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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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、

作者: 南野圭吾
掲載日:2026/09/24

あなたは本当のあの人を知らない。ほんとうの、

# 『、』


## 序章 火


 火というものを、人はいつから怖いと思うようになったのだろう。


 幼い頃に火傷をしたからだろうか。


 家が燃えたからだろうか。


 あるいは、誰かが火を使っているのを見たとき、その向こう側にある何かを思い出してしまうからだろうか。


 K大学文学部棟、三階。


 その夜、廊下の奥から煙が流れてきた。


 最初に異変に気づいたのは、警備員だった。


「火事だ!」


 叫び声が上がった。


 警備員が駆け寄った先には、花ヶ崎聖人教授の研究室があった。


 扉の隙間から黒い煙が漏れている。


 中からは、何かが崩れる大きな音がした。


 消防への通報が行われ、大学は騒然となった。


 火はそれほど大きくはなかった。


 少なくとも、建物全体を焼き尽くすような火災ではなかった。


 しかし、研究室の中には大量の書籍と資料があった。


 壁一面の本棚。


 机の周囲に積まれた資料。


 床に置かれた段ボール。


 古い新聞。


 文学作品の初版本。


 研究者から借り受けたという貴重な文献。


 それらが次々と煙に包まれていった。


 そして、研究室の中央付近にあった棚が倒れた。


 鈍い音が響いた。


 棚は出入口側へと倒れ、扉の前を塞いだ。


 消防隊が火を消し止めたときには、研究室の中はすでに濃い煙で満たされていた。


 花ヶ崎聖人は、その研究室の中で死んでいた。


 第一発見時には、まだ火災の原因は分かっていなかった。


 電気系統の不具合。


 暖房器具。


 何らかの事故。


 原因はいくつも考えられた。


 少なくとも、その夜の時点では。


 誰もまだ、


 この火が一人の男の人生を焼き尽くすことになるとは知らなかった。


 花ヶ崎聖人という男の人生を。


 そして、その男が長い年月をかけて作り上げてきた、


 「善人」という名前を。


# 第一章 善人


 朝倉直人は、花ヶ崎聖人の写真を見ていた。


 捜査資料の一番上に置かれた一枚。


 大学の入学式で撮られたものらしい。


 濃紺のスーツ。


 白いシャツ。


 細いフレームの眼鏡。


 口元には、わずかな笑み。


 いかにも大学教授らしい顔だった。


「これが花ヶ崎先生」


 向かいに座った先輩刑事が言った。


「知ってるか?」


「名前だけなら」


「小説も書いてる。文学賞もいくつか取ってるぞ」


「へえ」


 朝倉は写真をもう一度見た。


 大学教授。


 作家。


 文学賞。


 そして、言語学の研究者。


 肩書きだけなら、随分と立派な人物だった。


「大学の評判は?」


「悪くない。むしろかなりいい」


「かなり?」


「学生からの評判もいいし、同僚からも慕われてる。怒鳴ったりすることもほとんどなかったらしい」


「じゃあ、恨みを買うような人じゃない?」


「それはまだ分からん」


 先輩は資料をめくった。


「人間ってのは、外から見ただけじゃ分からないからな」


 朝倉は黙って資料を読んだ。


 花ヶ崎聖人。


 五十三歳。


 K大学文学部教授。


 専門は日本語表現。


 特に、文章における読点――「、」の機能について研究していた。


 句読点。


 その中でも、花ヶ崎は「、」に強い関心を持っていたらしい。


 文章の中に置かれた小さな記号。


 それだけで文章の呼吸が変わる。


 意味の受け取り方が変わる。


 読み手がどこで息をするのかによって、同じ文章でも印象が変わる。


 花ヶ崎はそれを研究し、論文を書き、小説にも応用していた。


 研究室には、「、」について書かれた資料が大量にあったという。


「変わった研究ですね」


「本人はかなり本気だったらしいぞ」


「そうですか」


 朝倉は写真に目を戻した。


 優しそうな顔だった。


 第一印象だけなら、殺されるような人には見えない。


 いや。


 そもそも、殺される人間が「殺されそうな顔」をしている必要などない。


 朝倉は資料を閉じた。


「現場、もう一度見に行ってきます」


「ああ。大学側から聞き取りもしてこい」


「分かりました」


 席を立つ。


 そのとき、朝倉のスマートフォンが震えた。


 母親からだった。


『今日、帰り遅い?』


 短いメッセージ。


 朝倉は少し考えてから、


『たぶん』


 とだけ返した。


 母親からはすぐに、


『ご飯は?』


 と返ってきた。


『いらない』


 送信して、ポケットにしまう。


 母親はいつもそうだった。


 朝倉が何時に帰ってくるのか。


 飯を食べるのか。


 疲れていないか。


 何かあったのか。


 必要以上に聞いてくる。


 昔からそうだった。


 朝倉は、その理由を知っている。


 母親は、一人で朝倉を育ててきた。


 父親はいない。


 正確には、もう家族ではない。


 朝倉が子供の頃、家ではよく物が壊れた。


 食器。


 椅子。


 壁。


 そして、ときどき人間。


 朝倉はその記憶について、あまり考えないようにしている。


 考えても何も変わらない。


 そう思っていた。


 K大学に着いたのは、午後四時を少し回った頃だった。


 火災から二日が経っていた。


 規制線はまだ張られている。


 焼けた研究室の周囲には、大学関係者が近づかないように警備員が立っていた。


 朝倉は身分証を見せ、三階へ上がった。


 廊下には、焦げた臭いが残っていた。


 火というものは、不思議な臭いがする。


 木が焼けた臭い。


 紙が焼けた臭い。


 布が焼けた臭い。


 それらが混ざる。


 何かがなくなったことだけを、臭いで伝えてくる。


 研究室の中へ入る。


 朝倉は足を止めた。


 壁際に並んでいた本棚は、いくつかが焼けていた。


 そのうちの一つが倒れている。


 出入口付近。


 消防の記録によれば、ここが花ヶ崎の脱出を妨げた可能性が高い。


 朝倉はしゃがみ込み、床を見る。


 焼けた紙。


 灰。


 黒くなった本の表紙。


 何が書いてあったのか分からないものも多い。


 花ヶ崎は大量の資料を所蔵していた。


 いや。


 「所蔵」という言い方は正しくない。


 借りていた資料も多かった。


 研究者仲間。


 大学。


 出版社。


 個人。


 そうしたところから借りた貴重な文献が、研究室には集められていた。


 それらの多くが焼失している。


 朝倉は一冊の本を拾い上げた。


 表紙はほとんど残っていない。


 指で触れると、崩れそうになった。


