夢のつづき(後半)
第3章
私は、大学2年の6月に、それまで住んでいたアパートを出て奈緒の家に越してきた。
私の部屋は、2階の階段を上がってすぐの8畳間で、奈緒がすぐ隣の角部屋を使っていた。
私の部屋から階段を挟んですぐ隣の部屋は空き部屋のままで、そのさらに隣が仁一さんの部屋だった。各々のプライベートもちゃんと確保されていた。
食事は、基本的にはそれぞれが自由に作って食べるなり、買ってきたり外食したりして、特にルールはなかった。
掃除は私と奈緒の2人で当番を決めてやり、家をなるべく綺麗に保ち、仕事をしている仁一さんに負担がかからないようにしていた。
洗濯は、各自で洗って、自分の部屋のバルコニーに干していた。
バルコニーに出ると、すぐ隣で奈緒も洗濯物を干していて、そのまま2人で外で柵越しに立ち話することもよくあった。
私と奈緒は、決められた生活賃を仁一さんに渡し、収入のある彼がやりくりしてくれた。寮生活みたいだけどそうじゃなく、家族と暮らしているみたいな不思議な生活だったが、とても快適だった。
それから、ある日部活に行って、丸山先輩と顔を合わせると、先輩が「この間はほんまにごめん! もう絶対あんなことせんから」と私に言った。
きっと、あの時の先輩はお酒のせいで変だったのだろうけど、私はやっぱり丸山先輩が少し怖くなってしまった。
2年生になった私は、もう先輩にマンツーマンの指導をしてもらうことはなくなったので、ホッとしていた。
大学の授業以外は生活のほとんどが部活中心だった1年生の頃とはずいぶん変わり、2年生になってからはゼミに所属するようにもなったりして、部活動の占める割合はめっきり減ってしまった。
それから、管弦楽団を退部した梨子に、大学2年生の夏、彼氏ができた。
同じ学科の1つ上の先輩で、ゼミで親しく話すうちに、仲良くなって付き合うことになったそうだ。梨子の彼は、誠実そうで落ち着きのある人で、私もすごく好感を持った。
管弦楽団では、今年も夏休みに志賀高原で合宿が行われた。梨子がいないので、私は寂しい気持ちで参加していた。仁一さんも、実家に帰っていて今回は合宿に来なかった。
合宿の夜、みんなで飲んでいる時に、私はまた酔った丸山先輩に「五十嵐。ちょっとだけ、話せるかな」と声をかけられ、合宿所の外に出て話をすることになった。
夜の高原の空気はとてもひんやりとしていて、お酒で火照った私の頬を冷やした。
付近のホテルやロッジから聞こえてくる宿泊客たちの賑やかな声と、草むらから聞こえてくるバッタやキリギリスの鳴き声が、辺りに響いていた。
高原の夜は、一足先に秋のようだな……、と私は思った。
しばらく無言で気まずそうにしていた丸山先輩が、口を開いた。
「五十嵐さ、もう……、誰か彼氏はおるん?」
「いえ……」
「ほな、……しつこいかもしれんけど、やっぱり俺ともう1度付き合ってくれんかな」
「ごめんなさい、本当に……、私、先輩とは……どうしても、付き合えないです」
「なんで。去年は付き合ってくれたやん」
「……。ごめんなさい」
「そんな、謝ってくれんでええねん。俺と、もう一度やり直してくれんかな」
そう言って、丸山先輩は、俯いてため息をつき、黙ってしまった。
私は、「何度言われても、気持ちは変わらないです。ごめんなさい」と言って、その場から逃げた。
飲み会の会場に戻ると、黒崎さんを囲んで何やらみんなですごく楽しそうに盛り上がっていて、それを見たらなんだか切なくなって、私は1人で部屋に戻った。
翌日になると、今度は3年生の先輩女子2人に私は呼び出された。彼女たちは、丸山先輩と特に親しい人たちだった。
「あのさ、五十嵐さん。マルのこと、あんまり弄ばないでくれないかな」と、先輩が言った。
「私、弄んでなんか、いないです」
「いやいや……。昨夜もマル、五十嵐さんに嫌われてしまったって、すごい落ち込んでたんだけど。マルに優しくしてもらうだけ優しくしてもらっといて、急に冷たくするとか、ちょっとひどすぎると思うよ」
「……それ、は……」
「とにかく、これ以上マルのこと傷つけないでね」
先輩たちは、そんなふうに言いたいことだけ言って、去って行った。2人とも、私が1年生の頃に可愛がってくれていた先輩たちだったので、そんなふうに言われて辛かった。
私は、自分が丸山先輩をどれだけ傷つけたのかを思い知らされてショックだった。
バイオリン初心者だった私の担当についてくれて、優しく丁寧に教えてくれた丸山先輩。みんなと一緒にいる時は、いつもコテコテの関西弁で明るくおどけていた。付き合い始めのデートでいつも笑わせてくれて、私を緊張させないようにしてくれていた。先輩は、私と時間をかけてゆっくりと関係を築こうとしてくれていたのに、私は先輩と付き合い続けることに何の努力もせずに別れを告げた。先輩に対していかに自分が身勝手だったのかを今更省みた。
私はそれからずっと気持ちが沈んだまま、夏合宿を終えた。
そして、合宿から戻ってからというもの、すっかり部活に行く足が遠のいていった。今回の夏合宿が終わったこのタイミングで、もう退部するのが良いのかもしれないな、と私は思いを固めた。
そんなある日、夏休みも終わりに近づいた頃、私は大学の図書館に行った帰り、家に帰るバスを待ってバス停に立っていた。
すると、私の目の前に1台の車がスッと止まった。
「五十嵐~」
それは、黒崎さんの車だった。すごい偶然に、私は舞い上がってしまった。
「黒崎さん!」
「これから、どっか行くの?」
「いえ、家に帰るところです」
「そうなんだ。じゃあ乗ってくか?」と、黒崎さんが言って、私は黒崎さんの車の助手席に乗せてもらった。
「最近あんまり練習に顔出して来ないけど、忙しかったか?」と黒崎さんが言った。
「すみません……」
「いや、忙しいなら仕方ないけどさ」
「……あの。ちょっと前から考えていたんですけど、私、部活をやめようと思います」と、私は打ち明けた。
「えっ……。なんで……」
「この先ずっと続けていく自信がないですし、辞めたメンバーも多くなってきたのもあって、私もそろそろ辞めどきかも……、と思いまして」
「うーん。五十嵐、せっかくバイオリン上達したし、もったいないと俺は思うけどな……。もう決めちゃったのかもしれないけど、もう少し考えてみてくれないかな」
「……わかりました」
黒崎さんは、私の家の前で車を停めた。
「へぇ。お前んち、こんな大きな家だったの?」
「あ、えっと、友だちの家に一緒に住んでるんです。元々友だちのおじいちゃん夫婦がやっていた旅館だったんですけど、もう旅館はやめていて、友だちがお兄さんと2人で住んでいたところに私も同居させてもらってまして。ちなみに、そのお兄さんは、実はオケのOBの鈴木さんなんですけどね」
「ええっ?! マジでっ? そりゃビックリだわ。お前、鈴木さんに迷惑かけたりしてない?」
「してませんよ」
「お前たまに酒癖悪いから、気をつけないと鈴木さんに嫌われるぞ」
「はい、気をつけます」
「じゃあ。また。近いうちゆっくり話そうな」
「はい。乗せていただきありがとうございました」
その夜家に帰ってから、仁一さんと一緒に、簡単な夕飯を用意して食べた。この日、奈緒は友だちの家に泊まりに行っていた。
2人で食卓を囲みながら、私は、「今日黒崎さんに偶然会えて、車の助手席に乗せてもらったんです」と話をした。
「ふ~ん。嬉しそうじゃん。良かったね」と、仁一さんが言った。
「そ、そんなこと、ないですよ」
「いやぁ、顏がにやけまくってるけど。ほんとに、アイツはやめとけっていつも言ってるのに。困ったもんだ」と、仁一さんはからかった。
「だって……。やっぱり優しくされると、どうしても嬉しくて。でも、こんなことももうすぐ終わりです。私、実は部活やめようと思ってて……」
「えっ、そうなの? どうして」
仁一さんに、そう訊かれ、私は最近の丸山先輩との話をした。
「なんだか、この先もこんなことが続くのかなって、正直気が重くなっちゃって。それに、今年は秋の東京での演奏会もあるので練習も大変になってくるから、中途半端な気持ちでやってはいられないな、って思い始めたんです」
「そっか、そっか。続けるのが負担に思うようなら無理してやることは全然ないと思うよ。でも、黒崎はきっと引き留めるんじゃないかな」
「そう、ですね。『もう少し考えてみて』、って言われました」
「やっぱり、そうか」
それから、私は仁一さんに、「お休みは、実家でゆっくりできましたか? 何して過ごしてたんですか」と訊いた。
仁一さんは、実家に帰って、上越にいる彼女と会ってきたのだそうだ。
「俺さ。実は、彼女と別れてきたんだ」
「えぇっ? そうなんですか。ど、どうして……」
「彼女、オレの友だちに気持ちが行ってしまっててさ……。『別れてほしい』って言われたんだ。まぁ、前から薄々そうなんじゃないかって思ってたけど、認めたくない自分がいたんだよね。俺も意地になってた部分もあったし。でも、離れた心はどうしたってもう戻らないって分かって……。だから、ちゃんと話して、別れることになった」
「そんな……。仁さんはそれで良かったんですか」
「……うん、そうだね。どんなに頑張っても、どうにもならないことってあるんだよ。すごく悔しいけど、彼女が本当に求めていたのは俺よりもほかの男なんだってハッキリ分かったからさ」
「そう……、ですか。つらい、ですね」
「いやぁ~。もう終わった事だし、いいのいいの。話聞いてくれてありがとね、優ちゃん。こんな話、カッコ悪いよな」
「そんなこと、全然ないです。話してくれて嬉しいです。たまには、私だって仁さんの話を聞く側になりたいですから。今夜は飲みましょう、仁さん」
「ありがとう。よしっ、飲むかな」
仁一さんは、そう笑顔で明るく話していたが、その奥に辛さを隠しているのを感じた。
彼が自分のことをそこまで話してくれて弱さを見せてくれたのは、初めてだった。
それから数日たったある日。
仁一さんが夜家に帰ってきて、洗面所で歯磨きをしていた私のもとにやってきた。
「おかえりなさい、仁さん」
「ただいま。ねえねえ、優ちゃん。明日の夜、黒崎がうちに来ることになったよ。優ちゃんたしか明日は特に予定なかったよね?」と、仁一さんが言った。
「はい。何も予定はないです。って、えぇっ、黒崎さんがこの家に来るんですか?」と、私は飛び上がるほど驚いて言った。
「うん。今日仕事で大学病院に行った時に黒崎に会ってさ。立ち話した時に、黒崎が優ちゃんとゆっくり話がしたいし、久々に俺ともしゃべりたいって言ってさ。まぁ俺はついでなんだろうけどね。で、一度ここに遊びに来たいって言うから」
「ひえぇっ、どうしよう~」
私は、口に泡をつけ歯ブラシを手にしたまま、その場でぐるぐると回って挙動不審になった。
「優ちゃん、垂れてる垂れてる歯磨き粉。落ち着いて~。そんなわけで、明日みんなで楽しく食事しようね」
「は、はいっ」
そして翌日の夕方、黒崎さんが家にやってきた。
奈緒は初めましてだったので自己紹介をしてから、四人でたこ焼きを作ったり、ほかの色んなおつまみを食べながら飲んだ。
黒崎さんが、「鈴木さんにこんな綺麗な妹さんがいたなんて知らなかったですよ」と奈緒に言うと、奈緒が涼しい顔で「よく言われます~」と返していた。
奈緒は、しばらく黒崎さんのことを警戒しているようだったが、お酒が進むとともに、すっかり打ち解けて仲良くなっていった。
「こんな優しい兄妹と一緒に暮らせて、五十嵐が羨ましいですよ」と黒崎さんは言った。
「五十嵐にとって、オケもこの家みたいに居心地の良い場所だったら良かったんだろうけど。そうできなかったのは俺の責任でもあるからなぁ」とさらに黒崎さんは言った。
「そんなことないです。オーケストラで色んな人に出会えて仲良くなれて、すごく良い経験でしたし、部活のおかげで私の大学生活は毎日本当に充実していて、楽しい思い出ばっかりです。居心地が悪くなったのは、自分の責任です」と私は言った。
「なぁ。どうしても、オケやめたい? せっかくここまで一緒にやって来たのにさ。かなり上達もしたのに勿体ないなぁって思うんだよ。それに、お前がやめちゃうと俺は寂しいぞ」と黒崎さんは言った。
私だって、部活をやめてしまったら、もう黒崎さんに会えなくなるから、すごく寂しい。これまで黒崎さんには本当に色んな所に連れて行ってもらったな、と私は振り返った。
「ずっと指導していただいたのに本当にすみません。それに、色んな所に遊びに連れて行ってもいただいたのに……。すごく楽しかったから、私も寂しいです」と私は言った。
「こんなオッサンにいっぱい付き合ってくれて、こっちがありがたかったよ。やめんなよ五十嵐~」
黒崎さんは、そう言ってくれたが、私の意志は変わらなかったので、最後には黒崎さんが折れた。
そのあとは、飲みながら、仁一さんと黒崎さんの好きな女性のタイプを言い合ったりしていた。黒崎さんは、ちょっと派手目な女子が好きなんだそうで、当たり前だけど、私とは全く違うタイプだった。
仁一さんは、Tシャツにジーンズみたいなラフな格好が似合う女子がタイプだそうだ。
「へぇ。アニキのタイプなんて初めて聞いたわ」と奈緒が言って笑った。
その後、黒崎さんと仁一さんは、縁側に座って2人でコソコソとなにやら下ネタらしき話題で盛り上がってギャハハ~っと笑っていた。そうして夜も更け、楽しい会は終わった。
大学の後期授業が始まるタイミングで、私は正式に管弦楽団を退部した。
部活をやめたあとは時間にゆとりができたので、私はアルバイトを増やしたり、英語の検定試験の勉強に励んだりすることができた。
ゼミでは、海外の短編小説の読解に取り組んだり、通訳・翻訳のプログラムも積極的に受けるようにした。
