第17話/試写会
夜はさらに深くなり、編集室の空気はもはや酸素が薄いのではないかと思えるほど重い。モニターの光が青白く室内を照らし、桐谷の頭はぼんやりと揺れる。背中の鈍痛と胃の圧迫感は増す一方で、手元のマウスを握る指先は震え、入力ミスが増えていた。
「このカット……やっぱり血糊が多すぎる!」
田代の声が突如、耳に刺さる。彼女は赤ペンを握りしめ、モニターを覗き込みながら怒鳴る。
「倫理的に、この暴力表現は絶対に削るべきです!」
その横で藤堂は椅子に腰を落としたまま、腕組みして唇の端を吊り上げる。目の奥に燃える炎のような光があり、全く引く気配がない。
「削れない。削るなんてあり得ない。これは美学だ。倫理だのなんだの言うなら俺がこの場で全員の正義を叩き潰す」
俺は頭を抱え、椅子に突っ伏す。心の中で叫ぶ。
「もう……勘弁してくれ……誰か俺を殺してくれ……」
編集室には緊張が張りつめ、スタッフたちは微動だにせず、目の前の光景をただ見守るだけだ。山田は眉をひそめ、手元のスクリプトを握りしめる。ローラは椅子に座ったまま、青ざめた顔で息を整え、鏑木も腕組みしたまま黙り込む。誰も口を挟めない。藤堂と田代の間で編集室はまさに戦場だった。
「桐谷……あのさ、無理に調整しなくても……」
小さな声でスタッフが言うが、俺はただ手を振り、震える声で答える。
「……俺がやる……俺が何とかする……」
だが、どれだけ修正しても田代の赤ペンは止まらず、藤堂の怒号も止まらない。映像の一コマ一コマに対し、田代は倫理や年齢制限を持ち出して徹底的に指摘し、藤堂はそれを受け入れることなく、演出の正当性を叫び続ける。俺は目の前のモニターを見つめ、心の中で数字を数えながら、気を紛らわせるしかなかった。
「……あと何時間……いや、あと何日……」
俺は心の中で呟く。目の奥に焦点が合わず、視界の端に赤ペンが揺れて血のように見える。藤堂の腕の動きはすべて斬撃に見え、モニターの百人斬りのシーンは現実と混ざり合う。俺の脳内では、血糊が飛び、刀が振るわれ、田代の赤ペンが斬撃のように飛んでくる幻想が交錯する。
「桐谷! このカットは絶対に削れない! 君も理解しているはずだ!」
藤堂の声が現実に戻し、俺の背筋を冷たく走る。
「分かってます……分かってますけど……田代が……!」
俺は手を振りながら呻く。田代は怒りで顔を真っ赤にし、赤ペンを振り上げて反論する。
「藤堂さん、倫理を無視してはいけません! これは教育的配慮に反します! 子どもたちに悪影響が出ることは許されません!」
編集室の空気はさらに張り詰める。スタッフは汗をかき、呼吸は荒く、役者たちの顔には疲労と恐怖が入り混じる。俺の胃痛はMAXに達し、胸の奥で何かが裂けるような鈍痛が走る。
俺は床に膝をつき、頭を抱えたまま天井を見上げる。遠くで聞こえる救急車のサイレンが、まるで俺の心臓の鼓動のように聞こえる。
「……誰か、俺を助けてくれ……」
心の中で再び叫ぶ。声にはならない。俺はただ、手元のマウスを握り、映像の修正を続けるしかなかった。
しかし、その狂気のような編集作業の果てに、少しずつ映像は完成に近づく。百人斬りのシーン、血と汗と刀の迫力、藤堂の執念、田代の正義――すべてが混ざり合った結果、唯一無二の作品が形を取り始める。
俺は膝をついたまま、微かに息を吐く。痛みと疲労で視界が揺れるが、目の前の画面には、二ヶ月の血と汗と怒号の結晶が映っている。
「……生きてる……俺……みんな……」
涙と笑いが入り混じり、俺は荒い息をしながら自分の限界をかろうじて越えていた。
試写会後、会場を出た瞬間、空気が現実に戻る。
俺の頭はまだモニターの光に焼き付いたままで、目の奥に血糊や斬撃の残像がちらつく。肩の力は抜けない。胃の鈍痛はまだ残り、疲労と達成感が交錯して、身体は鉛のように重い。
「桐谷さん……」
背後から田代の声がする。振り返ると、赤ペンは置かれているものの、彼女の表情は硬直したまま。いつもの鋭さは影を潜め、恐怖と困惑が混ざった瞳で俺を見ている。
「……どうします?」
田代が小声で言う。
「どうするって……どうもこうもねぇだろう。もう試写は終わったんだ」
俺は肩をすくめ、疲れ切った声で答える。だが心の中では、コンプライアンス部の最終判断がこれから降りてくることが、まだ大きな不安として残っている。