「……もったいないな」


 思わず口に出た。


「そうですね」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 大学職員の男が立っていた。


「花ヶ崎先生、本当に本が好きな人でしたから」


「かなりの量だったんですね」


「ええ。先生の研究室は、いつも本でいっぱいでした」


「学生にも評判が良かったそうですね」


「もちろんです」


 男は即答した。


「本当に優しい先生でした」


「具体的には?」


「学生の相談にも乗っていましたし、困っている学生がいれば声をかけていました。研究のことでも、将来のことでも」


「怒ったりすることは?」


「ありませんね。少なくとも私は見たことがありません」


「嫌っている人は?」


 男は少し考えた。


「……聞いたことはないです」


 朝倉はメモを取った。


「ありがとうございました」


 職員が出ていったあと、朝倉はもう一度研究室を見回した。


 優しい教授。


 文学賞を取った作家。


 学生思い。


 研究熱心。


 これまで聞いた話を並べると、確かに悪い人物には見えない。


 だが、朝倉は知っていた。


 人間は履歴書ではない。


 書かれていることだけが、その人間のすべてではない。


 その頃、大学構内の別の場所では、一人の学生が自動販売機の前に立っていた。


 二十歳。


 細身の青年だった。


 歩く速度は遅い。


 右足を引くような歩き方をする。


 彼は自分の足元を見ながら、缶コーヒーを一本買った。


 名前は、榊原朔。


 少し歩いたところで、後ろから声がした。


「榊原さん」


 朔が振り返る。


 そこに立っていたのは、十八歳の青年だった。


「この前の講義、一緒でしたよね」


「ああ」


「やっぱり」


 青年は笑った。


「覚えてました?」


「顔くらいは」


「よかった」


 青年の首元から、シャツの襟の隙間が少し見えていた。


 そこに、薄い傷跡があった。


 朔は一瞬だけ目を止めた。


 だが、何も言わなかった。


「花ヶ崎先生の研究室、燃えたじゃないですか」


「うん」


「あの先生、どんな人だったんでしょうね」


「さあ」


「榊原さん、先生と話したことあります?」


「ある」


「どうでした?」


 朔は少しだけ考えた。


「……普通」


「普通?」


「ああ」


 青年は笑った。


「なんか意外ですね」


「何が?」


「もっと嫌な人かと思ってました」


「どうして?」


「なんとなくです」


 青年はそう言って笑った。


 彼の名前は、まだ朔には重要ではなかった。


 そして朔の名前も、彼にとっては同じだった。


 二人とも知らなかった。


 目の前にいる人間が、


 自分と同じ血を持っていることを。


 その日の夕方。


 朔は講義棟の階段をゆっくり下りていた。


 背後から誰かが近づいてきた。


「榊原君」


 花ヶ崎だった。


 火災が起きる前の記憶の中の花ヶ崎。


 いつも通りの穏やかな顔。


「少し、いいかな」


「はい」


 朔は立ち止まった。


「最近、歩くの大変そうだね」


 花ヶ崎は笑っていた。


 悪意があるようには見えなかった。


 だからこそ、朔には分かった。


 この人は、本気でそう言っている。


「まあ……」


「無理しなくていいんじゃないかな。大学って、君が思っているより大変だから」


「大丈夫です」


「そう?」


「はい」


 花ヶ崎は頷いた。


「君は真面目だからね」


 その言葉だけなら、優しい言葉だった。


 しかし、その次に続いた言葉は違った。


「ただ、無理して普通の学生と同じことをしようとしなくてもいいと思うよ」


 朔は黙った。


「できることには限界があるからね」


 花ヶ崎は笑った。


「自分に合ったことをしたほうがいい」


 朔は何も言わなかった。


 花ヶ崎が去っていく。


 その姿を、少し離れた場所から誰かが見ていた。


 十八歳の青年だった。


 彼は声をかけなかった。


 ただ、花ヶ崎の背中を見ていた。


 そして、朔を見た。


 朔は何事もなかったかのように歩き出した。


 その背中は、少しだけ傾いていた。


 青年は、初めて花ヶ崎に対して強い嫌悪感を抱いた。


 理由はまだ分からなかった。


 その夜。


 青年は研究室の前にいた。


 もちろん、花ヶ崎の研究室ではない。


 学生が使用する共同研究室だった。


 教授から預かった資料を返すためだった。


 扉を開ける。


 誰もいない。


 机の上に、誰かが置いていったものがあった。


 一箱のタバコ。


 青年は足を止めた。


 その瞬間だった。


 頭の奥で、何かが弾けた。


 白い煙。


 低い声。


 泣き声。


 暗い部屋。


 熱。


 首。


 そして、火。


「……っ」


 青年は首を押さえた。


 息ができない。


 目の前の景色が歪む。


 誰かが叫んでいる。


 自分なのか。


 別の誰かなのか。


 分からない。


 ただ、昔の記憶の中で、男がタバコを持っていた。


 その男の顔は、ずっと思い出せなかった。


 いや。


 思い出したくなかった。


 青年はタバコから目を逸らした。


 そして、研究室の壁に掛かっていた写真を見た。


 花ヶ崎聖人。


 大学の教授紹介用に撮られた写真。


 穏やかな笑顔。


 優しそうな目。


 青年は写真を見つめた。


 しばらくして、


 小さく呟いた。


「……父さん」


 その言葉を口にした瞬間、


 忘れていたものが、全部戻ってきた。


 タバコの火。


 父親の手。


 母親の泣き声。


 兄の声。


 そして、自分の首に押しつけられた熱。


 青年は震えながら、自分の首に触れた。


 そこには、今も傷跡が残っていた。


 花ヶ崎聖人。


 大学教授。


 作家。


 文学賞受賞者。


 学生から慕われる人格者。


 そして、


 自分の父親。


 青年は、その夜初めて知った。


 自分の父親が、


 あの男だったことを。


 同じ頃。


 榊原朔は、自分の部屋で古い写真を見ていた。


 写真には、幼い少年が二人写っている。


 顔はぼやけている。


 片方は泣いている。


 もう片方は、泣いている少年の肩を掴んでいる。


 その写真を見るたびに、朔は同じことを思い出す。


 泣くな。


 泣いたら殴られる。


 弟が泣く。


 父親が怒る。


 弟がもっと泣く。


 父親の手が自分に向く。


 それを止められなかった。


 止めようとすれば、もっと殴られた。


 朔は写真を伏せた。


 そして目を閉じた。


 あの頃のことは、もう終わった。


 そう思っていた。


 しかし、今日。


 花ヶ崎の言葉を聞いたとき、


 昔と同じ感覚がした。


 人間として否定されたような感覚。


 自分には価値がないと言われたような感覚。


 朔はゆっくりと目を開けた。


