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あなたのために言うけれど

作者: 唯乃
掲載日:2026/05/03

 王都でも一、二を争う高級カフェ『ラ・セーヌ』。

 行き届いた手入れの庭園を望むテラス席で、エルゼ・ラングハイムは、親友を自称するミーナ・子爵令嬢から「忠告」を受けていた。


「エルゼ、あなたのために言うけれど、今のままじゃ、あの方はあなたに愛想を尽かすわ。最近、カイル様の周囲で『公爵家の事務官は、無能な女に務まるほど甘くない』って噂が流れているの、知ってる?」


 ミーナは心配そうに眉を寄せ、エルゼの冷え切った手を包み込んだ。

 柔らかな手のひらの裏で、ミーナの指先には力が込もっていた。痛い、とエルゼが思うすれすれで止める。その加減を、ミーナは昔から心得ていた。

 エルゼは、カイル・フォン・グレンツェ公爵の婚約者であり、同時に彼の膨大な政務を支える筆頭事務員でもある。それがミーナには、何年も前から我慢ならなかった。ただの平凡な伯爵家の娘が、自分より先に公爵の隣に立っている。それだけで、十分すぎる理由だった。


「……私の、仕事に不備があったかしら」


「あの方は『完璧』を愛する方よ。あなたのその、少しの計算ミスや、もたついた処理が、彼の完璧な世界に『ノイズ』を生んでいるの。……昨日の夜会の後も、カイル様は側近の方に『彼女の代わりはいくらでもいる』と仰っていたそうよ」


 ミーナは、エルゼの顔から血の気が引いていくのを、じっくりと観察した。ティーカップを口に運ぶ振りをして、その表情の変化を余さず愉しむ。エルゼの目の奥に、じわりと恐怖が滲む瞬間が、特に好きだった。

 誂えたように美しいレースのドレスも、窓から差し込む午後の陽光も、今日という日においては、すべてがミーナのための舞台装置でしかない。


 エルゼの胸が、鋭い氷を差し込まれたように痛んだ。

 カイル。灰色の瞳に理性の塊を宿した、冷徹な統治者。彼との会話は常に数字と論理に支配されている。エルゼは彼を愛していたが、同時に、いつか自分が「非効率」として切り捨てられるのではないかという恐怖に、常に苛まれていた。

 その恐怖の形を、ミーナは正確に知っていた。何年もかけて、親友の振りをしながら、丁寧に把握してきたのだから。


「大丈夫、私がついているわ、エルゼ。……まずは少し、休みなさい。明日提出の『大規模公共事業予算案』、私が下書きを確認しておいてあげる。あなたは少し、頭を冷やす時間が必要よ」


「……ありがとう、ミーナ。あなたは本当に優しいのね」


 エルゼは力なく微笑み、最重要機密であるはずの書類の写しを、親友に預けてしまった。

 ミーナは、伏せられたエルゼの視線の先で、口角を吊り上げた。抑えることが、もう面倒になっていた。

(そうよ。もっと不安になりなさい。もっと自分を疑いなさい。……あなたのその、気味が悪いほど正確な計算が、昔からどれほど目障りだったか。カイル様があなたを見るたびに浮かべる、あの微かな信頼の色が、どれほど憎かったか。……消えなさい、エルゼ。私が欲しいものを、全部持っていくあなたなんて)





 翌日。公爵邸の執務室。

 カイルは提出された予算案を一瞥し、地を這うような低い声で言った。


「……エルゼ。この四ページの、地方税の算定係数はなんだ」


「……え?」


「前回の会議で決定した数値と、〇・三パーセントの乖離がある。この誤差が最終的な予算案でどれほどの損失を生むか、君なら理解できるはずだ。……説明しろ」


 エルゼは凍りついた。ありえない。ミーナに確認してもらった後、自分でも三度は見直したはずだ。


「申し訳ございません。すぐに、すぐに修正を……」


「……三日だ。三日以内に、すべてのデータの整合性を証明しろ。できなければ、君にこの仕事を任せることは、もはや論理的な選択ではない」


 カイルの瞳には、一切の感情がなかった。

 エルゼは震えながら執務室を退室した。扉の外では、ミーナが待っていたかのように立っていた。


「エルゼ! 大変ね……。でも、カイル様が怒るのも無理はないわ。……ねえ、これ、カイル様の側近の方から聞いたんだけど、実はカイル様、もう新しい事務官の面接を始めているそうよ」


