第2話/打ち合わせからこれですか
電話の次は、局内の最も恐ろしい壁——コンプライアンス担当、田代美咲だ。
若手スタッフが笑顔でメールを開く横で、俺の手は微かに震えている。
「……よし、行くしかない」
深呼吸を一つ。スマホを取り、田代の番号を押す。
――カチッ、カチッ、カチッ、ツー……
「もしもし、田代さんですか。桐谷です……」
電話の向こうで、軽やかな声が響く。
「桐谷さん、どうしました? 今日も残業ですか?」
明るく、しかしどこか鋭利な声。田代美咲。
彼女の声には、正義感と規則への忠実さがびんびん伝わってくる。
俺は胃を押さえながら、ゆっくりと言った。
「えっと……その……『闇の狩人』、映画化が決まりまして……」
一瞬の間。電話の向こうで、微かな息遣いが聞こえる。
「……映画化ですか?」
声は柔らかいが、潜む鋭さは隠せない。
「はい。企画段階ではありますが、正式に進める予定です」
「なるほど……」
田代の声には、確かな注意力がこもる。
「ただ……テレビシリーズでは許されていた表現も、映画では慎重にならざるを得ません。桐谷さん、この点は大丈夫ですか?」
「……そ、それが問題なんです」
俺は小さく息を吐く。
「テレビでは通った刀の斬撃や町娘の行動も、映画では赤ペンで潰される可能性が……」
「赤ペン? ああ、そうですね。私の仕事は、差別表現、暴力表現、倫理面でのリスクを潰すことですから」
田代の声は明るく、しかし鉄壁のように冷たい。
「でも、正義のためです」
「……ええ、わかっています」
俺は俯き、肩の力を抜く。
「わかっていますが……胃が痛いんです」
電話越しに軽く笑われた。
「桐谷さん、心配いりません。私も赤ペンばかりじゃありませんから。面白く、かつ安全に届ける方法は必ずあります」
声に少しだけ温かみが混じる。
「……ええ、でも、現場の混乱は避けられないと思います」
俺の頭には、若手スタッフの飛び跳ねる声、ポスター案、岸本春男の低く哀愁ある声がぐるぐる回る。
「そこは桐谷さんの腕の見せ所です。プロデューサーなんですから、調整してください」
彼女は断言する。
俺は拳を握りしめ、苦笑する。
「はい……わかりました……やるしかないですね」
電話を切った後、俺の胃の奥はまだキリキリ痛む。
だが、少しだけ光が差した気もする。
岸本春男には任せられる。田代美咲にはチェックしてもらえる。
そして、若手たちの熱気も背中を押してくれる。
「よし……まずは第一波を乗り越える。映画はまだ企画段階だが……」
俺は机の上の白紙を見つめ、深呼吸した。
「次は……岸本さんとの初打ち合わせ、具体的な脚本作り……」
廊下の歓声と笑い声が聞こえる。
局内は祭り騒ぎだ。
その熱気の中、俺だけが孤独な船長のように、未知の映画の海に一人立たされている。
そして、まだ見ぬ嵐と戦いながら、俺はペンを握るのだった。
午前十時、局内の会議室に俺は一歩踏み入れた。
大きな長机の向こうには、岸本春男が静かに座っている。年季の入った革の手帳を開き、ペンを握る指先が微かに震えているのがわかる。まるで、これから戦場に赴く武士のような空気を纏っていた。
「おはようございます、岸本さん。桐谷です」
「おぅ、桐谷……来たか」
彼の声は低く、少しだけ哀愁が漂う。長年、時代劇を作り続けてきた男の余裕と疲労、そしてまだ消えぬ情熱が混ざった声だった。
会議室の蛍光灯は、やや白く硬い光を放っている。窓の外では、早朝の都会の喧騒が遠くに聞こえる。俺は深呼吸を一つし、テーブルの書類に目を落とした。
「さて……映画化です。テレビシリーズでの成功を踏まえ、映画ではキャラクターの掘り下げをもっと深く、物語を一本に凝縮したいと考えています」
俺の声はやや震えていた。気負いだけが先行する。
岸本は目を閉じ、指先で手帳のページをなぞる。
「桐谷……映画は一発勝負だ。テレビのように数十話でキャラクターを育てる余裕はない。一作で全てを語らねばならん。尺、緊張感、人物描写……どれも妥協できん」