家では、仁一さんがいつの間にか私のことを「優」と呼び捨てにするようになっていて、遠慮もすっかりなくなり、本当の家族みたいになれてきた。
奈緒は、大学2年の終わり頃に彼氏ができ、その彼氏の家に泊まる日も多くなっていった。
仁一さんは仕事で帰りの遅い日がよくあったので、私は広い家で1人で過ごすこともあり、そんな日は少し寂しかった。
私が大学3年生になってしばらく経ったある日、家のポストに1通の手紙が届いた。
それは、仁一さんの友人からのもので、仁一さんの別れた彼女との結婚式の招待状だった。
奈緒が最初にそれを見つけて、「アニキを招待するなんて、すごい神経してるわ」と憤慨していた。
仁一さんが、「そんな怒るなよ、奈緒。俺があいつの友だちなのに変わりはないし、招待されて嬉しいよ」と言った。
「なんか、無理してない?」と奈緒が言った。
「してねぇわ~。ほんとに、もう終わったことだし、ちゃんと祝福してるから」と、仁一さんは笑いながら言った。
でも、私も、仁一さんが無理してるんじゃないかとちょっと心配になった。
そして、6月のはじめに、仁一さんの元カノと友人との結婚式が行われ、後日、仁一さんに2人から結婚報告の葉書も届いた。その写真ではじめて見た仁一さんの元恋人は、スタイルの良い綺麗な女性だった。仁一さん好みの、Tシャツにジーンズがとても似合いそうな雰囲気だった。
きっと、仁一さんとお似合いのカップルだったんだろうな、と私は想像した。
夏が過ぎ日が暮れるのがめっきり早くなってきた。太陽は低くなり日の光が暖かみを帯びてきた。大学のキャンパスの道端には赤や黄色、茶色の落ち葉が降り積もり、歩くたびにガサガサと乾いた音がした。
大学3年の10月終わり頃、私はキャンパスを歩いていて、久しぶりに、管弦楽団の同学年の男子とバッタリ会った。
彼は、今でも変わらずに部活を続けているようで、最近の部活の話を色々と教えてくれた。
その話の流れで、黒崎さんがバイオリンの3年の女子と付き合い始めたのだと聞かされた。
その彼女は、医学部の3年生で、幼いころからバイオリンを習っていてメンバーの中でずば抜けて上手な子だった。派手な顔立ちで、1年生の頃から大人っぽくて美人でお洒落だったので、みんなから一目置かれていた。
言われてみれば、いかにも黒崎さんのタイプだな、と私は思ったが、黒崎さんが年下と付き合うことはあまり想像していなかったので、意外だった。
黒崎さんと彼女は、今度の連休にウィーン旅行に行くのだそうだ。
そんな話を聞いて、私はものすごくショックを受けてしまった。大学からの帰り道、なんだか家に足が向かなくて、街の飲食店街を一人でフラフラと彷徨ったあと、時々奈緒と一緒に行く居酒屋に入った。
そこは、家から近く、路地を入ったところにあるこじんまりとしたアットホームなお店で、店主のおじさんとバイトのお姉さんがとても優しくてお気に入りの場所だった。週末だったためか、お店はほぼ満席だったが、カウンターのお客さんが一人ちょうど帰って行くところだったので、運よく私はその空いた席に座って飲んだ。
里芋の煮物に白子ポン酢にだし巻き卵、それに焼き鳥を頼んで、ビールをあおった。自分の好物をこれでもかと注文して、やけ食いとやけ呑み状態だった。
彼女、医学部で頭もいいし、すごく洗練されてて綺麗だし、私と同い年とはとても思えないくらい大人っぽくて……。やっぱり黒崎さんが恋人にするのはああいう人なんだ。それに、学生なのにウィーンに旅行だなんて私とは住む世界が違うみたい。
一方の私は……。これまで、黒崎さんの友だちと一緒にキャンプに行ったり、家に来てもらったり、そんなふうに仲良くしてきてほかの女子よりも少しは特別な存在になれたような気がしていたけれど、結局私はその他大勢のうちの1人にすぎなかったんだ。黒崎さんの特別な存在になれるのは、私みたいな何の取柄もない平凡な女じゃなくて、年齢に関係なく大人っぽくて綺麗で頭の良い、みんなから一目置かれるような特別な女の子なんだ。
私は、黒崎さんに選ばれなかった。選ばれる可能性も1ミリもなかった。そんなこと、とうに分かりきっていたことだったけれど、改めて現実を突きつけられたようで辛かった。
私は、そんなふうにひどく落ち込んだ。1人でお店で飲むなんて初めてのことだった。
しばらく1人で飲み続け、日付が変わりそうになった頃、家に帰ることにしたが、酔って足がフラついてまともに歩けなくなっていた。
カウンターで調理をしていたお店のおじさんが、「大丈夫? タクシー呼ぼうか」と言ったので、私は大丈夫ですと伝えて、お店の公衆電話が置いてある場所までヨロヨロと移動した。
私は、ダメもとで奈緒に迎えに来てもらおうと、家に電話をかけてみた。
「もしもし鈴木です」
電話に出たのは仁一さんだった。
「あ、仁さ~ん。あの~、奈緒さんは~いますか~」と私は言った。
「奈緒? いないよ。あいつ今夜も彼氏の家だよ。ていうか、優どうしたの? 酔っぱらってる?」
「正解~。酔ってま~す。あ~あ、今日も奈緒いないのか。不良娘め。私は寂しいよぅ」
「ねぇ、優、今誰かと一緒? 大丈夫? もう帰ってきなよ」と仁一さんが言った。
「奈緒が迎えに来てくれるまで帰らないで~す」と私は言った。
「はぁ……。奈緒は彼氏んちに泊まりだから無理だよ。ねぇ、今どこにいるの? 俺迎えに行くから」
そう言って、仁一さんが私の飲んでいる店に迎えに来た。
「ほら、優、しっかり。立てる?」
「う……、ん。ちょっと、気持ちわるい……」
私がそう言うと、仁一さんは私の肩を支えて店の外に連れ出し、外にあったベンチに座らせ、お会計を済ませてくれた。
「お金、あとでちゃんと、払いますね……すみません」と、私は言った。
「それはいいけど、そんなことより大丈夫? 吐きそう? 水飲んでしばらく休みな」
そう言われ、外でしばらく休んでから、私は仁一さんに支えてもらいながら、歩いてなんとか家に帰った。玄関で力尽きて、そのまま寝そべった私を仁一さんが面倒をみてくれた。
「ほら優。靴脱ぐよ」と仁一さんが言って靴を脱がせてくれて、私はそのまま玄関のたたきで、猫のように丸まって眠ろうとした。
「こら、こんなとこで寝るなー」
「だってぇ。もう動けない。ここで寝るー。ひんやりしてて気持ちいい」
「ダメだって。もう。仕方ないなぁ」
そう言って、仁一さんが私を抱きかかえて、居間まで運んだ。
「わぁ~。仁さん、力持ち~。お姫様だっこだ」と、私は嬉しくなって仁一さんの首に腕を回して抱きついた。
「ちょっ、なぁにはしゃいでんだよ。下ろすよー。それに、優抱えるのくらい余裕だわ」と、仁一さんが言った。
私をソファーの上に寝かせて、「で。なんでそんなに飲んだの。なんかあった?」と仁一さんが言った。
「黒崎さんが、私と同学年の女子と付き合い始めたんです。で、今度、2人でウィーンに旅行に行くんですって。もう、『ガーン!』ですよ」と、ちょっとふざけながら私は言った。
「ま~た黒崎か……」
「だって……。そりゃ、別に私だって、黒崎さんと付き合えるなんて、思ってなかったですよ。でも、自分と同い年の女子が、黒崎さんと付き合うことになるなんて……。しかも旅行先がウィーン、って。もう次元が違いすぎるし。なんか、色々ショックで」
「なるほど。……それでヤケ酒ね」
「そうですよ~」
「そんなに黒崎が好きなら、気持ち伝えてみればいいのに」
「いいんです。私、自分のこと絶対好きになってくれない黒崎さんのことが、きっと好きだったんです。それなのに、黒崎さんが誰かと付き合うのは、やっぱりショックで……。矛盾だらけですよね」
「まあ、な。でも、なんで自分のこと好きにならない人がいいの?」
「わかんないですけど……。私のこと本気で好きになる人は嫌なのかも。好きにならない人の方が安心できるっていうか」
「それじゃさ。優はずっと片思いしてたい、ってこと?」
「もしかしたら、実はそう……、なのかな」
「じゃあさ、俺はどうなの? 優のこと好きにならないって思ってるから、安心してそばにいるの? もしも俺が優のこと好きになったらどうする?」
「えっ」
「酔っぱらって無防備になってる優のこと、俺が今襲ったらどうすんの? 俺だって男なんだけど」
「え~……、仁さんなら……、襲われてもいいですよ」
「……うそつけ。知らないよ、ほんとに襲うよ」
「いいですよ~」
私がそう言うと、仁一さんは、ソファーで横たわっていた私の顔の両側に上から手をついてきた。
「知らないよ? ほんとに」
そう言って、仁一さんは自分の顔を私に近づけてきた。
私は、反射的に目を閉じた。
暗くなった私の視界は、すぐに明るさを感じ、仁一さんが身を起こしたのが分かったので、目を開けた。
「ばか。酔っ払いを襲ったりしないよ。ちゃんとあとで顔洗って自分の部屋のベッドで寝な」
そう言って仁一さんは、2階の自分の部屋に行った。
その後、私は、結局着替えもせず化粧も落とさずに、そのまま眠ってしまった。
居間にあるソファーは、仁一さんと奈緒が2人で選んだ広いコーナーソファーで、6人掛けくらいの大きさだったので、自分のベッドよりも寝心地が良いくらいだった。そのおかげで、落ち込んでいたわりに、私は朝までグッスリと眠れた。
居間の障子から差し込む朝の光で、私は目が覚めた。
縁側の障子は、額入り障子と呼ばれる、真ん中に窓ガラスが組み込まれたもので、そこから外の坪庭が見られるようになっていた。床の間の壁には丸窓障子があって、そこからも柔らかな光が入り込んでいた。本当に美しい居間だな、と私はぼんやりしたままそれらを見つめていた。
いつのまにか、私の身体の上には、毛布が掛けられていた。
昨夜のお酒のせいで頭がズキズキと痛んで、たまらずに私は毛布を頭までかぶった。
―昨夜の仁さん、良い匂いしたな―
私は、自分の目の前に迫ってきた仁一さんの顔を思い出して、今ごろドキドキしてきた。
しばらくすると、2階から仁一さんが下りてきて、居間に入ってきた。
私は毛布から顔を出して、「おはようございます」と彼に言った。
「起きたか。酔っ払い」と仁一さんに言われた。
「昨夜は、本当に本当にご迷惑をおかけしました。ありがとうございました」
「ちゃんと昨夜のこと覚えてるわけね。まったくもう、あんまり飲みすぎちゃダメだよ。俺が迎えに行けなかったらどうやって帰ってくるつもりだったの。タクシーで帰る距離でもないし、フラフラと歩いて外に出て、そのへんの酔っ払いの変な男にお持ち帰りでもされたらどうするの」と、仁一さんは小姑みたいに小言を言った。
「もう、分かってますよ。頭がガンガンする~。そんなにガミガミ言わないでくださいよぉ」と私はたまらずに言った。
「うわぁ、反省してないわ~」と、仁一さんが呆れて言った。
そんなふうに仁一さんが普通に接してくれて、私は少しホッとしていた。
―昨日の私たちは、一瞬変な雰囲気になったけれど、仁一さんの冗談だったし、ドキドキしてしまったことなんて、もう忘れよう―
そう思った私は、「ちゃんと反省してますって。あ、今日の夕飯、お詫びに私が何か作りますね。何食べたいですか?」と、言った。
仁一さんが悩んだ末に、カボチャの天ぷらが久しぶりに食べたい、と言ったので、夕飯のメニューは、天ぷらをメインにすることに決めた。
その日のお昼前に奈緒から電話がかかってきて、「今日の夕飯は天ぷらだよ」と私が言うと、夕方までには帰ると奈緒が嬉しそうに言った。
午後になって二日酔いが治った私は、夕飯の下ごしらえを始めた。
途中から仁一さんが手伝いに来てくれて、2人で流しに並んで楽しく料理をした。
仁一さんの好きなカボチャのほかに、ナスや舞茸、ピーマン、海老、イカなどを衣にくぐらせて揚げ始めた。
途中、バチッと油が跳ねた。
「あっつ!」
私の手首の内側に油が飛んで、思わずそう言った。
「大丈夫? 貸して」
仁一さんがそう言って、私の持っていた菜箸を受け取ってくれた。
「大丈夫です、ほんのちょっと跳ねただけだから」
「すぐ冷やして」と仁一さんに言われて、私は水を出して油の跳ねた場所を冷やした。
「イカは跳ねやすいからね。ごめん、俺が天ぷら食べたいって言ったせいで」
「あ、いえ、そんな。揚げ物下手くそな私が悪いんで……」
「ごめんごめん。ちょっと、見せて」
仁一さんが、私の腕を掴んだ。
「あぁ、結構赤くなってるね。よく冷やさないと」
そう言って、蛇口をさらに開いて水を流し、私の手首を冷やした。
仁一さんに掴まれている腕がすごく緊張して、ドキドキしてきて、つい無言になってしまう。
―あぁ。まただ……。私また仁さんに変な気持ちになっちゃってる―
私は、そう思って落ち着かなかった。
「ごめんね、痕にならないといいんだけど」と仁一さんは言って、親指で私の手首をそっと撫でた。
私はすごく恥ずかしくなって、仁一さんの方を見られなくなった。
「だ、大丈夫ですよ、ちょっとくらい痕になったって」と、私は言った。
そこへ、「ただいま」と、奈緒が帰ってきた。
「あ、帰ってきた。残り、俺が揚げるから、もう10分くらい水で冷やしてな」と仁一さんが言って、私は「はい。すみません」と言って、手首に水をかけ続けた。
そんなふうに仁一さんが私に向けてくれる優しさを、私は自分への好意に勘違いしてしまいそうになり、戸惑った。仁一さんは、いつも周りをよく見ている人で誰にでも優しい人だったし、きっと私に対しては、もう1人の妹だと思って接してくれているに違いない。
そう思って、私は、うぬぼれそうになる気持ちをなんとか打ち消した。
「わ~、良い匂い。天ぷら久しぶりだぁ。ありがとね」と言いながら、奈緒がキッチンにやって来た。
