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夢のつづき  作者: 叶恵
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夢のつづき(前半)

序章

夢の中へ

―もう、彼女には会えないんだろうか―

俺は見飽きた病室の天井のシミを見つめながら、そう思った。

 できることならば、俺は全く別の人間に生まれ変わって、彼女とまた出会いたい。

 そんなことは叶わない夢だけど。

 

 だんだんと眠くなって、考えがまとまらなくなってきた。

 眠りに落ちる直前、視界の端に映ったのは、透明な青いガラスだった。

 額の上にのせた左腕にしていたミサンガの小さなビーズだ。

 それは、ラムネの瓶の中のビー玉を思い出した。瓶の中に閉じ込められたビー玉は、まるで病室に閉じ込められている俺と同じだな、ふとそう思った。


 眠りに落ちたら、夢の中で彼女に会えた。

 暑い日の昼下がりに、駄菓子屋で買ったラムネをふたりで飲んでいる夢だった。

 栓を押しこむとビー玉が下に落ち、生まれたての細かな泡が、瓶の中でシュワシュワと弾けた。泡は生まれたそばから次々と空を目指して上っては消えて行った。


 隣で座る彼女がラムネを飲んでいて、柔らかそうな唇が瓶の口に触れていた。その唇に触れてみたいなと俺は思った。

 彼女が瓶から唇を離すと、瓶の中でビー玉が転がって、カランと音を立てた。

駄菓子屋の軒先にぶら下がった風鈴が、風に揺れていた。

 俺は、その風鈴の音を耳にしながら、彼女を抱きしめて唇を重ねた。


夢から覚めて、目を開けると、また見飽きた病室の天井が目に入ってきた。俺は、見飽きたはずの天井さえも愛おしく思えてきた。やがて、また瞼が重くなってきて、もう目を開いていることさえできなかった。

目を閉じると、そこに広がっていたのは、真っ暗闇の何もない世界だった。


第1章 

 蝉時雨が聞こえる。ゆらゆらと揺れる陽炎の向こうに、野球のユニフォームを着た中学生が2人立っていた。2人は、小さな商店の軒先でラムネを飲んでいた。

 私も昔、夏休みに、ああやって翔とラムネを飲んでいたんだった。

 彼とはよく自転車で冒険に出かけ、その途中、商店街の駄菓子屋に寄って、冷えたラムネを飲んだ。

 彼はラムネの瓶を傾けて器用に瓶の中のビー玉を窪みに固定させてあっという間にラムネを飲み終わったが、私はビー玉が飲み口にしょっちゅう転がってきて、少しずつしか飲めなかった。ラムネを飲むのは、意外と難しくコツが要るものだ。

ビー玉を転がしながら時間をかけて飲む私を、翔が隣からチラチラと見ていて、でも文句も言わずに黙って待っていた。きっと(飲むの遅せぇな)なんて思っていたのだろうな。


 どうしたら、この世からいなくなれるだろう……。

 私は、そのことばかり考えていた。

 食事はあまり喉を通らなくなり、夜もよく眠れなくなってしまっていた。

 バスや電車に乗ると、突然閉じ込められて出られなくなりそうな感覚に襲われ、息が出来なくて苦しくなった。

 両親は、食が細くなって痩せてきた娘の私をひどく心配し、私に心療内科を受診させた。そうして私は、父の知り合いが医院長をしている小さなクリニックを訪ねることになった。

 それは、1991年の夏、高校二年生の夏休みがもうすぐ終わるころだった。


 病院に送ってくれると言う父親よりも先に玄関の外に出ると、真夏の強烈な陽射しがアスファルトを灼いていた。父の車のボンネットも熱く灼けて陽炎が立っていた。

 やがて、父が外に出て車のエンジンをかけ、「熱っつい、熱っつい。こりゃたまらんわ。ヤケドしそうやな」と言いながらドアをバタバタと開け閉めして、車の中にこもった熱気を外に押し出そうとした。普段は無口な父だったが、この日は、私を気遣って珍しく少しおどけているように見えた。

 走り出した車の中はまるでサウナのような暑さで、私はこめかみにじわりと汗をかいた。私も父も無言でエアコンが効き始めるのを待ちながら、病院へと向かった。

「終わるころにまた迎えにくるから。それと、ええ先生やから心配せんで大丈夫や」

 父がそう言って、病院の前で私を降ろした。

 そうして私は、少し不安な気持ちを抱えながら、はじめてその心療内科を訪れた。

 彼ともう会えないことがわかってから、210日目のことだった。


 父の知り合いである男性医師は、静かな声でゆっくりと丁寧な話し方をする人だった。

 先生は、白髪頭で恰幅が良く、年は60歳前後くらいで、温和な雰囲気だった。想像していたよりもずっと優しそうな先生だったので、私はとてもホッとした。

 先生のほかにもう1人、私を担当してくれるカウンセラーもいた。

「五十嵐優さん。どうぞ」と私は、カウンセリングルームに呼ばれた。

 カウンセラーは正確には、臨床心理士というらしく、20代くらいのまだ若い男性だった。医師のように白衣は着ておらず、青いユニフォームに身を包み、物腰が柔らかくはきはきと明るい声で話す人だった。

 心理士さんが、軽く自己紹介をして、自分はまだ新人なのだと私に言った。

 カウンセリングルームには、木目のテーブルとチェア、そして、ゆったりと身体を預けられる大きなリクライニングチェアが置いてあり、私はそこに腰をかけた。

 窓の外からは、微かにセミのジリジリジリという鳴き声が聞こえてくるが、ほかは何の音もない静かな空間だった。

 エアコンがよく効いた清潔な部屋で、私は、リクライニングチェアに座り、緊張しながら「よろしくお願いします」とあいさつをした。

「私が担当するのは、認知行動療法というものです。五十嵐さんの心の中のことを教えていただきたいので、少しずつゆっくりとお話をお聞きしますね」と、心理士さんが言って、まずは私の家族構成などを訊かれ、今の症状が現れたのがいつだったのか、それはどんなきっかけだったのか、といったことを聞き取りされた。

「椅子を深く倒しますので身体の力を抜いて深呼吸してください。そして、目を閉じてください。五十嵐さんのペースで何でもお話ししていただいて構いませんので、肩の力を抜いて私の質問に答えてくださいね。記録のために録音もしますね」

 心理士さんにそう言われて、私は目を閉じたまま、「はい、わかりました」と返事をした。

「では、五十嵐さんが覚えている、1番古い記憶について教えてください」

 私は、幼い頃の記憶をたどり始めた。

 ◇

 1980年、父の仕事の転勤で、我が家は福井県から広島県に引っ越して来た。私が幼稚園の年長の時だった。

 我が家が越して来た所は、広島市の東方に位置していて、すぐ隣は府中町というところだった。広島駅から車でわずか数10分ほどの距離に位置していたにも関わらず、周囲を多くの山に囲まれていて、大都会広島の近くであることなど忘れさせられるほど、とても自然の多いところだった。

 山を切り拓いて作られた新興住宅地にあるアパートに私は住んでいた。アパートのそばの細い坂道を下りていくと、そこは昔からある集落で田んぼや畑が広がり、行き来する人も少ないところだった。


 その町に越してきたのは、暑さ厳しい夏のある日だった。

 私は、アパートの近くにある幼稚園に、母に手を引かれて連れて行かれた。

「今日から新しく入ったおともだちの、五十嵐優ちゃんです」

 そう先生が、クラスの子どもたちに紹介してくれたが、私は初めての幼稚園で不安で、ずっと泣いていた。ほかの子が私に話しかけてきても、私は緊張してうまく声が出ず、言葉を返すことができなかったので、無言でただ首を縦に振ったり横に振ったりするばかりだった。園には、オルガンが数台置かれていて、私はいつも一人でオルガンを弾いていた。そこは、私にとって、唯一心落ち着く場所だったように思う。


 ある日、園に、私と同じような時期に、「内野(しょう)」という名の同い年の男の子が入ってきた。

 その子は、日本人とアメリカ人とのハーフで、グレーの目と淡い栗色の髪をしていた。生まれてからずっとアメリカで育ち、年長になってから母親と2人で日本にやってきた翔くんは、まだそんなに日本語を上手く話せなかった。彼は、私が初めて会ったハーフの人だった。

 翔くんは、私がオルガンを弾いているそばになぜかやってきて、私の手元をじっと見つめながら聴いていた。私に特に何かを話しかけてくるわけでもなく、楽しんでいるのかどうかもよく分からなかったが、私は彼がそうやってそばにいても別に嫌ではなかった。


 その幼稚園の園庭はとても広く、ほとんどが草で覆われていて、夏は裸足で遊べた。

 色んな種類の樹木や草花が生い茂っていて、ドングリや松ぼっくり・栗など、遊び道具になる木の実も豊富にあった。草原には、蝶々やてんとう虫、バッタ、カマキリなどいつもたくさんの虫たちがいた。

 ある日、私は園庭で葉っぱの上にいたバッタをつかまえて、手にのせて観察していた。

 バッタは、まだ小さく綺麗な翡翠色で、尖った三角形の面白い顔をしていて、ずっと見ていても飽きなかった。やがて、バッタは、羽を広げて私の手の平からどこかへ飛んでいった。

 私の近くにいた男の子3人が、草遊びをしていた私の手の指先が葉っぱで緑色に染まっているのを見て、

「わ~っ。手がすっごい緑になってる~。バッタの呪いだ~バッタの呪いだ~」と、囃し立てた。私は、「ちがう」と言い返したかったのに声が出ず、男の子たちに執拗に揶揄われて、悔しくて涙が出た。

 すると翔くんが、その三人の男の子たちに近づいて来た。そして、無言で自分の手の中につかまえていたバッタ数匹を、その3人の顔に向かって勢いよく投げつけた。

「うわぁーっ」と、男の子たちが叫んだ。

 さらに翔くんは、バッタを素早く何匹もつかまえて、3人の服の背中にもバッタを乱暴に突っ込んだ。男の子たちは泣き出したが、翔くんは涼しい顔をしていた。

「どうしたの」と言って、先生が駆け寄ってきた。

「翔くんが~! ……ぼくたちの顔にバッタ投げてきた~。背中にもバッタ入れてきたの~」と男の子たちが先生に言った。

「ほんと、翔くん。どうしてそんなことしたの」と、先生が泣いている男の子の服の中からバッタを逃がしながら、翔くんに訊いた。

 翔くんは、黙って先生からぷいと目を逸らして、男の子たちを睨んでいた。

 私は先生に事情を話したかったが、緊張して声を出すことができず、もどかしかった。

 翔くんは先生から、生き物をそんなふうに扱ったりお友だちを泣かすようなことをしてはいけません、と叱られていた。

 私は、自分のせいで翔くんが叱られてしまって、彼に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 帰り時間に迎えに来た翔くんの母親は、先生から今日の出来事を聞かされて、翔くんをその場でこっぴどく叱った。

 私は、翔くんの母親の元へ行き、思わず彼女の服の裾を掴んだ。翔くんの母親に「どうしたの?」と訊かれたが、また緊張してうまくしゃべれずに、無言で首を横に何度も振るばかりだった。

 私は翔くんにお礼を伝えたくて、家に帰ってから彼に手紙を書いた。といってもまだ字はうまく書けなかったので、クローバーの押し花を紙に貼り、にっこり笑った顔の絵を描いた。


 次の日に、翔くんにそれを渡すと翔くんは中身を見てすごく嬉しそうな笑顔になった。

 私は、それまで何を考えているのかよく分からなかった翔くんの心の中を初めて見たような気がした。

 その日も晴天で、私たちは前日と同じように園庭で遊んだ。

 私が草花を摘んで遊んでいると、前日の男の子たちが、また私のところにやってきて、「ねーねー、手ぇ見せてや~。まだバッタの呪いかかっとるんじゃろ?」と意地悪なことを言ってきた。

 翔くんが目ざとくそれを見つけて、こわい顔をして近づいてきた。

 それに気づくと、男の子たちは、「あ、あっち行こ」と、そそくさと逃げて行った。

 私が翔くんに向かって微笑むと、翔くんは、私を見て得意げに笑った。


 内気な私は、それまで園でいじめられがちだったが、それ以来、まわりの子たちは翔くんを恐がって、私をいじめてこなくなった。


 私は、無口なだけでなく、行動も遅かったので、幼稚園の先生によく怒られた。

 参観日の日も、私は帰り支度の時に、1人制服に着替えるのが遅れ、取り残されていた。

「優ちゃん、遅いよー。早く着替えましょうねー」と先生に急かされて、沢山のお母さんの注目を浴びるし、母もきっと恥ずかしい思いをしているんだろうな、と思うと気持ちばかり焦って、泣きたくなっていた。

 そんな時、翔くんが、「おしっこ、したいー」と大声で言った。

「あらら。早くトイレ行って来て、翔くん」と、先生が言って、みんなの笑いを誘った。

 翔くんがわざとそう言ったのが、私には分かった。

「ほら、優ちゃん何ぐずぐずしてるの、急ぎんさい」と、先生は恐い顔で怒っていた。

 動作が遅いだけで、なんでそんなに先生に怒られなければいけなかったのか分からなかったし、気の弱い私はそんな先生がすごく怖かった。

 ◇

「幼稚園の先生がみんな優しいだなんて、世間の勝手なイメージで、園には怒りっぽくて恐い先生が大勢いました」

私がそう心理士さんに話すと、彼は、「たしかに、幼稚園の先生って優しそうだな、っていう勝手なイメージはあるかもしれませんね」と言って、クスクス笑った。

 それで私は、この心理士さんに少し好感を持った。

 ◇

 幼稚園では、気づくと、私と翔くんは2人でいつも一緒にいるようになった。私たちの間に、会話など必要なかった。

 外に出て遊べない日は、私は相変わらずオルガンを弾き、翔くんは私のそばでそれを聴いていた。

「もういっかい」と翔くんに言われて、私は翔くんに向かって微笑んで頷き、同じ曲をまた弾いた。翔くんは身体を揺らしながら、気持ちよさそうにオルガンの音色に耳を傾けていた。