その低い声に、俺の心臓は一瞬跳ねる。
「はい……そこは承知しています」
俺は手元の企画書を指で押さえ、息を整えた。
「主役の山田剛さんは、テレビシリーズで寡黙な闇の狩人として人気を博しました。しかし映画では、彼の過去や心理をもう少し掘り下げ、観客が共感できる構造にしたいのです」
岸本は目を開け、俺を見据えた。
「ふむ……なるほどな。だが、キャラクターの深掘りはな、簡単ではないぞ。セリフ一つ、表情一つで全てが決まる。俺はその重さを知っている」
俺は頷き、手帳にメモを取る。
「もちろんです。テレビと映画は違います。全てが一作で勝負……責任の重さは、十分承知しています」
言葉に自分を励ますように力を込める。
岸本は少し笑った。
「ふん……若いのに、肝は据わっているな。だが、桐谷……映画は現場も違う。俳優たちも疲労し、意見も多い。監督の意向、演出の都合、スポンサーの要求……数々の壁が待っている」
俺は息を吐き、頭をかく。
「……承知しています。ですが、俺たちはテレビシリーズで培った経験を生かし、最高の映画を作りたいんです」
「桐谷……お前の熱意はわかる。だがな……」
岸本はペンを手に取り、手帳に何かを書き込む。紙に落ちるインクの音が、会議室に静かな緊張感を作る。
「面白くするには、時代劇の王道も外せん。だが、昨今のコンプライアンスや社会的配慮も無視できん。難しい注文だな……」
俺は小さく息を吐く。
「はい……それが現実です。正直言って、胃が痛くなるくらいです」
岸本は微かに笑った。
「それでいい。心配するな。桐谷、俺はまだ死んではいない。時代劇を愛し、物語を作る心は残っている。だが、お前も覚悟せよ。映画の現場は甘くない。ペンを投げたくなる瞬間は何度も来る」
「……はい。それでも、やり遂げます」
俺は拳を軽く握りしめた。
岸本は書き込みを終え、手帳を閉じる。
「よし、まずはプロット案をまとめ、キャラクターの軸を決める。桐谷、お前の仕事は……それを皆に伝え、現場を回すことだ」
俺は深く頷き、胸の奥に湧く覚悟を感じた。
「わかりました……岸本さん、よろしくお願いします」
「よし……楽しみにしているぞ。テレビの枠を超えた闇の狩人を、共に作ろうではないか」
会議室の空気は、緊張と期待が入り混じった熱気で満ちていた。
蛍光灯の光に照らされる書類の上で、俺は深呼吸を一つ。
「よし……これで、映画化への第一歩だ。現場の混乱も、コンプライアンスの壁も、全部俺が乗り越える……」
窓の外、都会の喧騒が遠くに聞こえる中、俺は一人、未知の海に漕ぎ出す船長のような気分で座り直した。
この先には、ペンを投げる岸本春男、大混乱の現場、そして赤ペンを振り回す田代美咲との戦いが待っている。
だが、俺はもう覚悟を決めていた。
会議室から戻った俺のスマホが震える。
画面には局の上層部からの通知。「至急、監督候補に関する指示あり」。
深く息を吸い、背筋を伸ばす。まだ企画段階だが、ここで監督が決まらなければ、映画は現場にすら進めない。
「……やっぱり来たか」
俺は一人、廊下の壁に手をつき、気持ちを落ち着ける。
頭の中では、岸本春男の低く哀愁ある声、田代美咲の赤ペンの視線、若手スタッフの熱狂的な声がぐるぐる回っている。
その全てが、重く胃を圧迫する。
上層部との電話会議は、文字通り“戦場”だった。
「桐谷君、今回の『闇の狩人』映画化だが、監督候補を二名ピックアップした。我々としては、映画としての成功はもちろんだが、テレビシリーズのファン層も失いたくない」
低く落ち着いた声が、電話越しに耳を突き刺す。
「……承知しました」
俺の声は自然と小さくなる。
「候補の一人は、テレビシリーズの常連ディレクター、山本和也。安定感はあるが、新しい挑戦にはやや慎重すぎるかもしれない」
「はい……」
山本和也の名前を聞いた瞬間、俺の胸の奥で微かにため息が漏れる。確かに安定はするが、映画化のスリルには少し物足りない。
