第18話/ワールドプレミア
ワールドプレミアの日――
俺はホテルのスイートルームで、スーツの袖を何度もまくり直していた。手のひらは汗で湿り、胸の奥は締め付けられるように痛い。胃の奥も鈍く重く、昨日までの宣伝ラッシュや編集地獄が今、全て押し寄せてくる。
「……俺、こんなに緊張したの、いつぶりだろう」
つぶやきながら、手鏡で顔を確認する。表面上は冷静を装っているが、瞳の奥は真っ赤に燃える不安で揺れていた。
会場は夜の煌めきに包まれ、レッドカーペットにはカメラのフラッシュが無数に光る。
スタッフたちが最後の準備に追われる中、キャスト陣はそれぞれの立場で緊張を隠せずにいる。
山田はいつも通り静かで、肩の力も抜けているように見えるが、俺には彼の微かな手の震えが見えた。
鏑木は落ち着いたふりをしているが、時折視線を泳がせ、ローラはなぜか笑顔を振りまきつつも、時折手が小刻みに震えている。
俺は胸の中で何度も深呼吸を繰り返す。
「大丈夫だ……大丈夫だ……いや、やっぱり大丈夫じゃねぇ……」
声に出さずに自分を励ます。だが、鼓動は高まり、緊張で指先まで冷たくなる。
藤堂も現場に姿を現す。黒いスーツに身を包み、相変わらず表情は不敵だ。目つきは鋭く、観客とカメラを一瞬で捕らえるその存在感は圧倒的で、俺の緊張をさらに押し上げる。
「桐谷君、今日の舞台は完璧だ。あとは観客が何を感じるかだけだ」
低く響く声に、俺の胃がさらに締め付けられる。
「完璧……ですか……」
心の中で呟く。完璧という言葉の重さに、俺は笑うしかなかった。
会場の外では、報道陣が待ち構えている。フラッシュとマイクの嵐が押し寄せるイメージが頭の中で再生される。
「またあの混乱が起きたらどうする……ローラは……田代は……」
頭の中で無数のシナリオが渦巻く。胃の痛みはさらに鋭くなり、手のひらの汗がスーツに滲む。
スタッフに促され、俺たちはレッドカーペットへと歩き出す。
フラッシュの光に照らされ、観客の歓声が耳を震わせる。
「……俺、今、映画の地獄の全てを背負ってるんだな……」
心の中で叫ぶ。緊張の頂点に達した俺の全身が、硬直するほど力が入る。
ローラが隣で笑顔を振りまき、山田が静かに隣に立つ。
鏑木も落ち着いた表情だが、俺には全員の微細な緊張が伝わる。
そして藤堂は、相変わらず不敵な笑みを浮かべて、観客席のライトを見つめる。
「さあ……ここからだ……」
俺は拳を握り、胸の高鳴りと胃の痛みを押さえつける。
ワールドプレミアの幕が、今まさに上がろうとしていた――。
舞台挨拶が始まった瞬間、会場の空気は華やぎと緊張で満ちていた。俺は袖からキャストたちの姿を眺めながら、まだ胃の奥に残る鈍痛を押さえつつ、息を整える。
ローラがマイクを握り、いつもの笑顔を振りまく。しかし、その笑顔の奥には何か企みめいたものがあるのを俺は直感で感じた。
「皆さま、今日は映画『闇の狩人 百人斬り』のワールドプレミアにお越しいただき、ありがとうございます!」
観客の拍手が鳴り響く中、ローラは軽く頭を下げた。山田も隣で静かに会釈する。
司会者が次の質問を促す。
「キャストの皆さん、今回の撮影はいかがでしたか?」
ローラが微笑みながら口を開く。
「ええ……とっても楽しかったです。山田さんと……」
その瞬間、観客席からどよめきが起こる。俺の胃がキュッと縮む音まで聞こえた気がした。
「私たち、実は……入籍しました!」
え、な、何だって……?