「私が作るって張り切ってたのに、さっきヤケドしちゃって、結局仁さんが作ってくれたんだよ」と私は言った。
「えっ、ヤケド? 大丈夫?」と奈緒が言った。
「俺がさ、天ぷら食べたいなんて優に言ったからなんだよ、ほんとゴメン」と仁一さんが言った。
「いえいえ、結局仁さんにやらせちゃってちっともお詫びできなかったですね」と私が言うと、「ん? お詫びって?」と奈緒が訊いた。
「あ~。昨夜、優がベロッベロに酔っぱらって、俺が電話で居酒屋に呼び出されたんだよ」
「そうだったんだぁ」と奈緒が言い、「本当に、すみませんでした」と私は言った。
「そう。お前が男の家に泊ってばっかりでいないから、急遽、俺が姫のお迎えに馳せ参じましたよ」と、仁一さんが言った。
「ごめんね~優。でも、ベロベロに酔ってたって、一体……」
そう奈緒に言われて、私は昨日仁一さんにした、黒崎さんの話をもう一度した。
「そうだったんだ、それで一人でヤケ飲みしたわけね。もう絶対、一人で飲みすぎて帰れなくなるなんてこと、しないでよ。変な人に絡まれなくて良かったよ」と、奈緒が言った。
「面目ないです」と、私は言った。
「ところで……、まさかアニキは酔いつぶれた優に、変なことしたりしてないでしょうね」と奈緒が言った。
「なっ! アホか。んなことするわけねぇだろっ」と、仁一さんが荒ぶれた風に言った。
「そうだよ。変な事言わないでよもう」と、私も必死で言った。
「俺にとって、優は奈緒と同じ妹みたいなもんだから」と、さらに仁一さんが言った。
「ふぅ~ん」と、奈緒が言って、それから3人で、美味しく天ぷらを食べた。
仁一さんが奈緒に、彼氏の家ばっかり泊まってないでちゃんと自分の家に帰って来いよ、と言っていた。
数日後、10月最後の日は、翔の命日だった。
毎年、この日が来ると私は、大事に保管している翔からもらったミサンガと、翔が飼い犬と写っている写真を取り出し、部屋に飾ることに決めていた。
自分の中で、この日だけは、思いきり翔のことを思い出しても良いことにしていた。
以前は、翔のことを考えないようにしていないと辛くて仕方がなかったのに、私は気がついた頃には、命日以外は、翔のことを自然と思い出さなくなっていた。
このまま私は翔のことを思い出さなくなっていくんじゃないかと思うと、怖かった。私の中の翔が消えてしまったらどうしよう、と思っていた。
以前心療内科に通っていたころ、心の整理をするために書いていた日記を私は読み返し、また書き始めることにした。昔の翔との思い出を少しずつ振り返って書いて行こうと思った。
それから、クリスマスが近くなった頃、私は大学の同じゼミに所属する男子からデートに誘われたので、行ってみることにした。あまり気が進まなかったものの、無碍に断ることもできなかった。
デートの約束をした日の夜、出かけようとしたら、玄関で仕事帰りの仁一さんと鉢合わせしてしまった。
「ただいま、優。あれ、もしかしてこれからデート?」と仁一さんが言った。
「えっと……まぁ、そう、です。ちょっと飲みに行ってきます」
「そっか。白いフワフワのニットで、可愛い恰好してるね。彼氏、喜ぶよきっと」
「あ、彼氏、ではないんです」と、私は言った。
「ふ~ん。そっか、そうなんだ。あ、じゃあもしも変なことされそうになったら、すぐに逃げておいでよ。今夜は帰って来るんだよね?」
「はい。そんなに心配しなくて大丈夫ですから」
「いや。心配するだろ、普通に」
「大丈夫ですよ。優しそうな人なので」
「そんなの見た目に騙されてるだけかもしんないから。とにかく、最初のデートでお持ち帰りしようとするような軽いヤツは信用ならんから。今日はちゃんと帰っておいでよ」
「ふふ。仁さん、心配性のお父さんみたい」
「心配させてんの誰だよ」
仁一さんはそう言って、私に優しい眼差しを向けてじっと見つめ、何かを言いかけたが、口をつぐんだ。
次に仁一さんが口を開く時に、デートに行くなと止めてくれないかな、と私は不意に思った。これからせっかくデートだというのに、一体何を考えているのだろう、私は。
それもこれも、仁一さんが私を真剣に心配してくれたり優しくしてくれたりするからだ。
そんなことを考えて、私はどうしてこんなにも自意識過剰になってしまっているのだろう、と自分が恥ずかしくなった。
「じゃあ。行ってらっしゃい」
仁一さんは、いつものお兄さんみたいな表情になって、ニッコリ笑って言った。
結局、私は、その日デートした彼とは、やっぱりなんとなく波長が合わなくて、それ以上進展はしなかった。
クリスマスの当日は、奈緒は彼と過ごす予定があったが、別の日に、3人でクリスマスケーキを食べたりチキンを食べたりした。
「やっと仕事も忙しいのが落ち着いたし、こんなふうにクリスマスを3人で過ごせて良かった」と仁一さんが言った。
「ほんとですね。私も嬉しいです。なんだか2人はもう、自分の家族以上に家族みたいです」と私は言った。
「そうだね。すっかり優も、俺の妹みたいだもんな」と仁一さんも言った。
「手のかかる妹ばっかりですみません」と私は言った。
「ていうか、手がかかってるのは、もっぱら優だけだけどね」と奈緒が言った。
「だよな~」と仁一さんも言った。
クリスマスが終わり、12月の終わりごろに私たちは珍しく3人一緒に上越に帰省することになった。
仁一さんの車に乗せてもらって上越に行き、私は鈴木家に挨拶に行ったあと、自分の実家に帰った。1日目は実家でゆっくりし、次の日は奈緒と一緒に高校の時の同級生たちと集まり、さらにその次の日は、仁一さんの車で奈緒と仁一さんと三人でドライブして、糸魚川市の海沿いにある能生の道の駅に蟹を食べに行く約束をしていた。
私は、上越に帰った2日目、同級生5人でカラオケに行って楽しい時間を過ごし、その帰りに1人で家に向かって通りを歩いていた。
すると、道路を挟んだ向こう側の少し離れた所に、仁一さんがいるのに気が付いた。
彼のすぐそばには、女性がいた。よく見ると、その人は仁一さんの別れた恋人だった。
2人でとても楽しそうに、何かしゃべっていた。
そんなところを目撃してしまった私は、慌ててその場を離れ、実家に帰った。
仁さん、まだ別れた彼女と続いてたんだ。もう終わったって言ってたのに……。彼女が結婚しても会ってるなんて、不倫してるってことだよね。どうしよう。奈緒には、仁さんが不倫していることはさすがに言ったらマズいよね。
私は、自分の見たことを奈緒に話せそうになくて、1人でショックを受けたまま悶々と夜を過ごした。次の日の3人でのドライブの約束が、ものすごく憂鬱になってきた。
それでも、私は理由も言わずにドタキャンするわけにもいかず、翌朝鈴木家に向かった。
玄関のチャイムを鳴らすと、奈緒が最初に出てきた。
「おはよう。寒いから入って入って。優、ごめん。実は今日、私行けなくなったんだ。幼馴染が昨夜電話してきて、なんか大事な相談があるらしくて会いたいって言われたんだよ。ちょっと放っておけないから、ほんとに申し訳ないんだけど、今日はアニキと2人で行ってきてくれない?」
「え~っ……、こ、困るよ」
(一体何を言い出すんだ、奈緒!)と私は心の中で叫んだ。
「え? マジで? 優、アニキと出かけるの、嫌?」
「ううん、違う違う、そうじゃないんだけど……。あれだよ。2人きりでドライブだと、何しゃべっていいか分かんなくて緊張するな、って思って」
「大丈夫だよ、アニキいっつもペラペラ陽気にしゃべるじゃん。それにうちのお母さん、『今夜は、カニすき鍋ね』って言って、蟹買ってきてもらうの楽しみにしててさ」
「な、なるほど……」
「もちろん、優も一緒に今夜うちで『カニすき』食べるよね。私夕方までには家に帰ってくるからさ。じゃあさ、優が気が進まないようなら、アニキに1人で買いに行ってもらうから、優は無理しなくていいよ」
「それはかわいそうだよ。全然大丈夫、やっぱり2人で行ってくるよ」と私は言った。
それからすぐに、仁一さんが2階から階段を下りながら現れた。濃い色のジーンズの上に襟がボアになったベージュのブルゾンを着ていて、とても似合っていた。
階段の上にいた仁一さんを見上げた私は、彼の足がとても長くて、そのスタイルの良さに思わずドキッとした。でも、今日はそんな気持ちになっている場合じゃなかった。
「おはよう優。聞いた? 奈緒のやつドタキャンだってさ」と、爽やかな笑顔を浮かべて仁一さんは言った。
「は、はい」と、私は仁一さんとあまり目を合わさずに返事をした。
「別にいいよな? 2人で美味しいもんいっぱい食べてくるもんな」と、仁一さんが無邪気に言った。
「そうですね」と、私は気持ちをなるべく隠して言った。
車で走り出すと間もなく、海沿いの道に出て、車窓に荒波の日本海が広がった。
日差しはわずかにあったが、空から雪が風とともに降り落ちていた。
「外寒そうだねぇ。今日はあんまり積もらないといいけど。優、寒くない?」と、仁一さんに訊かれ、「はい。大丈夫です」と私は仁一さんの方を向いて答えた。そうしたら、仁一さんと目が合って微笑みを向けられ、私は気まずくなり、またすぐに前を向いた。
「実家のお父さんお母さんは変わりなかった?」
「高校の同級生たちとの集まりは楽しかった?」
そんなふうに仁一さんが、次々と話題を振ってきて、私はそれに当たり障りなく答えた。
車の中は、私たちの話し声と、かすかな音量で流れているBGMと、窓の外のぴゅ~っという吹雪の音とが、入り交ざっていた。
1時間近くドライブして、能生の道の駅に着いた。
道の駅には、大晦日の食材の買い出し目当てに、県内外からお客さんが押し寄せていて、とてつもなくごった返して活気にあふれていた。
車から降りると、外の寒さで一気に身体が冷えた。
最初に鮮魚センターで色んな魚をゆっくり見て歩いて、魚のアラ汁が売られていたのでそれを買った。
「あったまるね~」と言って、仁一さんが幸せそうな顔をしてアラ汁を飲んだ。私もやっと、身体の芯から温まり、かじかんでいた指先もほぐれた。
それから、かにや横丁という蟹の直売所がずらっと立ち並ぶ所を見て、茹でたての蟹を食べたり、仁一さんのお母さんに買っていく蟹を選んだりした。
沢山のお客さんが、蟹を求めて押し合いへし合いの大混雑で、買い物するのも一苦労だった。
お会計を仁一さんがする間、私が蟹を入れた大きなクーラーボックスを持っていたが、すぐに仁一さんがまた荷物を持った。その時に、私たちの手がかすかに触れた。
「優の手、冷たっ。すごい冷えてるじゃん」と仁一さんが言った。
仁一さんはすぐに荷物をもう片方の手で持ち直し、空いた方の手で私の手を握った。
「そんなこと、ないですよ」
私は、急に仁一さんに手を握られて、とてつもなくドキドキしていたけれど、それを悟られないよう、平気な顔をしながらそう言った。
「そんなことあるよ。氷みたいに冷えちゃってる」と言って、仁一さんが繋いだ手を自分のブルゾンのポケットに入れた。
「どう? あったかい?」
「……あったかい、です」
「そう。よかった~」
そう言って仁一さんは、屈託なく笑った。
初めて触れた仁一さんの手は、すごく大きくて温かかった。
(手をつながれたぐらいでドキドキしたらダメ。仁さん、こんなことしてても、元カノさんのことが今でも好きなんだから……。私のことなんて何とも思ってないんだから)
そんなことを考えながら、そのまま手をつながれたまま、海の見える広場に向かって歩いて行った。
先ほどの買い物客でざわめくエリアからすっかり遠ざかると、あたりはザザーっという海の波音と、ピューピュー吹きすさぶ風の音だけが聞こえていた。
「さすが……、モテる男は、こうやってさらっと手つないだりするんですね」と、私はちょっと嫌味をこめて仁一さんに言った。我ながら、すごく可愛げのない言い方だった。
「誰がモテる男なんよ。俺さっぱりモテてないんだけど?」と、仁一さんが、全く怒りもせずに、余裕の笑顔で言った。
「よく言いますね……」
「なになに、どうしたの優。なんか怒ってるの?」
「なんでもないです」
そう言って、ようやく私は仁一さんから手を離して、少し離れて歩いた。
「優……?」
私は黙って、歩き続けた。
「待って。どうしたの?」と、仁一さんが後ろから話しかけた。
私は、なんて答えればいいのか分からず、立ち止まって黙った。
「ちょっとあそこに座ろう」
仁一さんにそう言われ、広場にあった東屋の下で腰かけた。
「寒くない? ごめんね。馴れ馴れしく手繋いだりして、嫌な思いさせたね」と、仁一さんが言った。
「そんなこと、ないです」
「ごめんな」
「いえ……」と私は言って、何て言おうか迷った。
仁一さんは、「ちょっと待ってて」と言って、近くにあった自動販売機で温かい飲み物を買ってきてくれた。
東屋の屋根と壁で、吹雪は多少避けられたものの、やはり寒さに背中が丸まった。2人で温かい飲み物を飲みながら暖をとった。
仁一さんは私に、一生懸命明るく話しかけてくれたけれど、私はうまく笑顔になれなかった。
「優、まだ怒ってる……?」と、仁一さんが困った顔をしながら言った。
「怒ってなんか……」
「俺のこと、もう嫌いになっちゃった?」
「……嫌いじゃないです。でも、嘘つきな仁さんは、ちょっと嫌です」と、私は言った。
「え~、嘘なんてついてないよ。なんのこと言ってるの?」
「仁さん、元カノさんのこと、まだ終わってないですよね?」
「いや。終わってるよ。え、なんで?」
「だって……、昨日私、元カノさんと2人で会ってるとこ、見ました。仁さん、……不倫、してるんですか? それなのに、さっきみたいに私にも優しくして、手繋いできてドキドキさせたりして、ズルいですよ仁さんは。私のこと、妹可愛がるみたいにいつもしてきますけど、それで勘違いしそうになって、ドキドキしてしまうこっちの身にもなってくださいよ」
