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どんな犠牲も受け入れるべき

 夕方五時。ビルの前の道路に立つ僕ら二人の姿が、人通りの少ない場所で目立っていた。

 新井くんがバイトを終えた直後、事務所にメールで連絡をすると『今日の夕方五時からでも正式な話がしたい』と返事が来たらしく、スタジオの住所を教えたらしい。

「……妙に緊張するなぁ……」

「心配すんな。俺もだ」

 と、いつもみたいに会話を交わす2人。普段との違いはその心境だけ。

「これから会う沢縁プロダクションの社長さんって、一体どんな人なんだろうね」

「そういえば、ちょっと調べてみたら……何かまあ? 色んな噂があった」

「噂?」

「特に、世の中の物事全てをビジネスと捉えている、腹黒い奴的な」

「ひっ!? そんな人と会うの!?」思わず戦慄が走る。

「まーまー? ネットの情報なんて当てにならないし――おっ、ほら来た来た」

 遠くを見て手を振る新井と、一歩だけ後ろに下がる羽瀬の先に、社長がいた。

 最初に印象的だったのは、三角の形状をしたサングラス。それとは対照的にニコニコとした表情が、裏表のありそうな雰囲気を漂わせる。

 艶のある真っ黒なスーツを着ており、赤ネクタイを締めていた。黒髪は七三分けで整っている。

「やあやあ、若者諸君。初めましてかな? ……いや、テレビ越しにお会いしたことがあるかもね」

 少々鼻につく冗談交じりな言葉も、陽気に、かつ憎めない口調で発していた。

 彼もまた手を振りながら、二人の目の前まで近寄ってくる。

「初めましてなら、自己紹介しておくよ。僕は沢縁リュート。知っての通り、沢縁プロダクションの代表取締役社長さ」

 偉そうな自己紹介を受け、思わず不快感を抱いてしまった。というか、かなり背が高い。恐らく百八十~百九十くらいで、彼の表情を見るためには顔を上げるしかない。

 そして彼は、名刺を二人に渡す。名前の隣にBLACK CHILLYの唐辛子アイコンが。詐欺の可能性はなさそうだ。

「本日はわざわざご足労頂いてありがとうございます! よろしくお願いします!」

「いやいや、こちらこそ、メールで今すぐ会いたいだなんて身勝手を言って済まなかった。ははは。まあよろしくね、新井くん」

 新井くんの輝く瞳を見詰め、上機嫌で親切そうになる社長。彼の丁寧かつ明るい印象がそうさせたのだと、アイドルの才能があるんだなあと、僕は隣で見ていて思った。

「それで、君が羽瀬くん……かな? タクシー内で動画を拝見させてもらったよ」

「あ、ありがとうございます」

「いやー、素晴らしかった。僕は目の前の原石を無視するのは、アイドル事務所を担うものとして恥だと思ってね。是非ともウチに来てほしいと思ったよ」

 ぽかーんとした僕に、「今後ともよろしく」と、優しく微笑んで手を差し伸べてきた。勢いに乗っ取られて、思わず握手しそうな所だったものの、

「ちょっとちょっと! まだ書類とかの手続きも終わってないのに、なんか気が早すぎませんか!?」

「あは、あはは。そうだね。じゃあ話の続きは、中で」

 新井くんがツッコんでくれたおかげと言っていいのか、彼は爽やかに笑いながらその手を引っ込める。代わりに、横にあったビルの入り口を指した。

 三人で中へ入る。地下へと続くクールな階段を見て「おお…」と感心したような吐息が隣から聴こえた。

 そして、いつもの見慣れたスタジオに着く。

「ここで君たちの動画を録っているのか。何ともアメイジングだね」

 白い壁に囲まれた部屋の中心に移動し、辺りを見渡しながら、よく分からないけど英語を漏らす社長。

「あの、どこで僕らの動画を知ったんですか?」

「ん? ああ。新井くんのSNSの動画が拡散されていてね。それで知ったんだよ」

「おお! さすがです、あざす!」

「はっはっは」と心地良い声で笑いながら、九十度に頭を下げる新井くんを見る社長。

 ようやく本題に入ろうと全員は、予め用意していた白い椅子に座る。いつの間にこんなのを用意していたのかと驚いた。

 僕らと社長の間にテーブルを挟み、いよいよ本格的な話が始まった。

「ところで、二人は事務所にスカウトされた事はある? 初めて?」

「はい! 逆ナンされた事はあるけど初めてです!」

「そんな事あったの!? ……あ、僕も一度もないです」

 新井の件は、冗談なのか本当なのかは置いといて。

「じゃあ、事務所経験はないんだね」

「え。もしかして、面接とかでも始まってます?」

「ああごめんね! 不要な質問だった。じゃ、今から書類を用意するから。印鑑か、もしくはサインする際に使う筆記用具とかは?」