 そのときだった。


 昼間の青年の姿が頭に浮かんだ。


 首元。


 シャツの隙間から見えた傷。


 朔の呼吸が止まった。


 幼い頃。


 弟の首にあった傷。


 あれと同じ場所だった。


「……まさか」


 朔は立ち上がろうとした。


 しかし、足が思うように動かない。


 身体に残った古い傷が、今でも彼の動きを縛っている。


 朔は机に手をついた。


 そして初めて、


 弟の顔を思い出そうとした。


 あの少年が、


 今どこにいるのか。


 生きているのか。


 そして――


 目の前の青年と同じ人間なのか。


 朔は知らなかった。


 その答えを知るまでに、


 それほど時間はかからない。


 そしてその答えが、


 一人の教授の人生を終わらせることになることも、


 まだ知らなかった。

# 第二章 煙


 人は、知らない人間とは簡単に話せない。


 何を考えているのか分からないからだ。


 どこまで踏み込んでいいのかも分からない。


 だから、初対面の人間同士が親しくなるには、たいてい何か共通するものが必要になる。


 趣味。


 授業。


 出身地。


 好きな食べ物。


 あるいは――嫌いな人間。


 榊原朔と、彼の後にできた友人も、そうだった。


「またここにいるんだ」


 昼休み。


 朔が大学の中庭にあるベンチに座っていると、声をかけられた。


 顔を上げる。


 昨日、花ヶ崎の研究室の前で会った青年だった。


「いいだろ」


「別にいいですけど」


 青年は笑って、朔の隣に座った。


 手にはコンビニの袋を持っている。


「食べます?」


「いらない」


「じゃあ僕が食べます」


「最初からそのつもりだろ」


「ばれました?」


 青年は袋からパンを取り出した。


 しばらく二人とも黙っていた。


 大学の中庭には、学生の声が響いている。


 誰かが笑っている。


 遠くでサッカーボールを蹴る音がする。


 平和だった。


 あまりにも平和だった。


 朔は、この大学にいるときだけは、自分の過去を忘れられるような気がしていた。


「そういえば」


 青年が言った。


「昨日のことなんですけど」


「昨日?」


「花ヶ崎先生」


 朔の手が止まった。


「……ああ」


「先生、ああいうこと言う人だったんですね」


「どういうこと?」


「昨日、見てたんです」


 朔は青年を見る。


「何を?」


「僕がいたこと、気づいてなかったですよね」


「……」


「先生が榊原さんに言ってたこと」


 朔は目を逸らした。


「別に」


「怒ってないんですか?」


「慣れてる」


「それ、一番嫌な答えですね」


「何が」


「慣れてるって」


 青年はパンを食べながら言った。


「普通、嫌なこと言われたら怒るじゃないですか」


「怒ったところで、どうにもならない」


「そうですかね」


「そうだよ」


 青年は黙った。


 そして少ししてから、


「僕、あの先生嫌いです」


 と言った。


 朔は思わず笑った。


「昨日会ったばかりだろ」


「昨日だけで十分でした」


「単純だな」


「榊原さんは?」


「……俺も好きじゃない」


 青年は笑った。


「ですよね」


 それだけだった。


 それ以上、二人は花ヶ崎の話をしなかった。


 それから二人は、自然と一緒にいることが増えた。


 講義の前に会えば一緒に歩く。


 昼になれば一緒に食べる。


 帰る時間が同じなら駅まで一緒に行く。


 特別な約束をしたわけではない。


 ただ、気づけば隣にいる。


 そんな関係だった。


 朔にとって、それは久しぶりの感覚だった。


 相手に気を遣われない。


 自分の歩く速度に合わせることを、相手が特別なことだと思っていない。


 階段を上るのに時間がかかっても、先に行かれない。


 何かを取ろうとして少し苦労していても、必要以上に手を貸されない。


 それが、楽だった。


 ある日、二人で大学を出たところで、青年が言った。


「榊原さんって、昔から足悪いんですか?」


 朔は少し黙った。


「……まあ」


「すみません」


「別に」


「聞いちゃいけなかったですよね」


「そういうわけじゃない」


 朔は歩きながら答えた。


「昔の怪我だよ」


「そうなんですね」


「それだけ」


「分かりました」


 青年はそれ以上聞かなかった。


 そのことが、朔にはありがたかった。


 多くの人間は、優しさのつもりで聞いてくる。


 どうしたんですか。


 いつからですか。


 大変ですね。


 無理しないでください。


 そういう言葉を投げてくる。


 悪意はない。


 だから余計に面倒だった。


 しかし、目の前の青年は何も言わなかった。


 ただ、歩く速度を少し落とした。


 朔はそれに気づいていた。


 だが、礼は言わなかった。


 言わないほうが自然だった。


 数日後。


 花ヶ崎聖人の研究室では、火災現場の調査が続いていた。


 朝倉直人は、焼けた本棚を眺めていた。


「原因はまだ分からないんですか?」


 大学職員に聞く。


「消防からは、もう少しかかると」


「花ヶ崎教授は、普段ここで何をしていたんです?」


「研究です」


「それは分かっています」


 朝倉は苦笑した。


「もう少し具体的に」


「日本語の研究です。特に句読点ですね」


「句読点?」


「はい。花ヶ崎先生は『、』にかなりこだわっていました」


「こだわる?」


「文章の意味だけじゃなくて、読み手がどこで息をするか。どこで間を置くか。それによって文章の印象が変わるんだそうです」


「なるほど」


 朝倉は焼け残った机を見る。


 机の端に、小さなメモ帳が置かれていた。


 黒く焦げている。


 何枚かめくると、辛うじて文字が残っていた。


 文章の途中に、


 「、」


 が何度も書かれている。


 朝倉は少し不思議に思った。


「先生は、こういう研究をずっと?」


「ええ」


「小説にも関係していたんですか?」


「そうだと思います。先生は小説家でもありましたから」


「文学賞も?」


「はい」


 職員は少し誇らしそうに言った。


「大学の先生で、作家としても成功している。珍しい人ですよ」


「評判がいいんですね」


「もちろんです」


 また、その言葉だった。


 評判がいい。


 優しい。


 人格者。


 朝倉はメモを取った。


 同じ言葉を、何度聞いただろう。


 それなのに、なぜか引っかかる。


 何が引っかかっているのかは分からなかった。


 その日の夕方。


 朝倉は研究室を出たところで、一人の学生とすれ違った。


 首元に火傷跡のある青年だった。


 朝倉は一瞬だけ彼を見る。


 青年も朝倉を見る。


 しかし、二人は何も言わなかった。


 そのまま通り過ぎる。


 朝倉は数歩歩いたところで振り返った。


 青年は、花ヶ崎の研究室の前に立っていた。


 何かを考えているようだった。