私は、感情に任せて、つい色々と口走った。
「え? えっと……、ん? ふ、不倫? いやいや、そんなことしてないって」
「じゃあ、なんで仁さん、元カノさんと会ってたんですか」
「ああ、たしかに昨日彼女とは会ってたけど、昔のバイト仲間のみんなで集まったあとに、帰る途中でほんの少し2人で立ち話しただけで……」
「えっ、2人で会ってたわけじゃないんですか」
「そうだよ。『結婚式に出席してくれてありがとう』って言われてただけ。本当に彼女とはちゃんと終わってるし、俺の友だちと幸せそうにしてて、俺もそれで良かったって思えてるから」
「ほん、とに?」
「ほんと。それに俺、今は別の人のことで頭がいっぱいだし」
「そう、なんですか」
「そうだよ。……。あのさ。……。もう、いい加減、俺の気持ち気づいてるでしょ?」
「えっ……」
「さっきの。全然さらっと手繋げたわけじゃないし。すっごいドキドキしながら勇気出して、繋いだんだけど」
「そう、なん、ですか?……」
「なんか、優もドキドキしたって、俺さっき耳にした気がするんだけど? 気のせいかな」
「……。そんな、ウソばっかり。仁さん、ずっと私のこと妹だって言ってたじゃないですか」
「妹だって思おうとしてただけ。奈緒の親友だし、歳だって離れてるし」
「そんな……」
「でも、もうはっきり言うけど、俺、優のこと、好きなんだよ。誰かに取られたくないって思ってんだよ」
「ほんと、に?」
「ほんとだよ」
「妹みたいに好きなんじゃ、なくて?」
「うん。妹なんかじゃなくて」
てっきり仁一さんが不倫してるものとばかり思っていた私は、信じられない気持ちでいた。
「優さ。ずっと、俺の気持ちに気付いてたのに、気付かないふりしてたでしょ?」
「そんなこと、ないです。仁さんが私のこと妹みたいに思ってくれていて、家族みたいに一緒に暮らせているなら、私はそれで幸せだって思っていて……」
「でも。ドキドキしてくれてたんでしょ?」
「それは……。でも、仁さんは奈緒のお兄さんだから好きになっちゃダメだ、ってずっと思ってましたし、優しくされても誤解しちゃだめだ、って必死に自分に言い聞かせてきてて……」
「うん」
仁一さんが、いつもの何倍も優しい声で相槌を打ち、私の話を聞いていた。
「だけど。それでもやっぱり私、仁さんのことつい意識してしまって、すごくドキドキしてしまうんです。だからあの……。その……、私も仁さんのこと、好き、みたいです」
「ふふ。『みたい』? 素直じゃないなぁ、もう」
「たしかに……。『みたい』じゃなくて、好きです、仁一さん」
「ありがとう、優。俺も大好き。だから、俺と付き合ってください」
「はい。よろしくお願いします」
「やった! すげえ嬉しいわ……。今日さ、2人でドライブすることになったって知った時、絶対俺の気持ち伝えようと思ってたの。なのに、朝から優めっちゃ機嫌悪いもんだから、どうしようかと思ったわ~」
「さっきは勝手に誤解して、怒ったりして、すみませんでした」
「いいよ、誤解は解けたんだしね。ねえ。手、またつないでもいい?」
「はい」
仁一さんの大きな手のひらが、私に差し出され、私はその手を握った。
「あったかい……」
私は思わずそう言った。そう言葉にしないと、つないでいる手から私の気持ちが全部仁一さんへ伝わってしまいそうで、すごく恥ずかしかったから。
「うん」と言って、仁一さんはぎゅうっと私の手を強く握り返した。
そして、2人で手を繋いだまま立ち上がって、お昼ご飯を食べに道の駅の食堂へと歩いて行き、美味しい海鮮丼を食べて、午後3時頃、道の駅を出て帰路に就いた。
帰りはじめる頃には、雪の粒が大きくなってきて、道路にみるみる積もり始めた。
空は、のっぺりとしたグレー1色で薄暗く、絶え間なく雪を降らせていた。
等間隔に並んだ道路の照明が、空から降り落ちる雪片を煌々と照らし、行き交う車のヘッドライトやフォグランプの灯りが、降り積もった雪を黄色く照らしていて、とても幻想的だった。
何台か前にいる除雪トラックが、真新しい雪を道の端に勢いよく寄せて走っているのが見えた。
目の前のフロントガラスに次々と付く雪を、ワイパーがゴトン、ゴトン、……と、規則正しく心地良いリズムを刻んで、掻き除けていた。
やがて、ワイパーに雪が付着し所々凍り付いて、窓ガラスをキュッ、キューッと音を立てて擦り始めた。
ワイパーが凍ったせいで、フロントガラスは徐々に曇り、2人の視界をふさぎ始め、まるでこの世界に仁一さんと2人きりでいるような気がしてきた。
仁一さんは、そんなことを考えてちょっとワクワクしてしまっている私の気持ちになんて、きっと気付いていないだろうな……。
私たちの車は、降りしきる雪の中、前の車のテールランプの明かりを頼りに走っていった。
ドライブの翌日、大晦日に私たち3人は、新潟の家に戻った。
奈緒は、彼と年越しするそうで、その日の夕方から彼の家に出かけて行った。
3人で年越しできないのは寂しかったが、初めて、私は仁一さんと2人きりの年越しとなった。
夕飯や年越し蕎麦を食べてから、居間のソファーで2人でくっついて毛布にくるまりながら紅白歌合戦を観た。「この曲知らない」とか「このバンド好き」とか口々に言い合って観ていたが、やがて2人ともウトウトしてきて、テレビを消した。
そして、そのまま2人ともソファーで眠ってしまった。
朝、目が覚めると、目の前に仁一さんの顔があって、ドキッとした。ものすごく心臓に悪い目覚めに、ひとりで狼狽えていると、仁一さんもやがて目を覚ました。
「ん……、おはよ」と、仁一さんはまだ眠そうに小さな声でそう言って、私を腕の中に、ぐいっと引き入れた。
「おはようございます」
「あのままソファーで寝ちゃったね」
「ですね」
私は仁一さんの腕の中で、緊張しながら返事をした。
「今日、神社にお参り行く?」と仁一さんが言った。
「はい。行きたいです」
私は、ドキドキし続けながらそう答えた。
「よし、決まり。顔洗って朝ごはんにしようか」
「はい」
この日は穏やかな晴天で、お参り日和だった。
神社は、初詣の人たちですし詰め状態だった。境内には、屋台の焼きそばや綿菓子やポッポ焼きの美味しそうな匂いが広がり、お焚き上げの煙の匂いも漂っていた。
私は、仁一さんと手をつないでおしゃべりをしながら列に並んで、そんな時間がとても幸せだった。そして、神様に今年一年の健康と幸せを祈願し、さらに、仁一さんとずっと幸せでいられますように、ともお願いした。
正月休みが終わって、大学の授業が始まった。卒業論文のテーマ決めを進めることになり、お昼に梨子と大学近くのお店にご飯を食べに行って、テーマをどうするかあれこれ相談した。
午後は授業がなかったので、食後は、梨子の家に久しぶりに遊びに行った。
そこで、私が仁一さんと付き合い始めたことを梨子に話すと、梨子はものすごく喜んでくれた。
私は、梨子に仁一さんとのことを報告できたが、肝心の奈緒にまだ話せていなかった。
奈緒が家に帰って来たら、仁さんとのことを話そう。
そう思いながら帰宅したら、奈緒は私より先にもう家に帰っていた。
緊張しながら、私は奈緒の部屋のドアをノックした。
「奈緒、ちょっと今いい?」と訊くと、「いいよ。入って来て」と部屋の中から返事が来た。
奈緒に、実は仁一さんと付き合うことになったのだと、恐る恐る打ち明けると、奈緒は不敵な笑みを私に向けた。
「ふっふっふ。やっぱりそうか~。かなり前から私、アニキと優の気持ち気付いてたんだからね。彼氏の家に私が行ってる間に、絶対2人は進展するって予想してたからね」と言った。
「うそ……、そんなふうに思ってたの」
「言ったでしょ、数々の漫画を読んできた私は、恋愛には詳しいって」
「そんなこと言ってましたか~?」
「言ってましたよ~。忘れましたかぁ? まあいいや。とにかく、うまくいって良かった。 私が言うのもなんだけど、アニキすごくイイ男だから。元カノにフラれたときはかわいそうだったけど、こんな日が来て本当に良かったよ。アニキのことよろしくね。優が相手だなんて私すっごく嬉しいよ」
「奈緒~……ありがとうね」
私は、嬉しすぎて涙ぐみそうになった。
「じゃあ、これまで以上に私は彼の家に行くことにしよっかな」
「えっ、そんなことしないで! それは私が寂しいし……。それに、まだ仁さんと2人きりなのは慣れないんだよ、私」
「そんなこと言ってないで、早く慣れてくださーい。とにかく、私はお邪魔虫になりたくないんで、彼の家にしょっちゅう泊まりま~す」
「やだ~。な~お~」
私が奈緒に泣きついてもダメだったようで、私と仁一さんが2人で家で過ごす日が、以前よりも増えていった。
「あいつ、最近彼氏んちに入り浸りだな。まったく」と、仁一さんが愚痴った。
「あの……、実は、奈緒に私たちが付き合い始めたことを話したんです。それで、奈緒、私たちに気遣ってるみたいで……」
「そうなんだ。あいつ……変な気遣っちゃって」と仁一さんが言った。
「ですね。元々奈緒の家なのに……。だから私、そろそろこの家を出て、別の所に住んだ方がいいかな、って思ってるんです」
「えっ。なんで。やだよー俺。せっかく、彼女とほぼ同棲状態で嬉しかったのに。あ、でも、優は1人で暮らす方が楽?」
「あ、いえ。そんなことはないんですけど、奈緒に悪くて……」
私は、仁一さんに不意に『彼女』と呼ばれたことに、ドキッとしてくすぐったくなったけれど、平気なふりをして話した。
「そっか。同棲反対派なわけじゃないんだよね?」
「う~ん……、同棲したことないので、よくわからないですけど、仁さんとここで暮らせているのは、幸せです」
「ありがとう。俺も。家に帰ったらいつも優がいるなんて、すごい幸せ」
そう言って、仁一さんが私を優しく抱き寄せた。
仁一さんの広くてあたたかい胸に、すっぽりと包まれた私は、ものすごく幸せな気持ちに満たされた。
「奈緒には、変な遠慮するな、って俺からも話しておくから。じゃないと、優が出て行っちゃうよ、って言っとくよ」
「すみません」
「優が謝ることじゃないよ」
そう言って、仁一さんが私をぎゅっと抱きしめたあと、私のおでこにキスをして、「じゃあ、おやすみ」と言って、自分の部屋に行った。
彼からのキスは、私をその夜、ずっとドキドキさせて眠れなくさせた。
仁一さんが奈緒に、変な気を遣ったりしないで毎日自分の家に帰ってこいと話をしたら、奈緒はちゃんと帰ってくるようになった。
今まで通り奈緒と一緒に暮らせて、私はうれしかった。
時々、3人で食卓を囲んだりテレビを見たり……。そんな時間が、私にとってはかけがえのない大切なものだった。
それから月日は流れて、春が終わり短い夏もあっけなく過ぎて行き、私の大学生活も、残りわずかとなっていた。
4年生の夏の終わり、私は翻訳会社の内定をもらうことができて、卒業後はそこで翻訳の仕事をすることになった。
梨子は、新潟を離れ、仙台の出版社で働くことになったので、春からは彼女と離れ離れになってしまうことになった。さらに、奈緒も新潟を離れ、地元の上越市に就職し、社会福祉士として働くことになった。次の春からは、すぐそばに梨子はもういないし、奈緒もこの家を出て行ってしまうので、私はすごく寂しかった。
卒論の仕上げが最終段階にさしかかり、秋から冬の終わりまではものすごく忙しかった。梨子とは大学で長い時間一緒にいられたが、一方で奈緒と過ごせる時間は少なくなり、家で過ごすときは、奈緒と残された時間を名残惜しんだ。
「奈緒、本当にこの家に一緒に住もう、って誘ってくれてありがとう」と、ある時私が言うと、「ううん。優と一緒に暮らせてすっごく楽しかったよ」と奈緒が言った。
「私もすごく楽しかった。奈緒と離れて暮らすことになるなんて、まだ実感が湧かないよ」
「私だって」
私と奈緒は、お互いそう言ってしんみりした。
「アニキのことよろしくね」と奈緒が言った。
そして、3月初めの卒業式の後、奈緒が上越市へと引っ越す日がやってきた。
奈緒の使っていた食器や細々とした日用品などは、彼女がいつでも遊びに来た時に使えるよう、残して行った。
奈緒のお母さんも、新潟にやって来て引っ越しの手伝いをした。
仁一さんがおばさんに、私と付き合っていることを報告すると、「優ちゃんとお付き合いしてるの? まぁ~。良かったわね仁一。優ちゃん、ありがとうね。仁一、結構子どもっぽいとこもあるし抜けてたりするけど、どうかよろしくね」とおばさんは言ってくれた。
「そんな。私の方こそよろしくお願いします」と、私は言った。
朝やってきた引っ越しのトラックは、昼頃には奈緒の家財道具を積み終わり、奈緒とおばさんを乗せて出て行った。
私と仁一さんは、トラックが見えなくなるまで見送った。
奈緒が出て行った部屋の畳は、ベッドや棚などの跡が所々残り、ラグが敷かれていたと思われる所は、そこだけ元の緑の色を残して青々としていた。
彼女が掛けていたブラウンとブルーのエスニック柄のカーテンが取り払われて、窓からは暖かな春の陽射しが、部屋全体にさしこんでいた。
バルコニーには、ハンガーが二つぶら下がったままになっていて、風に揺れて、なんだか寂しそうに見えた。
そこで洗濯物を干したり、本を読んで寛いでいた奈緒の姿を思い出した。
もう、私の部屋のバルコニーに出ても、隣から奈緒が顔をのぞかせることはないんだ……。
私は、奈緒がいなくなったことを改めて実感して、急に寂しさがこみあげた。
第4章
奈緒が出て行って数日後のある日、仁一さんが私に「話があるんだ」と改まって言った。
「あのさ。実は、俺のいとこが、この家に住ませてほしい、って言ってきたんだ」
