第3話/藤堂亮
会議室の空気は、息をするのも苦しいほど重かった。
俺は資料を握りしめながら、椅子に沈み込む。
山本和也を監督に据え、現場を安定させたい――その一心で準備してきた案は、上層部の一声で一瞬にして吹き飛んだ。
「桐谷君、藤堂亮で進める」
局長の言葉は、低く、断固として、まるで会議室の空気ごと押し潰すようだった。
俺は唇を噛む。反論の余地は、もはや存在しない。
頭の中で、テレビシリーズで築いてきた秩序と安定感が、音もなく崩れ落ちる音が響く。
岸本春男が、重々しくため息をつく。
「桐谷……やむを得ん。映画は挑戦だ。安定だけでは観客は唸らん。藤堂の独創性を生かすべきだ」
その声には、諦観と期待が入り混じっていた。大御所ならではの哀愁を帯びた説得力に、俺は押し潰されそうになる。
「しかし……藤堂監督ですと……血飛沫、ゴア表現……」
思わず吐きそうになる。
スクリーンに飛び散る血、町娘役の山上ローラの悲鳴、主演の山田剛の驚愕の表情——
すべてが頭に浮かび、胃の奥が締め付けられる。
「現場はどうなる……キャストは耐えられるのか……」
会議室には、局内スタッフの視線が俺に注がれる。
誰もが映画化の話題に胸を躍らせ、期待に目を輝かせている。
その熱気と俺の焦燥感が、まるで異なる世界に引き裂くようだった。
若手プロデューサーの一人が口を開く。
「藤堂監督なら、注目度も高く、集客も見込めますよ!」
「新しい映像表現で、シリーズの魅力も最大限に引き出せます!」
声には希望が溢れ、会議室の空気は祭りのように熱気を帯びていた。
俺だけが、孤独に、荒波に立つ船の船長のように孤立している。
「……俺の主張は虚しいのか……」
拳を握る。頭の中で、テレビシリーズの安定した闇の狩人の姿が、藤堂の過激な演出で変質する光景が目に浮かぶ。
血飛沫がスクリーンに飛び散り、田代美咲の赤ペンが飛び交い、岸本春男が眉間に皺を寄せる。
現場はまるで嵐の中の船のようになる――その予感が、俺の心臓を締め付ける。
「……やるしかない……」
深く息を吸い込み、目を閉じる。
孤独な船長のように、荒れ狂う海を前に立ち尽くす俺。
決定は覆らない。藤堂亮、あの過激で独創的な監督が、この映画を引っ張るのだ。
机に散らばる企画書、キャラクターメモ、スケジュール表を見下ろす。
その上で、俺は覚悟を決める。
「誰も死なせはしない……キャストもスタッフも、俺が守る」
震える手で資料をまとめ直し、深く息を吐く。
局内の熱気、岸本春男の渋い視線、若手スタッフの期待——すべてを背負い、俺は前を向くしかない。
廊下に出ると、若手スタッフの笑い声と歓声が弾ける。
「藤堂監督だ! 面白くなるぞ!」
「これで映画化も一気に盛り上がりますね!」
その声が、俺の孤独感を際立たせる。
だが、俺は心の中で静かに呟く。
「……荒波の上に立つ船長は、俺だけかもしれない……」
会議室のドアを閉める音が、静かに廊下に響く。
映画『闇の狩人』は、藤堂亮の過激なビジョンのもと、今まさに動き出す。
桐谷雅彦――テレビ局のベテランプロデューサーは、荒波の中で覚悟を決めた。
血飛沫、赤ペン、混乱、すべてを乗り越え、映画を完成させるために。
会議室を出ると、廊下の空気はまるで熱を帯びた湿気の中に漂うように重かった。
俺の手にはまだ資料が握られている。指先に力が入りすぎて、紙が少しヨレてしまう。
藤堂亮への決定は覆せない。
だが、まずは山本和也に電話を入れ、直接謝らなければならなかった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
指が震える。画面に山本の名前を表示させ、深く息を吸う。
「……よし」
俺は覚悟を決めてダイヤルを押す。
「……もしもし、山本さん……桐谷です」
電話越しに、山本の落ち着いた声が返ってくる。
「桐谷か……どうした、そんなに早い時間に」
平常心を装った声だが、俺にはその奥に穏やかさと疑問が混ざって聞こえた。