 青年は研究室の扉を見つめた。


 花ヶ崎聖人。


 父親。


 その二つの言葉が、まだ頭の中でうまく結びついていなかった。


 幼い頃の記憶は、ところどころしか残っていない。


 母親。


 兄。


 怒鳴り声。


 泣き声。


 タバコ。


 熱。


 痛み。


 そして、父親の顔。


 その顔だけが、長い間思い出せなかった。


 いや。


 正確には、思い出そうとすると頭が拒否していた。


 今なら分かる。


 忘れていたのではない。


 忘れたかったのだ。


 青年は自分の首に触れた。


 火傷跡。


 幼い頃、父親から受けた傷。


 母親はその後、父親と離婚した。


 それから長い時間が経った。


 青年は父親の顔をほとんど覚えていなかった。


 だから、花ヶ崎を見ても気づかなかった。


 教授と学生。


 それだけだった。


 しかし、タバコを見た。


 その瞬間、全部が戻った。


 青年はポケットからスマートフォンを取り出した。


 検索画面を開く。


「花ヶ崎聖人」


 検索する。


 写真が出てくる。


 大学の紹介ページ。


 論文。


 文学賞。


 著書。


 インタビュー。


 どの写真でも、花ヶ崎は笑っていた。


 青年は、その顔を見つめ続けた。


 やがて、指が震え始めた。


「……なんで」


 誰に言うでもなく呟いた。


「なんで、今なんだよ」


 スマートフォンを閉じる。


 そして、もう一度研究室を見る。


 中には、父親の人生が詰まっている。


 論文。


 本。


 賞状。


 写真。


 誰かから見れば、偉大な研究者の人生だ。


 しかし青年にとっては違う。


 そこにあるものは、


 自分を殴った男の人生だった。


 その夜、青年は朔と食事をした。


「榊原さん」


「ん?」


「花ヶ崎先生って、昔からあんな人だったんですかね」


「……あんなって?」


「人を馬鹿にするような人」


 朔は箸を止めた。


「どうだろうな」


「昔から知ってるんじゃないんですか?」


「知ってるわけないだろ」


「そうですか」


 青年は笑った。


「すみません。なんか変なこと聞きました」


「いいよ」


 しばらく沈黙が続いた。


 青年は何度も言葉を飲み込んだ。


 父親だった。


 花ヶ崎は、自分の父親だった。


 そう言いたかった。


 しかし、言えなかった。


 なぜなら、まだ自分でも信じられなかったからだ。


 そして何より、


 目の前の男に言う理由がなかった。


「榊原さん」


「何?」


「……いや」


「なんだよ」


「何でもないです」


 青年は笑った。


 朔も笑った。


 その笑顔の裏側で、二人はそれぞれ別のことを考えていた。


 朔は、青年の首を見ていた。


 シャツの襟から、ほんの少しだけ見える傷。


 あれが気になって仕方がなかった。


 幼い頃。


 弟の首にも、同じ場所に傷があった。


 父親がタバコを押しつけた。


 弟は泣き叫んだ。


 その声を聞いて、父親はさらに怒った。


 そして、兄である朔も殴られた。


 何度も。


 何度も。


 弟が泣く。


 自分が殴られる。


 だから朔は、幼い頃から弟に対して複雑な感情を持っていた。


 守りたい。


 でも、憎い。


 助けたい。


 でも、弟が泣くたびに自分が傷ついた。


 そんな感情を抱えたまま、ある日突然、弟はいなくなった。


 母親と一緒に家を出た。


 朔は残された。


 それ以来、弟とは会っていない。


 死んだと思ったこともある。


 生きていると思ったこともある。


 しかし、確かめる勇気はなかった。


 もし生きていたとしても、


 自分のことを覚えていなかったら。


 そう考えると怖かった。


 だから探さなかった。


 青年は、そんな朔を見ていた。


 自分でも理由は分からなかった。


 ただ、なぜかこの人といると落ち着く。


 歩く速度を合わせたくなる。


 話を聞いてほしくなる。


 花ヶ崎のことを話したくなる。


 そんな気持ちがあった。


 兄に似ている。


 ふと、そう思った。


 顔ではない。


 雰囲気だった。


 自分が子供だった頃。


 泣いている自分の隣に、いつもいた少年。


 自分より少しだけ年上だった。


 泣くな、と言っていた。


 大丈夫だ、と言っていた。


 でも、最後には自分と一緒に泣いていた。


 兄。


 その言葉が浮かんだ。


 青年はすぐに否定した。


 そんなわけがない。


 兄はもう、自分の前にはいない。


 それに、兄の顔なんてほとんど覚えていない。


 だから、目の前の人間と結びつける理由なんてない。


 青年は箸を置いた。


「榊原さん」


「ん?」


「僕たち、似てると思いません?」


 朔は少し笑った。


「どこが?」


「分かんないです」


「なんだそれ」


「なんとなく」


「変な奴だな」


「よく言われます」


 二人は笑った。


 その夜。


 朔は一人で歩いていた。


 大学から駅へ向かう道。


 街灯の下を、ゆっくり進む。


 身体が重い。


 足が痛い。


 それでも、頭の中では別のことを考えていた。


 青年の首。


 火傷。


 花ヶ崎。


 弟。


 朔は立ち止まった。


 スマートフォンを取り出す。


 大学の学生名簿。


 検索する。


 青年の名前。


 年齢。


 出身地。


 何度も確認する。


 そして、ある情報に行き着いた。


 母親の名前。


 朔の手が止まった。


 その名前を、知っていた。


 幼い頃の記憶。


 母親と一緒に家を出ていった女性。


 その名前。


 朔は画面を見つめた。


「……嘘だろ」


 青年は弟だった。


 確信したわけではない。


 しかし、もう疑うことはできなかった。


 首の火傷。


 年齢。


 母親。


 そして、あの頃の記憶。


 全部が一つにつながった。


 朔はスマートフォンを握りしめた。


 その瞬間、


 花ヶ崎の顔が頭に浮かんだ。


 昨日言われた言葉。


 昔、言われた言葉。


 同じ人間。


 何も変わっていない。


 朔は目を閉じた。


 そして思った。


 もし、本当に弟なら。


 弟もまた、花ヶ崎に傷つけられている。


 自分と同じように。


 翌日。


 青年は研究室の前にいた。


 扉を開ける。


 花ヶ崎はいなかった。


 机の上には、一冊の本。


 その横に、灰皿。


 そして、タバコ。


 青年は足を止めた。


 また、あの記憶が戻ってくる。


 父親の手。


 煙。


 熱。


 自分の泣き声。


 兄の声。


 そして――


 兄が自分を庇おうとして殴られる姿。


 青年は目を閉じた。


 今まで、自分は父親だけを憎んでいた。


 だが、昨日。


 花ヶ崎が朔を馬鹿にしているところを見た。


 それを思い出す。