 幼稚園から帰ると、晴れた日は、母がよく散歩に連れて行ってくれた。行先は大抵、アパートの脇の坂道をずっと下った所にある小さな神社だった。

 翔くんと仲良くなった私は、彼も散歩に誘って、その神社で一緒に遊ぶようになった。

 母が、草相撲の遊びを教えてくれたり、彼岸花の首飾りの作り方を教えてくれたりした。

「ゆうちゃん、ボクとケッコンして」

 翔くんはそう言って、私に彼岸花のネックレスを掛けてくれた。

「うん。いいよ」

 私は、まだ結婚がどんなものかもよくわからなかったが、翔くんにそう言われてすごく嬉しかったし、大きくなったらきっと翔くんのお嫁さんになるんだ、とその時思った。2人で結婚式のごっこ遊びをし、母が面白そうに笑いながら見ていた。

「ママ、日本でケッコンして、ボク、パパできたんだ」と、翔くんが私と母に話した。 

 当時の私にはわからなかったが、翔くんのお母さんは、それまで未婚の母だったようだ。

 翔くんのお父さんは、不動産屋を経営している地元ではかなり有名なお金持ちの男性で、人目をひく美しい翔くんのお母さんを見初めて、彼の方から結婚を申し込んだらしい、ということを私は大きくなってから知った。

 私は、翔くんの家にも何度か遊びに行った。彼の家は、2階建ての大きな和風の建物で、立派な庭もあった。私はよく、彼のお母さんと一緒にリビングにあったピアノを弾かせてもらった。


 月日が流れ、私たちは同じ小学校に入学した。

 それまで通っていた幼稚園の隣にある小学校で、生徒数は少なく、1学年に1クラスずつしかなかった。

 翔くんは、だいぶ日本語を話すのに不自由しなくなり、よくしゃべる活発な男の子になっていた。運動神経がよく力も強い彼は、無敵の存在だった。私は、相変わらず無口で気が弱くて、緊張すると咄嗟に声が出なかったので、クラスの男子にいじめられがちだった。

 

 入学してからしばらくたった、ある日の給食の時間のことだ。その日の給食にはトマトが出ていた。

 私が、配膳を受けた給食を持って自分の席に座ると、椅子の上にトマトが置かれていて、私は気づかずにそれをお尻で踏んでしまった。

 椅子に腰かけた瞬間、ベチャッとした嫌な感覚が伝わってきたので、私は、思わず立ち上がった。

「え……」

 私は自分のスカートに付いたトマトの汁と、椅子の上で潰れているトマトを見て、言葉を失った。

「五十嵐さん!」

 そう言って近くに座っていた女子が、心配して声をかけてくれた。隣と後ろの席の男子たちが、ニヤニヤと笑っていた。犯人は、この2人のようだった。

「うっわー、きったねー」と、その2人が、わざとらしく驚いた声を出して言った。

「ちょっと、なにしよん。あんたたちがやったんじゃろ」と、その女子が言った。

「おい、おまえらふざけんなよ」

 そう言って、近くの席の翔くんがやって来て、その男子の1人のお盆にのっていたコッペパンを手に取り握りつぶして顔にぶつけ、もう1人の男子には蹴りを入れていた。

「い! ってぇ」

「うわぁっ」と、その男子たちが叫んだので、遠くの席でプリントの丸付けをしていた担任の先生が気づいて、「どうしたの?」と近くに駆け寄ってきた。

「内野くんが蹴ってきました」

「内野くんがオレのパン握りつぶして、オレの顔にぶつけてきた~」と、半べそをかきながら男子たちが先生に訴えた。

「……、ちがう……、翔くんが、悪いんじゃない」

 私は震える声で、先生にそう言った。

「そうだよ。内野くんは悪くないよ! あんたらが五十嵐さんの椅子にトマト置いてイタズラしたからじゃろー」と、さきほどの女子が言った。

 翔くんは、憮然として黙っていた。

「あら、五十嵐さん、スカート見せて」と、先生が私に言った。

「まあ、スカート汚れちゃってるわね。先生と一緒に保健室に行って、着替え借りましょうね」と、先生に言われ、私は頷いた。

「君たち。やって良いイタズラとダメなイタズラがあるけんね。ちゃんと五十嵐さんに謝りんさい」と、先生が男子たちに言って、彼らが渋々私に謝ってきた。

「内野くんも、たとえ相手がどんなに悪いとしても、暴力はダメだよ」と、先生は翔くんに言った。

「はい」と、翔くんは返事をしたが、全然気にしていないような表情だった。

 私は、間に入ってくれた女子と、翔くんにお礼を言った。

 

 数日経ったある日の夢の中で、自分の家が、潰れた沢山のトマトで水浸しのようになっていて、足の踏み場もない状況で私は佇んでいた。すごく不気味で恐くて、私は「だれか!」と叫んだが、まわりには誰もいなかった。血のように赤く染まったその空間で、私は途方に暮れて泣きたくなっていた。

 目覚めてからしばらくして、私は風邪で高熱を出した。

 それからというもの、私は高熱を出すと、同じような夢を見た。


 その後も、私がクラスの男子にちょっかいを出されたりすると翔くんがすぐに助けてくれた。翔くんは、男子相手にケンカをすると手加減することを知らないようで、みんなから乱暴者のレッテルを貼られてしまっていた。


 放課後にはよくあの神社で、翔くんと待ち合わせて遊んだ。

「翔くん、いつも助けてくれてありがとう。でも、あんまり乱暴なことはせんでね」と、私が彼に言うと、「乱暴じゃのうて、優のこといじめるやつから守っとるだけやけん」と、翔くんが言った。

「でも……。あまりやりすぎんでね。翔くん、みんなから怖がられとるよ」

「別にええわどう思われても。オレは、優のこと傷つけるやつは、とことんやっつけるだけやけん」

 翔くんは、ぶっきらぼうにそう言いながら、シロツメクサを編んでいた。言うこととやることのアンバランスさに、私はちょっと可笑しくなって、クスっと笑った。

「なに笑っとんの」

「なんでもない」

 私はそう言いながら、まだクスクス笑っていた。翔くんも、つられてクスクス笑い始めた。

「はい。できた。腕だして」

 翔くんはそう言って、私の腕にシロツメクサで作ったブレスレットを着けてくれた。

「ありがとう」

「優のこと、俺がずっと守るし、ずっとそばにいるけんな」と、翔くんが言った。

 その時の彼の顔を、私は一生忘れないでいられるだろうと思う。


 やがて高学年になると、私は気付いたら彼のことを「翔」と呼び捨てするようになっていた。

 私は、幼稚園の頃に比べたらかなり活発になってきて、自分の言いたいことを言おうとした時に声が出なくなる、というようなことはもうなかった。年齢とともに身体を動かすことがうまくなり、走るのもクラスの中ではわりと速い方だったし泳ぐのも得意だった。そんなことも性格に影響したのかもしれない。


 翔は、6年生の頃から、お父さんの知り合いの紹介で、大阪のモデル事務所に所属し、モデルの仕事をするようになった。彼は、お父さんに付き添われて休日に大阪に出掛け、そこでチラシや雑誌のモデルとして仕事をしていた。

 私が翔に、モデルをした写真が見たいと頼んでも、彼は恥ずかしがって全然見せてくれなかった。

「ほんとは、モデルなんてあまりやりとうないんじゃけど、お父さんの頼みだし……。それに、もしこの仕事で稼げるようになったら、お母さんも喜んでくれると思うけん」

 翔は、そう照れくさそうに私に話していた。


 学校が夏休みになると、翔の仕事が入っていない平日は、自転車に乗って、2人で山道を駆け上ったり、近所の田んぼ道を走ったりした。地図なんて持っていなかったし、道に迷うこともしょっちゅうあったが、それもまた楽しい冒険だった。

 いつも、朝ごはんを食べ終わる頃、翔が私の家に迎えにきた。

「おい、冒険行くぞ。準備せえ」と、彼が玄関で私に言った。彼はいつもちょっとえらそうで、私に有無を言わせないし行先も彼が決めていた。この日もそうだった。

 母にお昼のおにぎりを作ってもらってそれをリュックサックに詰め、私は慌ただしく家を出た。


 ある日、家からかなり離れた山に、初めて行ってみた。見慣れない景色がどんどん広がり新鮮で、まさに冒険の旅をしている気分だった。そんなふうに行きは楽しかったが、帰りは完全に道が分からなくなってしまった。辺りが暗くなってきて、私はさすがに怖くなった。

 暗い山道は、どこを走っても見慣れない同じような景色ばかりが続き、もうずっと家には帰れないんじゃないかと思って泣きそうになった。

「ねぇ、全然家に向かってる気がせんのじゃけど……。どうしてこんな遠くに無理して来たんよ。このまま帰れんかったらどうするん」と、私は翔に言った。

 翔が、「だいじょうぶ、絶対帰れるけん」と自信満々に言ってきたので、(何を根拠に……)と私は少し腹が立ったが、でも、そうは言っても結局、私は彼と一緒だとどこか安心感があった。

 その日は、真っ暗になってから、やっとの思いで家に辿り着いた。

 見慣れた景色が見えてきたとき、私はホッとして泣きたくなったのを覚えている。

「ほら、ちゃんと戻ってこれたじゃろ?」と、翔が平然と得意げな顔で言った。

「ばかばか。考え無しの無鉄砲野郎」と私は、彼に毒づいた。

「うるせー。誰が考え無しじゃ」

「だって、そうやけん。ほんまにもう帰れんと思ったんやけえね」

「ぜってー大丈夫なの、俺といれば。たとえあのまま帰れんでずっと山の中で迷ってても、2人でいれば大丈夫じゃけ。また冒険行くぞ」

「やだ」と私は言ったが、結局、また翔と一緒に出かけた。

 その時は、あちこち探して心配して待っていた親たちに、当然めいっぱい叱られた。


 私は、どんな友だちよりも、翔と一緒に遊ぶ時が一番楽しくて、自分に正直でいられた。あの頃の記憶には、翔のいないものなどなく、私の記憶の中にはいつだって翔がいた。

 夏のラジオ体操、町内会の夏祭りの盆踊りや花火、一緒に行ったプール。冬の餅つきや、どんど焼き。

 私たちはあの頃、いつもどんな話をしていたんだろう……。もううまく思い出せない。けれども、翔の笑顔はいつだって思い出せる。

 細かな記憶は時が経つとともにぼんやりと霞んできて、靄の中へと消えて行こうとしていた。

 

 私は、そんな朧気になりつつある記憶を辿りながら、カウンセリングで語っていった。


 2週間に1回、私はクリニックに通い、先生の診察を受けて薬を処方してもらい、心理士さんによるカウンセリングを受けた。薬のおかげでだんだん眠れるようになり、パニックの発作も抑えられるようになってきた。何より、誰かが自分の話をじっくり聞いてくれるということに、私は救われた気持ちになり、思っていた以上に、私は安心感を得られるようになっていた。

「前回までは、五十嵐さんの小学生の頃のお話をしてもらいましたね。それでは、その続きのお話をうかがっていきましょうか」と、心理士さんが言って、いつものようにカウンセリングが始まった。私は、リクライニングチェアに深く座り、目を閉じた。

 そして、小学校を卒業して中学校に入ってからの記憶のページをめくり始めた。

 ◇

 私の通っていた中学校は、各学年10クラスある大きな学校だった。私と翔は、3年間とも別々のクラスになり、あまり顔を合わせなくなった。私は学校で、いつも2人の友だちと行動をともにしていた。

 1人は、活発で明るく誰からも好かれる美佐という子だった。彼女は、健康的な小麦色の肌をしており、ショートヘアーでボーイッシュな雰囲気だった。

 もう1人は、雪江という子で、ほっそりとして背が高く、おしとやかな女子だった。

 私たちは、部活や委員会のない日は、放課後に教室に残っておしゃべりをしていた。


 2年生になったある日、雪江が学校に雑誌を何冊か持ってきてみんなで見ていた。私は、そのうちの1冊を開いた。すると、翔の写真が目に飛び込んできた。見開きページで大きく写っている彼は私の知っている彼とは別人みたいで、ヒップホップ系のファッションを着こなし、こちらに挑戦的な眼差しを向けてくるような表情を浮かべていた。私はドキドキしてしまい、それを雪江たちに悟られないかとひやひやした。

「めちゃくちゃかっこいいよね~、内野くん。芸能人みたい。外国人みたいな顔しとるし」と、一緒に見ていた美佐と雪江、あともう1人の女子がキャーキャー騒いでいた。

「優、内野くんと幼馴染で仲良いんじゃろう。いいなぁ」と、美佐に言われた。

「うーん……。でも、最近は昔みたいに遊んだり喋ったりすることもないよ」と、私は言った。

「えー、そうなんだ~。あ、そういえば。内野くんの噂、知っとる?」と美佐が言った。

「あぁ、あれでしょ」と雪江が、眉をひそめて言った。

 私は、なんのことが分からず黙っていた。胸がざわざわとした。

「そう。内野くん、大阪でモデルの仕事しとって、そこでお父さんの知り合いの色んな女の人たちが、内野くんのパトロンになっとるらしいんよ」と美佐が言った。

「えっ、……」と、私は、言葉に詰まった。

「えー、何それ本当?」と、ほかの女子が言った。

 私は、「パトロン」という言葉をよく知らなったが、なんとなくどういう存在なのかは分かった。

「何人もパトロンがおるらしい、ってうちのお母さんが近所のおばちゃんたちと話しとった」

「内野くんのお父さん、血のつながった本当のお父さんじゃないんやって。だから、自分のお客さんや知り合いの女の人たちの相手を内野くんにさせて、自分の商売道具にしとんじゃないかって、大人たちが話しとったよ」と美佐が、憐れむような、軽蔑するような何とも言えない表情を浮かべながらそう語った。

