第7話/シナリオ地獄
会議室の空気は、最初の緊張感から一段と熱を帯びていた。
藤堂亮は資料のキャスト一覧を見下ろし、低く声を響かせる。
「山田剛は主役として安定感があるが、心の揺らぎを表現する場面も必要だ。戦闘シーンだけでなく、心理描写でも迫力を出してもらう」
俺は資料を押さえながら頷く。
「はい、山田さんなら過去のテレビシリーズでの経験もありますし、心理描写も対応可能だと思います」
岸本春男は古びた眼鏡の奥で目を光らせる。
「山田は良い。しかし、ローラの天然キャラをどう扱うかが問題だな。観客に不快感を与えず、かつ笑いと緊張を両立させる」
山上ローラはくるくると髪をかき上げ、ちょっと小声でつぶやく。
「えー、天然キャラって、そんなに難しいんですか……?」
俺は微笑みながら肩をすくめる。
「難しいけど面白い。藤堂監督の演出次第で化けるかもしれない」
田代美咲は赤ペンを握り、眉を吊り上げたまま声を荒げる。
「ローラさんの天然さは理解できますが、暴力的なシーンや過激描写に絡めるのは許されません!」
藤堂はゆっくり顔を上げ、低く笑う。
「君の心配は理解するが、迫力がなければ映画として成立しない。笑いと緊張の両立は俺の責任だ」
俺の頭の中で、血飛沫と赤ペンの嵐が交錯する。
「……やれやれ……胃が痛い……」
心の中で呟きながらも、会議を進行するしかない。
次に、鏑木一誠の演技適性が話題に上がる。
「鏑木は元悪代官役で人気が出た。悪の演技は得意だが、主役との絡みで改心の演出も必要になる」
岸本が眉をひそめ、資料に線を引きながら言う。
「テレビシリーズのイメージを引きずらせるなら、勧善懲悪の演出に寄せるべきだろう」
藤堂は赤ペンをちらりと見る田代に目を向け、低く笑う。
「倫理的な調整は君に任せる。しかし、画面に迫力を出すための演出は俺の信念だ」
田代は怒りを抑えきれず、赤ペンで資料を叩きつける。
「信念だけで暴力表現を放置するわけにはいきません! 台本に事前チェックを入れます!」
俺は深呼吸をし、資料を押さえながら、心の中でつぶやく。
「……この戦い、俺が板挟みになる構図だな……」
藤堂亮はさらに口を開く。
「敵役は矢田藤七。存在感は絶大だ。戦闘描写も心理描写も、この大御所の貫禄で引き締める。主役とのバランスは完璧だ」
矢田は静かに資料を見つめ、眉を少し動かしただけでうなずく。
「承知した。演出に従う」
俺は内心、胃の痛みを感じながらも、表情は平静を装う。
会議室の空気は、血飛沫と赤ペン、迫力と倫理のせめぎ合いで張りつめていた。
桐谷雅彦、プロデューサーとしての戦いは、キャスティング会議の段階で早くも最高潮を迎えていた。
この先、現場が始まったら、俺の胃は持つのだろうか——そんな不安が胸をよぎる。
会議室の空気は、最初の緊張感からさらに熱を帯びていた。
藤堂亮は資料を机に広げ、低く唸るような声で言う。
「主役二人の初戦は、斬撃の応酬と心理戦を同時に描く。血飛沫はスクリーンに飛ばす。視覚的迫力で観客を圧倒する」
俺は頭の中で血飛沫が飛び散る映像を思い浮かべ、胃がきゅうっと痛む。
「……いや、まだ台本も固まっていないのに、そんな……」
声に出す前に、藤堂は俺の動揺など眼中にないかのように続ける。
「敵の大名役、矢田藤七との決戦では、斬り合いの後、観客に罪悪感と戦慄を残す演出を入れる。ここで躊躇しては意味がない」
田代美咲は赤ペンを握りしめ、眉を吊り上げる。