 父親は昔と同じだった。


 自分だけではない。


 今も誰かを傷つけている。


 青年はタバコを見つめた。


 そして、ゆっくりと手を伸ばした。


 触れようとした瞬間、


「触らないほうがいいよ」


 声がした。


 振り返る。


 花ヶ崎だった。


 青年は固まった。


 花ヶ崎はタバコを見て、笑った。


「煙草は身体に悪いからね」


 優しい声だった。


 いつもの教授の声。


 学生が知っている声。


 青年は花ヶ崎を見つめた。


 目の前にいるのは、


 自分を殴った父親だった。


 しかし、花ヶ崎は何も覚えていない。


 自分が何をしたのかも。


 誰を傷つけたのかも。


 覚えていないのか。


 あるいは、覚えていて忘れたふりをしているのか。


 青年には分からなかった。


「どうした?」


 花ヶ崎が聞いた。


「……何でもありません」


「そう」


 花ヶ崎は笑った。


「なら、いいけど」


 青年は研究室を出た。


 廊下を歩く。


 足が震えていた。


 しかし、途中で止まった。


 振り返る。


 閉じた扉を見る。


 その向こう側に、父親がいる。


 自分を傷つけた男がいる。


 そして、自分の知らないところで、


 兄を傷つけた男もいる。


 青年は拳を握った。


 その日の夕方。


 朔と青年は大学の屋上にいた。


 風が強かった。


 青年はしばらく黙っていた。


「榊原さん」


「ん?」


「僕、花ヶ崎先生のことが嫌いです」


「知ってる」


「本当に嫌いです」


「……ああ」


「昔から、ずっと」


 朔は青年を見る。


 青年は、自分でも気づかないうちに涙を浮かべていた。


「どうした?」


「何でもないです」


 青年は涙を拭った。


「昔から、あの人に会ったことがある気がするんです」


 朔の胸が強く鳴った。


「……そうか」


「でも、思い出せない」


 青年は笑った。


「変ですよね」


 朔は答えなかった。


 ただ、隣に立っていた。


 しばらくして、青年が言った。


「榊原さん」


「何?」


「僕たち、ずっと友達でいましょうよ」


 朔は少しだけ驚いた。


 それから笑った。


「ああ」


 青年も笑った。


 その二人が兄弟であることを、


 まだ互いに口にはしなかった。


 兄は知っている。


 弟は知らない。


 その違いだけが、


 二人の間に残っていた。


 そして、その日から。


 花ヶ崎聖人の人生は、


 少しずつ終わりへ向かっていた。

# 第三章 記憶


 人の記憶は、都合よくできている。


 忘れたいことは忘れる。


 覚えていたいことだけを覚えている。


 朝倉直人は、そんなことを考えながら、一枚の古い写真を見ていた。


「これが、花ヶ崎先生です」


 写真の中で、花ヶ崎聖人は笑っていた。


 まだ若い。


 今より髪が黒く、眼鏡もかけていない。


 その隣には、一人の女性が立っている。


 そして、その女性の前には二人の子供がいた。


 朝倉は写真を持ってきた女性を見る。


「この写真は?」


「花ヶ崎先生の元奥様の知人から提供してもらいました」


「元奥様……」


 朝倉は写真に目を戻した。


「花ヶ崎先生に、ご家族がいたんですか?」


「はい」


「でも大学では……」


「公には、ほとんど知られていません」


「なぜです?」


 女性は少し困った顔をした。


「先生が話したがらなかったからです」


 朝倉は黙った。


 花ヶ崎には妻がいた。


 子供もいた。


 しかし、大学ではその話をほとんどしていない。


 作家としてのインタビューでも、家族について語ることはほとんどなかった。


 むしろ、


「家族はいません」


 そう答えている記事すらあった。


 朝倉は、その記事を思い出した。


 翌日。


 朝倉は、花ヶ崎の元妻について調べていた。


 離婚したのは十年以上前。


 離婚理由について、正式な記録には詳しく残っていない。


 性格の不一致。


 それだけだった。


 しかし、朝倉が元妻の知人に話を聞いたところ、違う話が出てきた。


「……暴力です」


 女性は小さな声で言った。


「花ヶ崎先生は、家では暴力を振るっていました」


「具体的には?」


「殴る。蹴る。物を投げる。子供にも」


 朝倉はペンを止めた。


「子供にも?」


「ええ」


「二人ともですか?」


「……はい」


 女性は答えた。


「特に上の子は、足を悪くしてしまって」


 朝倉の手が止まった。


「足を?」


「階段から落ちたんです」


「事故では?」


 女性はしばらく黙っていた。


「花ヶ崎先生が突き飛ばした、と聞いています」


 朝倉は何も言えなかった。


「でも、警察には?」


「奥さんは怖くて言えなかったそうです」


「どうして?」


「花ヶ崎先生は外では、本当に評判のいい人でしたから」


 その言葉を聞いた瞬間、


 朝倉の中で何かがつながった。


 善人。


 優しい教授。


 学生思い。


 人格者。


 文学賞を取った作家。


 テレビに出れば、穏やかな笑顔で話す。


 大学では学生から慕われている。


 そんな人物が、家では妻や子供に暴力を振るっていた。


 どちらが本当の花ヶ崎なのか。


 朝倉は考えた。


 だが、すぐに別の考えが浮かんだ。


 もしかすると、


 自分はまだ何かを見落としているのではないか。


 人間にはいろいろな顔がある。


 外では優しい人でも、家庭では厳しいことはある。


 夫婦の間には、外からは分からない事情がある。


 子供の記憶も、すべてが正しいとは限らない。


 そう考えれば、


 花ヶ崎が完全な悪人だったと決めつけることはできない。


 朝倉はそう思った。


 その瞬間、


 自分自身が花ヶ崎を「善人」として見ようとしていることに気づかなかった。


 同じ頃。


 大学の食堂では、二人の青年が向かい合っていた。


「今日、講義あります?」


「ある」


「じゃあ行きますか」


「珍しいな」


「失礼ですね」


 二人は笑った。


 この頃には、二人はかなり親しくなっていた。


 名前を呼ぶことも増えた。


 休日に一緒に出かけることもあった。


 特別な関係ではない。


 少なくとも、周囲から見ればそうだった。


 ただの友人。


 大学で知り合った二人。


 それだけだった。


 朔は、弟の顔を見るたびに複雑な気持ちになった。


 やはり似ている。


 幼い頃の面影がある。


 笑ったときの目。


 考え込んだときに少しだけ眉を寄せる癖。


 それに、首の傷。


 もう疑う必要はなかった。


 目の前にいるのは弟だ。


 自分がずっと探さなかった弟。


 自分がずっと忘れたふりをしていた弟。


 なのに、弟は何も知らない。


 そのことが、朔には苦しかった。


「どうしました?」


 弟が聞いた。


「いや」


「最近、よく見ますよね」