「えっ? そうなんですか」
「うん。長野に住んでる叔母の子で、この春高校を卒業して、新潟市にある大学に通うことになったんだって。それで、うちの部屋が余ってるって聞いたらしくて」
「いいと思います。仁さんのいとこなら、身内の方で安心ですし、仁さんが良ければ私は全然構いませんので」
「ありがとね。でも、まずは、優にも一度会ってみてもらって、それから決めたいなぁ、って思ってて」
「そんな、いいですよ。私はどんな人だって大丈夫ですから」
「でも……、一応ね。俺は小さい時からその子のこと知ってるし、よく遊んだりもしたからいいけど、優は全く知らない人なわけだから……ね。明日の午後うちに来るから、会ってみてくれる?」
「もちろんです。楽しみにしてますね」
そうして、翌日、仁一さんのいとこがうちにやってきた。
「はじめまして。寺尾颯斗です」
「はじめまして。五十嵐優です」
「ジンくんの彼女さん、なんですよね」
寺尾くんは、仁一さんのことを「ジンくん」と昔から呼んできたらしい。
「は、はい。よろしくお願いします」と、私は言った。
寺尾くんは、日焼けしたスポーツマンタイプの男子で、端正な顔立ちをしていた。
医療福祉の大学のスポーツ科に合格したそうで、鍛え上げられた体つきをしていた。
彼に会うまで、素朴で幼い大学生を勝手に想像していた私は、予想と違ってドキドキしてしまった。
「すみません、俺、ジンくんが彼女さんと住んでるって知らなくて、昨日知ったんです。さすがに俺、お2人の邪魔になるのでやっぱり遠慮しときます。とりあえず、ほかに住むところが見つかるまででいいんで泊めてもらえるとありがたいんですけど……」と、寺尾くんが、眉間にギュッと皺を寄せて、申し訳なさそうな顔で言った。
「えっ。いえいえ、仁さんも私も、一緒に住んでもらうのは全く構わないんですけど。そんな、遠慮なんてしないでください。あっ、でも、寺尾くんがこんな状況で住むのは嫌だって思うんでしたら、あれですけど……」と、私は慌てて言った。
「そうだよ颯斗。俺は全然、邪魔だなんて思わないし、むしろ、颯斗と一緒に住めるなんて楽しそうだな、って思ってるよ。颯斗さえ嫌じゃなかったら、どう?」
「全然、嫌なんかじゃないよ。でも、同棲カップルの家に居候するって、さすがに図々しすぎるんじゃ……」と、寺尾くんは答えた。
「同棲カップルの家っていうか、下宿みたいなもんだから、俺と優のことはあんまり気にしないでよ」と、仁一さんが言った。
「本当に、いいんですか?」と寺尾くんが私に訊いた。
「はい。もちろんです」と、私は答えた。
「広いこの家に部屋2つも余ってるし、使わないともったいないからさ。それに、優も就職して忙しくなるから、学生の颯斗に、掃除とか中心になってやってもらえるとすごくありがたいんだけど」と仁一さんが言った。
「そういうことなら、任せてよ」と寺尾くんは答えた。
「台所やお風呂とかの共用部分の掃除を、寺尾くんに手伝ってもらえると助かります」と、私も言った。
「あ、『はやと』でいいです」と、寺尾くんが言った。
「は、はい。じゃあ、……颯斗、くん」
「掃除、割と得意なんで、大丈夫です」と、颯斗くんが言った。
「それは助かるよ。その分家賃はタダで、生活費だけちょっと入れてもらうのでいいよ」と仁一さんが言った。
「えっ、いいの?」
「ご飯はそれぞれ勝手に用意したり外で食べてきたりもしてるから、そこは自由で。時間が合えばみんなで時々一緒に食べよう。自分の使った食器は、もちろん自分で元の場所に片付けるようにね。それから、個室以外の場所の掃除は、颯斗に主に任せるけど、気付いた人ができる時にやるようにしよう。それから、洗濯は自分のものを各自でやってるからね。あ。あと、友だちとかを家に呼んでも構わないけど、泊めるようなら事前に俺と優に相談してほしいな。勝手に彼女連れ込むのはNGね~」と仁一さんが説明した。
「つ、連れこんだりしねーよ」と、颯斗くんが言った。
「どう? この家で暮らせそうかな?」と、仁一さんが颯斗くんに訊いた。
「うん。ここに住まわせてください」
「優も……、いい、かな?」と仁一さんが私に訊いた。
「もちろん。ぜひ」と私は答えた。
「じゃあ決まり」と仁一さんが言った。
「よろしくお願いします」と、颯斗くんが頭を下げて言った。
そうして、3月中旬の土曜日に、颯斗くんがうちに引っ越してきた。
彼の部屋は、以前奈緒が使っていたところになった。
そして、奈緒もその日上越からやってきて、颯斗くんの歓迎会をした。
「久しぶり」と、颯斗くんが奈緒に言った。
「うわ~、颯斗大きくなったね。最後に会ったのって、10年くらい前の親戚の結婚式だったから、あの時まだ小学生だったもんね。小さい頃はプクプクしてて可愛かったのに、すっかりシュッとしてオトナの男になったね。女の子にモテモテでしょう」と、奈緒がすごい勢いで颯斗くんに話しかけた。
「ちょっと奈緒。颯斗ビビッてるから~。ただでさえ、昔から奈緒のこと怖がってたのに」と、仁一さんが笑いながら言った。
「えっ。ビビってないよね? 昔も怖がってなんかなかったでしょ? ね?」と、奈緒が颯斗くんに言った。
「あ、う、うん。でも、俺よく奈緒ちゃんに泣かされた記憶が……」と颯斗くんが答えると、「えー。そうだっけ。私いじめたりしてなかったけど……」と、奈緒が首を傾げた。
「いやいや、小っちゃかった俺のこと結構オモチャにしてたじゃん。それに引き換えジンくんは、10個以上年上で大人だったから、上越のじいちゃんちで会うといつも可愛がってくれたよね」と、颯斗くんが仁一さんに言った。
「そうだったね」と仁一さんが頷いた。
「ふーん、そうですかぁ」と奈緒がちょっとむくれて言った。
「大学の合格決まって、住むところ探そうとした時に、真っ先にジンくんのことが頭に浮かんで連絡してみたんだ。そしたら、『部屋余ってるからおいで』って、言ってくれたんだ」と、颯斗くんが言った。
「可愛い颯斗が連絡くれたんだから、当たり前だろ」と、仁一さんが言った。
「よかったじゃん颯斗。言っとくけど、女の子家に連れ込んだりしないんだよ。ちゃんと勉強頑張ってね」と奈緒が言った。
「わかってるよ」
「あと、優の仕事の邪魔したり、迷惑かけたりしちゃだめだよ」
「うん……、ガキ扱いしすぎ、奈緒ちゃん」と、颯斗くんがたじたじになりながら、言った。
「ごめんごめん、つい」
そんな2人のやりとりを笑って聞いていた私に、「五十嵐さんも、上越市の出身なんですか?」と、颯斗くんが訊いてきた。
「あ、苗字じゃなくて『優』で大丈夫です。私は、生まれは福井で幼稚園から高校まで広島にいました。それから高校の時に上越市に引っ越して来たんです」
「そうなんですね。……。優さんは、4月からどんなお仕事するんですか」と、颯斗くんが訊いた。
「翻訳の仕事です。民間の会社や公的機関から依頼された文書の翻訳とかをしている会社で働くことになりました」と私は言った。
「へぇー。カッコいい。頭いいんですね」と颯斗くんが目を真ん丸にして言った。リアクションが大きくて、表情がコロコロ変わって面白いな、と私は思った。
なんだか可愛い弟ができたみたいで、私はうれしくなってきた。
その夜は、久しぶりに奈緒と一緒の部屋で寝た。
「アニキとうまくいってる?」
2人で並んで寝ていたら、奈緒がそう訊いた。
「うん。仁さん、本当に優しくて、いつも私のわがままきいてくれるし、私にはもったいないくらいだよ」
「ふふふ、惚気るね~」
「そ、そんなんじゃないもん。それに、奈緒のお兄さんだからさ」と、私はムキになって言った。
「はいはい。ウソだよ。うまくいってるようで良かった」
「ありがとね奈緒。でもさ。そのうち、もっと綺麗で素敵な人が、仁さんのそばに現れて、その人のこと好きになっちゃったりしたらどうしよう、って時々思ったりするんだ」と、私は言った。
「え~? なんでそんな心配してんの優。だいじょうぶだよ、アニキはそんな軽い男じゃないし。ま、たしかに誰にでも優しくて不安になるところはあるかもだけど……。優は、めっちゃ愛されてるから安心しな」と、奈緒が言った。
「うん。ありがとう」
奈緒の学生の頃からの恋人は、同じ上越市の出身だったので、奈緒と同じように上越市で就職して、相変わらずうまくいっているそうだ。
私たちは、学生の頃みたいに、夜じゅう話し続けて、久しぶりにとても楽しい夜だった。
奈緒は、翌日上越に帰って行った。
そして、私の新しい社会人生活と、颯斗くんの新しい学生生活が、始まった。
私の入社した会社には、15人ほどの社員が働いていた。
新卒は私1人だけで、社員の年齢層は比較的高めだった。気難しそうな年配の男性もいたが、気さくで優しい年上の女性や、真面目で大人しそうな男性もいて、大方は親切な先輩ばかりだった。
私は、最初は、企業から依頼された文書の翻訳の一部を、少しずつ任された。そのほか、雑用も新入社員である私の担当だった。
最初は覚えることが山ほどあって、家に帰ってくると、グッタリと疲れた。
仁一さんが、「今日はどうだった?」と毎晩気にしてくれて、新社会人の私を励ましてくれた。
休日には、仁一さんと食事に出かけたり、公園にピクニックに行ったり、街に買い物に出かけたりした。私は彼のおかげで、リフレッシュしながら、慣れない仕事を頑張ることができた。
颯斗くんの大学は、家からバスや自転車で20分ほどで行ける距離にあった。半日しか授業がない日も時々あるようで、大学生ならではの自由な生活を送っているようだった。
仁一さんは、早朝にジョギングするのが今までの日課だったのだが、颯斗くんが来てからは、2人で一緒にジョギングし始めた。運動に詳しい颯斗くんに色々なアドバイスをもらいながらトレーニングができて助かっている、と仁一さんは言っていた。
颯斗くんは、そんなふうに仁一さんと兄弟みたいに仲良く過ごしていたが、私にはまだ人見知りしているのか、なんとなくよそよそしかった。
私も、19の若者にどう接したらいいのか、何の話をすればいいのかよく分からず、いまだに颯斗くんに対して、少し緊張していた。
颯斗くんは、しょっちゅう学校の仲間と集まりがあるようで、夜遅くに帰って来ることが多かった。
そういえば私も、大学一年の春はそんな日々だったな……、と懐かしく思った。
ある夜、食事会を終えて帰ってきた颯斗くんと、居間で一緒になった。
仁一さんは、仕事でまだ帰っていなかった。
「ただいま」と颯斗くんが、私に声をかけた。
「おかえりなさい颯斗くん。今夜も友だちと食べてきたの?」
「はい。駅前のお店に行って来ました」
「そっか。楽しかった?」
「はい。それに、新潟って何食べても美味いですね」
「ふふふ。いいなぁ。楽しそうで……。私も大学生に戻りたいな」
「あはは。なんかすみません。……、仕事、大変ですか?」と颯斗くんが訊いた。
「そうですね、なかなか大変です。次々新しいことが出てきて、覚えられないし……」
「そっか。大変そうっすね。あまり無理しないでください」
「ありがとうございます」
「ていうか、俺年下なんで、そんな、敬語使わないでください。名前も呼び捨てにしてもらって構わないんで」
「そ、そっか……。堅苦しかった、かな? ごめんなさい」
「あ、全然、全然。俺が緊張させちゃってるのかな、って思って……」と言いながら、颯斗くんは顔の前で手を大きく横に振って、慌てて否定した。リアクションが大きくてなんだか可愛かった。
「そんなことないよ。私、仁さんにも時々敬語で、『いつまで敬語なの』って言われてるんだけど、なかなか変えられなくて……」
「そうなんだ。意外と頑固なんだ~優さん」と、颯斗くんが笑った。笑うと、目の下にえくぼが現れて(インディアンえくぼと呼ぶらしい)、いつもと印象がガラッと変わって、人懐こい雰囲気がした。彼は、普段は眉間に皺を寄せがちで、(何か機嫌悪いのかな……)と思ってしまうことも多かった。私にはあまり話しかけてこない彼が、心を開いて気さくに話してくれて、嬉しかった。
5月のゴールデンウィークが来て、私は仁一さんとシーサイドラインにドライブに行った。快晴の天気で絶好のドライブ日和だった。 私たちは、寺泊の魚市場で浜焼きなどを食べた後、砂浜を散歩し、堤防に腰かけて海を眺めた。
海の色は、浅瀬の透き通ったエメラルド色から沖合の深みのあるコバルトブルーまで、様々なブルーのグラデーションになっていた。 私は、潮風の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、強い日差しを手で遮りながら、水平線を見つめていた。
「これ、使いな」と、仁一さんが自分のかけていたサングラスを貸してくれた。
「ありがとうございます」と言って私がそれを着けると、仁一さんはフフフッと笑った。
「ギャングみたいだな、優」と仁一さんが言った。
「ひっどい仁さん。どうせ似合いませんよ~だ」と私が言って頬を膨らませサングラスを外すと、仁一さんが「ウソウソ。可愛いよ」と笑って言い、私の頭を撫でた。
彼は、そんなことを照れずにサラッと自然に言えてしまう。
「そのうち優と一緒に、海外にも行ってみたいな」と仁一さんが海の向こうを見て言った。
「良いですね……。行ってみたいです」
私はそう言って、水平線の向こうのどこかの国へ、仁一さんと旅することを思い描いてみた。いつか本当にそんな日が来るといいな、と思った。
仁一さんが少し高さのある堤防から、地面に軽々とジャンプして降りて、私に、おいでと手を差し出した。私はその差し出された大きな手に自分の手を重ねた。仁一さんと手をつなぐとすごくホッとして、(あぁ、やっぱりすごく仁さんが好きだなぁ)と思った。彼の手を借りて堤防の下に勢いよく降りると、彼の身体に私の身体がくっつき、彼のもう片方の手が私の背中に優しく添えられた。