「……山本さん、本当に申し訳ありません。映画の監督は……藤堂亮に決まってしまいました」
言葉を吐き出すだけで、胸の奥が締め付けられる。
「……そうか……」
山本の声は静かだ。怒りも、失望も、驚きもない。ただ、淡々と、しかし深い重みを伴っていた。
「……俺の力不足で……安定した監督案を貫けず、申し訳ない……」
電話の向こうで、山本は長く息を吐く。
「桐谷……君のせいではない。局の判断だろう。俺は……わかっている」
その言葉に、俺の胸の奥で何かが崩れる音がした。
「……ありがとうございます……」
小さく呟き、電話を切る。
次にやるべきは、藤堂亮とのコンタクトだ。
局内の上層部からは、すでに「彼と直接連絡を取れ」と指示されている。
だが、藤堂の過激さ、予想もつかない演出、そしてゴア描写……想像するだけで胃が痛む。
「……やるしかない……」
俺は覚悟を決め、藤堂に電話をかける。
呼び出し音が鳴る。
「……もしもし、藤堂です」
低く、力強く、しかしどこか不敵な響きの声。
「藤堂監督……桐谷です。映画『闇の狩人』の件で……」
言葉を慎重に選ぶ。
「……ああ、話は聞いている。監督依頼、受けるぞ」
短く、しかし決意の籠った返答。
俺は息を飲む。
「……ありがとうございます。準備の段取りなど、近日中に打ち合わせを」
藤堂の声には期待と熱気が混ざっている。
「うむ。キャストの配置、セットの構成、演出プラン……全部聞きたいな」
電話越しに伝わるのは、荒波の予感。血飛沫の演出、町娘役の混乱、主演俳優の緊張——
想像するだけで、俺の胃は痛む。
「……わかりました。近日中にスケジュールを調整し、現場にて打ち合わせを」
震える手でスマホを握り直す。
電話を切った瞬間、深く息を吐き、肩の力を抜く。
だが、安心は一瞬。荒波の予感は、すでに俺の頭の中で渦巻いている。
山本への謝罪、藤堂への連絡——
二つの電話を終えた瞬間、俺は改めて自覚した。
「……映画『闇の狩人』は、ここから本当に地獄のような現場になる……」
孤独な船長のように、俺は廊下の光を見据え、覚悟を胸に刻んだ。
打ち合わせの日、会議室のドアを開けた瞬間、俺の胃は締め付けられるように痛んだ。
そこにいたのは、想像以上の存在感を放つ藤堂亮だった。
身長は高く、背筋はピンと伸び、瞳には底知れぬ光が宿っている。
そして、その目が俺をじっと捉えた瞬間、言葉を飲み込むしかなかった。
「桐谷君、来てくれたか」
声は低く、冷たく、しかし不思議な熱を帯びていた。
笑みを浮かべているのか、怒りなのか、それすら判別できない。
その瞬間、俺は理解した。藤堂亮は、ただの監督ではない——怪物だ、と。
「映画『闇の狩人』……映像に関して妥協は一切しない。俺の信念で、画面の一コマ一コマを撮る」
その言葉は、空気を震わせるほどの力を持っていた。
まるで会議室全体の時間が止まり、俺だけが現実と幻覚の狭間に立たされているかのようだった。
「……妥協は……しない……ですか」
声が震える。心臓が高鳴る。
「当然だ。脚本家の岸本春男の言葉も、テレビ局の意向も、関係ない。俺の映像を映す。それがすべてだ」
藤堂の指先が資料の束に触れ、その動きですら計算され尽くした演出のように見える。
その目は、スクリーンに映る血飛沫の一滴すら、完璧にコントロールできる者のものだった。
俺は深く息を吸う。
「……なるほど……理解は……しました……」
声に力はない。だが、頭の中で繰り返されるのは、スクリーンに飛び散る血、主演俳優の緊張、町娘役ローラの悲鳴、スタッフの混乱——すべてがリアルに迫る。
藤堂は資料をめくりながら、さらに言い放つ。
「桐谷君、予算や撮影スケジュールの制約? 知ったことではない。俺の映像に必要なら、道具も俳優もスタッフも、どんな手段でも使う」
その言葉の重みが、俺の肩にずしりと食い込む。
「……どんな手段……」
心の中で小さく呟く。