「何を?」


「僕のこと」


 朔は笑った。


「そうか?」


「そうですよ」


「気のせいだろ」


「そうですかね」


 弟も笑った。


 朔は、その笑顔を見ながら思った。


 言うべきなのかもしれない。


 自分たちは兄弟だ。


 同じ父親に傷つけられた兄弟だ。


 そう伝えれば、この男は何を思うだろう。


 喜ぶのか。


 怒るのか。


 それとも――


 自分を恨むのか。


 朔には分からなかった。


 だから、まだ言えなかった。


 ある日の帰り道。


 二人は花ヶ崎とすれ違った。


「あ」


 弟が立ち止まった。


 花ヶ崎も二人を見る。


「おや」


 そして朔を見る。


「ああ、君か」


「……どうも」


「最近、よく一緒にいるね」


「そうですね」


 花ヶ崎は弟を見る。


 そして、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。


 何かを思い出そうとするような顔だった。


 しかし、それはすぐに消えた。


「仲良くするのはいいことだ」


 そう言って笑う。


 その笑顔を見た瞬間、


 弟の胸の奥がざわついた。


 知っている。


 この笑い方を。


 幼い頃。


 父親が怒る直前にも、


 同じ顔をしていた。


 優しい顔。


 優しい声。


 そのあとに来る暴力。


 弟の手が震えた。


 朔が気づく。


「大丈夫か?」


「……大丈夫です」


 花ヶ崎は何も気づかない。


「では、また」


 そう言って歩いていった。


 二人はその背中を見送った。


「……嫌ですね」


 弟が言った。


「何が?」


「分かりません」


 朔は答えなかった。


 ただ、弟の拳が強く握られていることだけを見ていた。


 数日後。


 朝倉は、もう一度元妻について調べた。


 そこで、ある記録を見つけた。


 離婚直前。


 病院を受診した記録だった。


 妻ではない。


 子供のものだった。


 診断書には、


 「頸部に熱傷」


 と書かれていた。


 朝倉は息を止めた。


 火傷。


 首。


 そして、


 現在大学にいる、あの青年。


 朝倉はすぐに大学へ向かった。


 青年を呼び止めた。


「少し聞きたいことがある」


「何ですか?」


「首の傷」


 青年の顔が固まった。


「昔のものだろ?」


「……はい」


「いつ?」


「覚えてません」


「本当に?」


 青年は朝倉を見る。


「小さい頃です」


「事故?」


「……たぶん」


「たぶん?」


 青年は答えなかった。


 朝倉はそれ以上聞かなかった。


 だが、確信に近いものを感じていた。


 花ヶ崎。


 元妻。


 子供。


 家庭内暴力。


 首の火傷。


 そして、火災。


 すべてが一本の線になりつつあった。


 しかし、その線の先に誰がいるのか。


 それだけが分からなかった。


 その夜。


 朔は一人で、古い住所録を見ていた。


 幼い頃に母親から渡されたものだった。


 ほとんどの名前は消えている。


 紙も黄ばんでいる。


 それでも、一つだけ。


 忘れられない名前があった。


 花ヶ崎聖人。


 父親。


 朔はその名前を指でなぞった。


 そして、弟の名前を見る。


 二つの名前。


 同じ家。


 同じ父親。


 同じ暴力。


 同じ夜。


 ただ、違っていたのは、その後だった。


 朔は母親と離れた。


 弟は母親についていった。


 二人は離ればなれになった。


 それから十年以上。


 そして今、


 二人は偶然出会った。


 父親を同じように憎んでいるとは知らないまま。


 朔は携帯電話を取り出した。


 弟に電話をかけようとして、


 やめた。


 何を話せばいい。


 兄だと名乗るのか。


 それとも、もう少しだけ黙っているのか。


 朔は画面を見つめた。


 そして、電話を閉じた。


 その頃。


 弟は自分の部屋で、古い夢を見ていた。


 夢の中では、煙が充満していた。


 白い煙。


 咳。


 泣き声。


 誰かの足音。


 そして、兄の声。


 ――泣くな。


 夢の中の自分は泣いている。


 兄は自分を抱きしめている。


 その向こう側に、父親が立っている。


 手にはタバコ。


 火がついている。


 赤い。


 熱い。


 怖い。


 弟は目を覚ました。


 汗をかいていた。


 首に手を当てる。


 火傷跡。


 そこだけが、まだ熱いような気がした。


 翌日。


 大学の研究室では、朝倉が花ヶ崎の資料を調べていた。


 そこで、一つの事実が分かった。


 花ヶ崎は離婚後、


 自分の子供たちについて一度も公に語っていなかった。


 それどころか、周囲には家族の存在そのものを隠していた。


「どうして……」


 朝倉は呟いた。


 研究者として成功していた。


 作家としても成功していた。


 学生からも慕われていた。


 その人生に、


 妻と子供だけが存在しないことになっている。


 不自然だった。


 朝倉は花ヶ崎の著書を一冊開いた。


 そこには、こんな文章があった。


 ――人は、言葉によって他者に自分を伝える。


 朝倉はページを閉じた。


 言葉によって伝えられる自分。


 言葉によって隠される自分。


 花ヶ崎は、どちらだったのだろう。


 その夜。


 私は、彼の部屋にいた。


 彼はまだ帰ってきていない。


 机の上には本がある。


 窓の外には、大学の明かりが見える。


 静かだった。


 私は机の上に置かれた紙を見る。


 そこには、花ヶ崎の名前が書かれている。


 何度見ても、嫌な名前だった。


 父親。


 先生。


 作家。


 研究者。


 いくつもの名前を持っている。


 でも、私にとっては一つしかない。


 父親。


 それだけだ。


 私は煙草を取り出した。


 火をつける。


 煙が上がる。


 白い。


 細い。


 まっすぐ上に昇っていく。


 昔は、この煙を見るだけで怖かった。


 今でも、少し怖い。


 それでも、火をつけた。


 火は小さい。


 指先で簡単に消せる。


 人間が扱えるほど小さい。


 でも、


 昔の私は、この小さな火を消せなかった。


 逃げることもできなかった。


 ただ泣いていた。


 兄も泣いていた。


 父親だけが、笑っていた。


 私は煙草を消した。


 灰皿を見る。


 黒い灰が残っている。


 その灰を指で押しつぶす。


 もう一度、名前を見る。


 花ヶ崎聖人。


 私は、その名前の横に小さく書いた。


 「終わり」


 そして紙を折った。


 次の日。


 弟と会った。


 いつもと変わらない顔をしている。


「おはようございます」


「おはよう」


「昨日、寝ました?」


「寝たよ」


「嘘ですね」


「なんで分かる」