数日後、局の会議室に再び全員が集まった。
藤堂はいつもの冷徹な眼差しで資料を見つめ、山田は手元のスクリプトに視線を落とす。ローラや鏑木も緊張した面持ちで席についている。
そして、田代をはじめとするコンプライアンス部が席につく。手には修正チェックの一覧表と、赤ペンを携え、まるで戦場の司令官のようだ。
「……今回の映画ですが、倫理的に問題がある箇所があります」
田代の声は静かだが、そこには怒りとも警告ともつかない鋭さがある。
藤堂は眉をひそめ、声を荒げる。
「問題? 何が問題なんだ? 俺の演出がリアルだと言うのか? それが映画というものだ!」
俺は両者の間に挟まれ、心の中で溜め息をつく。胃が痛む。頭の奥が熱くなる。
しかし、会議は進むにつれ、コンプライアンス部も一定の妥協点を見つけ、修正は最小限で済むことが判明する。血飛沫や斬撃のシーンも、倫理基準を微調整するだけで公開可能との判断だ。
田代の赤ペンが数本飛ぶが、藤堂の演出はほぼ温存される。
俺は肩の力を少し抜くことができた。だが、心臓はまだバクバクと音を立て、胃の奥の鈍痛は消えない。
会議が終わり、全員が退室する中、俺は一人残って窓の外を見る。夜の街の光が静かに瞬き、遠くで救急車のサイレンがかすかに響く。
「……生きてたな、俺……」
小さく呟く。膨大な編集作業、現場での混乱、田代との攻防、藤堂の狂気――すべてが、ここに至るための道だったのだと理解する。
その瞬間、携帯が震える。画面には藤堂からのメッセージ。
「次の企画、そろそろ考えろ」
俺は深く息を吸い込み、肩の痛みを押さえ、拳を握る。心の中で小さく笑う。
「……次か。次も、地獄の日々になるんだろうな……」
しかし、どこかで覚悟ができている自分もいる。もうこの局の時代劇、藤堂、田代、役者たち――誰が相手でも俺は乗り越えられると、薄く笑った。
膨大な地獄を経て、俺は知った。映画作りとは、狂気と戦うことだ。
だが、完成した作品のスクリーンに映る光景を見た瞬間、俺は理解した。すべての混乱も、怒号も、胃痛も、赤ペンも、血飛沫も、すべてはこの感動のためにあったのだ、と。
俺は窓の外の夜景に向かって、小さく拳を握る。
「……よし、次もやるか……」
そして、夜風が頬を撫でる中、俺は次の挑戦に向けて、静かに息を整えた。
映画公開に向け、俺たちは宣伝ラッシュの渦中にいた。
テレビ出演、雑誌取材、ラジオ、イベント――全てにキャストたちは駆り出され、スケジュールは過密そのものだ。
俺は日程表を握りしめながら、胃の奥の鈍痛を押さえつつ、スケジュール調整と現場管理に追われる。
「……もう、俺の寿命は何年減るんだろう……」
呟きながら、次の取材会場に車で向かう。
山田は相変わらず寡黙で、笑顔も少ない。だが、ローラは元気すぎるほどに舞い上がっている。
鏑木はマイペースに周囲を気にしながら動き、藤堂は映画の露出度や宣伝効果にのみ頭を巡らせている。
そして、田代はあいかわらず俺の肩を睨みつけるかのように、チェックリストと赤ペンを握りしめている。
ところが、事件は突然起きた。
ローラが雑誌の取材中、勝手にカメラマンに向かって突拍子もない行動を取ったのだ。
「ちょっと、そこに座ってくださいって言ったでしょ!」
俺は思わず声を荒げるが、ローラは満面の笑みでカメラに向かって身を乗り出し、スタイリストの注意もまるで耳に入らない。
「えー、桐谷さん、どうしてそんなに怒ってるのー? 面白い写真が撮れるチャンスじゃないですか!」
ローラの無邪気な声が会場に響き渡り、取材スタッフは困惑の声を上げる。
俺は深くため息をつき、頭を抱えた。胃の奥が痛み、昨日の試写会後の疲労が一気に押し寄せる。
「おいローラ、今は映画の宣伝中だ。勝手なことをすんな!」
俺の声は怒号に近くなる。だが、ローラは楽しげに笑うだけで、動きは止まらない。
山田が静かに近づき、ローラの腕に手をかけるが、彼の手の力では制御しきれない。
「ちょっと落ち着け、ローラ……」
俺は心の中で叫ぶ。
「誰か俺を殺してくれ……こんなトラブルメーカーを抱えて宣伝なんて……!」
藤堂は後方から薄く笑いながら、腕を組んでいる。
「面白いじゃないか、桐谷。こういうハプニングも宣伝の一部だろ?」
俺は怒りで顔が熱くなる。血圧も上がり、胃痛が鋭く波打つ。