「優、大好きだよ」と仁一さんが囁いた。仁一さんは、潮の香りとヘアーワックスの柑橘系の香りがした。
「何ですか、急にもう」と私は、まるでさっきの自分の心を彼に見透かされたのかと思って、恥ずかしくなって、そう言った。
「え。どさくさに紛れて言いたくなっただけ。だって、大好きだから」と、仁一さんは笑顔でそう言った。
「わっ私も。仁さんが、……大好きです」と、私は恥ずかしくて小さな声でそう言った。
「ありがとう」
そう言って、仁一さんはとても嬉しそうな顔で笑った。笑うと、二重の目が綺麗な三日月のようなカーブを描き、目尻に皺が出来た。大きな口の端はキュッと上がり、少し大きめの前歯が可愛く覗いていた。そんな仁一さんの笑顔は、私をいつも幸せな気持ちにしてくれた。
連休が終わり夏本番を迎える頃には、颯斗くんは、段々とだらしないところも見え始めてきた。洗濯ものを洗濯機の中に入れっぱなしにしてあったり、脱いだ靴下や服をソファーの上や居間の床に放り投げてあったり……。
仁一さんだけでなく、気付いた頃には私も彼に慣れてきて、遠慮なくガミガミと注意するようになっていた。彼の呼び方もすっかり呼び捨てになっていた。
「颯斗、またこんなところに靴下脱ぎっぱなしなんだけど」とか、「電気点けっぱなしだよー」とか、「使い終わったバスタオル、丸めて床に置きっぱなしにするなって言ったでしょ」とか、そんなことでしょっちゅう小言を言う羽目になっていた。
颯斗は「ごめんごめん」と悪びれずに言っていて、反省しているのかどうか怪しいものだったが、でも、全然憎めなかった。
でも掃除は本人が得意と言っていただけあって、綺麗にしてくれていたので助かっていた。
8月のお盆休みになると、仁一さんと私は、一緒に上越に里帰りした。
仁一さんと私の実家に、それぞれ二人で顔を出し、お互いの親に挨拶した。
私の母が、仁一さんが帰って行ったあとで、「優。鈴木さんと、結婚の話とか出てたりするの?」と訊いてきて、ちょっと面倒だった。
「そんな話全然ないし、私まだ就職したばっかりでそれどころじゃないから」と、私は言った。
母は、仁一さんのいとこも私と一緒の家で暮らし始めたことを聞いて、「その子、ほんとに一緒に住んだりしていて大丈夫なの? 変なことされたりしないか、気をつけなさいよ」と深刻そうな顔をして言った。母のそういう所が、私は鬱陶しかった。
実家から新潟に戻って来た次の日は、仁一さんが大学の研究室の同期と、海でバーベキューをすることになっていて、彼がみんなに私を紹介したいからと言って、私も参加した。
仁一さんの同期は、彼を含めて男女5人ずつ集まった。
仁一さんがみんなに私を紹介すると、同期の女の人たちは、「え、ちょっと! 彼女若~い」「可愛い」と口々に言い、男の人たちは、「仁一~。お前、こんな年下捕まえて、羨ましいぞ~」と言った。
仁一さんはふざけたりよくしゃべったりする人だけど、自分が話すのに夢中になったりせずに、会話の輪の外で置いてきぼりになりそうな人がいたら、上手に話を振っていた。周りをよく見ていて、まめで気が利く人なので、皿が空いている人には、サッと「これ焼けてるから食べな」と焼けたお肉や野菜をのせたりしていた。
それ故に、自然と彼のそばには人が集まっていて、特に、仁一さんと仲の良さそうな女性2人は、ずっと彼のそばにベッタリくっついて楽しそうにしていた。
彼女らは、2人ともロングヘアーで、すごくスタイルが良くて、ノースリーブのブラウスとホットパンツ姿で大人の色気があった。
ノースリーブから出ている腕は、ほっそり引き締まっていたし、ホットパンツから伸びている足は真っすぐでスラリと長かった。ヒップはキュッと上がっていて、カッコよかった。
一方の私は、ボーダーのTシャツにチノパンという、全然女性らしい恰好でもなんでもなかったし、二の腕だって太ももだってあんなに細くないし、お尻だってあんなに高い位置にない。大人っぽい彼女らと比べると、まるで中学生みたいだ、と自分で思った。
バーベキューが終わった帰りに、仁一さんの車の中で、「仁さんの同期の女の人たち、すごく綺麗でスタイル抜群でしたね」と私は言った。
「えー、そう? 優が一番可愛いよ。みんなも、優のことめっちゃ可愛いって言ってたじゃん」と仁一さんが言った。
「それは……、社交辞令というか。『お子様』で、可愛いって意味なんじゃ……。私、自分だけ子どもっぽくて、仁さんになんだか申し訳なくなっちゃって……」と私は言った。
「なーに言ってるの。全然そんなことないし、俺の好きなのは優なんだからね。そのままの優が綺麗で可愛くて、最高なの」
そう言って、仁一さんが私の頭をクシャクシャっとした。
仁一さんは優しいからそう言ってくれるけど、やっぱり私は自分に自信がなかった。
秋になり、暑さもおさまってきた頃、私は、ダイエットを始めることにした。
仕事が終わって家に帰ってから、夜、家の周りを軽くジョギングしたりウォーキングしたりした。
ある日、自分の部屋で洗濯物を取りこんでいると、隣の部屋のバルコニーに颯斗がいた。
「ねーねー、優さんの洗濯物、風でこっちに落ちちゃってたよ」と颯斗が言った。
「えっ! ウソ。どれ?」と私が慌てて言うと、「こ・れ」と、颯斗が私の下着を手にしてこちらに見せた。
「わ~っ! 返して返して」と、私はそれを奪い取った。
それは、ラベンダー色に白の水玉のパンツだった。
「優さん、こういうパンツ履いてんだ。可愛い~」と颯斗がニヤニヤして言った。
「うるさいっ、バカ」と、私は恥ずかしくて、そう言った。
「はぁ? 俺、拾ってあげたのにー。ひっど。……優さん、もうちょっと色気のあるパンツの方がジンくん喜ぶと思うよ。Tバックとか紐パンとか持ってないわけ?」と颯斗が言った。
そんな颯斗の意地悪な顔が、少しだけ翔の顔を思い出させた。
「……」私が黙って、本気で怒った顔を颯斗に向けると、「えっ?」と、彼が戸惑った。
「颯斗、最低っ」
私は、痛いところを突かれて腹を立て、颯斗に強い口調で怒って、自分の部屋の中に入った。
すぐに、颯斗が部屋のドアをノックして、やって来た。
「優さん、ごめん。そんな怒るなんて思わなくて。調子乗って悪かった」と、颯斗が言った。
「……。ううん。ごめん。……私の方こそ、おとなげなかったね」
「いや、完全に俺が悪かったよ」
「もう、いいよ。本当に。あ、その代わりと言ったらなんだけど、……、颯斗。ダイエットに効く筋トレとか、ヒップがキュッと上がってカッコよくなる筋トレ、簡単にできるやつ教えてくれない?」と、私は頼んだ。
「何、優さんダイエットしてんの? 筋トレはもちろん喜んで教えるけど……。でも別にそんな必要なさそうだけどな」と颯斗が言った。
「そんなことないよ。私さ、この間のお盆休みに、仁さんの友だちの女の人たちに会ったんだけど、その人たち、大人っぽくてすごくスラッとしてお尻もカッコよかったの。つい自分をその人たちと比べてしまって……」
「ふ~ん、そうなんだ。そんな人たちと比べなくても、ジンくんは優さんが一番なんだから、全然そのままで良いと思うよ」と颯斗が言った。
「でも……、私もスタイル良くなりたいの。だから、お願いします」と、私が言ったら、「わかったよ。まず、一番簡単な動きから教えるからやってみて」と颯斗が言って、筋トレの仕方を教えてくれた。その日から、夜居間で颯斗と一緒になると、筋トレを教えてもらうようになった。
それから数日経ったある日、私は、自分の部屋で仕事の調べ物をしていて、夜11時頃までかかってしまった。ひと段落ついて、私は下の階のキッチンへ行った。
テーブルの上にポテトチップスを置いて、冷蔵庫から缶ビールを出してグビッとやり、「あぁ~。沁みる~」と、独り言を言った。
「優さーん、何独り言言ってんの~」と、颯斗がそこに顔を出して来た。
「颯斗、起きてたの?」と私は言った。
「うん。腹減ったから下りて来たんだけど。……って、ねぇ、こんな時間にポテチ食べる気?」と颯斗が言った。
「だって。お腹減ったんだもん」
「ダイエットしてんじゃなかったの? ポテチなんて一番王道のデブの素じゃん。ジンくんの友だちみたいなナイスボディーになれないよ」と颯斗が言った。
「分かってるよ。ちょっとだけ、いいでしょ」と私は言った。
「だ・め。これは没収~」と、颯斗にポテトチップスを取り上げられた。
「わっ、ひどい。厳しすぎる、颯斗」と私が言うと、「いっつもガミガミ言われてるから、お返し」と颯斗が意地悪な顔をして言った。
「もう。仁さんだったらきっと『ちょっとだけだよ』って、食べても良いって言ってくれるのにな」
「ジンさんは、甘すぎだから」と、颯斗が言った。
「お腹減って眠れそうにないんだけど~」と私が言ったら、「はいはい。ちょっと待ってなよ」と颯斗が言って、鍋を火にかけて何やら作り始めた。
出来上がったのは、生姜のきいた鶏ササミときのこのスープだった。
「はい。どうぞ。これなら夜食に食べても太らないし、満足感もあるから」と颯斗が言って、私の分と自分の分をテーブルに置いた。私のポテトチップスを取り上げてなんて厳しいんだと思ったが、彼は憎まれ口を叩くくせに、すごく優しかった。
そんなところも、やっぱり少し翔に似ているような気がした。
「ありがとう……、さすがスポーツやってる人だね。じゃあ、いただきます」と私は言って、颯斗と一緒にスープを飲んだ。身体が温まって、たしかに満足感があった。
「美味しい……」と私が言うと、「ほんと? 良かった。それ食べたら、居間でストレッチな」と颯斗が言った。
「え、こんな時間に?」と私は言った。
「こんな時間にポテチ食べようとしてたの、優でしょ」と颯斗が言った。
さりげなく名前を呼び捨てにされた。
「そう、だよね。分かったよ、スパルタめ」と私が言うと、「そうだよ、スパルタだよ。俺はジンくんとは違うんだよ」とニヤッと笑って颯斗が言った。
私はダイエットのために、月に何度かある平日の休みに、時間を見つけてプールに泳ぎに行った。
水の中は、静寂の世界で雑音がないのが好きだ。自分の吐き出す空気の音と、水圧の音しか聞こえない。プールの床の青い色と、そこに引かれた水色のラインだけを見つめて、何も考えずに泳ぎ続けた。窓から太陽の光が射しこんで、床面にきらきらと複雑な光の模様が描きだされるのが綺麗で、私はその瞬間が訪れると、瞬きを忘れた。
それは、たびたび夢に見る海の中の世界を思い起こさせた。
夢の中で、私は深く沈んでいる。紺碧色の水中の世界で、顔を上げると、はるか上の方にゆらゆらと光っている水面があった。
できることなら、私はそこに永遠に留まっていたいと夢の中で思っていた。
そして、そこで翔に会えるのを、私はいつも待っていた。
筋トレやスイミングの効果か、私は少しずつ無駄な肉が落ちてきた気がした。
颯斗と、居間で一緒に筋トレをしていると、仁一さんが「優、筋トレ頑張ってるねぇ。でも、全然そのままでいいのに」と言った。
「でも、今までほとんど運動しなかったから、気付いたら腕も足もムチムチしてきちゃって」と私は言った。
そう話していると、急に足が攣った。
「いったたた!」
強烈な痛みが襲って、声を上げた。
「大丈夫?!」と仁一さんがびっくりして言った。
颯斗が、「大丈夫? ほら、足こっちに伸ばして」と言って、私の足をマッサージしてくれた。彼の手で脚を触られて、私は意識したくないのに、ものすごくドキドキしてしまった。
しばらくすると痙攣は収まり、「ちょっと今日は頑張りすぎたかもな。今夜はここまでだな」と颯斗に言われたので、私はお礼を言って自分の部屋に戻った。
私は、颯斗といるとなんだか調子が狂ってしまう、と思った。
彼は、どことなく翔に似ている気がしてならなかった。
仁一さんが、あとから私の部屋にやってきた。
「優、すっかり颯斗と仲良くなったね。さっきさ、颯斗にマッサージされて、ちょっと照れて赤くなってなかった?」と仁一さんが言った。
「そ、そんなこと、ないよ。颯斗に照れたりなんてしないよ。ちょっとくすぐったかっただけ」
「ふぅ~ん。……なんだか危険だなぁ」
「なんで。危険なんかじゃないよ。颯斗、最近私にも遠慮がなくなってちょっと失礼になってきたから、私も弟みたいに思って接してるし。……。仁さん、もしかして妬いてます?」と私が言うと、
「当たり前でしょ。俺だってヤキモチくらい焼くよ」と仁一さんが言った。
「ふふ。うれしい」と私は言った。
「もう。こっちの気も知らないで~。颯斗、カッコいいしモテそうだから危険だわ。あいつが優に触るのは、ヤだ」
仁一さんが、私の太ももの上に手を置いて、さわさわと撫で始めた。
「俺は、ムチムチしてるくらいが丁度良いって思うんだけどなぁ」
そう言って、彼の手が、だんだん際どいところに上がってきた。
「もう、やめて、仁さん」
「やだね」
「隣の部屋に、颯斗いるから……」と私は小声で言った。
「いいよ、聞かせてやれば」と、仁一さんが低い声で囁いた。
年頃の男子を刺激したらダメだって、自分が最初に話していたくせに。
その夜、仁一さんは珍しく、私の身体のあちこちに紅い印を幾つも付けた。
秋も終わりに向かい、翔の命日が来た。今年はちょうど7回忌だった。
その日、私は風邪を引いて、仕事を休んだ。職場でインフルエンザが流行っていたので、どうやらそれをもらったようだった。熱は微熱程度だったが、身体の節々が痛くてすごく怠かった。
「大丈夫? 優。俺、今日市外の病院でカウンセリングがあって休めないんだ、ごめんね」と、仁一さんが言ったので、私は「休んだりしてくれなくて大丈夫だよ。微熱だし、1日寝てれば治ると思うから」と言った。
