人と遊ぶ約束をしていたことを思い出す。

「寛二は、とても大事な用事があったんだ。だから帰らなければいけなかった。でも、また来てくれるそうだよ」

「ほんとに?」

「ああ、本当だ」

 自然に登志郎は微笑んでいた。

 つられたように、晴人も笑う。

「あ、ぼくの雪だるま!」

 壊れてしまった雪だるまに気づいた晴人は、裸足のままぴょんと縁側から飛び降りる。

「晴人」

「だって……」

 晴人は何度も雪だるまと箒の柄を見比べて、うつむいた。

「靴を履きなさい」

「くつ、玄関に置いて来ちゃった」

 顔を上げた晴人の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

 初めて作った雪だるまがよっぽど大切だったのだろう。微笑ましい思いで、登志郎は幼い孫をを見つめる。

「晴人、こっちに来なさい」

「え、うん……」

 不思議そうな顔で晴人は登志郎の所まで歩いてきた。

 見れば、小さな足が真っ赤になっている。

 登志郎は手袋をどてらのポケットにしまうと、慣れない仕草で晴人を抱き上げた。

「わ」

「結構重いな」

 幼い体は思った以上に重く、そして温かい。

「おじいちゃん」

「また来年の冬、雪が降ったら一緒に雪だるまを作ろう。そうしたらまたきっと寛二は来てくれる」

 晴人は手の甲で涙を拭った。

「うん。ねえおじいちゃん」

「なんだ」

「おじいちゃんの名前はさえきかんじじゃないの?」

 じっと晴人は登志郎の顔をのぞき込む。

「佐伯寛二は筆名だよ。本を書く時に使う名前だ。本当の、というのもなんだかおかしいが、名前は佐伯登志郎というんだ」

「としろう?」

 瞬間、晴人はしまったという顔になった。

「どうしたんだ」

「ぼく、お兄ちゃんに嘘教えちゃった」

 おそらく、寛二が晴人に登志郎のことを尋ねたのだろう。

「大丈夫だ。寛二はちゃんとわかっていたさ」

「あのお兄ちゃんがかんじっていうの?」

 晴人はきょとんと目を見開いた。

「そうだ。あいつの名前を借してもらってるんだ」

 わかっているのかいないのか、いまいちわからない顔で、それでも晴人はうなずいた。

「そうなんだ」

 登志郎はゆっくりと晴人を縁側まで運んだ。運動不足の体にはかなり辛かった。しかし、それを孫に悟られないように、必死で口元に笑みを浮かべようとする。

「おじいちゃん、大丈夫?」

「あ、ああ。大丈夫だ」

 必死の思いで晴人を縁側に下ろして、登志郎は大きく息をついた。

「ありがとう」

 うなずいて、登志郎は縁側に腰を下ろす。冷えた床が気持ちよかった。

 晴人も登志郎の横にすとんと座った。

「おじいちゃん。約束だよ。雪だるまのこと」

「ああ、約束だ」

 にっこり笑う晴人の頭に登志郎はそっと手を置いた。

 太陽が白い世界を照らし出している。

 温もりは僅かずつ雪を溶かす。雪は溶けるものだ。それは何があっても変わらない。踏みしめられた白い地面は溶け始めて、土の色がのぞいている。

 そんな中に晴人の作った壊れかけの雪だるまがたたずんでいる。寛二に繋がるかもしれない雪だるまは、日の光の中で確かに微笑んでいた。

                END

 





はじめまして。

有瀬里希と申します。


書きたい物がいろいろでてきて、まとまりのないことになってしまいましたが……


なにか少しでも感じたり思ったりしていただけていたら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
[一言] なにか…暖たくなるお話でした。 こういうお話自分はすごく好きです。
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