She didn't want to hear the steps.
「叶」
かなえ、と私の名前をお母さんが呼ぶ。
その声はいつものように暗くじっとりとしていて、とても聞きたくない声に等しかった。何よりも私は、その声を発しているのが自分の母だということを認めたくなかった。
部屋の襖を開いて、リビングを覗き込む。もうお父さんはいなくなっていて、部屋は無惨にも散らかっていた。争った形跡、というものだ。お母さんの顔もとても窶れていて、頬が赤くなっている。その赤は手の形をしている。それはお母さんがお父さんに打たれたのだという事実を見せつけてくれた。
お母さんとお父さんは別居をしている。が、離婚はしていない。その原因はお父さんの浮気だった。お父さんと浮気相手の女の人との間に子供ができた。それが事の発端だった。
その女の人はお母さんの所に来て、その後に私の所にまで女の人は来た。その人は“私が新しいお母さんだからね”と私に言い、学校から家まで隣を歩いてくれた。その時点で私は感づいた。この人はお父さんと関係のある人だ、と。
その夜、お父さんとお母さんの罵声が響いた。私は怖くて部屋のベッドの隅にうずくまった。結局、深夜、お母さんに腕を引かれて家を出ることになっていた。
それからしばらくはお母さんの実家にお世話になり、お母さんの仕事が決まってから、アパートに引っ越した。
「お母さん。頬、すぐ冷やそうよ。ね」
お母さんはそのままその場に座り込んでしまったていた。もうお母さんは疲れ果てている。
私は洗面器に水と氷をいっぱい入れて、それにタオルを浸し、絞った。そのままタオルをお母さんの頬にそっと当てる。
お父さんは度々このアパートにやってきては暴れて帰っていく。
三十分ほど前に、またお父さんがアパートに来ていた。どうやらお父さんの浮気相手が流産したらしい。それでヨリを戻そうとやってきたのだそうだ。そのお父さんの既望にお母さんは断固拒否した。それからのことは部屋の状態とお母さんの表情を見ればわかることだ。
「今日の晩ご飯、私が作るね。お母さんは休んでて」
私は立ち上がり、台所へと向かった。途中にあるリビングの荒れ様はとても酷かった。花瓶は割れている。ペンも散らばっている。椅子は倒れている。財布の中にあるはずのお金が撒かれている。
お金、持っていかれたんだ。
数ヶ月前まで普通のお父さんだったお父さんに嫌気がさしてきた。きっとその数ヶ月前から浮気相手とは関係があったのだ。私が見てきたお父さんは全部、偽物だったのだ。何とも言えない虚無感でいっぱいになる。
すると、後ろからのそのそとお母さんがやってきた。
「叶、あたしが作るから。いいよ」
無理な笑顔。見ていて辛い。
「じゃあさ、一緒に作ろうよ。それでいいでしょ」
お父さんの暴力から私を守ってくれてるのはお母さんだ。これ以上、無理をさせたくない。見ていて、痛々しいだけだ。
何度も警察に言おうとお母さんに言った。けれども、それをどうしても聞いてくれなかった。これはあたし達の問題だから、と口にして、ただ耐えるばかりだった。お母さんは耐えるだけで行動していない。
「お母さん、一つだけ聞いていい?」
私はお米を研ぎながら言った。お母さんはジャガイモの皮を包丁で剥いている。今日はカレーライスみたいだ。
「うん。いいよ」
力のない声だった。でもジャガイモと包丁に触れている指はきれいだった。
「お父さんのこと、好きだったんだよね」
お母さんの手が止まる。途端に震えだす。持っていたジャガイモと包丁をまな板の上に置き、口元に手を当てた。泣いている。でも口元が少し笑っているように見えた。
「うん。好きだよ。…好きだった」
「ごめんなさい。聞いちゃいけなかったよね」
「いいの。そういうの気になる年頃でしょ」
平然を装うようにまたジャガイモと包丁を手にする。再びその皮を剥き始める。
「最初はね、あの人の一目惚れだったみたいなの―――
大学三年の頃なんだけど、友達にあの人を紹介されたの。そのときにあの人、一目惚れしたみたい。それからなぜか知らないけど頻繁に会うようになって、日が経ってから“つきあいませんか”って声をかけられた。そのときはあたしもつきあってる人いなかったから、向こうには悪いけど軽い気持ちでつきあいだしたの。
それからすぐに別れたわ。原因はあたし達の就職先。あたしは東京でうまく決まったけれど、あの人は京都に行かなくてはならなくなった。そう知ったときに別れを切り出したのはあたしだったの。遠距離恋愛なんてしたくなかったから。あの人に何度も止められたけど、あたしが耐えられなかった。会いたいのに会えないのは嫌だし、浮気してないとも限らない。その不安にも耐えられなかったの。
数年経ってから電話がきた。それがあの人からの電話。東京に戻ってこれることになった、だからヨリを戻さないか。そういう内容だった。あたしもちょうどつきあっていた彼氏と別れていて独り身だったから、とりあえず会うことにしたの。そのときすでに、あたし達は二十八歳になっていた。
久々に会ったあの人は何も変わらなかった。でも、あたしは変わっていた。化粧は濃くなっていて、女性になるための努力を惜しまなくなっていて、そういう人になっていた。
「なんか変わったな」
「そういうあなたは何も変わってないよ」
そんなやりとりをした気がする。それからあたし達は近くのカフェに入り、しばらく世間話と今までのこと、近状報告をした。話のネタが尽きた頃、もう夜の二十二時を過ぎていた。
いろいろあって、あたし達はヨリを戻すことになった。それから二年の交際を経て、結婚した。その一年後、叶が生まれた。
「叶」
もう私達はご飯を食べていた。カレーライスの匂いが部屋に充満している。荒れていた部屋を片付けて元通りにし、テーブルに移動して、ご飯を食べている。
「あなたは本当に好きな人、見極めなさいよ」
“うん”とは言えなかった。
言えない自分にまた、虚無感を感じた。
どんなに殴られても、ぼろぼろにされても、好きなものは嫌いになれない。
そういうことってあると思います。
どんなに苦しい目に遭わされても、嫌いにはなれないのです。
愛しているからこそ。
でも、それを共依存というのでしょうね。