「そしてもう一人は、新進気鋭の映画監督、藤堂亮。独創的な演出で業界内外で評価されているが、扱いは荒い。主演俳優や大御所脚本家との相性が未知数だ」
俺の胃がキリリと締まる。
「……藤堂亮……」
名前だけで現場が荒れる未来が浮かぶ。テレビ局の上層部としては挑戦の意味で推すのだろうが、俺としては、心臓の奥で警報が鳴る。
「桐谷君、君の判断も重要だ。我々としては、スピード感を持って決定したい」
電話越しの声に、無言の圧力を感じる。
「……わかりました。現場とキャストとの兼ね合いもありますので、慎重に判断します」
電話を切った後、俺は会議室の窓際に立ち、外の街を眺める。
ビルの谷間を行き交う人々は、無邪気に日常を生きている。
その平穏とは裏腹に、俺の頭の中ではキャストと監督、脚本家との関係がぐるぐると絡み合い、映画化の海は荒れ狂う。
「山本か……藤堂か……どっちを選べば、岸本さんと若手キャスト、そして田代美咲を納得させられるんだ……」
俺の心は焦燥でいっぱいだ。
それでも、プロデューサーとしての俺の役割は明確だ。決断し、現場を回すこと。
手元のスマホを握り直す。
「まずは、両候補の過去作を洗い、脚本家と主演の相性を考える……」
机の上に散らばる企画書、キャラクターメモ、スケジュール表を眺めながら、俺は決意を固める。
映画『闇の狩人』はまだ企画段階だ。だが、ここから全てが動き出すのだ。
廊下の壁に耳を傾けると、若手スタッフたちの興奮した声が漏れてくる。
「すごいな……映画になるんだ」
「主演も豪華だし、絶対観たい!」
熱気が溢れる現場と、俺の胃の痛み。
その狭間で、俺は深く息を吸った。
「よし……まずは、監督候補の調整だ。ここで間違えば、全てが崩れる……」
孤独な船長のように、俺は荒れ狂う海原を前に立ち尽くす。
そして、覚悟を胸に、最初の航路を決めるのだった。
会議室から戻った後も、俺の頭の中は渦巻く思考でいっぱいだった。
山本和也を監督に据えよう——安定感は抜群だ。俳優たちも慣れているし、現場の混乱も最小限に抑えられる。胃の痛みも多少は和らぐだろう。
しかし、局内の空気は徐々に、藤堂亮へと傾きつつあった。
岸本春男が口を開く。
「桐谷、藤堂亮の手腕は侮れんぞ。大胆で斬新な演出が、闇の狩人をスクリーンで生き生きと動かすだろう」
俺の胸がざわつく。大胆……斬新……だが、藤堂の過去作といえば、血飛沫、残虐描写、グロテスクな映像のオンパレードだ。テレビシリーズでは決して許されなかった、あの「リアルな血の飛び散り」を映画で再現される……想像するだけで胃の奥がキリキリと痛む。
局内でも、プロデューサー席から見下ろす上層部は興奮気味だ。
「藤堂監督なら、若手キャストの魅力も最大限に引き出せるはずだ。映画化で話題になる」
「テレビシリーズとは違ったインパクトを与えたい」
耳を塞ぎたくなるほどの熱気。
皆が口を揃えて「藤堂なら面白くなる」と言う中で、俺は必死に反論の材料を探す。
「でも、藤堂監督だと……ゴア描写、過激すぎます……」
胸の内で、心の声が震える。現場で役者が怯え、田代美咲が赤ペンを振り回す光景まで、容易に想像できる。
「スクリーンに血が飛び散る……キャストは耐えられるのか……」
岸本春男は渋い顔でうなずく。
「その通りだ。だが、映画は挑戦だ。桐谷、安定ばかりでは観客は唸らん。藤堂の才能を生かすことも考えねばならぬ」
俺はテーブルに手を叩きたくなる衝動を抑える。
「わかってはいる……わかってはいるんだが……」
頭の中で、テレビシリーズでの穏やかな闇の狩人、山田剛の寡黙な魅力が、スクリーンで藤堂によって過激に描かれる姿がフラッシュバックする。
血飛沫が飛び散り、町娘の山上ローラが危うく吹き飛ばされる……そんな映像が、目に浮かんで吐き気がこみ上げる。
局内の誰も、俺の胃の痛みまでは知らない。
