第4話/そりゃこうなる
桐谷雅彦――俺は、事前打ち合わせの名目で田代美咲を食事に誘った。
局の会議室では絶対にできない話が、居酒屋の薄暗い照明の下ならまだ少しは通じるかもしれない、と思ったからだ。
店に入ると、田代はすでに座っていた。背筋を伸ばし、手元にはスマートフォンと赤ペンが見える。
「桐谷さん、遅かったですね」
その声には冷たさがあり、普段の優等生的な正義感が、そのまま目の前に立っているようだった。
俺は深く息を吸い、テーブルに資料を広げる。
「田代さん、今日はちょっと……映画『闇の狩人』の現場について、事前に共有したいことがあって」
酒を勧めると、田代は一瞬迷った後、コップに手を伸ばした。
「……仕事ですから、少しだけ」
氷がカランと鳴り、二人の間にわずかに緊張が漂う。
俺は覚悟を決めて、藤堂亮の方針を伝える。
「藤堂監督……映像に妥協は一切せず、全ての演出を自分の信念で撮ると言っています。血も暴力も、表現として最大限追求するつもりです」
その瞬間、田代の表情が変わった。
目が一瞬で燃え上がるように光り、掌に握った赤ペンが机を叩く。
「……何ですって!? 血飛沫ですって!? 暴力表現ですって!?」
声が徐々に大きくなり、居酒屋の他の客もちらりとこちらを見やるほどだった。
俺は慌てて制止する。
「田代さん、落ち着いてください! これは……現実の現場です。監督の方針を前提に、対策を考えたいだけで……」
しかし田代の怒りは止まらない。
「落ち着く!? 桐谷さん、あなた本当に分かっているんですか!? そんな表現、絶対に許せません! 俳優もスタッフも危険に晒すかもしれないんですよ!?」
酒の勢いも手伝ってか、声はますます荒々しく、赤ペンを振り回すように机を叩き、資料の端がひらひらと舞う。
「誰が責任取るんです! 局が黙認するんですか!? これ、絶対に差別的で暴力的で……!」
俺は頭を抱えそうになる。
藤堂亮の怪物性、田代の烈火の如き正義感、そして現場の荒波——
頭の中で血飛沫と赤ペンの幻影が再び渦巻き、吐き気がこみ上げる。
「……わ、わかった……俺も最大限、田代さんの指摘を現場に反映させます……」
声が震える。
だが、田代の視線は、まだ消えていない。烈火のごとく燃えた赤い炎が、俺の胸に突き刺さる。
酒の香り、居酒屋のざわめき、赤ペンの軋む音——
全てが現実と幻覚の狭間で俺を押し潰す。
「……これが、藤堂亮の現場か……」
静かに呟き、俺は深く息を吐いた。
覚悟はしていたつもりだったが、田代の怒りの炎を目の当たりにして、現実の荒波はさらに苛烈であることを思い知らされた。
田代美咲の目が、まるで火山の噴火口のように赤く燃えた。
「桐谷さん、何を考えているんですか!?」
その声は居酒屋の天井まで届くんじゃないかという勢いで、俺の耳をつんざく。
赤ペンを握る手が、机を叩き、資料を散らす。
紙が宙を舞い、酒のグラスも微かに揺れる。
「血飛沫だと!? 暴力表現だと!? そんな映画、絶対に許せません! 俳優はどうなるんですか! スタッフはどうなるんですか!」
俺は何度も口を開くが、言葉が喉でつかえる。
「田代さん、ちょっと落ち着いて……俺も調整は考えています……」
しかし田代は聞かない。
声がさらに荒くなり、ペンを振り上げる手に力が入りすぎて、紙の端がくしゃくしゃになる。
「落ち着く!? ふざけないでください! 誰が責任取るんです! こんな映像、絶対に放送できません! 差別的、暴力的……いや、人道的にも許されない!!」
その勢いは増すばかりで、周囲の客もちらほらこちらを見てざわつく。
俺の頭の中に再び血飛沫と赤ペンの幻影が交錯する——
スクリーンには血が飛び散り、赤ペンが企画書を容赦なく切り裂く。
現実と幻覚の境界が消えかかり、胸の奥が締め付けられるように痛む。
「……わ、わかりました……田代さん……俺も最大限、考慮します……」
声が震える。
だが、田代の怒りは止まらない。
「考慮!? そんな生ぬるいことじゃ済みません! 桐谷さん、このままだと現場は大混乱です! 血も暴力も容認するつもりですか!? 俳優やスタッフを危険にさらすつもりですか!?」
俺は椅子に深く座り直し、額の汗を拭う。
心臓は早鐘のように打ち、息を吸っても胸が苦しい。
「……これが……藤堂亮の現場か……」
頭の中で血飛沫と赤ペンがうねり、逃げ場のない荒波が押し寄せてくる。
田代はさらに声を荒げ、最後にはグラスを軽く叩きながら叫ぶ。
「絶対に……絶対に、このままでは許せません……!」
俺はただ、深く息を吐くしかなかった。
この怒りの渦に、現場の荒波、藤堂亮の妥協なき意思、そして自分の責任——
全てが一度に襲いかかってくる。
「……俺は、どうすれば……」
椅子に沈みながら、俺は途方に暮れ、現実と幻覚の狭間で揺れる自分を感じた。
田代の叫びがようやく少し収まった。