「……何ですかそれ! 倫理的に許されません! 子どもや一般観客への配慮はどうなるんですか!」
藤堂は手を広げ、静かに笑う。
「倫理も大事だが、映画は衝撃を与えるものだ。迫力がなければ成立しない。観客を驚かせ、圧倒することが必要だ」
田代の赤ペンが資料を叩きつける音が会議室に響く。
「迫力? それは暴力ではありませんか! 過激描写の説明責任を取ってもらいます!」
俺は資料を押さえ、深呼吸を繰り返す。
「田代さん、落ち着いてください……ここは折衷案で、演出と倫理を調整します……」
藤堂は机に手をつき、低い声で田代を睨む。
「妥協はしない。俺の演出は信念に基づく。必要な迫力は必ず映す」
田代は一歩前に出て、赤ペンを振りかざしながら叫ぶ。
「信念だからって何でも通るわけではありません! 過激描写は事前にチェックを入れさせてください!」
俺は二人の間で体を小さくし、心の中で胃をさすりながらつぶやく。
「……俺の目の前が血飛沫で真っ赤になり、赤ペンの嵐が吹き荒れる……」
藤堂は資料のページをめくりながら、なおも低く語る。
「敵の親玉は矢田藤七。主役との絡みで、斬撃の迫力と心理描写の緊張を最大化する。妥協はしない」
田代は赤ペンを資料に打ち付け、額に皺を寄せながら言う。
「……どうしても通すんですか……そんな演出……!」
会議室の空気は、血飛沫と赤ペンの嵐、迫力と倫理のせめぎ合いで張りつめる。
俺は資料を押さえ、深呼吸を繰り返す。
「……この板挟み……胃が持つだろうか……」
藤堂はさらにページをめくり、にやりと笑った。
「さあ、次は斬り合いの細部だ。主役の手の動き、表情、血の飛び方……観客を震わせるために全て計算する」
田代は赤ペンを振りかざし、絶叫する。
「計算だろうが何だろうが、過激すぎます! 私は絶対に許さない!」
俺は席に沈み、頭を抱える。
「……俺、これをまとめるプロデューサーだよな……胃潰瘍が悪化するのも当然か……」
会議室には怒号、低い唸り、そして俺の心臓の早鐘だけが響き渡った。
桐谷雅彦の戦いは、まだ序章に過ぎない。
このキャスティング会議での板挟みこそ、映画作りの地獄の始まりだった。
会議室を出た途端、肩の力が一気に抜けた。
しかし、解放感より先に、胃の奥から鋭い痛みが走る。
数分前までの怒号、赤ペンの叩きつける音、藤堂亮の低く重い声――それらが頭の中でリフレインし、脳が熱を帯びるように疼く。
「……俺、これをまとめるんだよな……」
つぶやく声は小さく、震えていた。
手に持った資料は厚く、ページをめくるたびに血飛沫の演出案と倫理チェックの指摘が交互に襲ってくる。
ローラの無邪気な一言も、どこか遠くで響いているようだ。「最後に100人斬っちゃえばいいのに……」
あの発言の影で、藤堂はきっと満面の笑みを浮かべているだろう。
資料を机に置き、手を額に当てる。
「胃……痛い……」
酒を飲んで誤魔化すしかなかった前夜の自分を、心の中で軽く罵る。
しかし、今の状況で一番の敵は自分の胃だけではない。
藤堂の信念と、田代の赤ペンの嵐が、俺の心を二重、三重に締め付ける。
目を閉じると、会議中の光景が浮かぶ。
藤堂の目は冷徹で、静かに全てを計算しつくしているようだった。
「迫力がなければ映画にならん」
その言葉が、俺の胸の中でエコーのように繰り返される。
同時に、田代の声も甦る。
「過激すぎます! 私は絶対に許さない!」
赤ペンが資料に叩きつけられる音まで、頭の中でリアルに響く。
資料を押さえながら、俺は涙と笑いが混じったような奇妙な感情を抱く。