「あんなふうに綺麗な顔しとると、お金持ちの女の人からそういう需要があるんじゃろね。なんか、イヤやなー」と雪江が言った。

「ほんとほんと。内野くんの家は複雑な家庭やし、あんまり関わっちゃいけんて、お母さんに言われたよー」と美佐が言った。

 美佐たちのそんなやり取りを聞いて、私はひどくショックを受けた。そして、翔のことをすごく侮辱された気持ちになって、腹の底から沸々と怒りが沸き上がってきた。

「でも、あくまでも噂なんだし、本当かどうか分からんじゃろ」と私が言うと、

「じゃあ、優が内野くんに本当かどうか訊いてみてや」と美佐に言われた。

「き、訊けるわけ、ないじゃろ、そんなこと」と、私が言うと、「まぁ、そりゃそっか」と、美佐が苦笑いした。

 果たして本当の話なんだろうか……。

 私は信じたくなかったし、本当のことを確かめるのも怖かった。それに、学校で時々見かける彼は、今までと変わらない私の知っている、やんちゃで喧嘩っ早い男子だった。


 翔の噂話を聞いてから、私は、美佐や雪江に対して、それまでのような親しみを感じられなくなっていた。あの時の2人の言葉も嫌な表情も頭にこびりついていたし、ずっとモヤモヤとして腹が立っていた。それでも、私はそれを表には出さずにそれまで通り2人と仲良くした。2人とも、決して悪い子ではなかったし、一緒に過ごしていると楽しいので、私は心の奥で燻っている気持ちに、蓋をして過ごしていた。

 9月のある日の昼休み、美佐と雪江と私の3人は学校の中庭で過ごしていた。

 広い中庭は生徒たちの憩いの場となっていて、たくさんのベンチが置いてあり、私たちは、大きな木の下にあるベンチに座って、おしゃべりをしていた。私たちは、今見ているドラマの最終回の予想を熱心に語ったり、前日の音楽番組に出たアイドルの話をしたりして盛り上がった。

 真夏並みに日差しは強く、木漏れ日がアスファルトの上に揺れて、白とグレーの斑模様を作っていた。少し離れた所では、バレーボールをしている生徒がいて、楽しそうな歓声が空に響いていた。

 美佐は、2年生の1学期の終わりに同じクラスの男子から告白され、夏休みの始め頃から付き合い始めたので、私と雪江は、美佐に「ところで、彼氏とどんな感じなの?」と訊いた。

「えへへ~、まぁ順調、かな。二人で家まで一緒に帰っとんじゃけど、うち、まだ緊張して上手く話せんのんよー。それが、気まずうてかなわんのよ」

「あはは。なんね~美佐。ぶち可愛いなぁ」と私と雪江は冷やかした。

「やめてや二人とも~。でもさ。彼、何でうちなんか選んだんじゃろか。うちなんて地味で目立たない日陰の存在やから、付き合ってって言われた時はビックリしたよ」と言った。

「美佐は、全然日陰の存在じゃないし、むしろそれ、うちやから」と雪江が言い、私も、「美佐は明るいし可愛いから、彼も好きになったんじゃろ」と言った。

「え、うちほんまに地味やし全然可愛くないもん。髪もショートで男子みたいじゃろ」と美佐が言ったので、「ボーイッシュで可愛いってみんな思っとるよ」と私は言った。

 美佐は、「彼、顏は正直なところすごくカッコいいってわけじゃないんやけどな。ほんまはうち、内野くんみたいな顔がタイプなんよ。彼、内野くんみたいにモテるわけでもないしモデル向きでもないし……。でも、すごく優しいんよ。うちのことだけ大切にしてくれるし、内野くんみたいに裏の顔があるわけでもないけん。きっと、うちには彼みたいな人の方が合っとるんやと思うんよ~」と言った。

「よかったね、優しい彼氏と付き合うことになって」と、雪江が言った。

「ほんと。よかったね」と私も精一杯の作り笑顔で言いながら、心の中で、(裏の顔ってなんなの。翔のこと何も知らないくせに。本当かどうか分からないような噂話で翔のこと勝手に判断して、そんなひどい言い方するなんて……。ふざけないでよ)と文句を言ったが、口には出さずに我慢した。怒りで頭にカーっと血が上っていた。

 昼休みが終わりにさしかかり、校舎に戻ろうと歩いていたら、グラウンドの方から、翔がやってきた。たった今名前が挙がっていたとも知らずに、「あ、優」と翔が私を見つけて呑気な声をかけてきた。

 翔は、グラウンドで身体を動かして暑かったのか、額に汗を浮かべ、カッターシャツのボタンを豪快に全部外して、茶色いサラサラの髪の毛を風になびかせていた。その姿が眩しくて、妖艶な美しささえ漂っているように見えて、私はドキッとした。

「翔……」

 私は、うまく笑顔になれなかった。

「よう。相変わらず不愛想な顔して歩いとんな」と、翔が私に言った。

「ハァ……、不愛想で悪かったですね」と、私はため息をついてブスっとしたまま言った。

「うわぁ~、機嫌わるっ」と言って、翔が笑った。笑うと、えくぼが現れて、途端に可愛い顔になった。

「内野くん。モデルの仕事忙しい? 雑誌見たことあるけど、超カッコいいね」と、美佐が翔に愛想良く話しかけた。

「どうも。モデルの仕事は、まあ楽しいっていうか、やりがいがあるよ」と、翔が答えた。

「うわぁ~かっこええわぁ。内野くん優の幼馴染なんよね。ええねぇ。幼馴染の男女って少女漫画みたいでなんか憧れるわぁ」と、美佐が言った。

「なんじゃそれ」と翔は言って、笑った。

 さっきまで翔のことを悪く言っていたくせに、本人を目の前にすると愛想よく話しかけている美佐に嫌気がさして、私はすごく不機嫌になっていた。

「おい。いつまでもそんなブスっとした顔してたら、ほんまにブスになるぞ」

 そう言って、翔は手を伸ばして、笑って私の頬を軽くつねった。

「もうやめてよ。なにするんよ」と、私は翔に言った。

 少し離れた所で、上級生の女子たちが足を止めてその様子を見ていて、何かヒソヒソと言っているようだった。私まで目立ってしまいそうで嫌だった。

「じゃな。ブス~」と言って、翔は走って校舎に入って行った。

「やっぱり、今でもすごい仲ええんやね、2人」と雪江が言った。

「仲良くないけん。うちのことブスとか不愛想とか言ってたじゃろ」と私は言った。

「それにしても、近くで見たら内野くんやっぱかっこよかったわ~。パトロンなんておらんかったら、うち絶対アタックしとったのになぁ。あかん、浮気しちゃいそうや」と美佐が言ったので、冗談でもムカッとした。


 そんなことがあってから、私は、美佐たちと距離を置くようになった。

 3人で過ごすのは楽しかったけれど、本当の自分の気持ちを話せなかったし、なんだかそこは自分の居場所ではないような気がしていた。私は、昼休みは1人で図書館で過ごすことが多くなっていったし、登下校も時間をずらして1人でするようになった。

 ある時1人で学校の廊下を歩いていたら、2人の女子が通りすがりに、

「この間のアイツじゃん。ブスなのに翔くんの彼女気どりだよね」と、わざと私に聞こえるように言った。

 あのとき翔が私の頬をつねった所を見てヒソヒソ言っていた上級生たちだった。彼女たちが翔のファンクラブみたいなものを作って彼の『追っかけ』をしているということは、噂に聞いていた。翔の幼なじみである私は、彼女らに目をつけられてしまったようだった。

 私は陰口を叩かれても聞こえないふりをして完全に無視をした。すると、「ああやって黙って大人しいふりして、男の気を引く女ってサイテー」とさらに言われた。

 しばらくそんなことが続いて、私はその先輩たちが怖かったが、それ以上の度を越した嫌がらせを受けることはなかったので、なんとかやり過ごした。


 ある日の放課後、私は、学校の門を出たところで、久しぶりに翔にばったり会った。

「おう、久しぶり」と、翔が言った。

「久しぶり。元気にしとった?」と私は言った。

「まあな。優は? 1人で帰りよん? 最近いつもの友だちとあんまりおらんみたいやけど」

「うん。まあ……。1人の方が楽やけん」

「え。ケンカでもしたん? 2人とも明るくていい子そうやのに……」

「別に……、しとらんよ」

 私は、翔が美佐たちのことを『いい子』と言ったことに、ちょっとムッとした。

「そんなことより、翔こそケンカばっかりしとって、相変わらずじゃん」と、私は言い返した。

「仕方ねぇだろ、売られたケンカは買わないわけにはいかんのじゃけ」

「いやいや。買わんでええけん。私なんてケンカ売られても無視だよ、無視」

「え? やっぱり友だちとケンカしたん?」

「ちがうって。友だちとじゃないよ」

 翔のファンの先輩たちが私に嫌がらせをしてきたことなんて、きっと翔は知らないんだろうな、と私は思った。

「なぁ。なんなんケンカって。誰なんおまえにケンカ売ってくるやつって」と、翔が恐い顔で訊いた。

「誰でもええじゃろ。女同士の世界は面倒くさいけん。放っといてや」と、私は答えた。

「ふぅ~ん……。なんかよう分からんけど、お前を傷つけるやつは、俺がただじゃおかんけん」と翔は言った。

「はいはい。ありがとう。じゃ、またね」と言って、私は走って先に帰った。翔の気持ちはありがたかったけれど、またこんなところを先輩たちに見られたら面倒なことになると思って、誰にも見られないうちに翔からすぐに離れた。

 それからしばらくたつと、先輩たちは飽きたのか、私を標的にすることはなくなっていった。きっと翔が私を庇ったりしていたら、もっと長く続いてしまったかもしれないなと私は思った。

 

 ◇

 2週間後、心療内科に行く日がまたやってきた。

 心療内科では、カウンセリングを六十分近く受けるので、終わるころにはいつも私はくたくたに疲れてしまっていたが、その疲労感が、私にとっては生きている実感につながっていて、2週間に1度のこの日を、私はなんとなく励みに過ごすようになっていた。

「前回の録音をおうちで聴いて来ましたか?」と心理士さんがこの日の最初に言った。

「はい。聴きました」

「どうでしたか、振り返ってみて」

「……、そうですね。女子同士の付き合いって、すごく面倒くさかったんだなぁって改めて思いました。周りに合わせなきゃって思ったり、自分のことを「私なんて」って卑下して言う子を一生懸命褒めたり。そういうの、結構しんどかったんだなぁ、って思いました」

「自分の本心を隠して周りに合わせるのは決して悪いことではありませんが、心に負担が大きいものですよね。なるべく無理しすぎないで、自分の心に耳を傾けてあげられるといいですけどね。……では、前回の続きのお話を聞かせてください」

 ◇

 私は、中学3年生のクラス替えで、美佐とも雪江とも別のクラスになり、ほっとした。新しいクラスでは、特別仲良くなった子はいなかったが、なんとなく気の合う子たちと当たり障りなく過ごしていた。

 そして私は、受験のために塾に通い始めた。広島駅の駅前のビルに入っている小さな塾で、主に大学生が講師を務めており、4~5人ずつに分けられたクラスで授業を受けた。

 

 4月のある日の夜、塾が終わって帰宅しようとしたら、近所の公園で翔とバッタリ会った。

「優。今帰り?」と、翔が言った。

「うん。塾終わったところ。翔は? ヤンキー仲間の集まり?」

「誰がヤンキーだよ。ゲーセン帰りだよ」

「ヤンキーじゃん。あ、それか極道か」

「てっめ、調子のんな」

「お~、こわ。極道だ」

「おっまえー」

 そう言って、翔は逃げる私を追いかけてきて、羽交い絞めにした。翔はふざけているだけだったけど、私は彼と身体が触れて抱きしめられているみたいで、すごくドキドキした。

 私は、久しぶりに翔と話してじゃれ合って、すごく嬉しかった。みんなが噂しているようなことをしているなんて信じられなかったし、彼は昔から何も変わっていないと思った。

 私は、その日家に帰ってから、翔に羽交い絞めにされた時のことを思い出して、(翔の腕、ごつごつしてて太かったな……)とドキドキして、なかなか眠れなかった。

 

 頭の真上からじりじりと太陽が照りつけ、木々の緑が色濃くなった。

 目が痛くなるほど眩しい青空に、大きな入道雲が湧いていた。

 教室には生徒たちの制汗スプレーの匂いが漂い、下敷きでぱたぱたと扇ぐ音が響いていて、プールから水しぶきや教師のホイッスルの音が時折聞こえてきた。

 中学校の夏休み前最後の日は、お昼前に下校となった。

 日直だった私は、職員室に日誌を届けて、担任の先生としゃべってから帰った。ほとんどの人が下校を終え、しんと静まり返った下駄箱に行くと、そこで翔を見かけた。

 翔は、誰かから隠れているようで、柱に身体をくっつけて様子をうかがっていた。

「翔、なにしとるん?」と私が訊くと、「シーッ。話しかけんな」と、翔が小声で言った。すると廊下から、私とは別のクラスのあまりよく知らない同学年の女子2人組が、こちらにやってきた。