笑い声と歓声に包まれたオフィスの中で、俺は孤独な船長のように、荒波の上に一人立たされている。
安定か、それとも挑戦か——選択の重さは、まるで心臓を締め付けるようだ。
「桐谷……どうする?」
岸本の視線が俺を射る。鋭く、そして温かくもある。
「……藤堂……か……」
小さく呟く。心の中では拒否したい衝動と、理性で押し返す覚悟がせめぎ合う。
「だが、現実は……彼に傾いている……」
俺の視界にはすでに、スクリーンに飛び散る血飛沫の映像、叫び声、田代美咲の赤ペンが舞う姿がちらつく。
「やはり、胃に穴が開くのは避けられないのか……」
孤独な船長の心臓が、荒波の上で跳ねる。
だが、それでも俺は決めなければならない。映画『闇の狩人』は、ここから始まるのだ。
俺は会議室の椅子に腰を下ろし、頭を抱えた。
山本和也に直接連絡を入れ、映画『闇の狩人』の監督候補としての意向を聞かなければならない。
だが、局内では藤堂亮への傾きが日に日に強まっている。
胃の奥が締め付けられる感覚が、今日も俺を襲う。
「山本さん……もしもし、桐谷です」
電話越しに、山本の落ち着いた声が返ってくる。
「桐谷か……おう、どうした?」
安心感すら漂う声だ。山本は、テレビシリーズで俺たちが築き上げた安定の象徴だった。
「……映画化の話が来ていまして、是非監督としてお願いしたく……」
声が少し震える。だが、理性で押さえる。
「映画……とな。なるほど、面白そうだが……」
山本は少し間を置く。
「ただ、俺は大掛かりな演出や過激な表現は苦手だ。テレビの延長なら安心だが、映画は……どうなるのだ?」
俺の心臓が跳ねる。まさに俺が懸念していたことだ。
「……そこなんです。山本さんの安定感は、現場にとってもキャストにとっても、絶対に必要なんです。ただ……局内では藤堂監督に傾いていて……」
言葉を飲み込みながらも、正直に告げるしかない。
「藤堂……か」
山本の声が低くなる。聞き慣れた名前が、俺の胸をさらに重くする。
テレビシリーズで許された表現ではない、血飛沫、残虐描写……藤堂の得意技は、正直に言えば俺の胃には毒だ。
「そうなんです……藤堂監督なら大胆で斬新な演出は期待できますが、血や暴力が際立つ……」
俺は目を閉じ、思考を整理する。
「山本さんにお願いしたいんです。安定感と現場コントロールのために」
一瞬の沈黙。電話の向こうで、山本が深く息を吐く。
「桐谷……わかった。だが、君の判断は正しいと思う。だが現場はもう……藤堂に傾きつつあるのか」
「……はい、局内も岸本春男も、藤堂を推しています」
俺の声はかすかに震える。
「桐谷……お前、大変だな……」
山本は苦笑する。だが、その声には優しさが滲む。
「わかっている……しかし、俺にはやるしかないんだ……」
俺は机に拳を叩く。周囲には若手スタッフの歓声が漏れる。彼らは映画化の熱気に胸を躍らせ、まだ現実の困難に気づいていない。
「局内は藤堂推し……岸本さんも『挑戦だ』と言う……血飛沫、過激な演出……想像するだけで胃が痛む……」
電話を切り、俺は会議室の窓の外を見る。
朝の光が都会のビルを照らす中、俺だけが荒波の上に立つ船長のように孤独だった。
安定か、挑戦か、正義か、現実か——すべてが桐谷雅彦の肩にのしかかる。
机の上には、企画書、キャラクターメモ、スケジュール表が散らばる。
そして、テレビシリーズの岸本春男の手書きメモ——大胆な演出への期待と、伝統への執着——が俺の目に飛び込む。
「これをまとめ、現場を動かし、キャストを守る……」
深く息を吐き、俺は拳を握る。
「……映画『闇の狩人』は、ここから始まるんだ。血飛沫も、赤ペンも、全部俺が受け止める……」
廊下の向こうから、若手スタッフの笑い声と歓声が聞こえる。
俺は肩を竦め、孤独な船長のように現場の荒波を見据える。
「よし……まずは山本をどう説得するか、次の作戦を考えよう……」
そして俺の頭の中で、映画の荒れ狂う海が、静かに、しかし確実に広がっていった。




