追放された聖女は、穏やかに過ごしたい
大聖堂の鐘が鳴り響く。
それは、まるで終わりを告げる音のようだった。
聖都の大聖堂。その中央に私は立たされていた。
無数の視線が私に突き刺さる。
司祭たち、王族、多くの貴族、そして――婚約者の第二王子。
私の足元には、聖石の破片と血の跡。
これは、教会が仕立てた、私の罪の証拠だ。
聖石はひとりの聖女にひとつ、その能力を高め、発動するための媒体だ。
聖石を失った聖女は、聖女足りえない。
「聖女アイリス・カーディア。貴様は神託を私欲のために偽り、
王家を陥れようとした。その罪、許されると思うか?」
第二王子の声はよく通る。だが、どこか芝居がかっていた。
「しかも恐れ多くも聖石を汚すとは、神をも恐れぬ不届きものめ!
このような悪女、私の妃になどする訳にいかぬ」
「殿下、ご安心召されよ。我等が神は、新たな聖女を与えて下さっています!」
彼の隣には、金の巻き髪をした少女が立っている。
白い聖衣をまとい、艶やかに笑っていた。
――私の代わりの、新しい聖女。
滑稽だと思った。あまりにも用意周到過ぎる。
判決も、演出も、すべて決められている、まるで芝居をみているようだと思った。
そして、私はただ、黙ってそれを見ているしかない。
「何か言い残すことは?」
問われても、もう何も言う気もない。
何を言っても無駄だと、知っているから。
十歳の時、私は教会に「神の加護」を告げられ、その瞬間から、私は家族と引き離された。
公爵令嬢として生まれ育った私は突然の変化に戸惑い、焦り、独りぼっちになった。頼るもののない私は祈り、癒し、浄化。望まれるままに力を振るった。
豊富だと言われた聖力も酷使され、搾取され続けて、徐々に摩耗した。自分でもよく持ったと思うけど、最近は息も絶え絶えだった。そして代わりに得たものは何もなかった。
最低限の食事と、最低限眠れる場所だけが与えられた。朝早くに起き、掃除や雑事など、本来神官がやるべき事さえも押し付けられていた事を知ったのはごく最近だった。
公爵令嬢であることなど一切考慮されず、ただ「聖女」という檻の中で生かされてきた。
本当に生きているだけ。髪はぱさぱさで艶もなく、肌も乾燥して荒れている。
とても公爵令嬢どころか、貴族令嬢にさえ見えない有り様を、散々婚約者であるはずの王子や他の神官に嘲笑われていた。
「神の御心に背いた者は、王国から追放する」
高位司祭が冷淡に告げる。
裁きの象徴である金の杖が、私の足元を叩いた。乾いた音が、やけに響く。
――それが、聖女としての私の終わりだった。
この場に、家族はいない。彼らが呼ばれていないことも、最初から分かっていた。
教会と王家は、私を完全に処分するつもりなのだ。
家族に愛された記憶はあるけど、愛する家族とは滅多に合わせて貰えなかった。
司祭曰く、俗世に影響されないようにと言われたけど、王子は分かりやすく家族を脅しに使った。
家族が大事なら、大人しく従えと。
家族もまた、私を人質に取られて身動き取れないのだろう。家族と会える僅かな時間も監視されていたけれど、両親も兄もいつも辛そうにしていた。何度も謝られた。ミリアも、必死に泣くまいと我慢している顔しか見ていない。
願わくば、家族には咎が行かないように。私の事はもういいから、こんな狂った国から逃げて欲しい。
扉が開かれ、兵士に腕をつかまれ、引きずられるように連れて行かれる。
私は最後に、ちらりと王子を見た。
あの「聖女の加護」を求めていただけの王子を麗しいと、女性の神官たちは言うけれど、私には悪魔でしかなかった。
新しい聖女は、どのくらいもつのだろうかとも思ったけど、それも私には関係ないことだ。
馬車に乗ると、後ろから笑い声が響き、祝福の歌が流れる。
新たな聖女が王子の隣に立ち、周りが拍手する。
私は静かに目を閉じて、全ての音を締め出す。
……どうでもいい。
疲れ切って、乾いている私の心に響くものなど無かった。
遠ざかる馬車の中、冷たい風が頬を撫でた。
ひんやりしたその感触だけが、私がまだ生きていると実感させてくれる。