「あれ~、どこ行ったぁ」と言いながら、彼女たちは翔を探しているようだった。

「あ、ねえ。翔くん見なかった?」と、私はその女子たちに尋ねられたので、「さっき2階に走って行ったよ」と嘘をついた。

「そ、ありがとう」と、その子たちは言って、2階に上がって行った。

「……はぁ~、助かったわー。ありがとな」と、翔がホッとした顔をして私に言った。

「なんで追いかけられてたの?」と、私は訊いた。

「さっきの女子に、『夏休みにデートして』って言われて、約束するまで逃がさないって追いかけられてさ……」と翔が言ったので、私はそれを聞いて、「ブフッ」と笑った。

「おい、なに笑ってんだ」と、翔にすごまれた。

「だって……。女子には弱いんだ、って思って。男子には先輩だろうがなんだろうが、平気で歯向かうのに」

「別に」と言って、翔がむくれていた。

「いいじゃん、デートすれば」

「は。行かねーし。お前と違って俺はモテるけん忙しいんだよ」

「なにそれー。私だって……」

 そう言いかけて、後の言葉が続かず口をつぐんだ。

 実際、私は全然モテなかったし、翔はものすごくモテていて、彼の下駄箱にはしょっちゅうラブレターが入れられていた。

「お前はまだまだガキくせえから、デートする相手なんておらんじゃろ」

「い、るもん。私にだって。翔が知らんだけやけん」

「うそつけ」

「うそじゃないもん。……あっ。うしろ! さっきの人たち戻ってきた!」

「えっ」

 翔が後ろを振り返ったが、誰もいなかった。

「おっまえ、ふざけんなよー」

「わぁ~。助けてー」

 そう言いながら私は走って玄関の外に出た。

「待たんか~」と言って、翔が追いかけてきた。彼の茶色い髪の毛が風になびいていた。

すぐに追いついた翔は、私のカバンをサッと奪って逃げた。今度は私が、「こら、待て~。返せ~」と、翔を追いかけた。


 夏休みは、塾の夏季講習があり、私は平日の日中は毎日のように塾に通った。昼間は塾に行き、夜はその復習や宿題をした。夜は気温も下がり、静かで、勉強がはかどった。

 塾では、別の中学校の人たちと同じクラスになったが、みんなしゃべりやすい人たちだったし、変に目立つ人もいなかった。

 私のクラスの英語を担当していたのは、夏井という名の大学生だった。背がすらっと高く、スポーツが得意そうに見えた。テレビでよく見る男性アイドルに顔が少し似ていた。先生は、東京出身で広島弁をしゃべったりしなかったので、そんなところも洗練されていてかっこよく見えた。

 そんな年上でイケメンの夏井先生に、私はちょっと憧れていた。塾の休憩時間には、夏井先生の周りをいつも女子が取り囲んでいて、彼女らが先生と仲良さそうにおしゃべりをしているのを、私は「いいなぁ」と思いながら眺めているだけだった。


 塾の授業が終わったある日の夕方、私は帰り支度をしていて、たまたま教室で最後の1人となっていた。

「あ、五十嵐さん、まだ残ってたの?」

 廊下から、夏井先生が教室に入ってきて、私に話しかけてきた。

「あ、はい。今帰ります」

 急に先生に話しかけられて、私は緊張した。

「五十嵐さん、最近英語の理解度上がってきてるね。頑張ってるね」と、先生が言った。

「ありがとうございます。先生の教え方が上手なんだと思います」

 私は、そう言いながら、自分の顔が赤くなってたら恥ずかしいな、と思っていた。

「おぉ~、ありがとう。嬉しいよ、そんなふうに言ってもらえて」

 先生がにっこり笑ってそう言った。

「あ、ねぇ。五十嵐さん、明日って暇?」

「あ、は、はい」

 翌日は日曜日で、何も予定はなかった。

「そう。じゃあさ、俺、塾の教材の買い出しがあるんだけど付き合ってくれない?」

「えっ? わ、私ですか?」

「うん。美味しいコーヒーゼリーのある喫茶店見つけたから、お礼にご馳走するよ。たまに気分転換にドライブ行って、甘いもの食べたりするのはどうかな?」

「え、でも……」

「この前、同じクラスの田中さんと伊藤くんをお昼ご飯に連れてってあげたんだけど、五十嵐さんいなかったから、五十嵐さんも何か連れてってあげないと不公平でしょ。どう? 行かない?」

「えっと……、じゃあ、い、行きます」

「よし。じゃ、明日午後1時に塾の玄関で待っててね」

「はい。わかりました」

 ―どうしよう、どうしよう。憧れの夏井先生とドライブだなんて……―

 私は、勢いで行くと言ってしまったけれど、すごく緊張してきた。

 でも、私だってデートくらいしたことあるんだって、翔に言ってやりたい気持ちも少なからずあった。

 翌日、約束通り夏井先生に塾に迎えに来てもらった。

 私は、買ったばかりの、肩が広くあいたちょっと大人っぽいサマーニットを着てデニムパンツを履いた。これならそんなに子供っぽくないかな、と選んだものだった。

 先生の車は、黒いスポーツカーで、私はものすごく緊張しながら助手席に乗り込んだ。

「いつもとイメージ違うね、五十嵐さん。大人っぽくてよく似合ってるよ」と先生が言った。

 私は、そんな先生の誉め言葉に、簡単に舞い上がってしまった。

ハンドルを握っている先生の腕には、大きくてごついダイバーズウォッチがはめられていた。先生は、爽やかな白いポロシャツの襟を立てて、サングラスをかけていて、とてもカッコよかった。

 カーステレオから、そのころヒットしていた曲が流れていた。

「この曲、夏らしくて好きです」と私は夏井先生に言った。

「俺もだよ。すごく気分が上がるよね」と先生も言った。

 先生と一緒にその曲を口ずさみながらドライブするうちに、大分私の緊張も解けた。


 先生の車に乗って、まずは広島の中心街にある大きな文房具店と書店に出かけた。

 文房具店で色んな文具を選び、書店で先生の教材選びを一緒にしたりした。

「この英語の問題集どうかな? 難しすぎると思う?」

「あ、いえ……。大丈夫だと思います。長文の問題は大変そうですけど」

「そっか。じゃあ、これにしようかな。五十嵐さん、自分で選んだんだから、頑張ってやってもらうよ~」

「え~。そんな……」

 私の慌てる顔を見て、夏井先生が楽しそうに笑っていた。


 買い物が終わってから、尾道までドライブをして、喫茶店に向かった。

 イギリス風の庭園の中に建つ水色の壁の可愛いお店で、歴史を感じさせる古い建物だった。店内は深い茶色の木の壁や床で、アンティークの家具が置かれた落ちつく雰囲気だった。

 私は、こんな素敵な喫茶店に初めて入ったので、うっとりとした。なんだか、急に自分が大人になったみたいな気分だった。

「ここのコーヒー、水出しで美味しいんだ。それにコーヒーゼリーもすごく美味しいんだよ」と、夏井先生が私に言った。

「じゃあ、私、コーヒーゼリーにします」

「俺も。あと、カフェオレも一緒にどう?」

 私が迷っていると、先生が「遠慮しないで」と言ったので、カフェオレも一緒に頼んだ。

 先生は、普段の大学生活の様子を話してくれたり、東京にいたころの話をしてくれて、楽しくてあっという間に時間が経った。


 喫茶店を出たあと、帰り道は、尾道から海岸線を遠回りしてドライブした。

 夏の夕方の海は、砂浜にまだたくさんの人が遊んでいて賑やかだった。海面に夕陽がキラキラと反射して、眩しくて目を細めながら、窓の外を流れて行く景色を見つめて、(大人のカップルのデートみたい……)と私は思っていた。

 先生が海岸線の駐車場に車を停めて、少し休憩した。

「優ちゃんは、彼氏っているの?」と、夏井先生が微笑みながら私に言った。

 急に下の名前で呼ばれたので、ドキッとした。

「え、い、いませんよ、そんなの」

 私はドキドキを隠しきれず、あたふたしながらそう答えた。

「そう。可愛いのにもったいないな」と先生に言われて、私は顏が一気にカーッと熱くなるのを感じた。

「からかわないでください先生。全然っそんなっ、可愛くなんてないですから」

「いや。すごく可愛いよ、優ちゃん。自分で分かってないの?」

「そんな……。先生こそ、かっこいいからすごくモテますよね」と、私は言った。

「全然。モテないし自分に自信もないんだよなぁ。優ちゃんみたいな可愛い子に好きになってもらえたら、自信も持てるんだけどなー俺」

 そう言って、先生は私の手を握った。私は、心臓が止まりそうになって、息をのんだ。

「すごく年下だけど、ほんとに可愛い、優ちゃん」

 そう言って、先生は、身を乗り出してきて私の唇に突然キスをした。

 突然のキスに私は驚いて、先生を突き放した。

「なに、するんですか」

「ごめんね、つい……。優ちゃんが可愛すぎてキスしたくなっちゃったんだよ」

「こ、困ります」

「困っちゃうの? 可愛い。ねぇ……、もっと先のこと知りたくない?」

 先生にそう言われて、私は急に怖くなって、車の外に飛び出し、走って逃げ出した。

「ちょっ……! 待って、待って。優ちゃん。冗談だよ、戻ってきて」

 先生も車を降りて追いかけてきた。

 少し離れた所に、呉駅があると書かれた標識が見えてきた。

 私は全力で走って逃げた。呉駅から広島駅までは電車で40分ほどの距離だったし、以前家族で来たこともあったので、1人で帰れそうだと思った。

 先生は途中まで追いかけてきたが、やがて諦めて追って来なくなった。

 駅で切符を買い数分待つと、すぐに広島行きの電車がやってきて、私は空いた席を見つけて座り、シートに深くもたれかかった。車窓に広がる海の景色は、日が落ちきって、薄暗いブルーに染まっていた。私はそれをぼんやり眺めながら、安堵と疲労から深いため息をついた。

 私、先生が少しかっこいいからって、軽々しく2人きりで出かけたりして、バカみたいだ。

 自分の浅はかな行動を、深く悔やんだ。

 ―初めてのキスだったのに……―

 先生の唇の感触がいつまでも残っている気がした。


 広島駅に着いたら、駅前の繁華街の賑やかな明かりや人々のざわめきといった見慣れた光景が目の前に広がっていて、私は心底ホッとした。

 自動販売機でジュースを買って、ベンチに座り、バスが来る時間までボーっとしていた。


「あれ? 優。今日、塾休みの日だろ」

 道の向こうから、翔が現れて、私に声をかけてきた。

 よりによってこんなタイミングで……。会いたくなかったような、でも会いたかったような……。

 翔の顔を見て声を聞き、ほっとしたのと同時になんだかものすごく恥ずかしくて気まずい気持ちになった。

「そうだよ」

「じゃあ、なんでこんな時間にここにいるんだよ」と、翔が言った。

「え。だって、今日は……、デートだったんだもん」と、私は精一杯強がって、笑顔でそう答えた。

「ふ~ん。やるじゃん。それでそんなにめかしこんでるんだ」

「別にめかしこんでなんか……。っていうかええじゃろ別に。だからこの前言ったじゃろ、デートする相手くらいいるって」

「へぇ。ほんとだったとはなぁ……。で、どこ行ったの? 楽しかったか?」と、翔が言った。

 楽しかったよ、と返事をしようとしたら、笑顔が崩れて鼻の奥がつんとした。そして、目頭が急に熱くなった。

「……っ」

「おい、なんだよ。急に。泣いとんの?」と、翔がビックリした様子で言った。

 私は、どんどん涙が溢れて流れ出し、止めることができなくなった。

「どうした。何があったんだよ」

「……っ。……なんでも、ないよ」

「デート、楽しくなかったんか? 彼氏と喧嘩でもしたんか?」

「……」

「どうしたんだよ」

「……話せんよ」

「なんで。話してみい。俺、誰にも言わんけえ。笑ったりもせんし」

「そうじゃなくて……。翔に話したら……」

「うん?」

「翔が怒って、相手のことボコボコにして、海に沈めちゃうかもしれんけん……」

「はぁー? お前俺のこと、何だと思っとんじゃ。こんな時にふざけんなよ」

「ふざけてないもん……、翔、ヤクザだもん」

「おい! とにかく、何があったか話せよ」

「……ス、された」

「え? なんて?」

「キス、された」

「えっ。そ、そっか。で? なんで泣くんだよ。下手だったんか? それとも無理やり、とか?」

「そうじゃない。ただ……。いいなって思っとった人やったのに、急にキスされてすごくショックやったの。それで私、その人のことそんなに好きやなかったんやな、って分かって」

「はぁ~……」

 翔がため息をついた。

「お前、なんでそんな好きでもないやつとデートなんて行くんだよ」

「だって……。大人やし、かっこいいなって憧れとったし。それに、私にもデートする相手くらいいる、って思いたかったけん……」

「あぁ。この間俺が言ったこと、気にしてたのかよ」

「別に。そういうわけじゃ……」

「ごめんな。俺が悪かったよ」

「ううん」

 私は、首を横に振って、また溢れてきた涙を手で拭った。

 翔が珍しく素直に謝ってきたりするから、ますます泣けてきてしまった。今はあんまり優しくしないでほしいのに……。


「もう。そんなに泣くなって。……なぁ。お前さ。デートしたいんやったら、俺がデートしちゃるけえ、俺でガマンしとけ」

「え~」

 私は彼に向かって、絶望的な顔をしてみせた。

「なんって顔すんだよ。そこは素直に『うん』って言うとこだろがー」

「そんなこと言ったって……。まぁ、じゃあ……。うん」

「『じゃあ』って。お前なー。……ま、いいや。デートしてやるけん。お前明日の午後は? 空いとる?」

「うん。大丈夫。明日の午後は塾もないし。でも、どこ行くの?」

「そうだなぁ。どこにしよう……」

「私、映画館行きたい。『ゴースト』観たい」

「なん、それ。俺ホラーは無理なんだけど」

「ホラーじゃないよ。お化けと人間のラブストーリー? みたいなやつだよ」

「え~、そんなの面白いのかよ。あ、ゲーセンは?」

「うん。それでも良いよ」

 そんなふうに翔と話をしていたら、いつの間にか涙は止まっていた。


 翌日の午後、約束通り翔と「デート」に出かけた。

 母が、「今日も遊びに出かけたりして、勉強大丈夫なの?」と言ってきたが、「明日からまた勉強漬けだからいいの」とかわして出かけてきた。

 その日は背伸びしたファッションではなく、着慣れた夏のワンピースを着て行った。翔も普通の白いTシャツにジーンズ姿で、特段着飾った格好ではなかった。

 2人で、広島駅から電鉄に乗って、繁華街へ向かった。

 商店街をしばらく歩いていると、目の前に「サロンシネマ1・2」と書かれた看板が見えてきて、翔に、「行くぞ」と言われた。

「え? ゲーセンじゃないの?」と私は言った。

「おう。行くぞ」と、翔はぶっきらぼうに言って、ずんずん映画館の建物の中に入って行った。受付は3階にあり、翔は先に階段を上り、振り返って私を待っていた。

 私も慌てて、階段を上った。

「『ゴースト』2枚お願いします」と言って、翔が受付でチケットを買ってくれた。飲み物とポップコーンも、さっと注文してくれた。

 いつだって言葉遣いも態度もすごく乱暴だけど、翔はやっぱりものすごく優しい。

 そういうところは、昔から何も変わっていなかった。

 席に座り、私は翔の隣で、嬉しくてにやけてきてしまった。


 映画が始まると、翔は興味なさそうにしていた割に、しっかりのめり込んで観ていた。

 ろくろを回すあの有名なラブシーンに、私たちは惹きつけられ、ウーピー・ゴールドバーグ演じる霊媒師のコミカルな演技に涙を流して笑い、黒幕と対峙するシーンでは手に汗握ってハラハラとした。