「顔」


 二人で笑う。


 いつもの会話。


 いつもの時間。


 でも、


 もう以前とは違う。


 私は知っている。


 目の前にいる人間が誰なのか。


 そして、


 目の前にいる人間が何を失ったのか。


 ただ、まだ本人には言わない。


 言う必要がない。


 今はまだ。


 その日の夕方。


 花ヶ崎が研究室から出てきた。


 私たち二人を見つける。


「君たち、本当に仲がいいね」


 花ヶ崎は笑った。


 弟が答える。


「そうですね」


「何か共通点でもあるのかな」


 私は笑った。


「あるかもしれませんね」


 花ヶ崎は首を傾げた。


 そして、


「まあ、仲良くするのはいいことだ」


 そう言って去っていった。


 私は、その背中を見ながら考えた。


 仲良くする。


 その言葉が、妙に可笑しかった。


 彼は知らない。


 目の前にいる二人が、


 自分が傷つけた二人だということを。


 そして、


 その二人が、


 今は互いに支え合っていることを。


 私は弟を見る。


 弟は花ヶ崎の背中を見ている。


 拳を握っている。


 私は、その手を見る。


 震えている。


 怖いのだろう。


 当然だ。


 あの男は、弟にとって恐怖そのものなのだから。


 だから私は思った。


 私がやるべきことは一つだ。


 弟に、もう一度だけ選ばせる。


 逃げるのか。


 それとも――


 私は、まだ何も言わなかった。


 その夜。


 大学からの帰り道。


 私は一人で歩いた。


 ゆっくり。


 足を引きずるように。


 昔から変わらない歩き方。


 父親に壊された足。


 父親に壊された家族。


 父親に壊された弟。


 そして、


 父親に作られた私自身。


 私は空を見上げた。


 煙のような雲が浮かんでいた。


 しばらく見ていた。


 それから、携帯電話を取り出した。


 弟の名前を開く。


 メッセージを打つ。


 ――話したいことがある。


 送信する。


 数秒後。


 返信が来た。


 ――分かりました。


 私は画面を閉じた。


 もうすぐ、


 全部話す。


 自分たちが兄弟であること。


 父親が何をしたのか。


 そして、


 私が何を考えているのか。


 ただ一つだけ。


 まだ弟には伝えていないことがある。


 それは、


 花ヶ崎をどうするかということだった。


 私は歩き出した。


 夜の道を。


 足を引きずりながら。


 ゆっくりと。


 けれど、迷いなく。

# 第四章 火傷


 待ち合わせ場所に、弟は先に来ていた。


 大学の裏手。


 人通りの少ない場所だった。


 夕方の空は、もう暗くなり始めている。


「話って何ですか?」


 弟が聞いた。


 私は少し黙った。


 何から話せばいいのか分からなかった。


 いや。


 本当は分かっていた。


 ただ、口にするのが怖かった。


「お前の首の傷」


 弟の顔から笑顔が消えた。


「……はい」


「あれ、いつできた?」


「小さい頃です」


「誰にやられた?」


 弟は答えなかった。


 風が吹いた。


 木の葉が地面を転がる。


「覚えてないんです」


 弟が言った。


「本当に?」


「……少しだけ」


 弟は首に手を当てた。


「煙草の火だったと思います」


 私は目を閉じた。


 やっぱり。


 記憶の中の光景と一致する。


 泣いている弟。


 怒鳴っている父親。


 赤い火。


 そして、私。


 弟を庇おうとして、父親に殴られた。


「お前の母親は?」


「……母は、僕が小さい頃に父と離婚しています」


「父親は?」


「知りません」


「本当に?」


「顔も名前も、ほとんど覚えていません」


 私は弟を見る。


 しばらく黙った。


 そして言った。


「花ヶ崎聖人」


 弟の目が大きく開いた。


「……何で、その名前を」


「調べた」


 私はスマートフォンを見せた。


 そこには古い記録が表示されている。


 母親の名前。


 離婚時期。


 子供の年齢。


 そして、


 花ヶ崎聖人。


 弟は画面を見つめた。


「……父親?」


「ああ」


 弟は何も言わなかった。


 ただ、画面を見つめていた。


 しばらくして、


「じゃあ」


 と呟いた。


「俺が見たあの人は……」


「そうだ」


「父さん……?」


 その言葉が、夜の中に落ちた。


 私は弟に、全部話した。


 昔の家。


 父親の暴力。


 母親が家を出た日。


 自分が残されたこと。


 弟が連れて行かれたこと。


 そして、


 ずっと探せなかったこと。


 弟は黙って聞いていた。


 途中で何度か顔を伏せた。


 泣いているのかと思った。


 でも、泣かなかった。


「……兄さん」


 その言葉を聞いた瞬間、


 胸の奥が痛くなった。


「やっぱり、兄さんなんだ」


「ああ」


「ずっと……生きてたんですね」


「お前もな」


 二人とも笑った。


 泣きながら笑った。


 こんなに長い時間が経ってから、


 ようやく兄弟に戻った。


 その日から、私たちは昔のことを少しずつ話した。


 覚えていること。


 覚えていないこと。


 父親の声。


 母親の泣き顔。


 古い家。


 夜。


 煙草。


 そして、暴力。


 不思議なことに、


 話しているうちに記憶が増えていった。


 弟が思い出したことを、私が補う。


 私が忘れていたことを、弟が思い出す。


 ばらばらだった記憶が、


 少しずつ一つになっていった。


「兄さん」


「何?」


「父さん、昔と変わってないですね」


 私は答えなかった。


「俺を見ても、何も思わない」


「……そうだな」


「兄さんを馬鹿にして」


「……」


「何も覚えてない」


 弟の声が震えた。


「俺たちのこと、なかったことにしてる」


 その通りだった。


 花ヶ崎は、


 自分の過去を消していた。


 妻も。


 子供も。


 暴力も。


 全部。


 大学では善人。


 作家としては成功者。


 研究者としては尊敬される人物。


 しかし、


 その裏側にいる俺たちの存在だけが、


 最初からなかったことにされていた。


 私は言った。


「逃げるか?」


 弟が顔を上げた。


「何から?」


「全部」


「……父さんから?」


「ああ」


「逃げて、どうするんですか?」


「分からない」


 私は正直に答えた。


「でも、俺たちはもう十分だろ」


 弟は黙った。


 そして、


「兄さんはどうしたいんですか?」


 と聞いた。


 私はしばらく答えなかった。


 そして、


「俺は、あいつに終わってほしい」


 と言った。


 それが始まりだった。


 それから数日。


 私たちは花ヶ崎について話した。


 何をすればいいのか。