 ミーナは、エルゼの執務室から「原本のデータ」を密かに持ち出し、すでに細工を終えていた。

 エルゼがどれほど再計算をしようと、元となる「過去の帳簿」の数字がすり替えられている以上、答えは永遠に合わない。それだけではない。ミーナは三日分の猶予のうち、後半二日を完全に潰すため、三日目の夜明け前に帳簿へもう一度手を入れるつもりでいた。追い詰めるなら、完璧に追い詰めなければ意味がない。


「……私は、間違っていないはずなのに」


「数字は嘘をつかないわ、エルゼ。嘘をつくのは、いつだって『人間』……つまり、あなたの疲れ切った心よ」


 慰めの言葉を発しながら、ミーナは内心で欠伸をこらえていた。これほど簡単に崩れるなら、なぜ自分はこれまで六年も待たなければならなかったのか。あの男の隣に、こんな女が六年間いた。その事実の方が、よほど腹立たしかった。


 エルゼは、三日間の地獄に足を踏み入れた。





 期限の前夜。エルゼは限界に達していた。

 何度計算しても、目の前の数字は自分を裏切り続ける。


「……おかしい。この伝票の合計額、昨日はこうじゃなかった……」


 エルゼはふと、ミーナが「差し入れ」として持ってきた茶菓子が、いつも自分のデスクの決まった位置に置かれていることに気づいた。

 そして、自分が少し席を外した隙に、書類の束の順序が微妙に入れ替わっていることも。


(……もし。もし、私を疑わせることが誰かの『目的』だとしたら?)


 エルゼは、これまで積み上げてきたすべての「自分の実績」を信じることに決めた。

 彼女は、自分が書いたものではない、誰かが細工した「新しい帳簿」を横に除けた。そして、記憶の底にある数字と、自らの指先に染み付いた「計算の癖」だけを頼りに、数千枚の過去伝票をすべて手作業で照合し始めた。


 深夜二時。

 エルゼは、ミーナが隠したはずの「原本のすり替え跡」――ページの綴じ目に残る、わずかな糊の違和感――を見つけ出した。


「見つけた……っ!」


 だが、その瞬間。背後の扉が開いた。

 ミーナが立っていた。日中に見せる心配顔の仮面は、もうどこにもなかった。口の端だけで笑う、これまで一度もエルゼに見せたことのない顔をしていた。


「あら、意外に早かったわね。……でも、遅すぎたのよ、エルゼ」


 ミーナはエルゼの手から、執念でまとめ上げた照合メモを奪い取ると、躊躇なく暖炉に投げ込んだ。指一本、ためらいのない動きだった。


「ああっ!」


「証拠がなきゃ、カイル様は動かない。あの方は冷徹な『計算機』なのよ? 情に訴えたって無駄。……さようなら、エルゼ。あなたは明日、この国で最も有能な男に、最も無惨な形で捨てられるの」


 エルゼの三日間の血と涙が、炎の中で灰になっていく。

 ミーナは最後にもう一度だけエルゼを見た。膝から崩れ落ちそうなその姿を、頭の中に丁寧に焼き付けるように。それから、満足げに背を向けた。

 廊下を歩きながら、ミーナは既に明日のことを考えていた。事務官室をどう使うか。カイルの側に立つ自分が、どんな服を着るべきか。エルゼが六年をかけて積み上げたものを、自分はこの一週間で手に入れる。それが当然の結果だと、ミーナは疑いもしなかった。


 エルゼは膝をついた。

 証拠は、消えた。自分の無実を証明する術は、何一つ残っていない。





 翌朝。運命の刻限。

 カイルの執務室には、ミーナが自信満々に座り、エルゼが青白い顔で立っていた。

 ミーナは、わずかに背もたれに体を預けていた。まだ自分のものではない椅子に、もうすでに自分のものとして座っている。


「……さて。期限だ。エルゼ、説明を」


 カイルの問いに、エルゼは俯き、震える声で答えた。


「……データの整合性は、取れませんでした。私の力不足です」


「そうか。……残念だよ、エルゼ。君には期待していたんだが」


 カイルの言葉に、ミーナは胸の中で快哉を叫んだ。これで終わりだ。あとは自分が前に出るだけでいい。

 カイルはミーナに向き直り、信じられないほど柔らかな声で言った。


「ミーナ嬢。君が私に報告してくれた通りになった。……彼女はもう、限界らしい。代わって君が、この予算案の矛盾を指摘し、正しい数値を導き出してくれた。……素晴らしい出来だ」