「いやぁ~、めちゃくちゃ面白かったぁ」

 エンドロールまで見届けて席を立ってから、翔が興奮冷めやらぬまま私に言った。

「うん。すごく良かったね」と私も余韻に浸りながら言った。

 それから、映画館の外に出て、また商店街を2人でぶらぶらと歩いた。

「なんかお腹減っちゃった」と私が言うと、「さっきあんなにポップコーン食ってたのに?」と翔が笑いながら言った。

「うん! ね、翔。クレープ食べ歩きしようよ」と私は、すぐ近くにあった人気のクレープ屋さんを指さして言った。

「おっまえさ……。結構、王道のデートパターン行きたいタイプなのな」

 翔が、鼻で笑いながら言った。

「ふん。いいでしょ、デート初心者なんじゃけえ」

「はは。わかったよ。ほら、どれにする?」と翔がクレープ屋のメニューをのぞきこみながら言った。私はチョコバナナを選び、翔はイチゴ生クリームを選んだ。


 2人でクレープを食べ歩きしていたら、道の向こうから翔のヤンキー仲間3人が歩いて来た。

「あ~っ! 翔じゃん。え、なんや。デート? ひゅ~、熱いのう」と、仲間たちが冷やかした。

「じゃかあしわ! おんどりゃまとめてぶちまわすど」と、翔が大きな声で吼えた。

 仲間たちは、「ひぇ~! ほんじゃあの~」と言いながら、逃げて行った。

「うわぁ~……、もう、ヤクザじゃん。やめてや恥ずかしい」と、私は翔に向かって言った。

「だって、あいつらが……」と、翔は眉間に皺を寄せて怒り顔でブツブツ言っていたが、すぐに気を取り直して、「ちょっとそっちの味、食べさせて」と私のクレープの味見をして、「うめぇ」と言って、ニコニコとご機嫌になっていた。

(こんなの間接キスになってしまうよ)と私は思って、すごく意識してドキドキした。

 翔はそんなことなんて気にもとめていないようで、「クレープ最高だな」と笑って見せた。彼が笑った時に出来るいつものえくぼが頬に現れていて、その笑顔を見ると私は心の底から幸せな気持ちになれた。

「ありがとね、翔。……。映画も一緒に見てくれて、クレープも食べ歩きして、私すごく楽しいデートになったよ」と、私は言った。

「うん、よかった。もう好きでもない男とデートに行ったりすんなよ。しかも、男の車に2人きりなんて危険なんじゃけえな」

「うん。わかっとるよ。そんな保護者ぶらんでよ、もう」と私はむくれて言った。

「おまえがガキなんじゃけえ仕方ねぇだろ」

「もう! またガキって言った。ひどい」

 そうやってギャーギャー騒ぎながら2人で歩いていたら、気付くと駅前の塾のビルの前にいた。

「なぁ。昨日おまえに手出してきたロリコン大学生、どんなやつか見に行きたいんじゃけど」と、突然翔が言い出した。

「えっ、やめてや。だめだめ。翔、絶対手出すじゃろ。それに、私が好きで先生の誘いに乗っただけなんじゃけえ」と、私は慌てて翔を止めようとしたが、当然翔は私の言うことなんて無視して、ずんずん塾の中へと入って行った。


 タイミングが悪いことに、塾の建物に入ってすぐの休憩スペースに夏井先生がいて、女子たちに囲まれていた。

「もしかして、アイツ?」と、するどい翔が見抜いて、私に訊いた。

「……、そう、じゃけど、ほんまにやめてお願い。もう帰ろ」と、私は翔の腕を強く掴んだ。

 翔は、聞く耳を持たず、ずかずか休憩室に入って行き、夏井先生に近づいた。

「あの。夏井先生っすか?」

「ん? そうだけど、君は新しい生徒さんかな?」と、先生が言った。

「いえ、ちがいます。五十嵐の友人です。ちょっと話があるんですけど時間いいですか?」と翔が言った。

 翔の後ろに立っていた私の姿を見て何の用件か察した夏井先生は、固い表情になって、「いいよ。あんまり時間ないけど、ちょっと外出ようか」と言った。

 先生は、ビルの外に出て、私に向かって「五十嵐さん、昨日はごめんね。あのあと無事に帰れたんだよね?」と言った。

「はい。大丈夫でした」と私が答えると、「そう。良かった」と先生が言った。

「は? 良かったじゃねぇだろ。生徒と2人きりで出かけて、しかも手出すなんて、とんだナンパ野郎でロリコン野郎だな」と、翔が怒りを露わにして言った。

「手出すだなんて……。俺は頑張ってる五十嵐さんの気分転換になればと思って、ドライブに連れて行っただけだよ。君ね、大人に対してそんな口きかないんだよ」と、先生は翔をたしなめた。

 「昨日は五十嵐さんが可愛かったからちょっと構ってみただけで、中学生に手を出したりなんてしないから。それに、五十嵐さんは俺のタイプとは違うからさ。俺どっちかっていうと、ちょっと不良っぽい子がタイプなんだよね」と、冗談交じりで先生が言った。

 私は、それを聞いて、すごく傷ついた。

「っざ、けんな」

 翔が低く呻くようにそう口にして、先生の肩を掴み、ビルの壁に押し付けた。

「おどれのタイプなんか聞いとらんのじゃ! ヘラヘラ笑ってふざけやがって。よくそんなんで塾講師なんてしてんな」と、翔が怒鳴って、先生の首を壁に押した。

「~っ……。や、め……、ろ」と、先生は絞り出すような声でそう呻いて、翔の手をほどこうともがいたが、翔の力が強すぎて、全然ビクともしなかった。

「翔! お願いじゃけえ、やめてっ」と、私は、翔の腕を掴んで言った。

 先生の顔が苦しそうに真っ赤になったのを見て、翔は力を緩めた。

「ゴホッ、……。……暴力は、ダメだろ、君」と、先生は咳込みながら翔に言い、その場から急いで逃げた。

少し離れたところで、先生は振り返って、「ほんとに悪かったよ五十嵐さん。ごめんね。昨日のことはもう忘れてね」と私に言った。

「もういいです。友だちが乱暴なことして、すみませんでした」と私は謝った。

「こっちこそ」と言って、先生は駆け足で塾に戻って行った。


「おい、アイツふざけすぎじゃろう。お前のこと傷つけとって全然反省してねえし……。俺間違ったこと言うてないじゃろ」と、翔は鼻息荒く言った。

「うん。そうじゃな。ありがとう、翔。私ちょっとスッキリしたよ」

「……んー。まぁ。そんなら良かった。ほんまは一発殴らんと気すまんかったけど、それが原因で優が塾に通えんようになっても困るけん、なんとかガマンしたわ」

「そっか……。ありがとう。……もう、行こ」と、私は言った。


 塾をあとにし、2人で歩いて広島城まで来て、広場で休んだ。夕暮れに近い時刻だったので、売店はもう閉まっていた。ひとけのない広場をお爺さんが犬の散歩をさせながら歩いていた。ランニングをしている女の人がお爺さんとすれ違って通り過ぎて行った。芝生に腰を下ろすと、夏草の香りが風に運ばれてきて鼻をかすめた。空は茜色に染まり、「カナカナカナ」というひぐらしの鳴き声が聞こえていた。

―そろそろ帰らないとだな。でも、まだまだ帰りたくないな。もう少しこのまま翔といたいな……。―

 そんなふうに私は思っていた。

「お。バッタだ」と、翔が言った。

 芝生の上の私たちの足と足の間に、1匹のバッタがいた。

「ねぇ翔。幼稚園の時、私をいじめた男の子に、翔がバッタいっぱい投げつけたことあったの、覚えとる?」

「え~? 俺、そんな野蛮なことせんわ~」

「はぁ? よう言うわ」と、言って私は笑った。

「さっきはあの男に、ついキレたりして悪かったな」と、翔がポツリと言った。

「ううん。私のためにあんなに怒ってくれて、ちょっとうれしかったよ。……私、あんな人のこと、かっこいいって思って憧れとったなんて、ばかみたい」

「……。全然かっこよくねーよ、あんなやつ」

「だね。見た目に騙されて中身が見抜けないなんて、やっぱ翔の言う通り、私ってガキだね」

「……。んなこと、ねぇよ」

 翔が俯いたまま言った。

「あーあ。はじめてのキスだったのに。あんな人とだなんて。とんだ思い出になっちゃった」

 私は、時間を巻き戻せるのなら巻き戻して、ファーストキスを取り返したいと思った。

翔は、黙って、足元の芝生の草をちぎりながら聞いていた。

「私、夏井先生にちょっと優しい言葉をかけられただけでポーッて舞い上がったりしてさ。ほんとに情けないよ」

「……。んなことねーよ。あいつが塾講師のくせに、薄っぺらで軽すぎんだよ」

「……うん。でも、……悔しい」

「そっか……。なぁ。……上書き、してやろうか」と、翔が言った。

「何を?」

「決まってんだろ。キスの上書き」

「はっ。えぇっ。 な、なに。どうしたん、何言い出すんよ」

「だって。お前、このままあんなやつとのファーストキスの思い出じゃ、嫌だろ」

「……それは……そう、じゃけど。……でも、さ……」

 たしかに、あれが私のファーストキスの思い出だなんて、すごく嫌だけど……。

 どうしよう。急に翔とキスだなんて、私どんな顔していいのか、どう振舞ったらいいのか全然分からないよ。さっきの間接キスですらあんなにドキドキしたのに、ほんとのキスなんてしたらどうなってしまうんだろう。あ、でも、もしかしてふざけてブチューってするやつだったりするのかな。だったら、別に今まで通りふざけた感じで、平気かもしれないし。でもでも……。あ~、もう、どうしたらいいの。なんて返そう。


 私が俯いて黙ったまま、頭の中でぐるぐるとひたすら考えを巡らせていたら、翔が、私のすぐ横に片手をついて、体を寄せてきた。

 そして、私の顎に手をかけて、私の顔を上に持ち上げた。

 私は、心臓が痛いくらいにドキドキして、反射的に目をギュッと瞑った。

 翔の顔が近づいてきて、私の顔にそっと重なって……。またすぐに離れた。

 彼から、日向の草原みたいな匂いとTシャツの柔軟剤の匂いが混ざったような匂いがした。

 私は、全身の血が駆け巡ったように、カーッと熱くなるのを感じた。

 唇が触れたか触れなかったか分からないくらいの一瞬の出来事で、キスをしたという実感がすぐには湧かなかった。

「忘れろよ」と、翔が言った。

「え」

「上書きしてやったけん、さっきの男とのことは、全部忘れろよ」

「ん。わかった。……忘れる」

「よし。……でも、俺とのキスは、覚えてろよ」

 翔は、ものすごく真面目な顔で私を見つめて、そう言った。

「なんっ、言うとん。そんな真剣な顔で……。キザな極道じゃな」私は、恥ずかしすぎて、ぷいと翔から顔を背けて言った。

「なっ! おまえなー。ほんっとにふざけんな。そんなやつはこうしちゃる」

 翔はそう言って、私の頬を両手で挟み込み、ぎゅ~っと押して痛いくらいに頬を潰した。

「イデデデ……、やめて、もう」

「おまえ。顏あっつ」

 私の頬を潰したまま、翔は笑ってそう言った。

「うるさい」

 ほっぺたをぎゅーっと押され、口を突き出した顔のまま、しゃべりにくそうに私がそう言うと、翔は、ふふっとさらに笑って、私に顔を近づけ、今度は思いきり自分の唇を私の唇に押し付けてきた。

「わぁっ。なにしよん! 2回もするなんて聞いとらんよ。もう。翔のバカ」

 そう言って、私は取り乱しながら立ち上がり、翔に背を向けた。

「あー、おい。ごめんてー」

「……」

 私は、翔の力強いキスにドキドキして何を言ったら良いのか分からずに、無言で歩き出した。

「なぁーなぁー、優。怒っとるん?」と翔が言ったので、「べ、別に、怒っとらん。もうバス乗って帰ろ」と私は言った。

 翔にとって、キスはアメリカ人の挨拶みたいなものなのかもしれないが、私はそんなわけにいくはずもなく……。

ぎくしゃくした足取りで、私は翔の前を歩いて行った。翔は何も言わずに追いかけてきて、私に追いつくと、楽しそうな笑顔を浮かべて隣を歩いた。


 バスを降り、家の近くに来ると、翔が「じゃあ、またな」と言った。

「うん。今日はありがとね。楽しかった」と、私も言った。

「うん、俺も。……。そうだ。さっきの続き。したくなったら、いつでも言えよ」と、翔が言った。

「はっ……。翔のバカ」

 私はそう言って、翔の胸のあたりを、拳で思いきりパンチした。

「いっ。て! なにすんだよ~。やっぱガキ~」

 そう言いながら胸を押さえている翔を尻目に、私は走って家に向かい、玄関前に立った。

「じゃあね、バイバイ」と私が言うと、翔も、「またな」と言って手を上げて、自分の家に帰って行った。

 私は、去っていく翔の背中を、見えなくなるまで見つめていた。

―翔、本当にありがとう。デートも夏井先生とのことも。

 もう夏井先生とのことは全部忘れたよ。私の初めてのキスは翔とのキスだよ。―

 心の中でそう言った。

 私の唇に初めて触れた翔の唇は、やわらかくてほっとするあたたかさだった。(私、さっき本当に翔とキス、した……んだよ、ね?)と、なんだか信じられない気もして、半ば夢でも見ているような気持ちにもなっていた。