 何もしなければどうなるのか。


 警察に話すことも考えた。


 でも、証拠は少ない。


 昔の暴力。


 今さら証明できるものはほとんどない。


 花ヶ崎なら、


 「昔のことです」


 と笑うだろう。


 そして、誰もが信じる。


 善人だから。


 大学教授だから。


 文学賞を取った作家だから。


 そんな男が、


 家では妻と子供を殴っていた。


 その事実を、


 どれだけの人間が信じるだろう。


 私は分かっていた。


 信じてもらえない。


 だから、


 別の方法を考えた。


 弟は火を怖がった。


 それは知っていた。


 煙草を見るだけで手が震える。


 火をつけることも嫌がる。


 それでも、


 ある日、弟は言った。


「火なら」


 私は弟を見る。


「何?」


「父さんが一番怖がるものって、何だと思います?」


「……分からない」


「俺たちが怖かったものです」


 弟はそう言った。


 私は何も言わなかった。


「父さんが俺たちに使ったもの」


 弟は自分の首を触った。


「だったら、最後くらい」


 その先を言わなくても分かった。


 私は止めなかった。


 止める資格がなかった。


 計画は、単純だった。


 花ヶ崎が一人になる時間を狙う。


 研究室。


 そこには大量の本や資料がある。


 紙は燃える。


 火があれば、


 事故にも見える。


 そして、


 火災の原因がはっきりしなければ、


 事件として断定することは難しい。


 ただ一つ。


 問題があった。


 弟は火が怖い。


 それでもやると言った。


 私は、


 それ以上何も言わなかった。


 事件当日。


 朝倉直人は、大学に向かっていた。


 火災からしばらく経っていた。


 それでも、花ヶ崎の事件については終わっていない。


 朝倉は大学関係者から聞き込みを続けていた。


 誰もが同じことを言った。


 いい先生だった。


 優しい人だった。


 学生思いだった。


 そんな人が、


 家族に暴力を振るっていたなんて。


 朝倉は、その言葉を何度も聞いた。


 そして、


 自分自身も同じことを考えていた。


 証言が出ても、


 どこかで疑っている。


 本当に?


 何かの間違いでは?


 花ヶ崎がそんなことを?


 その感覚が、


 自分の中にあることに気づいていた。


 それでも、


 完全には捨てられなかった。


 夕方。


 弟は研究室の前にいた。


 手には小さなものがある。


 ライター。


 それを握る手が震えていた。


 深呼吸する。


 火をつける。


 一瞬、


 炎が生まれた。


 その瞬間、


 幼い頃の記憶が蘇った。


 赤い火。


 煙。


 首の痛み。


 父親の顔。


「……っ」


 手が震えた。


 火を消そうとする。


 しかし、指がうまく動かない。


 炎が揺れる。


 熱い。


 怖い。


 怖い。


 頭では分かっている。


 目の前にいるのは、


 昔の父親ではない。


 でも、


 身体は覚えている。


 逃げろ。


 逃げろ。


 逃げろ。


 そう言っている。


 弟は一歩下がった。


 そのときだった。


 何かが倒れる音がした。


 大きな音。


 棚が傾く。


 本が落ちる。


 弟は振り返った。


「……!」


 炎が広がった。


 予定していたものとは違う。


 思ったより早い。


 弟は火を消そうとした。


 しかし、


 手が動かない。


 怖い。


 足がすくむ。


 そして、


 棚が倒れた。


 轟音。


 出口が塞がれる。


 弟は息を呑んだ。


「……兄さん」


 しかし、


 ここには兄はいない。


 弟は逃げた。


 振り返ることができなかった。


 研究室の中。


 花ヶ崎は、倒れた棚を見ていた。


「何だ……」


 煙が広がる。


 炎が見える。


 出口へ向かう。


 しかし、


 そこには棚が倒れていた。


 押しても動かない。


「誰か!」


 叫ぶ。


 返事はない。


 煙が濃くなる。


 花ヶ崎は咳き込んだ。


 その瞬間、


 ふと、


 昔のことを思い出した。


 泣いている子供。


 怯えた目。


 小さな首。


 赤い火傷。


 そして、


 もう一人の子供。


 自分を睨みつけていた。


 花ヶ崎は、


 初めて理解した。


 自分が何をしてきたのか。


 だが、


 理解したときには遅かった。


 煙が視界を覆う。


 息が苦しい。


 花ヶ崎は倒れた。


 火は夜まで続いた。


 消防が到着したとき、


 研究室の中はすでに黒く焼けていた。


 本も。


 資料も。


 机も。


 棚も。


 すべてが焼けていた。


 そして、


 花ヶ崎聖人は死んだ。


 翌朝。


 朝倉は現場に立っていた。


 焼け跡を見る。


 倒れた棚。


 焼けた机。


 黒くなった床。


 そして、


 研究室の中央に残された灰。


「……事故、か」


 誰かが言った。


 朝倉は答えなかった。


 事故。


 確かにそう見える。


 火災が起きる理由はいくらでもある。


 古い配線。


 不注意。


 タバコ。


 しかし、


 朝倉の目は一点に止まった。


 床に落ちていた、


 小さな金属片。


 ライターの一部だった。


 朝倉はそれを拾い上げる。


 焼け焦げている。


 だが、


 何かがおかしい。


 その違和感を、


 朝倉はまだ言葉にできなかった。


 同じ頃。


 私は一人で歩いていた。


 弟とは別れた。


 何も話さなかった。


 話せなかった。


 足が震えていた。


 火の匂いがする。


 鼻の奥に残っている。


 私は立ち止まった。


 振り返る。


 遠くに、大学が見える。


 そこから煙が上がっていた。


 私は目を閉じた。


 これで終わった。


 そう思った。


 でも、


 胸の奥に残っていたのは、


 達成感ではなかった。


 恐怖だった。


 弟は大丈夫だろうか。


 捕まらないだろうか。


 あの火は、


 本当に事故として処理されるだろうか。


 そして、


 自分たちはこれからどうなるのか。


 私はポケットの中の携帯電話を握った。


 弟からメッセージが届いていた。


 短い文章だった。


 ――怖かった。


 私は画面を見つめた。


 返信を打つ。


 ――俺もだ。


 送信する。


 その日から、


 私たちはもう、


 昔の兄弟には戻れなくなった。


これで知った気になったのか、いいや、なにも分かっちゃいない。それくらい、みえないものをみようとして初めてみえてくる。みえないものを、みえないままに、みようとする

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