「カイル様……! もったいないお言葉ですわ。あの子を支えるのは、私にとっても辛いことでしたの。本当に、胸が痛かったですわ」


 嘘だった。一秒も、一粒も、胸など痛んでいなかった。だがその言葉は、六年かけて磨いてきた技術で、完璧な真実のように聞こえた。


「君のような有能な人材を、子爵家に埋もれさせておくのは損失だ。……どうかな。君がエルゼに代わって、今日から私の専属事務官を務めてくれないか? これは正式な雇用契書だ。……君がここに署名すれば、すべては君のものになる」


 カイルが差し出した契約書には、破格の条件が並んでいた。

 ミーナは、エルゼに勝ち誇った視線を投げつけた。「見てる?」と言いたかった。「これが私で、あなたではないということ」と。

 震える手でペンを走らせながら、ミーナは六年間の全部を思った。あの女の隣で笑い続けた時間も、今日の踏み台だったのだと思うと、むしろ清々しかった。


「はい! 喜んでお受けいたしますわ!」


 ミーナの署名が終わった、その瞬間。

 カイルが眼鏡を指で押し上げ、冷たく微笑んだ。


「……よし。契約は成立だ。……では、事務官としての初仕事を始めようか。ミーナ嬢」


 カイルは、机の下から一台の魔導録音機を取り出した。

 再生されたのは、昨夜、ミーナがエルゼのメモを暖炉に投げ捨て、自らの犯行を誇らしげに語った音声だった。


「……君は、自ら署名したこの契約書の第十二条を読み落としたのか? 『虚偽の報告を以て事務官を陥れた場合、家門の全資産を以てその損害を賠償し、自らの全人生を公爵家への謝罪に捧げる』」


「な、……そんな……! カイル様、これは、あの子が罠を……!」


「違うな。罠を張ったのは私だ。……君が彼女の書類に細工をする様子、原本をすり替える瞬間。すべて、隠しカメラで記録済みだ」


 カイルは立ち上がり、絶望に顔を歪めるミーナへ、一歩ずつ死神のように歩み寄った。


「君は、私のエルゼがどれほどの熱量で、どれほど正確にこの領地の数字を守ってきたか、一度でも考えたことがあるか? ……彼女の計算には、領民の生活がかかっている。私の、そしてこの国の命運がかかっている。……君のような不純物が、その尊い数字を汚した。……それは万死に値する『非論理的行為』だ」


 カイルは、暖炉の灰の中から、燃え残った一枚の紙切れを取り出した。

 それは、エルゼが死守した「ミーナの指紋がついた伝票」だった。


「エルゼは、証拠を失ってはいなかった。……彼女は、君がメモを奪うことさえ計算に入れて、本命の証拠を私の元へ、昨夜のうちに届けていたんだよ」


 エルゼが、カイルの隣に静かに歩み寄る。その瞳には、もう迷いはなかった。


「……ミーナ。……さようなら」





 ミーナとその家門は、公爵家に対する詐欺と公文書偽造の罪で、その日のうちにすべてを失った。

 借金の返済のために、ミーナは一生を過酷な強制労働施設で過ごすことになり、彼女が望んだ華やかな生活は、永遠に解けない数式の彼方へ消えた。

 静かになった執務室。

 カイルは、疲れ切ってソファに座り込むエルゼに、不器用な手つきで温かい紅茶を差し出した。


「……三日間、地獄を味合わせた。すまない、エルゼ」


「……カイル様。私、本当に怖かったんです。あなたが私を捨ててしまうんじゃないかって……」


 カイルはエルゼの隣に座り、彼女の細い指を、壊れ物を扱うように包み込んだ。


「ありえない。……私は証拠主義だと言っただろう。……君がどれほど私のために尽くしてきたか。その『実績』の積み重ね以上に確かな証拠など、この世に存在しない」


「カイル、様……」


「エルぜ。君の計算ミスは許さないが、君が私から離れようとする計算違いは、もっと許さない。……私の人生という数式に、君は最初から解として組み込まれているんだから」


 二人の間に流れる時間は、どんな偽物も入り込めない、完璧な解で満たされていた。

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