取材現場は混乱の渦となり、スタッフはローラを押さえつつ、桐谷は指示を飛ばす。
「カメラマン! その角度は止めろ! ローラ、そこから下がれ! スタイリスト、髪が乱れたらすぐ直せ!」
怒号が飛び交い、スタッフもキャストも、俺の指示とローラの行動の間で振り回される。
その時、田代が静かに前に出てきた。
「桐谷さん……あなたの管理能力にも限界があるようですね」
彼女の冷たい声は、まるで刃物のように俺の心に刺さる。
俺は両手を振り上げて、深く息を吸う。
「分かってる……でも、ローラをどうにかするのは俺しかいないんだ……!」
場内は騒然としたまま、ローラは楽しげに笑い、山田は諦めたようにため息をつく。
俺は心の中で泣き笑いしながら、次の取材に向けて気を引き締める。
「……誰か俺を本当に殺してくれ……」
しかし、これも映画の宣伝の一部だと自分に言い聞かせるしかない。
ローラという天然のトラブルメーカー、藤堂の狂気、田代の赤ペン、山田と鏑木の沈黙――すべてが、この映画のプロモーションという名の地獄に組み込まれているのだと、俺は悟る。
ローラの騒動は、現場では一瞬の混乱を生んだものの、後でSNSやネットニュースに瞬く間に拡散された。
「桐谷さん……見てください、Twitterが大騒ぎです」
マネージャーの一人がタブレットを差し出す。画面にはローラがカメラに身を乗り出す瞬間の写真が並び、コメント欄には「天然すぎる」「面白すぎる」「映画絶対観る」といった書き込みが溢れていた。
俺は目を丸くする。あの混乱が、まさかここまで反響を呼ぶとは思わなかった。
「……ちょっと待て……これ、宣伝になるのか?」
声に出して自分でも驚く。混乱と怒号に包まれた現場の惨状が、ネット上では楽しげなトラブルとして伝わっているのだ。
山田はいつもの無表情でタブレットを覗き込み、ぽつりと言った。
「……映画の注目度は上がったな」
俺はその言葉に、心臓の奥がわずかに軽くなるのを感じた。
藤堂は後ろで腕を組んだまま、いつもの冷徹な笑みを浮かべている。
「桐谷君、これこそ計算通りの宣伝効果だ。ローラの天然ぶりは、現代の観客にはたまらないんだよ」
俺は思わず目を白黒させる。計算通り……藤堂はあの混乱を意図していたのか。
田代は相変わらず眉をひそめている。赤ペンを手に、ため息混じりに小声で言う。
「……でも、桐谷さん、これを狙って現場でやらせたわけじゃないでしょう?」
俺は首を振る。
「狙ったわけじゃねぇ……完全にローラの天然だ……」
しかし田代は目を細め、どこか冷徹な目で画面を見つめる。
「……天然も時として最強の武器になるのね……」
現場は騒然としていたが、俺の頭の中は少しずつ整理されていく。
ローラのトラブルは予期せぬ形で映画の宣伝になり、視聴者の興味を引き、話題性は確実に上がった。
「……くそ……嬉しいんだか腹立つんだか分からねぇ……」
心の中でそう叫びながらも、俺は微かに笑った。胃の鈍痛も、少しだけ和らいだ気がする。
その夜、ホテルの部屋で俺は一人、タブレットを見つめる。
ローラの天然騒動がニュースになり、記事が連日更新され、フォロワーが増え、映画への期待値は跳ね上がった。
「……これ、撮影中の地獄よりもハードだったんじゃねぇか……」
俺は布団に沈みながら、笑いと疲労と胃の痛みが入り混じった複雑な感情を抱く。
しかし、この状況を利用しない手はない。
明日からの取材スケジュールでは、ローラの“天然トラブル”を逆手に取り、映画の魅力としてアピールする戦略を組み立てる。
山田や鏑木、藤堂と相談しつつ、田代の目を盗みつつ、俺は新たな宣伝作戦を頭の中で練り上げる。
「……ふふ、これなら映画公開まで、俺も少しは楽できそうだ……」
小さく呟く俺の顔には、疲れの中にわずかな安堵の色が混じる。
だが、心の奥底ではまだ戦いが続くことも知っている。ローラの天然ぶりも、藤堂の狂気も、田代の赤ペンも、そしてキャストたちの個性も――全てが俺の管理下で暴れまわることを。
それでも俺は拳を握り、ベッドに深く沈みながら決意する。
「……次の宣伝戦略、絶対に成功させる……!」
そして、外の夜風が窓をかすめる中、俺は再び目を閉じた。
地獄のような日々はまだ続く。しかし、少しだけ、勝利の兆しが見えた瞬間だった。