「病院行けたら行ってね。今日はなるべく早く帰るね」と、仁一さんが言った。
颯斗も、仁一さんと同じ時間に大学に出かけて行ったので、私は家で1人で寝ていた。
昼近くになっても身体の節々の痛みは続き、そのうえ震えるような寒気まで襲ってきた。
布団を頭まで被って、震えながら丸まって寝ていると、どんどん熱が上がっていくのが自分でも分かった。熱が上がって意識が朦朧としながら、私は眠りに落ち、夢を見た。
久しぶりに、昔熱を出すたびに見たあの嫌なトマトの夢を見た。部屋中に潰れたトマトが広がっていて逃げ場のない私は、夢の中で誰かに助けを求めようとしていた。相変わらず不気味な夢だった。
しばらく夢の中にいたら、「優。ねぇ、大丈夫?」と、遠慮がちに肩を揺すられて目が覚めた。
私のベッドのそばで、颯斗が床に座っていた。大学が終わって帰って来たのだろう。
「うなされてたみたいだけど、大丈夫? すごい熱だよ」と颯斗が、私のおでこを触って言った。
「トマ、ト……が」と私がかすれた声で言うと、「え? トマト食べたいの?」と颯斗が訊いた。
「うう、ん、違う……。トマトの夢が……」
「あぁ、夢? トマトがどうしたの?」と、颯斗に訊かれた。
「ん……、トマトがね」と言いかけたところで、激しく咳き込んだ。
「咳もひどいな。ほら、水飲んで」と、颯斗が言った。
「ありがと」と言って、私は何時間かぶりに水分を取った。
「……ねぇ。その人って、亡くなった優の大事な人、なんだろ?」と、颯斗がベッド横のサイドテーブルに飾ってあった翔の写真の方を見ながら言った。
「うん。……っていうか、颯斗、それ見てたの?」
颯斗が、翔との思い出を綴ったノートを手にしていた。昨夜、私は彼の写真を飾り、思い出を振り返りながらノートに綴っていて、そのまま出しっぱなしにしていたんだった。
「ごめん、ここに開いたまま置いてあって。『見ても良い?』って訊いたら、『うん』って言ったから……。これ、読んじゃダメだった、よな?」と、颯斗が言った。
きっと、私は意識が朦朧としていて、無意識に「うん」と返事をしていたのだろう。
「ううん。いいよ。かなり恥ずかしいけど……」と、そこまで言って、私はまた咳き込んだ。
「医者、行ける?」と颯斗が言った。
「行かなくていいよ。動きたくないし、寝てればそのうち治るから」と私は言った。
「ダメだよ。薬もらったらすぐに熱も下がるから。ほら、病院行こう」と颯斗が言ったが、「ん~、怠いし、行かない」と私は言った。
「もう。ほら、行くよ」と、颯斗が私を抱き抱えた。
「わぁっ、何するの」と私は抵抗したが、そのまま颯斗は私をベッドの端に座らせた。彼は、私のクローゼットのハンガーにかかっていた洋服を適当に持ってきて、「あっち向いてるから、これ着て」と言った。
私は仕方なく、ノロノロと服を着替えた。
「ほら。乗って」と颯斗が言って、今度はベッドの前で私を背負う態勢になってしゃがんだ。
「えぇ~、いいよ、おんぶは。私重いから、颯斗潰れちゃうよ」
「あ~、もういいから。早く乗れ」と、痺れを切らした颯斗に腕を掴まれて、背負われた。
まさか自分が大人になってから背負われるなんて思わなかったので、恥ずかしかった。
彼の背中はとても広くて、服の上からも鍛え上げられた筋肉が付いているのが分かった。そして、彼の首筋からすごく懐かしい匂いがした。それは、私の記憶に残っていた翔の匂いそのものだった。
(やっぱり、翔に似ている……)
その匂いは、一瞬にして私の記憶を強烈に呼び起こして、私の頭の中に翔の眩しい笑顔を浮かび上がらせた。
(翔……)
危うく、そう声に出してしまいそうになった。
颯斗は翔じゃない。もちろん全くの別人だし、顔も声も違う。頭では分かっていたけれど、気持ちがついていかなかった。私は思わず、颯斗にまわしていた腕にぎゅっと力を込めた。
「……、大丈夫? すぐタクシー来るからな」と、颯斗が言った。
あの神社で最後に会った日、どうして私は自分の気持ちを翔に伝えなかったんだろう……。
『好きだよ』って、ちゃんと翔に伝えておけば良かった。
そんなことを考えていたら、彼の背中で熱いものがこみあげてきた。自分の腕で溢れ出た涙を拭って、彼にそれを悟られないようにした。
タクシーに乗って家の近くの病院にかかり、帰宅してから処方された薬を飲んで、私はまたしばらく眠った。
やがて眠りから覚めると、颯斗がそばにいてくれた。
「どう? 具合は?」と、彼に訊かれて、私は、「うん。だいぶ楽になったよ。颯斗、ずっといてくれたの?」と訊いた。
「まあ、ね。心配だったし」と颯斗が答えた。
「ありがとう、颯斗。色々助かったよ」と、私は言い、スポーツドリンクを飲んだ。
「私、高熱が出ると必ず見る夢があって……。おびただしい数のトマトが潰れて部屋の床を埋め尽くしているっていう変な夢。昔、小1の頃クラスの男子にいじめられてトマトで嫌な記憶があるからだと思うんだけど……。さっき久しぶりに見た」と、私は話した。
「そうなんだ……。俺もさ、小学生の頃はよくいじめられてたんだよ。あの頃は太ってて、体形のことでからかわれたりしてさ。今はそうでもないけど、昔は人と関わるのが怖かったし、嫌いだったなぁ」と、颯斗が言った。
「そうだったの。今じゃ想像できないね」と私は言った。
「今だって、本当はそう変わってないよ。表面上は、周りと上手くやってるように見せてるけど、実は人と深く関わるのが怖いんだ」
「そうなんだね。私も子どもの頃からずっと、人とうまく関わるのが苦手だよ」
「優も? そっかぁ……。俺、こんな話、初めて他人にした」
そう言って、颯斗は照れくさそうに微笑んだ。
「話してくれてうれしかったよ」と私が言うと、「俺も」と颯斗が言った。
「それに、起きた時にそばに颯斗がいてくれて、なんだかすごく嬉しかった」と私は言った。
「そう? なら良かった」と颯斗は言い、私のおでこを触って「まだ熱あるから、もうちょっと眠った方がいいよ。また、様子見に来るから」と言って、部屋から出て行った。
夕方になり、いつもよりかなり早い時間に、仁一さんが帰ってきた。
帰ってきてすぐに私の部屋に様子を見に来てくれた。
「大丈夫? 今日、颯斗が病院連れてってくれたんだってね」と仁一さんが言った。
「うん。だいぶ楽になったよ」と私は言った。
「よかったぁ……、ごめんね、病院に連れてってあげたりできなくて」
「ううん。そんなこと気にしないで」
「何か食べられそう? おかゆとか」
「うん」
「じゃあ、すぐ作ってくるから、待ってて」
そう言って、仁一さんが台所に向かって行った。
颯斗はその後、もう私の部屋には来なかった。彼がもう一度、私の部屋に様子を見に来てくれるんじゃないかと、私はほんの少し期待してしまっていた。
翌朝起きると、私の熱は平熱に戻っていた。
部屋に様子を見に来た仁一さんが、「熱下がったね。良かった」と安心した様子で言った。
「ありがとう、仁さん」と私は言った。
「ううん。颯斗のおかげだね。それと……。昨日はちょうど翔くんの命日だったんだね」と仁一さんが言った。
「はい」と私は言った。
「今日も仕事は休むんだよね? じゃあ、ゆっくり翔くんのこと考えられるね」と仁一さんは言った。
「はい。……すみません、仁さん」と私が言うと、「ううん。全然、すまなくなんてないから。優にとって大切な日だって分かってるから」と仁一さんが微笑んで言った。
そんなふうに、仁一さんはどこまでも優しくて温かくて、私はやはり彼のそばにいるのが一番安心できて安らげた。この幸せをどうしても手放したくはなかった。それなのに私は、颯斗のことを意識しかけている自分に気付き始めてもいた。私は、彼にこれ以上心惹かれては絶対ダメだ、と自分に必死に言い聞かせた。
私は、風邪が治ってからというもの、また元の運動しない生活に戻ってしまった。
新潟は、間もなく雪の季節が訪れようとしていた。雪が積もれば、ランニングもウォーキングもできなくなるし、寒くてプールにも足が向かなくなるから。そんなふうに、自分に言い訳をした。
颯斗が、「筋トレしなくていいの?」と訊いたが、私は冬の間は厚着してスタイルもバレないし、しばらく運動しなくても良いのだと言った。
色々と理由をつけてはみたものの、本当はこれ以上颯斗と距離が近くなってしまうことが怖くて、彼と過ごすことを避けていた。
12月のはじめに、珍しく市内に雪が50センチほど積もった。新潟市は、上越市と違って、例年多く積もっても大抵30センチくらいだったので、突然の大雪にビックリした。
「見て見て、すっげー積もってる」と、颯斗が興奮気味に私と仁一さんに言った。
「うわ、ほんとだ、積もったなぁ。颯斗、雪にはしゃいで可愛いな」と、仁一さんが言った。
「だって、長野じゃこんなに積もったりしなかったから」と颯斗が言った。
「へぇ、そうなの?」と仁一さんが言った。
「私も広島で育ったから、いまだに初雪が降った時とか最初に積もった日は、なんだかワクワクしてしまうんだよね」と、私は言った。
「雪、見飽きてるはずなのに、おもしろいね」と、仁一さんが笑った。
あまり積雪のない新潟市では、まとまった積雪になると、交通機関が途端に麻痺してしまうので、仁一さんはすごく早い時間に出勤して行った。
私は、たまたま休みの日だったので雪の中を出勤せずにすんだし、颯斗も、この日は大学に行くのを諦めて家にいた。
その日のお昼頃には、雪はすっかり止み、青空が出て日差しがたっぷりと降り注ぎ始めた。
私は、颯斗と一緒に、家の周りの雪かきをすることにした。
太陽の光が、辺り一面の真っ白な雪に反射して、スキー場みたいな眩しさだった。
20分ほどしたら、全身汗だくになった。
さらに15分ほど頑張ったら、家の前の雪は綺麗に除けられた。
久しぶりにした雪かきは重労働で、私は息切れしたので、しばらくスコップを置いて休んだ。すごく暑くなって、着ていたダウンジャケットの腕を捲り、ジッパーを下ろして、パタパタと火照った顔を扇いだ。
―—ポフッ―
突然、私の首元に、雪の塊がぶつかってきた。
「つめたっ」と私が言うと、颯斗が私の方を見てニヤニヤしながら雪玉を作っていた。
「ちょっと、颯斗~、何すんの」と、私は言って、自分も負けずに雪玉を作った。
そして雪合戦が始まり、二人できゃあきゃあと騒いだ。
「もう~……、優、今いくつなんだよ。めっちゃ子どもじゃん」
雪合戦が止み、颯斗が満面の笑みでそう言った。
笑った顔が、幼い子どもみたいだった。彼の頬には、またえくぼが現れていて、記憶の中の翔の笑顔と重なった。
「はぁ~? 先に始めたの颯斗だし。子どもなのはそっちでしょ」と私は言った。
私たちは、はしゃぎ疲れて、雪の上に足を伸ばして座り込んだ。
着ていたダウンジャケットもズボンも、もうすっかり雪でぐしょぐしょになっていた。
「あ~。疲れた~」と颯斗が言った。
「ほんと。雪かきだけでもヘトヘトだったのに、さらに雪遊びで疲れて、何やってんだか。でも、久しぶりに楽しかったー」と私は言った。
「ふはは。ほんっと、いくつだよ優」と颯斗が笑った。
「うるっさい。ほっといて」と私は言った。
「でも、そういうとこ、好きだけど」と颯斗が言った。
「は……っ。もう、なに言ってんの。年上をからかわないで」と私は焦ってそう言った。
「照れたー?」と颯斗が言って、楽しそうに私の顔をのぞきこんできた。
「照れてないっ」
そう言いながら、私は、顔が赤くなるのを感じて、颯斗の方を見れなくなった。
「ていうか……。からかってなんかないし。本当だから」と颯斗が言った。
「もう……、ほんとによくないよ。やめて、そうやって面白がるの」と私は言った。
「べつに……。面白がってなんかないし。ま、いいや。ほら、もう片付けて家に入ろ」と、颯斗が言った。
玄関で、雪がしみてびしょ濡れのダウンジャケットを脱いだ。
颯斗が、「汗かいたから、先に風呂入って着替えれば」と言った。
「え、いいよ。颯斗も汗だくになったでしょ。汗引いたら冷えちゃうから、先入って」と私は言って、颯斗の両肩を持って風呂場の方へぐいぐいと、と彼の身体を押した。
「いや、優こそ、また風邪ひいたら困るだろ。いいから入って」
そう言って、今度は颯斗が私の後ろに回って、肩を押した。
「ダメダメ、颯斗が先入って」
「なんだよ、優が先に入ってってば」
「やだよ、颯斗が先にどうぞ」
そんなふうに、私たちは何度も押し問答を続けた。
「もう。頑固だなぁほんとに。ほら、風邪ひくから脱いで先に入んなって」
そう言って、颯斗が私の目の前に回り込み、私のセーターをいきなり首元まで捲り上げた。
「わぁっ! やめっ。ちょっ……、何するの。信じられない」と、私が胸元を隠しながらそう言ったら、颯斗が「優がいつまでも素直に入んないから悪いんじゃ~ん」と悪戯な顔をして、笑ってそう言った。
「さすがに、これはダメでしょ」と私は颯斗を咎めて、恥ずかしさから一歩後ろに下がった。
次の瞬間、彼にすごい力で抱きしめられた。
「っ……はや……と」
颯斗が、無言のまま、私の顔を手で押さえて、強引なキスをした。
「あのさ、優。オレ……」
「……おねがいっ、颯斗、やめて」
私は渾身の力を振り絞って、颯斗を突き飛ばし、彼から身を離した。
「……ごめ……、ん」と、颯斗が、我に返ったように言った。
「でも、オレ、優のこと……」
そう颯斗が言いかけたが、私は「お風呂、入ってくる」と言って遮り、逃げた。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