 そうして、中学生最後の夏休みはあっけなく終わっていき、2学期が始まって数週間ほど経った9月のある日、私が家に帰ると、玄関の前で翔が待っていた。

「よぉ」

 翔は、そうぶっきらぼうに言って、私に向かって手をあげた。

 思いがけず、翔が私に会いに来てくれて、胸がトクンと弾んだ。

「どうしたの?」と私が言うと、翔は話があるから神社に行かないかと言った。

 そんなこと言うなんて珍しいな、と思いながら、2人でよく遊んでいた神社に向かった。


 神社には、お参りをしているおじいさんが1人いたが、ほかには誰もいなかったので、階段の端に2人で腰かけた。

「話ってなに?」と私は翔に訊いた。

 話があるなんて呼び出されるってことは、もしかしたら告白されちゃったりするのかな……、なんてほんの少し期待してドキドキしてしまっていた。

「あー、うん。……実はさ。俺、……来月引っ越すことになったんだ」

「えっ。えぇっ?! そうなの。……どこにっ?」

「大阪だよ」

「大阪? ど、どうして?」

「父さんの仕事の都合で、引っ越すことになった」

「……。そ、……そうなんだ……。来月だなんて、すごく急じゃな」

「うん。本当はもう少し先の予定だったんやけど、それが早まってさ」

「そう、なんじゃね……」

 そんなの絶対ヤダ……って思ったけれど、もちろんそんなことを言ったって、どうにもならないので、私は何を言えば良いのかわからず、口をつぐんだ。

 急に、翔に会えなくなるだなんて、私はこれっぽっちも実感が湧かなかった。

 こんな時、いったい何て言えばいいんだろう。

「……そんなら、……もう、会えんくなるの?」と私は言った。

「そんなことないよ。でも、まあ、しばらくは会えんかもしれんけど……。でも、俺、きっと優に会いに行くけん」

「ほんまに?」

「あたりまえじゃろ。受験が終わったら、会おうな」

「うん……。ありがとう」

 私は、「きっと会いに行く」という彼の言葉が、ものすごく嬉しかった。

「手紙、書くけんな」と、翔が言った。

「ほんまにー? 翔、筆まめやないじゃろ」

「んなことねーよ。絶対書くけえ。優も書けよ」

「うん。もちろん」

「私のこと……。忘れんでね」

 私のことどう思っとる? 本当はそう訊きたかったけれど、言葉には出来なかった。

「忘れねぇよ。俺、女の中で一番好きなのは、優やけん」

 翔が、ちょっと得意げな顔でにっと笑ってそう言った。

「なんそれ、もう……」と言って、私は笑った。

 告白ではなかったけれど、その言葉で十分だった。

「モデルの仕事、無理したりせんでね」と私は言った。

「大丈夫だよ。父さんも母さんも応援してくれとるけん、頑張るよ」

「うん。もしも困ったことがあったりしたら、話してね。私は絶対翔の味方になるけんね」

「わかったよ。そんな心配すんなって」

 翔は、笑ってそう言った。

「これ、やるよ」

 そう言って、翔は、ビーズでできたミサンガを私の手のひらに乗せた。

「ありがとう! いいの? あ、じゃあ、私も何かあげたいよ」

「いいよいいよ。手紙くれれば」と翔は言った。

「でも……。私もあげたいんやもん」

「ほんまにええけん。……。じゃあ、元気でな。多分ゆっくり会えるのはこれが最後やけん」

「うん……。そっか。そうなんじゃね。翔も、元気、でね」

「うん」

 翔の目が、珍しく赤く潤んでいた。

 それを見たら、私も堪えられずに泣いてしまった。

「泣くなって!」

「翔こそ……」

「は? 泣いてないやろ。そんなこと言うならミサンガ返せよ」

「やだよ~」と、私は涙を拭いながら笑って言って、翔に舌を出して見せた。

「……じゃあ。俺行くわ」

 そう言って、翔は走って帰って行った。


 それから、私も翔にあげるミサンガを買ったが、彼に直接渡すことはできなかった。

 彼は、私に話していたよりもずっと早く、大阪に行ってしまったからだ。

 空き家になった彼の家は、全ての窓のレースのカーテンが閉めっぱなしになっていた。私はその前を通るたびに、いるはずもない彼の姿を探した。そして、彼がいないことを実感しては会いたい気持ちを募らせた。そんなふうに私は、学校の中でも街の中でも、つい彼の姿を無意識に探してしまっていた。私の胸に、ぽっかりと大きな穴が空いたようだった。

 私は、彼に渡せなかったミサンガを封筒に入れてしまい込み、手紙を出す時に一緒に送ろうと心に決めた。


 ◇

 昨夜は、接近している台風のせいで荒れ狂うような風が一晩中吹き続けた。窓の外で、『ガタン、カラカラカラ……』と何かが風に飛ばされて転がっている音がして、窓ガラスは、雨に打たれてずっとがたがたと揺れていた。

 夜が明けると、嵐はすっかり止んで、辺りは静けさに包まれており、ベッド横の窓のカーテンを開けると、雲の隙間から差し込む朝日が眩しかった。

 ―きっと、今日は午後から良い天気になるだろう―

 そう思いながら、私はベッドから出て、身支度を始めた。


 今日は、3回目の通院の日だった。初めてクリニックを訪れたときは真夏だったのに、今はもうすっかり季節は秋に移り変わっていた。台風が去ったあとの朝の空気は、とてもひんやりとしており、どこかから金木犀の香りがしてきた。

 最近は、処方された薬もよく効いて、しっかり眠れるようになっていた。病院が終わったら、父の車で帰り道の途中にあるケーキ屋さんに寄ってもらおうかな、なんてことを考える余裕も、私は出ていた。

「こんにちは。よろしくお願いします」

 私はそう言って、カウンセリング室のいつもの椅子に座った。

「よろしくお願いします。認知行動療法のトレーニングは実践できていますか」と、心理士さんに訊かれた。

 それは、つらくなった時に頭に浮かんだ考えやイメージを、別の考えに変えていくための簡単なイメージトレーニングで、感じ方や気分を、軽くしたり柔らかくしたりして、ストレスを減らす試みだった。

「はい。ちょっと難しいですけど、実践しています」と私は答えた。

「いいですね。では、前回のお話の続きをうかがっていきましょう」と心理士さんに言われ、私は目を閉じて、また記憶を紐解きはじめた。

 ◇

 中学3年生の秋、翔が引っ越してからしばらく経った頃、翔は約束どおり私に手紙をくれた。

 そこには、大阪の中学校でも友だちができて元気でやっている、と書かれていた。

 封筒の中には、飼い犬と一緒に写っている翔の写真も入っていた。写真の中の翔は、笑顔で柴犬の後ろにしゃがんでいた。

 私も、翔のために買ったミサンガを、手紙の返事に同封して送った。翔が自分の写真を送ってくれるなんて意外で、すごく嬉しかったので、私も何かの機会に自分の写真を撮って翔に送ろう、と考えていた。

私はそれから、クリスマスもお正月も返上して、受験勉強に励んだ。

 受験が終わって高校生になったら、翔に会える。そう思ったら、頑張れた。

 そうやって、必死で頑張った甲斐あって、私は無事志望校に合格できた。


 中学校を卒業し、広島市の中心部にある高校に入学した私は、入学式での制服姿の写真を翔に送り、「翔の新しい制服姿の写真もそのうち送ってね。それと、いつ頃会えそうか教えてね」と、手紙に書いた。

 けれども、その手紙の返事は、1か月経っても2か月経っても、返って来なかった。

 ―もしかして私の制服姿が残念すぎて嫌われたのかな? それとも何か私が翔の気の障るようなことでも書いてしまったとか?― 

 私は、「返事が来なくて寂しいよ。何か悪いこと書いちゃった?」と手紙に書いて、また翔に送った。

 

 それでも、やはり返事は来なかった。

 受験が終わったら、翔に会えると楽しみにしていたのに、翔は同じ気持ちじゃなかったのだろうか……。どうして何の連絡もくれないのか、私は思い当たることがなく、悲しくてずっと落ち込んで過ごした。

 

 やがて私は、返って来ない手紙を待つのが辛くなってきて、待つのをやめた。

 ―きっと翔は、新しい生活がすごく楽しすぎて、私のことなんてどうでも良くなってしまったんだ。もしかしたら、向こうで付き合っ ている人がいるのかもしれないし……―

 そんなふうに思っていた。


 それから数か月が経ち、7月に入ってすぐの頃だった。

 父の転勤が決まり、我が家も広島から引っ越すことになったのだ。

 せっかく受験に合格して高校に入学したばかりだったのに、なぜ今このタイミングで……、と私は思った。

 新しい引っ越し先は、新潟県の上越市だった。

 住み慣れた温暖な土地を離れ、遠く雪国に引っ越すことは、私にとって気の重いことだったが仕方がなかった。


第2章

 高校1年生の8月、私は上越市へとやってきた。

 新しい家は田んぼの脇に建っていた。力強く真っすぐに伸びた稲は、草原のように一面の緑をなし、陽光に眩しく照らされていた。近づいてよく見ると、もう穂が出ていた。

 

 私は、家の近くの高校に編入試験で合格し、そこに通うことになった。進学校ではあったが、クラスのみんなは割とのんびりとした素朴な性格の人が多かったので、すぐに新しい学校に馴染むことができた。

 私は、知らない新しい土地で学校生活に慣れることに精一杯だったこともあり、なるべく翔のことは考えないようにして過ごしていた。

 それでも、上越に引っ越したことを翔に手紙で伝え、急がないので元気かどうかいつか返事をくれると嬉しい、と書いた。翔は今頃どうしているだろうか……、と私は手紙を書きながら思いを巡らせた。

 彼からはやはり、手紙は送られてこなかった。


 その年の秋も終わり、やがて冬の便りが訪れる頃となった。

 11月も半ばをすぎると、雪が舞い始め、12月になると薄っすらと積もる日もあった。

 見慣れた景色が、降り積もった白い雪ですっぽりと包み込まれ、別世界のように見える光景は、とても新鮮で美しく、幻想的なものだった。

 ずっと広島の土地が恋しかった私は、その光景を目にして、雪国も悪くないなとだんだん思うことができるようになってきた。


 高校1年生の冬のある日。それは、学校がちょうど冬休みに入ったばかりのことだった。

 私のもとに、1通の手紙が届いた。

 差出人は、「浅見志保」となっていた。志保さんはたしか翔のお母さんの名だったと思ったけれど、苗字が違っているし、確信は持てなかった。

 急いで封を切ると、分厚い便箋の束が折りたたまれて入っていた。ざっと10枚はあるようだった。私は胸騒ぎを覚えつつ、手紙を読み始めた。


『優ちゃん

 お元気ですか。翔の母の志保です。突然のお手紙で驚かせてしまってごめんなさい。優ちゃんに伝えなければならないことがあって、筆をとりました。

 

 翔は、今年の10月30日に、永眠しました。

 たった16年という短い人生でした。

 翔は、大阪に越してきてしばらく経った頃に体調を崩し、すぐに検査をしたところ、癌が見つかりました。新しい学校にも慣れて友だちもできて元気に通い始めたというのに、まさに青天の霹靂でした。

 翔はもちろんショックを受けていましたし、私もなかなか現実を受け入れることができませんでした。

 翔は、間もなく入院し、優ちゃんとの文通の手紙は、病院のベッドで、楽しそうによく読んでおりました。

 元気だけが取り柄のような子だったのに、癌はあっという間に全身に広がり、思うように身体も動かせなくなり、どこにも出かけられず、あの子は相当辛かったと思います。

 そんな中で、優ちゃんからの手紙があの子にとって唯一の楽しみであり、救いであったと思います。

 翔は、必ず病気に勝って、治ったら優ちゃんに会いに行くんだ、と話していました。

 優ちゃんには、絶対病気のことは知られたくないと言って、私は強く口止めをされておりました。本当に強い子で、私は弱い自分が情けなかったです。


 翔は、懸命に病と闘い続けました。抗がん剤の苦しい治療にも弱音を吐かずに耐えて、優ちゃんに絶対会いに行くんだと言っていました。けれども結局、あの子は病に打ち勝つことはできませんでした。

 死を目前にした最期、あの子は私に「ごめんね。俺が死んでも悲しまないで。母さんにはずっと笑っていてほしい」と言いました。自分だってものすごい恐怖の中にいただろうに、どこまでも優しく強い子でした。

 そして、お願いだから優ちゃんをお葬式に呼ばないでほしい、と言いました。『ずっと優のそばにいるって約束したから、そんな式に呼んで悲しい思いをさせたくないし、自分が死んだこともどうか知らせないでほしい』と、言われました。

 それはあの子の最後の切実な願いでしたので、私は本人の意思を尊重せざるをえませんでした。優ちゃんが新潟県に引っ越したことも、あの子は知っていましたので、きっと大阪までお葬式に来てもらうのは憚られたのもあるのかもしれません。

 先日、四十九日の法要も終わり、私はこのままで良いのか散々悩みました。

 翔の気持ちは大切にしたかったのですが、優ちゃんの手紙にずっと返事を送れずにいましたし、やはりこのまま優ちゃんに知らせないわけにはいかないのではないかと思い、ようやくこの手紙を書いています。

 本当のことを知らせるのが遅くなってしまい、お葬式にも呼ばずに、本当にごめんなさい。


 あの子の人生は、とても短いものでしたが、精いっぱい力強く生きました。

 誰よりもタフで優しい子でした。

 私の夫のせいで、あの子がものすごく辛い思いをしていたことを、私はかなり後になってから知りました。あの子に対して、私は取り返しのつかないことをしてしまったのです。本当に母親失格です。

 夫は、あの子の病気が発覚して間もなく、私たちのもとを去っていきました。

 私のせいで、あの子は大人の醜い部分を見たり経験しなくて良いことをさせられ、辛い思いをすることになってしまったのです。あの子の一度しかない大切な青春時代を黒く暗いものに塗りつぶしてしまったことを、私は悔やんでも悔やみきれず、あの子に謝る術も見つかりません。

 それでも、そんな中、あなたという存在がいて、あの子は本当に救われていたのだと思います。

 あの子は、恋を謳歌する喜びを知ることもなく、誰かとお付き合いすることもなく、結婚して自分の家族を持つこともなく、この世を去りました。

 きっと、将来やりたかった仕事もあったのだろうと思います。

 あの子にとって、唯一の青春は、優ちゃんと過ごした思い出たちです。

 本当にあの子と仲良くしてくれて、ありがとうございました。

 

 最後になりましたが、どうか翔のことであまり悲しまず、元気で幸せでいてください。優ちゃんには、翔の分まで幸せになってもらいたい、と勝手ながら思っております。

 そして、少しだけでもあの子のことを覚えていてくれると、おばさんは嬉しく思います』


 手紙の途中から、私は涙で目が霞んで文字をうまく追えなくなっていた。

 拭っても拭っても溢れてくる涙が、便箋に雨粒みたいに落ちて、手紙の文字は、いたるところが群青色の染みになっていた。

 私は、何度も何度も、その手紙を読み返した。

 あの元気で誰よりも強い翔が? 癌だった?