◇◆◇◆◇◆◇
馬車の車輪が、石畳を離れた瞬間、音が消える。
揺れも、光も、何もかもが遠のいていく。
気がつけば、私は薄暗い森の縁で、地面に放り出されていた。
兵士のひとりが冷たい声で告げる。
「この先は国境だ。ここから先、……せいぜい、生き延びろ」
意外にも優しい言葉を残して馬車が去ると、夜の静寂だけが残った。
土と草木の匂いを、風が運んでくる。
空には雲が広がり、月がぼんやりとかすんでいる。
私は立ち上がろうとして、すぐにまた膝をついた。
足元に絡みつく泥の冷たさが、妙に心地よかった。
生き延びろ……か。
生き延びてどうしろと言うのだろうかと呆然と座りこんでいた。
とは言え、そのままここにいる訳にもいかない。
なんとなく、歩き出す。
どこへ行けばいいのかなんて、考えない。
考えたところで、帰る場所などもうないし、ここがどこかも分からない。
手のひらには、聖女を示す跡が残っていた。
聖印――神の加護を示す印。
本来なら温かな光を放つはずのそれは、聖石を失い、今は灰色にくすんでいる。
まるで、私自身のように。
全て奪い取られた私は、この役に立たなくなった聖印そのものだ。
どれほど歩いただろう。作りの雑な靴の底が剥がれかけていた。
森に入ると、夜露に濡れた草が足を打つ。冷たい。不思議と、私はまだ生きている。
なんで私は生きているんだろうと思いつつも、死のうとは思えなかった。
やがて、木々の間から湖が見えた。
水面が月光を反射して、揺れている。そこだけが、まるで別の世界のように静かで美しかった。
私はふらふらと近づき、湖畔に膝をついた。顔を映す水面には、知らない自分がいる。
青い髪は泥で汚れ、瞳の金は光を失っている。それでも、確かに私だった。
――どうして、こんなにも空っぽなんだろう。
涙は出なかった。
泣き方を、もう忘れてしまったのかもしれない。
震える手で、僅かに残っている聖力を使って小さな結界を張る。
教会で叩き込まれた一番簡単な術式。聖石なしで発動できて良かった。せめて今夜だけでも、魔物が近づかないようにして休みたい。
でも、こんなになってもまだ死にたくないと思う自分が浅ましい。
光がゆらりと広がる。
自分を囲んでいただけのはずの結界の青白い膜が、湖を囲んで淡く輝いた。
呆然として見ていると、風が頬を撫でたような気がした。
優しい、温かな風だった。
――ああ、静かだなあ。
そう思った時だ。
どこからか、かすかな音がした。
……ぽうっ。
光? 火? いいえ、違う。
湖の上を、小さな青い灯がふわりと漂っていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ―― まるで星が降りてきたように。
その光が、私の指先に触れた。
あたたかい。
でも、それは炎の熱ではない。
胸の奥に広がる、なつかしいような温もり。
――アイリス
ふと、私を呼ぶ声が聞こえた。
誰もいないはずの森の中で、誰かが私を呼んでいる。
――アイリス
風が囁く。それは確かに、誰かの声だった。
瞼を開けると、淡い光が視界にちらついていた。
夜はまだ深く、湖は鏡のように静まり返っている。
けれど、そこに――淡く光るものがふわふわと浮いていた。
青、白、金、緑……
星屑のような輝きがゆっくりと輪を描き、私を囲んでいた。
「素敵……夢、かしら?」
呟くと、ひとつの光がふわりと近づいた。
それは人の形をしているようでもあり、ただの揺らめきでもあった。
けれど、確かに意志があった。
『泣いているの?』
声ではない。
でも、胸の奥に直接響いた。
「泣いては……いないわ」
思わず笑ってみせる。
泣き方なんて知らない。でも、自然と顔が笑みの形を作る。
何度となく、叩かれて身に付けた笑顔。
光は、少しだけ明滅した。
まるで、困っているみたいに。
『辛い時は、泣いていいんだよ?』
『アイリスは、頑張り屋さんだから。もう、我慢はしないで』
その言葉に、喉の奥が詰まった。
どうして、そんなことを知っているの?