 新井は「親に事情は説明してきたので!」と、小さなバッグから印鑑を取り出す。僕はとりあえず、筆記用具を持ってきていた。

「じゃあ、手続きを始めようか――この書類を確認して、よければ署名捺印を」

 そう言って、社長は数枚の書類の入ったクリアファイルを、持参した鞄から取り出す。ずらりとした文字列が並び、契約内容やその他諸々が記載されている。

 二人分の書類が、社長と向かい合っていた新井くんの手に渡った。

「沢縁プロダクションに所属してくれた暁には、有名な作曲家や振付師等を配置し、全国のレコードショップ店頭に新曲を並べる。月のギャラも正社員の平均給料の十倍なら払えるよ。記念にアリーナでのメジャーライブも開催予定だ」

「ええ!! マジすか!? 俺ら、アリーナで歌えるんですか!?」

「うん。僕らは君たちに……それほどの価値を見い出しているからね」

 そんな風に、魅惑的な条件を並べる社長。その言葉に惹き付けられ、新井くんも書類から視線を逸らし、目を輝かせていた。

「あ、あの。親には何も言わなくていいんですか?」

「もちろん、今じゃなくていいのさ。この書類のコピーはまだまだあるから、家族や二人の間で内容を見ながら相談して貰っても構わない。ウチは大手だから、その辺りは寛容にいかないと……もちろん、決断は早い方が助かるけどね」

 新井くんはそれにざっと目を通し、頷く。本当に記載内容が分かっているのかどうかは、横から見ていても不安な部分である。

「分かりました。なら、今決めます」

「隼くん!?」

 その一言で、僕は恐ろしく緊張する。もし今ここで印鑑を捺してしまえば、後戻りは出来ない。しかし社長は「その方が早くて助かるよ」と、優し気な微笑みで促しているような気がした。

 さすがに警戒心が増してきて、新井くんから受け取った自分の書類を一字一句見逃さずに確認していく。こういう難しい文は苦手だったものの、考えている暇などない。

「じゃあ、最後の書類に判子を」

「どうする、ヒナ。俺捺していいか……ん、ヒナ?」

「……え」

 思わず、声が漏れた。

「――あの。この部分は一体何ですか」

 すると羽瀬は書類を社長に向け、四ページの中間辺りの行を指で示す。

 そこに書いてあったものは……。

「『本規約に同意した場合、当グループの全権を本社に譲受することとする』。……この『全権』って」

 社長は黙り込んでしまう。三角形のサングラス越しに感じる視線は、どういう心境でこちらを見据えていたかは分からない。

「え? これって」

 新井くんも気付いていなかった。直前で気付けて良かったと、安堵のため息を吐く。

「……ははは。大げさな響きだけど、大した事ではないさ」

「そ、そうなんですか?」

「うん。例えば、『ユニット名の変更』とかね?」

 思わず、僕らは絶句した。

「あとライブ演出とかはこちらで決めさせてもらう。君たちの行っているプロジェクターの演出は、ちょっとダサいし。けど、そこは妥協してもらわないと困るからね」

「えっ……?」

「それと、羽瀬くん、だったっけ? 君はあまり前面に出るべきタイプじゃないから、主に新井くんがメインになると思う。新たなメンバーも順次募集予定だし、役割としてはバックアップで頼むよ」

 それ以降も、聞くに堪えないほどの制約を口から発している。

 グループ名の変更に関して新井くんが驚いた顔で訊ねると、「ばーちゃLimit!という名前はうちのイメージが悪くなるから」とバッサリ切られる。

「「…………」」

 二人で俯いてしまった。社長はそれに見兼ねたように、呆れた息を吐き、書類の置かれたテーブルに身を乗り出した。

「いいかい? こちらとしても最高の条件を提示したつもりだ。もしブラチルのような有名アイドルになりたいなら、今の生活を抜け出したいなら、どんな犠牲も受け入れるべきだと僕は思うね。違うかい?」

 説得する表情は、口角は上がっておらず、真面目な顔付きだった。

 羽瀬と新井は沈黙し、心が揺らいでいる。もし受け入れたとしても、彼らの望むアイドル像には近付けない。しかし断った所で、他の事務所からスカウトされるチャンスなど滅多に無い。

「ゴホン――まあ、よくよく、よーく考えて決めることだ。でも出来れば三日以内に決めてほしいね。いつでも連絡待ってるよ、次もタクシーで急行するから」

 言いながら社長は席を立つ。普段よりも元気はないけれど、新井くんは、きちんと別れの挨拶を告げていった。

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