俺の頭の中で信じられない言葉が反響する。ローラの声は確かに「入籍しました」と言った。会場は一瞬で騒然となる。フラッシュの光がバチバチと光り、マイクの音が割れるほどの歓声と驚きの声が交錯する。
俺は息を飲み、思わず後ずさる。
「え、ええっ……」
心の中で何度も反芻するが、頭の整理がつかない。胃がさらに重く締め付けられ、脳内の血流が一瞬止まったような感覚だ。
ローラは笑顔のまま、さらに続ける。
「そして……授かり婚でもあります!」
観客席が拍手と歓声で揺れ、報道陣が一斉にカメラを向ける。フラッシュの嵐が俺の視界を真っ白に染める。
俺は手で顔を覆い、膝に力を込める。
「……なんで今……なんでこのタイミングで……」
頭の中で怒り、困惑、絶望、呆れ、全ての感情が渦巻く。胃の痛みはもはや鋭利なナイフで突かれるようで、呼吸も乱れる。
山田は無表情でマイクを持ち、低く静かに言った。
「突然で驚かせてすみません。ただ、この映画の公開に合わせて皆さんに報告したくて……」
ローラが手を握り、山田に軽く頷く。その穏やかな表情が、俺の混乱をさらにかき乱す。
藤堂は舞台袖から薄く笑みを浮かべ、俺の視線を一瞥する。
「桐谷君、計算通りだろう?」
その声が背後から冷たく響き、俺は思わず床を見下ろす。計算通り……?藤堂の笑みは、まるで俺の混乱を楽しむかのようだ。
田代も赤ペンを握る手が震え、口を押さえている。どうやら彼女も驚愕しているらしい。
「……これも宣伝効果の一部……?」
俺は半分呆れ、半分怒りを覚えつつ、心の中で叫ぶ。
「誰か俺を殺してくれ……いや、殺さなくてもいい、せめて胃を切ってくれ……」
観客は拍手と歓声で大盛り上がり。報道陣は一斉に質問攻めを開始するが、俺は肩で息をしながら、頭の中で必死に整理するしかなかった。
ローラと山田――二人の関係が映画と全く関係ないどころか、公開前からここまで劇的に世間を揺るがすとは。
俺はふと、心の底で悟った。
「……この映画、俺の管理下で収まるか……いや、もはや無理だ……」
そして、目の前の舞台挨拶で笑顔を振りまく二人を見ながら、俺は胃の痛みと緊張で額に冷や汗をかいたまま、深く息をつくしかなかった。
頭の中で、山田のあの言葉がぐるぐる回っていた。
「ローラと別れる決心がつきました」――あの言葉は一体何だったんだ?
俺は手で額を押さえ、椅子に沈み込むようにして考える。
あの時、山田は真剣そのものの表情で、俺にそう告げた。俺はそれを信じ、映画の撮影や宣伝を進める覚悟を決めたはずだった。
だというのに――目の前で、ローラと山田が笑顔で肩を並べて入籍を発表し、しかも授かり婚だと?