 ……もう、この世には……、いない?

 そんな……。そんなの嘘。悪い冗談だ……。全然信じられないよ。

 夢でも見ている気分で、私は現実が全く受け入れられなかった。夢だったのなら。何かの間違いだったのなら、どんなにか良いのに。

 翔のお母さんもきっと悲しみのどん底にいるはずなのに、こんなふうに私に手紙を沢山書いてくれたなんて。本当にすごい人だ、と思った。

 そして、翔がそのお母さんを想って、お父さんに言われるがままつらい事をしていたことが分かって、私は胸が張り裂けそうになった。

 私は、翔に何もしてあげられなかった。

 きっと、自分が我慢しないとお母さんが不幸になってしまう、って翔は思っていたんだね。そうやって、ずっと誰にも言えずに頑張っていたんだね。

 翔はきっと、病気を治してから元気な姿を写真に収めて、私に送ろうと思ってくれていたんだよね。

 ―絶対病気を治して、元気になってやる―

 負けず嫌いな翔は、きっとそう思って、闘っていたんだろう。その姿がありありと目に浮かんだ。


 翔のことだけが私にとっての全てだった。そのほかはどうでも良かった。好きになりかけていた新しい土地の雪景色も、大好きだった広島の懐かしい風景も、一瞬にして全てが霞んでいった。

 出会った頃、まだ片言の日本語しか話せなかった翔。

 無言でいじめっ子にバッタをぶつけてくれた翔。

 ずっとそばにいると言って、シロツメクサのブレスレットを付けてくれた翔。

 そんな翔の笑顔だけが、何度も何度も記憶の中で蘇ってきた。

 翔がいなくなってしまった世界で、いったいどうやって生きて行けばいいのだろう。

 その冬休みの間、自分がどんなふうに過ごしたのか、私は全然記憶がない。


 その冬、上越市は、記録的な豪雪に見舞われた。来る日も来る日も、途切れることなく雪が降り続いた。あたりは1メートルを優に超す積雪で、家の周りは2階の高さまですっぽりと雪に覆われていた。

 眠れない夜にベッドに横たわっていると、除雪車が走って行く音が辺りに響いていた。

 窓を開けて外を見てみると、大きな除雪車が、ゴリゴリ、ゴリゴリという規則的な音を立てながら、道路の雪を描き分けて進んでいた。外は、除雪車が走る音以外、一切音がなく、しんと静まり返っていた。

 圧倒されるほどの雪で何もかもが覆われて、窓の外には、いつもと全く違う景色が広がっていた。


 真夜中をすぎ、やっと眠りに落ちた私は、夢を見た。

 私は、海の中にいて、海底を目指して泳いでいた。

海底に辿り着くと、上から柔らかい光がユラユラと届いていた。

「優、こっちに来て」

 翔がそこに現れて、私にそう呼びかけた。

(翔……。翔に会えてるの?)と、私は心の中でそう言った。

「ここ見て、可愛い魚がいるよ」と、翔が岩の隙間を指さして言った。

(元気だった? 私のこと覚えてくれてた?)

 そんなふうに聞きたいことは山ほどあるはずなのに、私は何も聞かずに黙って翔と一緒に魚を眺めていた。


 ふと目が覚めると、夢だったことに気づき、私はひどく落胆した。

 ―会いたいよ、翔……―

 心の中でそう呟くと、胸がしめつけられて目頭が熱くなった。

 終わらない夢があればいいのに……。

 枕に顔を埋めて、声を出さずにしばらく泣いた。

 私は目を閉じ、もう1度眠ろうとした。もしかしたら、さっきの夢の続きが見られるかもしれないから。けれども、再び眠りに落ちることも、夢の続きを見ることも叶わなかった。

 どうしたらこの苦しみから抜け出せるだろうか……。いっそ翔のもとへ自分も行ってしまおうか。

 そんなふうに思った。


 冬休みが明けて日常が戻っても、私は深い絶望の中にいて、生きている実感があまりないまま、学校生活を送った。

 私は、翔のお母さんの志保さんに手紙の返事を書いた。

 正直なところ事実を受け入れられずにいるけれど、少し気持ちが落ち着いたら、どうかお線香だけでもあげに行かせてほしい、と手紙の中で伝えた。


 相変わらずいつまでも雪は降り続き、町中の歩道は雪で完全に覆われ、道行く人々は、ツルツルに凍った車道を1列になって背中を丸めてゆっくりと慎重に歩いていた。

 吹雪の中、凍結した道を歩くことは、雪道に慣れない私にとってとても難しいことで、何度も転んだ。私は長年、雪というものに憧れを抱いてきたが、暮らしてみて初めて、雪国の冬の厳しさが身に染みた。

 来る日も来る日も空から雪が落ちてきて、学校以外は家に籠って過ごす毎日だった。


 そんな日が永遠に続くかと思われたが、時が経てばちゃんと季節は移り変わって行った。

 3月になると、ようやく春の兆しが見えてきた。雪は解け、久しぶりに土が顔を出した。

 柔らかな日差しが肌を温めてくれる喜び。

 雪の下に隠れていた植物の芽吹きを見つける喜び。

 雪国の人たちが、春の訪れをものすごく喜ぶ気持ちが、初めて理解できた。

 春休みになると、私は電車を乗り継ぎ、1人大阪へ向かい、志保さんを訪ねた。


「お久しぶりです。お忙しいところお邪魔してすみません」と私は言った。

「全然忙しくなんてないし、連絡をもらえてすごく嬉しかったわ。わざわざ大阪まで来てくれて本当にありがとうね。ここまで遠かったでしょう。優ちゃん、すっかり大人っぽくなって、とっても綺麗になったわね」と、志保さんが言った。

 彼女は相変わらずとても美しかったが、以前のような華やいだ雰囲気はそこにはなく、顔には皺がいくつか刻まれていた。寂しそうにほほ笑む彼女を見て私は、翔を失って一体どれほどの苦しみだっただろうか、と想像して胸が苦しくなった。

 

 私は翔の仏壇にお線香をあげた。仏壇に置かれた笑顔の翔の写真を目にして、私は、本当に彼がこの世を去ってしまったんだということを現実の事として初めて受け入れざるを得なかった。急に目の前の焦点が定まらなくなり、自分の世界がぐらりと揺れるような感覚を覚えて、熱い涙がこみ上げてきた。1度こみ上げた涙は止めようもなく、次々と溢れ出して止められなかった。気付いたら、私は声を出して泣いていた。

「本当にごめんなさいね、優ちゃん。翔の最後に会わせてあげられなくて……」

 志保さんはそう涙声で言って、私の背中を優しく撫でた。


「優ちゃん。本当に今日は来てくれてありがとう。1人で電車に乗って、心細かったでしょうし疲れて大変だったでしょう……。無理をさせてしまってごめんなさいね。おかげで、私は久しぶりにすごく嬉しい1日だったわ。どうか、身体に気を付けて元気でいてね」

 帰り際に、志保さんがそう言った。

「ありがとうございます。こちらこそ久しぶりにお会いできて嬉しかったです。お忙しいところお邪魔しました。あの……、また来てもいいですか」

「もちろんよ。嬉しいわ。いつでも待ってるわね」


 志保さんと会って色々話をすれば少しは楽になれるかと思っていたけれど、そんなことはなかった。大阪から帰る電車の中でずっと翔のことを想って泣き続けた。長い時間をかけ、ようやく上越に帰りついた頃には、泣き疲れて頭がぼんやりとし、瞼は腫れて熱を持っていた。もう涙は1滴も出ず涸れてしまった。そして、私の心の中には、まるで底の見えない井戸のようにどこまでも暗く深い空洞が出来ていた。


 それから私は、虚ろな気持ちで毎日を過ごした。

 やがて、桜の蕾がほころび始め、私は高校2年生になった。

 家の近くの公園では見事な桜並木が人々の目を楽しませ、沢山の花見客で賑わっていた。我が家も、散歩がてら花見に出かけた。

 目に映る淡いピンクの桜の花は、とても美しく華やかだったけれど、私を楽しい気持ちにも幸せな気持ちにもしてくれなかった。

 自分以外のみんなが、誰もかれもとても幸せそうに見えた。私はただ孤独を感じることしかできなかった。


 私は、ほんの些細なことで落ち込んだり、何もやる気が出なくなったりするようになった。

 バスや電車に乗ると、息が出来ない気がしてきて、全身の血の気が引き、5分と乗っていられなかった。

 自分は一体、どうなってしまったんだろう……と、すごく怖くなった。

 ◇

「苦しい体験をよく話してくれましたね」と、心理士さんが言った。

「こんなふうに誰かに聞いてもらったのは初めてで……。ちゃんと話せて良かったです。自分の気持ちを吐き出せて、なんだか少し心が軽くなったような気がします」と、私は答えた。

「それはとても大事なプロセスです。自分の心の中にだけ留めて、苦しいのにうまく外に出せずにいると、人は心のバランスを保てなくなったりします。それに、言葉にして誰かに話すことは、自分の心の中を整理することにもつながるんです」

「はい」

「大事な人を喪失した心の傷はなかなか簡単には癒えませんが、少しずつその気持ちと向き合って、辛くて仕方ない時に自分がどうすると少しでも楽になれるのか、それをゆっくりと探して行きましょう」と、心理士さんが穏やかな声で語った。

 私は、心理士さんの力を借りながら、ちゃんと自分の気持ちと向き合って、整理をつけて行きたいと思った。


 街路樹の葉は落ち、木枯らしが吹いた。日射しがあってもそれは淡く弱々しくなってきた。

 雁木通りにある家々からは石油ストーブの煙の匂いがしてきて、それは私を何とも言えない懐かしい気持ちにさせた。

 冬になる頃には、私の食欲はほぼ元に戻り、高校の授業終わりには、クラスの友だち数人とドーナツ屋さんなどに寄り道するようになった。


 夕方の空は重たそうな鉛色をしていたが、駅前の商店街はイルミネ―ションで色鮮やかに飾られ、キラキラと明るく輝いていた。街中に流れるジングルベルの音楽を耳にしながら、放課後みんなでいつものように寄り道をした。

 商店街の中心部にある6階建てのデパートまで来ると、ビルのエントランス広場に移動販売のクレープ屋が出ていた。

 友だちの一人が足を止めて、「美味しそう。食べる?」と言ったので、みんなで「賛成、食べよう」と言いながら、キッチンカーに近づいて行った。

 カスタードクリームのクレープや、チョコバナナクレープ、ブルーベリーソースのクレープなどをそれぞれ頼んだ。

お店のお姉さんが、丸い鉄板に生地を流し入れ、竹とんぼのような道具で素早くクルクルと回し広げていく様子を、みんなで眺めて待つ。湯気が立つとともに、バターとクレープ生地の甘い香りが、一気に広がった。

 その香りは、翔の声と顔を私の記憶の奥底から呼び起こした。

「一口ちょうだい」と言った翔が、私の食べていたクレープを食べてえくぼを浮かべて「うめぇ」と笑っていたあの日の思い出がパッと脳裏に広がった。

 翔……! 会いたいよ、翔……。

 また一緒にクレープが食べたい。

 またあんなふうに私に笑って。

 私は、突然動悸がして息苦しくなった。まるで息の仕方を忘れてしまったかのようだった。胸を押さえながら近くにあったベンチに座り込んだ私を見て、一緒にいた友だちが「どうしたの優? 大丈夫」と訊いた。

「うん、ちょっと気分が……」と私は答えながら、(落ち着いて、落ち着いて)、と心の中で自分に言い聞かせて、心理療法で教わったとおりゆっくりと息を吸った。

 ―大丈夫、ちゃんと呼吸できる―

 深呼吸をしばらくしたら、すぐに気分は落ち着いた。

「しばらく座ってて」と、みんなが私に言って、それから、出来上がったクレープを持ってきてくれた。

「ありがとう。ごめんね。もう全然大丈夫だよ」と言って、クレープを一口齧った。

 口の中いっぱいに、甘い香りが広がった。さっきまで息が出来なくなりそうで怖くて不安だった心が、ホッと和らいだ。クレープは温かくて、しっとりもちもちとした生地は端がカリッとしていて、とても美味しかった。


 私は、クリニックで約10回にわたる認知行動療法を受けた。

 悲しい気持ちの時に自分に起きていることを、客観的に見られるよう図に書いて整理したり、失った人と想像上の会話を試みたりした。その過程を経たあとは、「個人的目標」を見い出すことに取り組んだ。簡単で身近な目標から立てて一つずつ達成して行き、やがて、人生の目標にまでそれは到達した。