息を荒げ、額に汗を浮かべ、机に突っ伏すようにして肩を震わせる。
その姿を見て、俺は静かにノートを閉じた。
「……田代さん、落ち着いてください」
声は低く、できるだけ柔らかく。
「怒りは分かります。俺も、俳優もスタッフも安全に撮影することが第一です。だから、今の段階でできる対策を一緒に考えてほしいんです」
田代はまだ震えていたが、少しずつ顔を上げる。
「……桐谷さん、本当にわかっているんですか……?」
声はまだ強いが、さっきの烈火のごとき勢いは徐々に和らいでいた。
俺は深く息をつき、頭の中で現場の状況を整理する。
藤堂亮の意思は妥協なきものだ。血も暴力も、映像表現として最大限追求する。
キャストは山田剛、ローラ、鏑木一誠と豪華だが、演技経験や安全面に差がある。
スタッフももちろん、過激な演出に対する備えが必要だ。
そして、田代のコンプライアンスの目も、現場では容赦なく回る。
「田代さん、まずは現場での安全策を具体化しましょう」
手元のノートにメモを取りながら、声に出す。
「血飛沫はCGか安全装置を使い、俳優には事前に全カットの流れを説明。スタッフには保護具を用意します。田代さんには現場で赤ペン役……じゃなくチェック役として、最初から監督の意図と合致しているか確認してほしい」
田代はまだ眉を寄せるが、少しだけ頷いた。
「……それなら、やれるかもしれません……」
声は小さいが、意思は確かだ。
俺はその頷きを受け取り、心の中で小さく安堵する。
「そして、藤堂亮には……」
俺は自分に言い聞かせるように続ける。
「妥協はさせない。だけど、危険は最小限に抑える。両立できる方法を考えるしかない」
酒の香りと居酒屋のざわめきが、少しずつ現実に戻してくれる。
頭の中の血飛沫と赤ペンの幻影は、まだ残っている。だが、それを恐怖だけで終わらせてはいけない。
俺の役目は、現実の現場を動かすこと。
荒波に立ち向かう船長のように、俺は覚悟を固めた。
「……よし。これで準備は整った。現場に行くしかない……」
深く息を吸い、手元のノートを胸に抱く。
田代の視線が鋭くも温かく、自分の背中を押してくれる。
「……やるしかない……藤堂亮の怪物現場を、俺がなんとか収めるんだ」
そして、俺は立ち上がった。
荒波の向こうに待つ血飛沫と赤ペンの嵐を、現場で初めて目の当たりにする前に、少しでも備えるために。
桐谷雅彦――ベテランプロデューサーの戦いは、ここから本格的に始まろうとしていた。
居酒屋を出る頃には、すでに身体中が重く、足取りもふらついていた。
酒のアルコールが、心臓の奥を熱く通り抜けると同時に、胃の奥から鋭い痛みが波のように押し寄せる。
俺は自分の体を支えながら、タクシーに飛び乗った。
「……やばい……」
呟く声も、痛みにかき消されそうだ。
胃の中で何かが焼けるように、じわじわと、そして強烈に疼く。
脳裏には、田代の烈火の如き怒声、藤堂亮の妥協なき宣言、頭の中で暴れる血飛沫と赤ペンの幻影が、ぐるぐると渦巻く。
自宅の玄関を開けると、無言の静寂が迎えた。
照明をつけ、玄関の靴を脱ぐ。足元までずっしりと重い感覚がある。
廊下をゆっくり歩き、リビングに倒れ込むように座った。
胃の痛みは一層強まり、思わず手で腹を抱える。
「うっ……うっ……」
唸り声がもれ、涙が自然と頬を伝う。
悔しさ、恐怖、責任感、疲労……すべてが一気に押し寄せ、理性が崩れそうになる。
でも、同時に笑いも混じる。
馬鹿らしいほどに状況は過激で、荒唐無稽で、現実感がなさすぎて、思わず声を出して笑ってしまう。
「……俺って……ほんと……バカだな……」
笑い声は嗚咽に変わり、泣き笑いとなる。
痛みで顔をしかめ、涙で視界を濡らしながらも、頭の中では次々と現場の問題点が整理されていく。
血飛沫、赤ペン、藤堂亮の演出、キャストの安全、田代の烈火の正義感……すべてが俺の頭の中で交錯し、まるで一つの戦場のようだ。
息を整えようと深呼吸するたび、胃の痛みが鋭く突き刺さる。
それでも俺は、泣き笑いの中で一つ決意する。
「……俺がなんとか……しなきゃ……」
誰にも頼れない、この現場を生き延びるためには、自分の全てをかけるしかない。
膝を抱え、天井を見上げる。
涙が頬を伝い、笑いの痕跡が唇に残る。
痛みと不安、責任感と恐怖が入り混じる中で、俺はこの奇妙な感覚をしばらく噛み締めた。
「……これが……俺の、仕事だ……」
時計の針は夜遅くを示している。
部屋には静寂だけが残り、俺の泣き笑いと荒い息が響く。
それでも、この苦悶の中で少しずつ、覚悟が形を帯びていった。
「……明日も……戦わなきゃ……」
俺は布団に倒れ込み、胃を押さえたまま、泣き笑いのまま夜を迎える。
荒波の前夜、桐谷雅彦の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。