知らないはずの誰かが、優しく触れてくる。温かい。
まるで抱きしめられているような温かさに、心がぎゅっとなる。
求めていたはずの温かさに、怯えてしまう。
この温かさを知ってしまったら、もう独りでいることに耐えられなくなるから、止めて、と言いたいのに言葉が出ない。
独りはもういや、独りは寂しいのだと、幼い頃に諦めた気持ちが溢れ出てくる。
「……あれ?」
指先が濡れていた。
涙。
それは、確かに、私の涙だった。
いつの間にか、泣いていた。溢れだした涙が、止まらない。
泣いたら怒られて、叩かれてしまうのに。
「どうして……どうして……?」
答えはなかった。
ただ、光たちがやさしく揺れながら、風とともに歌うように囁く。
『それでいいよ』
『あなたは、生きている』
『ようやく、心が動いたね』
胸の奥が、熱くなった。
張りつめていた何かが、少しずつほぐれていく。
私は膝を抱えて、空を見上げた。
木々の隙間から、幾千もの星が覗いていた。
こんなに広かったんだ、世界って。
私は、あの聖堂の狭い空しか、知らなかった。
「……ねえ、あなたたちは、何者なの?」
問いかけると、光のひとつが、私の掌に降りた。
冷たくも、熱くもない。ただ、優しい。
『私たちは、この森の精霊。あなたの力に惹かれた』
「……私の力?」
『強制された祈りの中でも、ずっと綺麗なまま、穏やかなあなたの声はいつも聞こえていた。
でも、傷ついていた心も、奪われ続けられる痛みも届いていたの。』
彼らの言葉が、胸の奥に染みる。
ああ、そうだ。
私は、聖女の務めを「義務」だと思っていた。
私の意思は関係なく、誰かを救うためじゃなく、命令だから。
そうして、いつの間にか――心が死んでいた。
「もう……祈れないと思ってた」
『無理に祈らなくていい。祈りたくなった時に、祈ればいいんだよ』
光が湖面へと舞い上がり、やがてその一つひとつが淡い花の形になっていく。
それは、青いアイリスの花だった。
私と同じ名前の花。
懐かしい。
家の庭にも、毎年この花が咲いていた。
妹が花飾りを作ってくれて、兄が笑って、母が撫でてくれた。
父は、不器用な笑みで「似合っている」と言ってくれた。
「……会いたいな」
ぽつりとこぼした言葉に、風が優しく答えた。
『会えるよ。あなたの家族は、あなたを探している。
彼等はあなたを心から愛しているから、すぐにここに辿り着くよ。
どんなに遠くても、心はつながっているから』
胸の奥が震えた。
忘れていた「温かさ」が、ゆっくりと心に沁みて戻ってくる。
「……そう、なのね」
私はそっと、湖面に手を伸ばした。
冷たい水が指先を包み、波紋が広がる。
その波紋の向こうに、青と金の光が溶け合う。
『おやすみなさい、アイリス』
その声を最後に、意識がゆるやかに沈んでいった。
こんなに、ふわふわと温かい気持ちで眠れる日が来るとは思わなかった。
それからの日々は、まるで夢のようだった。
精霊たちは私に触れるたび、まるで失われた温もりを取り戻すように微笑みかけてくれる。
透明な風の精が髪を撫で、水の精が肌を包み、火の精がかすかな灯りで夜を照らす。
言葉を交わさずとも、彼らの想いは伝わってきた。
――「ここにいていい」と。
教会での祈りは命令だった。
王子の隣での笑顔は義務だった。
けれど、今は、ただ息をして、生きているだけなのに赦されている。
ある夜、湖に映る自分の姿を見た。
青い髪は陽の光を吸い、星のように輝いている。
金の瞳はまだ痛みを宿していたけれど、それでも――かすかに笑っていた。
ちゃんと笑っているのは、いつぶりだっただろう。
貼り付けたような笑みを浮かべるのは得意だったのに。
「……私、生きてるのね」
囁くと、風の精が嬉しそうに舞い上がる。その瞬間、世界が柔らかく揺らいだ気がした。
精霊たちは、私の涙に祝福をくれるように光を散らした。
――そして、運命の糸は静かに動き出す。
湖についてから一週間後のこと、捜索の末に、私を見つけたのは兄だった。
憔悴しきった顔で、泥にまみれ、馬から転げ落ちるようにして私のもとへ駆け寄ってきた。
「アイリス……! やっと、や……っと見つけた!!」
兄が私を抱き締めたとき、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
ずっと押し殺してきた感情――恐怖も悲しみも、愛おしさも。
精霊たちに支えられて、ようやく戻った心を、感情を制御できす、涙が溢れた。
「……兄さま、こんなに泥だらけで。ご苦労されたでしょう?」
「お前こそ……! どんな思いで、どんなに辛い思いをしたか!
アイリスが無事で、本当に、本当に良かった……!」
兄の肩が震えていた。その姿に、改めて私は実感する。
――愛されていたのだと。
家族は、私を奪われ、追放されてなお、諦めていなかったのだと。
その夜、公爵家の陣営が湖畔に幕を張った。
久しぶりに見る母の姿に、言葉を失った。
痩せこけ憔悴していた、淑女の鑑とまで言われた母が、私を見るなり駆け寄り、そのまま抱きしめて泣き崩れた。
「アイリス!アイリス!!