お風呂でシャワーを浴びながら、私は何度もグルグルとそう考え続け、仁一さんの顔を思い浮かべて、胸が苦しくなった。
私がお風呂から上がると、颯斗がうなだれて居間にいた。
私を見ると、「優、さっきはほんとにごめん。どうかしてた。ジンくんに、申し訳ないことしてしまったな……」と、颯斗は言った。
「大丈夫、忘れるよ……。雪掻きと雪遊びで疲れて、ちょっとテンションおかしかったんだよ私たち。それより早くお風呂入って。本当に風邪ひいちゃうから」と、私は言った。
颯斗は、「うん。……。本当に悪かった。ごめん」と呟いてから、お風呂に向かった。
目を開けると、居間の畳の上で、裸の颯斗が毛布を腰から下に掛け私の隣で眠っていた。
今はいったい何時なんだろう……。夜なのか昼なのかも分からなかった。私たちはつい今しがたここで一つになっていたのだと、ぼんやりと思った。
彼の身体は、肩や腕についたごつごつとした筋肉がむき出しになっていて、肌は陶器みたいにつるりとしていた。逞しい身体とは不釣り合いな儚なそうな彼の寝顔を、私は見つめた。
彼の左目の下には、ぽつんと小さなほくろが一つあった。
私は、その小さな泣きぼくろがとても愛しく思えて、そこにそっとキスをした。
彼が目を開けて、微笑んだ。そして彼の顔が近づき、私の唇に彼の唇が触れたかと思うと、すぐに深いところまで味わい尽くされた。
それから、ゴツゴツした彼の太い指が、私の躰の様々なところをなぞりはじめた。
私は、大きなうねりの中に飲み込まれていき、波に翻弄された。
「ただいま」と、玄関から仁一さんの声が聞こえた。
私は、自分の部屋のベッドで目を覚まし、時計の針が5時頃を指しているのを見た。
雪掻き後にお風呂に入って着替えた後、私は疲れて自分のベッドで眠っていた。
どうして、あんな淫らな夢を見てしまったのだろう。
妙に生々しい夢で、彼の顔や声や、触れられた感触を、くっきりと覚えていた。ただの夢なのに、身体の芯がぼうっと熱を持っていた。
私は気を取り直して、ベッドから起き上がり、階下の仁一さんに「お帰りなさい」と言いに行った。
私は、颯斗と距離がうまく保てなくなっていて、そんなふうになっている自分が許せなかった。仁一さんが、もしもそれを知ってしまったら、と思うと胸が張り裂けそうに痛んだ。
それからしばらくの間、私と颯斗は、何となくお互いを避けながら過ごすようになった。
やがて、冬休みに入った颯斗は、早めに長野の実家に帰り、しばらく新潟には戻ってこなかった。
私は、年末年始の休みは、実家に1日だけ帰って、あとは仁一さんと一緒に家でのんびりしたり、外食に出かけたり、近場に日帰り温泉に行ったりして過ごした。2人きりでこんなにゆっくりと過ごせたのは久しぶりで、とても幸せだった。
颯斗は、実家から新潟に戻って来たあとは、しょっちゅう泊まりがけで友だちとスキーに出かけた。
颯斗とあまり顔を合わせない日々がしばらく続き、私はほっとしていたし、同時に少し寂しくもなっていた。(そろそろ颯斗の憎まれ口が聞きたいな)、とぼんやり思っていた。
颯斗の冬休みも終わり、日常の生活が戻ってくると、また、嫌でも私と彼は1つ屋根の下で顔を合わせることになった。けれども、あれからしばらく時間を置いたためか、私たちはまた元通りの関係に徐々に戻りつつあった。
相変わらず、居間のソファーに靴下を脱ぎっぱなしにしたり、お風呂の電気をつけっぱなしにしたりするルーズな颯斗に、私はガミガミと小言を言い、それに対して颯斗が憎まれ口で答えた。また普通にそんなやりとりができて、私はとても嬉しかった。
四月には仁一さんの誕生日があり、私と颯斗は仁一さんに内緒で、誕生日パーティーの準備をした。2人で、お祝いのメニューを決めて、スーパーに買い出しに出かけた。
スーパーで、カゴの中に次々とお菓子を放り込む颯斗を私が叱り、カゴから売り場の棚に私がお菓子を戻すとまた颯斗がカゴに入れ直す……、という小競り合いを二人でした。
「ほんとに困ったお子ちゃまなんだから」と、私が颯斗を睨んで言うと、
「うるせーわ。そっちが年上なんだから折れればいいじゃん」と、颯斗が悪ガキの顔をして言った。
(こんなやつに、私はドキドキしてしまっていたなんて全く……)と、私は心の中で苦笑いをした。と同時に、やはりそんな颯斗にどこか胸はときめき、心を持っていかれそうになるのを、私は必死で堪えた。
2人でビーフシチューとイチゴのデコレーションケーキを手作りして、仁一さんの誕生日のお祝いをした。
「ありがとう~! 2人とも。めちゃくちゃ嬉しいし、俺、幸せだよ」と、仁一さんがすごく喜んでくれて、私も颯斗も嬉しかった。
これからも、仁一さんの喜ぶ顔をずっとずっと見続けて行きたい。決して、仁一さんを悲しい顔になんてさせたくなんかない。私は、強くそう思った。
やがて桜の花が散り、陽光に照らされた木々の緑が色鮮やかになってきた。
5月の連休に、仁一さんは九州で学会があり、2泊3日で出かけて行った。
颯斗も、連休初日から実家に帰って行ったので、私は広い家で1人で過ごすことになった。
奈緒を家に呼ぼうかと思ったのに、彼女も連休中に仕事が入っていた。残念だったけど、私は、束の間の1人暮らしを3日間楽しむことにした。
朝は好きな時間まで寝て、パジャマのまま居間の縁側で寝そべって、お腹が減ったらそこで好きなものを食べて、坪庭の景色をのんびりと眺めた。
誰の目もなく自堕落に好きなように過ごせるのは、すごく新鮮な気分だった。
好きな時間にお風呂に入り、夜は、レンタル屋で借りたビデオを、居間のソファーに寝そべって、お酒とおつまみとともに観た。
そんないつもと違う過ごし方も、3日目ともなると退屈になってきた。借りて来たビデオも見終わってしまったしテレビも見たいものがなかった。読書でもしようかな、と思っていたら、テレビボードの棚にしまっていた古いビデオがあったのを私は思い出した。
テレビでやっていた日本の映画や外国の映画を録画したテープが、数本あった。
テープには、「邦画1993年」とか「洋画1995年」などと奈緒の手書きでタイトルが書かれていた。
私は、朝食を食べ終わってから、それらを観てみることにした。
1本目には、「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」が録画されていた。
―懐かしい~。高3の時、奈緒と見に行ったっけ―
その頃の情景が、一気に蘇ってきた。
2本目を再生すると、「ゴースト ニューヨークの幻」が入っていた。
私がこれまで、見るのをずっと避けてきたものだった。
―でも、今はもう、きっと大丈夫―
そう思って、久しぶりに観てみることにした。
中学3年生の時以来、9年ぶりに見てみると、ほとんど内容を忘れてしまっていて、「こんなストーリーだったんだ」と、新鮮な気持ちで見始めた。
翔は最初、「ゴースト」と聞いて、「ホラーは苦手だから見たくない」って言ってたっけ。
あの日、翔はどんな服でデートに来たんだったっけ。
映画よりも、ゲーセンでデートだって言ってたくせに、ちゃんと私の行きたかった映画に付き合ってくれて、あの時はすごく嬉しかったな。
翔は、乗り気じゃなかったのに、結局、私よりも、のめり込んで観てたっけ。
主人公が幽霊になってしまって恋人のそばにいるのに、なかなか気付いてもらえなくて、私たちはやきもきして観てたなぁ。
次々と溢れるように、思い出が蘇ってきた。
あの日2人で歩いた広島の商店街の景色も、ぼんやり思い出してきた。
映画館の、古いカーペットや照明やシートも。
翔と食べたポップコーンや、映画の後のクレープも。
そして、「上書きしてやる」と言って、翔がキスしてくれたことも。
自分の視界が滲んで、ゆらゆらと揺れたことに気づいた途端、ボロボロ……と涙が零れ落ちてきた。
ろくろを回すシーンで、あの曲がかかると、もうどうにも堪えられなくなって、私は手で顔を覆って嗚咽した。
家に誰もいない日で、本当に良かった……。
私は、何も考えずに、思いきり泣いた。
「泣きたい時は思いきり泣けばいいよ」という仁一さんの優しい声を、泣きながら頭の中で思い出していた。
「どうしたの、……優、なにそんなに……泣いてんの」
突然、颯斗が居間の入り口に現れた。
私はすごく驚いて、ビデオを止めた。
「っ……、うぅっ……、はやっとっ、何で……いるの」と、嗚咽を止められないままそう言った。
「大丈夫? どうしたの……」
颯斗が近づいてきて、私を背中から抱きしめて、私の腕をさすった。
「実家にいてもやることなくなったし、ちょっと早めに戻ってきたんだ。『ただいま』って玄関で言ったけど返事がなくて、居間から泣いてる声が聞こえたから、びっくりしてさ」
「う、ご、めん……、なんでもない、から、離して。それに、顔ひどいから、見ない、でっ」
「優……」
颯斗が抱きしめていた腕にさらに力をこめた。
「離してっ、てば」と私は強い口調で言って、颯斗の腕をほどいた。
「嫌だよ」と言って颯斗が、正面から私を抱きすくめた。
颯斗が私のうなじの髪の中に手を入れ、ぐっと私の顔を引き寄せ、唇を重ねた。
「もしかして、あの人の夢の続き、見たくて泣いてるの? そんなふうに、1人で泣かないでよ」と颯斗が、私の目を見て言った。
「なん、で……」
「ノートに書いてあったから……。ごめん。俺、あれからずっと優のこと考えてしまって。距離をおいてみてもダメで。ジンくんのこと大好きだし、優はその彼女なのに、どうかしてるって何度もそう思ったけどどうしようもなくて。やっぱ俺……、優のこと、好きだ」と颯斗が言った。
「やめて。私は仁さんがすごく好きだし大切に思ってるから。こんなことしないで」と私は言った。
「ごめん。分かってるよ。でも……」
颯斗はそう言って口をつぐみ、しばらく黙って俯いた。それから顔を上げて口を開いた。
「優が泣きたくなる時、俺がそばにいたいんだ。俺が優を笑顔にしたいんだよ」
そう言って、颯斗はまた私を抱きしめた。
「優も、……。本当は同じ気持ちなんじゃないの」と、颯斗が言った。
私は、抱きしめられたまま颯斗の腕をほどけずにいた。颯斗の首筋は、あたたかな陽だまりのような匂いがしていて、(あぁ……やっぱり翔の匂いだ)と私は思った。
その時頭の中で、「ずっと笑ってろよ、優」と言う翔の声が聞こえてきた。
そうだ。あの神社で別れた時、翔は最後にそう言ったんだった。私は突然そのことを思い出した。
翔……、ごめんね。思い出すたびこんなふうに泣いてしまって。情けないよね私。
「もう、俺は逃げない。だから、優も逃げないでよ」と、颯斗が言った。
「逃げてなんか……」
私は、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を颯斗から逸らして、縁側の向こうを見つめた。
この日は、雲1つない五月晴れだった。
開け放たれた窓の外から、暑くカラッと乾いた初夏の風が吹いてきて、お日さまの光を浴びた木々や草花の匂いを部屋の中に運んできた。
颯斗のちょっと生意気で失礼で強引な所は、翔とそっくりだった。実はすごく優しいところも。
「ちゃんと俺の目見て。優の本当の気持ち、教えて」
颯斗がそう言って、私の頬に手を添えて自分の方へ私の顔を向かせた。颯斗の親指が、私の頬の涙を優しく拭った。
彼の熱い眼差しに射抜かれて、息ができない。
グラグラと足元から崩れ落ちて深みへ引きずり込まれようとしたその瞬間、仁一さんの顔が不意に脳裏に浮かんだ。
「優、大好きだよ」と言ってくれた仁一さんの優しい笑顔だった。
海を一緒に散歩していた仁一さんから、潮の香りと柑橘の香りがしていた。あれはちょうど1年前のゴールデンウィークで、今日みたいに雲1つない快晴の天気だった。
仁一さんと2人でどこまでも広がる水平線を見つめていた。かつて、海の底にずっといたいと願っていた私が、水平線の向こうにある外国に行ってみたいと思ったんだ。
私はやっと、自分の気持ちにはっきりと気が付いた。
「……。私の気持ちは、颯斗と同じ気持ちじゃ、ない。……ごめん。泣きたくなる時、そばにいてほしいのは、颯斗じゃなくて……、仁さん、だから」
私は、颯斗から身体を離してそう言った。
私と仁一さんの間にはもう刺激やドキドキはあまりないけれど、彼の優しさはまるで今日みたいなとても心地よい初夏の風のようで、私は一緒にいるとすごくほっとして安心できる。
彼はみんなに優しくて、いつも自分のことより他人のことを気にかけてて……。
真面目で礼儀正しくて、ちょっと心配性なところがあって……。
凛とした強さがあるけれど、笑うと少し幼く見えて、包み込むような優しさがあるその笑顔は、見ているだけで幸せになれて……。
そんなところが全部、大好きだ。
「……そっ……、か。……分かった」と、颯斗が言った。
「でも、そんなふうに言ってくれて、ありがとう」と、私は言った。
「いや。一方的に気持ちぶつけて、キスしたりして……、ごめん」
颯斗が髪をぐしゃぐしゃと掻きながらそう呟き、それを見て私は胸が締め付けられた。
私だって、どうしようもなく颯斗に惹かれていた。でも、私が本当に好きになっていたのは、翔の残像だった。きっとそれは、心の中にいるあの頃の私がそうさせているのだと思った。
翔に突然会えなくなって、夢の中で会えるのを待ち続けた私。
もう1度名前を呼んで笑って、と願い続けてきた私。
けれども、私はもう夢の中には戻れなくてもいい。
愛する人を見失うくらいなら、夢の続きはもう見れなくていい。
今度仁一さんを誘って翔のお墓参りに行こう、と私は思った。
外では、小鳥たちがひっきりなしに囀る音が聞こえている。
庭の雑草の上では、翡翠色のバッタが跳ねていた。
〈 了 〉