藤堂の瞳がさらに鋭く光る。
「そうだ。現実と虚構の境目を完全に崩す。それがこの映画の狙いだ。血も、暴力も、恐怖も——観客が息を飲む瞬間まで妥協はしない」
俺は椅子に座ったまま、額に汗がにじむのを感じた。
「……怪物だ……」
心の底からそう思う。テレビシリーズのときの安定感ある監督とは、もはや比較できない。
だが、俺は知っている。この怪物を前にしても、映画を成立させるのは俺の仕事だと。
「……ならば、俺が守らねば……キャストもスタッフも……」
藤堂は立ち上がり、資料を会議室の中央に広げる。
「桐谷君、まずはロケーションだ。ここで撮るには、このセットがどうなる、あのシーンでは照明をこう……」
言葉の一つひとつが、嵐のように押し寄せる。
俺はノートを取り、必死で書き留める。頭の中では、現場の荒波が既に渦巻いていた。
打ち合わせが終わるころ、俺は背筋を伸ばし、深く息を吐いた。
藤堂亮の怪物性——妥協を許さぬ圧倒的な信念——を目の当たりにした。
だが、俺には覚悟がある。
「……ここから地獄の現場が始まる……」
胸の奥で呟き、俺はノートを閉じ、荒波に立ち向かう準備を整えた。
藤堂亮の低く、鋭く響く言葉が、会議室の空気を一瞬で凍らせた。
「妥協は一切しない。俺の映像に必要なら、どんな手段も使う」
その瞬間、俺の目の前で頭の中の景色が反転した。
スクリーンに映し出される血飛沫——山田剛の額を赤く染め、ローラの白い顔に飛び散る濃厚な赤。
カメラは止まらず、俳優の息遣いを追い、悲鳴を増幅させる。
音楽も効果音もないのに、俺の耳には血がはねる鈍い音が響き、空気の重さが指先まで伝わる。
同時に、現実とはまったく異なる別の戦場が広がる。
田代美咲の赤ペンが、机の上の企画書を無慈悲に切り裂く。
「ここは差別的表現です!」「暴力的過ぎます!」「即刻修正してください!」
無数の赤線が、文字を蹂躙し、紙は血の海のように真っ赤に染まる。
血飛沫と赤ペン——二つの嵐が頭の中で衝突し、現実の輪郭をぼやけさせる。
俺の手は震え、膝はがくがくと震える。
「……どうすれば……こんな現場……」
声にならない声を胸に沈める。
想像するだけで、キャストたちの悲鳴や驚愕、ローラの天然トラブル、山田剛の静かな恐怖が、現実のように迫ってくる。
スタッフたちの不安な視線、カメラマンの困惑、照明スタッフの息づかい——
すべてが俺の頭の中で巻き起こる嵐となる。
机の上に広げたノートは、血飛沫で赤く染まった紙と赤ペンで無数の線が走る紙に変わり、ページをめくるたびに恐怖が増幅される。
俺は息を止め、椅子に深く沈み込むように座る。
背中の汗が畳まで伝わる感覚、肩の奥にずっしりと重くのしかかる責任——
全てを受け止めなければならないと、体中で理解する。
「……俺は……逃げられない……」
胸の奥で小さな声が囁く。
現場を統率するのは俺、キャストを守るのも俺、スタッフを導くのも俺——
荒波の中心で一人、孤独に立たされる船長のような感覚が、頭を支配する。
会議室の壁や机、天井すら幻覚に変わる。
蛍光灯の光が血の赤に変わり、窓の外の穏やかな日差しが、突如として赤い嵐の空に変わる。
現実と幻覚が交錯し、俺の心臓は早鐘のように打つ。
「……守らなきゃ……誰も死なせない……」
小さく呟き、拳を握りしめる。汗で濡れた手に、少しだけ力を込める。
そして、俺は覚悟する。
血飛沫の嵐も、田代の赤ペンの嵐も、藤堂亮の怪物的な演出も——
すべて現実になる前に、俺が受け止め、制御しなければならない。
「……荒波は、もう始まっている……」
会議室を出る前に、深く息を吸い込み、目の前の光景を脳裏に焼き付ける。
映画『闇の狩人』は、藤堂亮の意思によって、すでに地獄のような世界へと舵を切ったのだ。
俺は背筋を伸ばし、ノートとペンを握り直す。
血飛沫も赤ペンも、現実の嵐になる前に、俺が受け止める——
それが、俺がこの映画を完成させるための唯一の方法なのだ。