ごめんなさい……! 守れなかった……母として、あなたを守れなかった……!」
私は静かに首を振った。
母の髪に触れる。その温もりが恋しかった――ただ、それだけだった。
「もういいの。お母様。私は、生きていますわ。
こうしてお母様やお兄様、ミリア、お父様、みんなで迎えに来て下さった……!」
母は涙を拭い、私の頬を両手で包んだ。
その瞳には、私と同じ金色の光が宿っていた。母とお揃いの金の瞳はずっと誇りだった。
父は、黙ってこちらを見ていた。
威厳に満ちた公爵の姿でありながら、目は優しく、涙で赤くなっていた。
無口だけど、とても優しい、思いやり溢れた父なのはよく覚えている。
「――よく、帰ってきたな。アイリス、我が娘よ」
それだけで十分だった。
その言葉が、ずっと欲しかった。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、公爵家の使者が王都へと送られた。
彼らが持ち帰ったのは、王家と教会に対する宣告――「断絶」の意志だった。
「聖女を冤罪で処刑し、国家の象徴を穢した王家には忠誠を誓わぬ」
「神の名を騙り、聖女を弄んだ教会に、我らは祈りを捧げぬ」
王国を支える最大の公爵家の離反に、王都は混乱に陥った。
第二王子は婚約破棄の責任を問われ、アイリスの後に聖女となった娘はアイリスほどの能力は無かったようで各地からの不満が教会に集まっていた。
聖女を手放した報いは、ゆっくりと、確実に国を蝕んでいく。
それでも、私は復讐しようとは思わなかった。
彼らが自らの罪に気づくなら、それでいい。犯した罪は犯した者が償うしかないのだから。
なによりも、私は彼らに関わりたくなかった。
奪われていた家族との時間を取り戻し、精霊たちと交流する日々が大事だ。
◇◆◇◆◇◆◇
私が保護されたのは、公爵家の領地と北に接する隣国との間、北の辺境伯の領地だった。
辺境伯もまた、アイリスへの非常な扱いと一方的な断罪に疑問を抱いていたため、快く公爵家一行を領地へと招き入れてくれた。
そのまま辺境伯家と公爵家は手を組み、お父様と辺境伯閣下は気があったようで合併ではないけど相互提携を行ったそう。
そして、私は心を取り戻した湖畔の地今も住んでいる。
ここはいつしか「青の領」と呼ばれるようになり、水と森が共に息づき、精霊たちが人々を守る場所となった。
私はここで、精霊と共に暮らし、精霊の協力を得て人々の病を癒やし、土地を豊かにしている。
時折、訪れる者が言う。
「この地の聖女は、微笑むと花が咲く」と。
――そんなことはないのに、と思いながらも、心のどこかで嬉しかった。
夜、湖に映る星を見上げるたび、精霊たちが寄り添ってくる。
水の精は私の頬に触れ、風の精は歌を紡ぎ、光の精は空に輪を描く。
「ありがとう……みんながいなければ、私はきっと壊れてた」
その言葉に、光が一層輝きを増した。
精霊たちは嬉しそうに輪を広げ、夜空に花のような光を咲かせた。
それは、まるで祝福のように――。
◇◆◇◆◇◆◇
夜が更け、湖が鏡のように星を映す。
私は湖の畔に座り、そっと膝を抱えて空を見上げた。
「……世界は、綺麗なんだね。こんなにも広い……」
風の精が頬を撫で、水の精が足元で波を描く。
まるで答えるように、湖が柔らかく光った。
その中心に、精霊たちの光が集まる。
金の粒が花弁のように広がり、静かに形を成す。
――青い花。
湖面に咲いたそれは、まるでアイリスの花のようだった。
光の中でゆらめき、やがて私の指先に降りて溶ける。
「……私の花」
私の声に呼応するように、風が吹き、森がざわめいた。
精霊たちは嬉しそうに夜空へと舞い上がる。
青の光が夜を染め、空に流れていく。
それはまるで――新しい夜明けを告げるかのように。
私は目を閉じ、そっと微笑んだ。
もう、聖女ではない。
一度全てを失ったけど、私はこの場所で、精霊たちに救われ、全てを取り戻した。
だから、今度は私も守れるようになりたい。
精霊たちと、愛する家族と、そして――私自身のために。
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