「……俺、これでいいのか……?」
書類を整理しようとする手が震える。
指先に力を入れてページをめくろうとしても、頭の中で血飛沫と赤ペンの嵐が暴れ、資料の文字が踊るように見える。
「……何とか……まとめなきゃ……」
震える声を小さく呟き、深呼吸を繰り返す。
机に置いたコーヒーのカップを手に取り、一口すする。
苦味が胃を刺激し、さらに痛みを誘う。
それでも手を止められない。
藤堂の信念は容赦なく映画全体を引っ張り、田代の赤ペンは制御不能の嵐となって俺の肩を叩く。
頭の中でシーンを整理する。
主役の斬撃、心理戦、敵の大名の迫力、ローラの天然キャラ、過激描写の限界線。
一つ一つの要素が、まるで巨大なパズルのピースのように絡み合い、解けそうで解けない。
「……俺……胃、持つか……?」
呟きながらも、俺は資料を片手に再びページをめくる。
この戦いは、キャスティング会議だけで終わるものではない。
映画完成までの長く険しい道のり――俺の胃も、心も、まだまだ試され続けるのだ。
窓の外に差し込む昼光が机の資料を照らす。
その光の中で、血飛沫も赤ペンも、藤堂の冷徹な計算も、田代の正義も、全部が混ざり合い、俺の胸に重く沈み込む。
桐谷雅彦の戦いはまだ始まったばかり――いや、序章に過ぎないのだ。
数日後、俺の机の上に小包が置かれていた。
差出人は岸本春男。封筒の手触りからして、分厚く、ずっしりと重い。
「……来たか」
小さく呟き、俺は深呼吸をする。
机の上で封筒を開けると、ページ数にして軽く百ページを超える脚本が現れた。紙の匂いは、古い時代劇の書き物の香りとも、インクの香りとも違う、独特の重みを帯びている。
俺は椅子に座り、ゆっくりとページをめくる。
最初の場面、主役の山田剛の登場から、藤堂亮の演出意図に沿う斬撃描写まで、岸本の文字は細部に渡って指示されていた。
「……さすが大御所……」
心の中でつぶやくが、同時に胃がきゅうっと痛む。
血飛沫の演出、心理描写、悪の改心の描き方、そしてローラの天然キャラの扱い方――すべてがページにぎっしり書き込まれている。
だが、ページをめくるごとに不安も湧き上がる。
藤堂が見たら、この斬撃描写で満足するだろうか。
田代が見たら、赤ペンが飛び交うに違いない。
「……俺、また胃潰瘍悪化しそうだ」
思わず肩をすくめ、コーヒーを一口すする。苦味が胃に染みる。
岸本の文字には独特の哀愁が漂う。
悪役を倒すだけではなく、人の心に問いかけるような台詞が多い。
「勧善懲悪に寄せるか、それとも改心の余地を残すか……」
俺はページの間で迷いながら、頭の中で藤堂亮と田代美咲の顔を交互に思い浮かべる。
血飛沫と赤ペンの嵐が、頭の中で再び暴れだす。
だが同時に、胸の奥にわずかな興奮も芽生える。
「……これを現実にできたら……面白い映画になるかもしれない」
岸本の筆致が、過去の時代劇の重みを残しつつも、現代的な迫力と心理描写を融合させていることを感じた。
ページをめくる手が止まらない。
ここに書かれた物語を、どうやって藤堂亮のビジョンに落とし込み、田代のチェックをくぐり抜けるか。
想像するだけで頭が痛くなる。
しかし、プロデューサーとして俺にできるのは、この完成稿を最大限生かすことだけだ。
机の上に並んだ脚本を見つめ、俺は深く息を吸う。
「……よし。やるしかない……」
胃の痛みも不安も、すべて背負いながら、桐谷雅彦の戦いは次の段階へ進む――脚本完成、そして現場への橋渡しだ。