頭が真っ白になり、思考が一瞬停止する。信じられないという気持ちと、怒り、呆れ、困惑が一気に押し寄せて、胸の奥で何かが崩れ落ちる音が聞こえそうだった。
「……俺、何を信じて動いてたんだ……」
自分の判断が全て無駄だったかのような喪失感に、胃の鈍痛がさらに増幅される。血の気が引き、視界の端がぼやけていく。
さらに追い打ちをかけるように、会場の熱気は完全に二人に持っていかれていた。報道陣も観客も、歓声とフラッシュの嵐も、質問も――全てがローラと山田のニュースに集中している。
俺は言葉を失い、手のひらで顔を覆う。
「……映画の話、全然見てもらえてない……俺たちの苦労は、編集作業は、二ヶ月に及ぶ撮影は、百人斬りのシーンは……全部……?」
心の中で叫ぶが、口からは何も出ない。視界に映るのは、笑顔で手を振る二人と、歓声に沸く観客席、そしてカメラのフラッシュだけ。
理性は必死に「落ち着け」と叫ぶが、感情はそれを押しつぶす。腹の奥で胃がえぐられるような痛みを感じ、頭の中で血管が破裂しそうな勢いで思考が渦巻く。
「……パニックだ……完全にパニックだ……」
俺は心の中で呟きながら、両手で頭を抱え、何度も深呼吸を繰り返す。
全身の力が抜け、椅子に座ったまま膝を抱え込む。肩越しに舞台の二人を見るたび、胸が締め付けられ、胃がきりきりと痛む。
映画の宣伝のためにここまで走り抜けてきた俺の努力が、今、この瞬間、全て霞んで消え去っていくようだった。
「……誰か助けてくれ……いや、誰も助けてくれねぇ……俺、どうすりゃいい……」
心の中でそう叫ぶだけで、声は出ず、俺は完全にパニックの渦の中に飲み込まれていった。
フラッシュの光が目に刺さる。記者たちの質問が耳にぶつかり、歓声が脳を揺らす。全てが音となり、色となり、俺の意識をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
「……俺、このままじゃ倒れる……」
胃の痛みと動悸、精神の混乱が、俺の体と心を完全に支配していた。
その瞬間、目の前のスクリーンに映画の予告映像が流れ始める。あの百人斬りのシーン……藤堂の演出……編集作業……全てが、このパニックの渦の中で、俺の心をさらに追い詰めていく。
俺は椅子に沈み込み、頭を抱えたまま、ただただ、心の中で叫ぶしかなかった。
あれだけパニックになり、胃を握りつぶされる思いをした舞台挨拶から数日が経った。俺はまだ胃の鈍痛を抱えつつも、ニュースやSNSの情報を追っていた。
最初は、ローラと山田の入籍報道で映画の話題がすべて持っていかれたとき、もう全部終わったと思った。俺の努力も、藤堂の狂気の演出も、百人斬りの壮絶なシーンも――誰にも伝わらないだろう、と絶望していた。
しかし、驚くことに、映画は意外にも評判が上々だった。
観客の反応は熱狂的で、SNSには「百人斬りのシーンが凄まじい」「藤堂監督、狂ってるけど天才だ」「山田とローラの入籍報道も映画の魅力に拍車をかけた」といった声が次々と投稿されている。
俺は手元の新聞の映画評面を見て、目を疑った。
「桐谷プロデューサーの調整と藤堂監督の演出が奇跡の融合」――評論家たちはそんな見出しで映画を絶賛していた。
さらに、興行収入ランキングでは、公開週にして早くもトップに躍り出たという。ローラと山田の入籍報道が話題を呼び、映画館に足を運ぶ観客が増えたらしい。
俺は椅子に深く座り込み、頭を抱えたまま、ぽつりと呟く。
「……まさか、こんな形で評価されるなんて……」
胃の痛みを抱えたまま、心の中には信じられないほどの安堵と、微かな達成感が混ざっていた。
藤堂の狂気じみた演出も、百人斬りの圧倒的映像も、キャストたちの混乱も――すべてが結果として映画を盛り上げる要素となったのだ。
俺としては、相変わらず現場の混乱やローラと山田の騒動に振り回されてきたが、ようやく手応えを感じることができた。
「……こんな形で、俺の二ヶ月間の胃潰瘍地獄も報われるのか……」
思わず苦笑いが漏れる。手のひらで額を押さえ、肩を落とす。胃はまだ痛むが、心は少し軽くなった。
俺はキャストたちの姿を思い浮かべる。山田とローラの笑顔、藤堂の得意げな笑み、岸本の頷き――すべてが、奇妙な達成感の中で一つに繋がる。
「……誰が予想しただろう。映画も、俺も、ここまで辿り着くなんて」
思わず苦笑と感嘆が混じった声が、病室の静寂にこだました。
映画は完成し、公開され、興行も好調――桐谷雅彦の戦場はようやく落ち着きを見せ始めた。しかし、心の奥にはまだ、藤堂の演出、百人斬りのシーン、そしてローラと山田の動向への警戒心がくすぶっている。
「……いや、油断はできねぇ……この二人、まだ何かやらかしそうだ……」
そう思いながらも、俺は初めて、ほんの少しだけ安堵の息を吐いた。