 私は、クリニックの先生と心理士さんの力を借りて、気づいた頃には、絶望の淵から立ち上がって、前を向き始めていた。翔が亡くなってしまったことを知ってから、ほぼ1年が経とうとしており、ここまでくるのにそれだけの時間がかかった。

 クリスマスには家族でケーキを食べ、雪の降る寒い日には温かい鍋を囲んだ。私がご飯をおかわりすると、父も母もとても喜んだ。長い間、ずいぶん両親に心配をかけてきてしまったことに、私は胸を痛めた。

 そして私の認知行動療法は終了し、クリニックには1か月に1度通って薬を出してもらうのみとなった。


 梅の花の香りと、太陽に暖められた土の湿った匂いがしてきた。雪解け水で濡れた土は、夏や秋の湿った土とは違う、新鮮な匂いがした。寒さはすっかり緩み、日陰に残された雪は、黒ずんでじわじわと消えていくのを待っているようだった。

 私は高校3年生になって、大学入学のため、受験勉強を本格的に始めた。

 夏休みには、学校で毎日、希望者のみで補習が行われた。

 私は、補習でいつも顔を合わせていた同じクラスの、鈴木奈緒とすごく仲良くなった。

 奈緒は、どちらかというとサバサバしていて、低く落ち着いた声をしていたので、みんなから年上のように思われていた。彼女は一見とっつきにくそうな雰囲気だったが、仲良くなってみると、ものすごくおしゃべりで面白い子だった。

 補習が終わると、いつも帰り道で奈緒と長時間おしゃべりをして、止まらなくなった。


 冬休みになると、奈緒の家に泊まりに行って、一緒に炬燵に入って夜遅くまで勉強し、そのまま2人で炬燵で眠った。

朝起きると、奈緒のお母さんが部屋にやってきて、「あらあら、炬燵で寝たの? 2人とも風邪ひくでしょう、もう」と叱った。

 奈緒には7才上のお兄さんがいるらしいが、就職し独立して1人暮らしをしているらしい。お父さんはおらず、奈緒とお母さんの2人暮らしだった。お父さんは、奈緒が10歳の時に、病気で亡くなったそうだ。

 奈緒がお父さんの話を、夜中にポツリポツリと語ってくれた。

 私も奈緒に、翔の話をした。友だちに翔の話をしたのは、それが初めてだった。

「私も家族もお父さんが突然亡くなっちゃって、しばらくは辛かったし苦しかったから、優の苦しみも多少は分かると思う」と、奈緒が言った。

「ありがとう、奈緒」

「ううん。今こうして、生きようって思えるようになって……、本当に、本当に良かったね」と、奈緒は言った。

 私はそれを聞いて、泣きそうになったが、ぐっと堪えた。

「うん……、ありがとね」と答えた私の声が震えているのに気付いて、奈緒は黙って炬燵に深く潜った。

「炬燵で寝るのって、幸せだよね~」と、奈緒がしみじみと言った。

 そんなふうに、何度か奈緒の家で、一緒に励まし合いながら勉強した。


 その後、1月のセンター試験の日がやってきて、それが終わると2月下旬に大学で2次試験が行われた。

 そして、無我夢中で臨んだ試験を終え、私も奈緒も、無事志望大学に合格した。

 私は新潟市にある国立大学の人文学部に合格し、奈緒は同じ新潟市にある私立大学の福祉心理学部に合格した。私は大学で、西洋言語文化を学んでみたいと思っていた。それは、アメリカ生まれの翔の影響も少なからずあったのかもしれない。

 高校の卒業式を終え、3月下旬に、私は実家を出て新潟市で一人暮らしを始めることになった。奈緒も同じ新潟市に行くので、全く心細くなかった。

 実家は決して居心地が悪いわけではなかったけれど、両親から離れて初めて1人暮らしができるんだということに私は心を躍らせていた。私は1人っ子だったこともあって、親にとても大事にされてきたが、それがありがたくもあり、窮屈でもあった。

 そんな環境から離れ、これからは羽を伸ばして自由になれそうだと、解放感を抱いていた。


 私は大学近くの学生向けのアパートを借りた。家賃が比較的安く、すぐ隣にはコインランドリーや小さなスーパーがあるのが決め手だった。

 奈緒は、新潟市の町中にある広い1軒家にお兄さんと2人で暮らすことになった。

 その家は、奈緒のおじいさんとおばあさんが昔旅館をやっていた建物だった。おじいさんが他界した際に旅館は廃業し、おばあさんも今では施設暮らしになっているそうだ。空き家にしておくのも物騒だしアパートを借りるよりも安上がりでしょ、と奈緒のお母さんが言って、奈緒たちはそこに住むことにしたそうだ。

 奈緒に、「そこさ、旅館だったから割と広い部屋が4つあって、まだ2部屋余ってるから、優も一緒に暮らそうよ」と誘ってもらったが、私の大学は市の中心部からバスで小1時間かかる距離にあり、通うのに大変そうだったのと、会ったことのない奈緒のお兄さんに遠慮したこともあって、残念ながらそれは実現しなかった。

「じゃあさ、お互いの家に泊まり合おうね」と奈緒が言った。

「うん。そうしよう。楽しみだね」と私も言った。

 私は、4月からの新しい大学生活に期待で胸を膨らませた。

 

 そうして、実家を出て1人暮らしのアパートへ引っ越す日が来た。その日は、父の車に乗せてもらって、新潟に向かうことになった。   私は、自分の持ち物を車の後部座席とトランクに積み込み、出発の時間より少し早く家の外に出た。


 上越市で過ごしたのは、高校1年生の夏から2年半という短い期間だったが、いろんな思い出が残っていた。ここは、今まで生きてきたなかで1番の苦しみを味わい喪失感とともに過ごした場所だった。そして、大切な友だちと過ごす喜びを得た場所でもあった。


 家の周りの田んぼの雪はすっかり消えて、畦道には小さな草花が芽吹きを見せ始めていた。

 道路のアスファルトに出来た雪解けの水たまりには、青い空が映し出されていた。

 太陽の光が、家の軒先に立てかけられたスノーダンプやスコップに当たり、キラキラと反射して眩しかった。

 美しく暖かな春の訪れだ。

 

 

 アパートに引っ越しの荷物を運び終えて、両親が上越に帰って行くのを見送ると、もう陽が暮れていた。アパートの廊下の電灯がパッと点灯したが、階段の電灯だけが切れかかっていてチカチカと点滅しており、そこだけ薄暗かった。

 初めての1人の夕飯は、買ったばかりの鍋で湯を沸かして作ったレトルトのミートソーススパゲティーだった。

「うん、美味しい」と独り言を言いながら、小さなテレビで夜のニュースを観た。いつも実家で家族とこの時間に観ていた番組で、つい習慣でつけていた。

 トイレとお風呂が一緒になった狭いユニットバスでシャワーを浴びて部屋に戻ると、妙に部屋がガランとして見えて自分がひとりぼっちであることを改めて感じて寂しくなった。その寂しさを紛らわせようと私は、(どんな時間にお風呂に入ってもこれからは誰にも怒られないんだ)と楽しい気持ちに切り替えようとした。

 白い壁と畳敷きのこの部屋にあるのは、テレビとローテーブルとキャビネットの間に合わせでそろえた家具だけで、夜は窓際に布団を敷いて寝た。

 布団に入ってテレビを消すと静寂が訪れた。時折、キッチンの蛇口からポチャンと水滴の落ちる音が響いて、そのたびに私はビクッとした。



 4月1日、目覚めると、窓の外は暗く、分厚い雲に覆われた空から雨が降りしきっていた。

 今日は、大学のオリエンテーションの日だった。

 せっかくの大学スタートの日なのに、と私は少し憂鬱な気分でアパートを出た。外に出ると、冷たい雨と風が肌を刺し、私は肩をすくめて歩き出した。

 オリエンテーションは、学部棟で行われ、授業の選択の仕方などの説明を受けることになっていた。

 学部棟に着くと、建物の中は雨のせいで暗く湿っていたが、多くの新入生たちが入り口にも廊下にもごった返していて、騒々しい熱気に包まれていた。

 会場である大講義室は、午前中にも関わらず蛍光灯が煌々とついていて、大きな窓の外はどんよりと暗く、まるで夜のようだった。部屋には、4月だというのに暖房が入っていた。

 オリエンテーションには200人ほどの新入生が参加し、みんな緊張の面持ちで説明を聞いていた。じっと座っていると、足元から底冷えする寒さで、私は手に息を吹きかけたり腿の下に手を差し込んだりして、指先を温めていた。


 説明を聞いている最中、隣に座っていた人の傘がパタンという音を立てて私の足元に倒れてきたので、私はそれを拾い起こした。隣には可愛らしい顔立ちをした優しそうな雰囲気の女子が座っていた。

 拾った傘を彼女に渡すと、「ありがとうございます」とお礼を言われた。

「英文科の方ですか?」と、その人に小さな声で話しかけられた。

「そうです。英文科の方、ですか?」と私も訊き返した。

「はい。そうです。桜木梨子です。よろしくお願いします」とその人は言った。

「はじめまして。こちらこそよろしくお願いします。五十嵐優です」と、私も挨拶を返した。

「よかった……、誰も知ってる人がいなくて、心細かったんです」と彼女が言った。

「私もです。周りは結構知り合い同士みたいで、もうグループが出来ていて……。だから、誰に話しかけていいのかも分からずに心細かったんです」と私が言うと、

「そうそう。私も同じこと思ってました。良かったぁ。それにしても、すごく寒いですね」と梨子がヒソヒソと小さな声で言った。

「ほんとに。こんなに寒いって思わなくて……。冬のコートしまっちゃったのに」と私もヒソヒソ声で返した。


 オリエンテーションが終わると、梨子が「良かったら学食に寄って行きませんか」と言った。

「良いですね。行きましょう。授業、何取ればいいのかさっぱり分からないから相談させてほしいです」と私は言った。

「私も。じゃあ、学食でお昼食べながら相談しましょ」と、梨子が嬉しそうに笑って言った。

 一般教養科目は何を選択するのか、第2外国語は何を選ぶのか、数多の選択肢の中から自分で全て決めなければいけないので頭がパンクしそうだったが、同じ学部の人と相談しながら決められるのは、とても心強かった。

 梨子は、おっとりとした育ちの良さそうな雰囲気の女子で、目尻の下がった優しそうな目元と丸みを帯びた顔に、パーマのかかったあごの長さの髪型がよく似合っていた。

 私たちは、会話のテンポや醸し出す雰囲気が一緒な気がしたし、洋服の好みも似ていて、すごく似た者同士なんだろうな、と感じた。

 私と梨子は初対面の日に、あっという間に仲良くなった。そんなことは私は今まで1度もなかった。


 それから、数日後に入学式があり、本格的に大学生活が始まった。

 私と梨子は、どこかサークルに入ろうという話になった時に、二人とも大学の管弦楽団に興味を持ち、一緒に見学に行ったあと、2人で入部した。

 私も梨子も、ピアノが少し弾けたし、楽器を奏でることに憧れを持っていた。


 大学の管弦楽団にはいろんな人たちがいて、大学院生もいれば、留年してもはや大学何年生かもわからなくなっている先輩もいた。別のキャンパスの医学部生もいたし、薬科大学や県立大学などの別の学校の人も所属していて、ものすごい大所帯だった。

 私も梨子も、あまり悩むことなく、楽器はバイオリンを選んだ。


 普段は、キャンパスの端のほうにある、木造の掘っ建て小屋みたいな部室に自由に集まって、自主練習をしたり雑談をしたりして過ごしていて、週に何度かは、夕方から学生会館に集まって演奏した。授業がない日は、部室に行けば午前中でも誰かしらがいて、練習をしたり暇つぶしをしたりしていた。

 夕方の練習後は、2、3年の先輩たちと、大学近くのお店に食事に出かけた。

 先輩たちは安くて盛りの良いお店をいっぱい知っていて、あちこち連れて行ってくれたし、大学の食堂で晩御飯を食べることもよくあった。

 食事にはいつも10人くらいのメンバーで出かけ、自然とその人たちと仲良くなった。

 1年生のバイオリンは14人いて、男女半々くらいの割合だった。男子は、医学部、理学部、工学部などが多く、女子は、農学部、看護科、薬科大……、と様々な所に所属していた。キャラクターもバラエティーに富んでいて、控えめでおとなしい人、のんびり大らかな人、天然キャラ、神経質そうな人、不思議キャラ、かまってちゃんな人もいた。大人っぽくて綺麗な女子もいた。


 週末の夜や休日の昼など週に2回は、いつものキャンパスから10数キロメートル離れた医学部のあるキャンパスに全部員が集まり、医学部の建物の広いホールで演奏をした。普段会うことの少ない医学部の先輩たちともそこで顔を合わせた。

 入部したばかりの我々1年生は、最初は先輩たちの演奏する様子を見学して過ごしていた。

 演奏後に楽器を片付けた後は、ホールで集会が行われ、今後の活動予定の発表があったり、各楽器ごとの練習スケジュールや連絡事項が伝えられたりした。

 5月の連休後にあった集会の後に、新入部員の歓迎会があって、全員で居酒屋に出かけた。

 医学部の近くの繁華街にある居酒屋で、新入部員歓迎会が催された。

 出身地も年齢もバラバラな学生たち100人近くが、大広間に集まり飲んで騒いだ。


 途中から、飲み過ぎたのだろう。新入生の女子学生の1人が管を巻き始めた。薬科大学に通うバイオリンの昌子ちゃんという子だった。

 昌子ちゃんは、「私なんて。うっ、うっ……。全然っ、バイオリン弾けなくて、みんなの足、引っ張ってる、から。もうやめたほうが、いいんだ」と言い、泣いていた。

 1年の男子2人が、昌子ちゃんの肩を両方から支えながら「そんなこと全然ないって」となだめていた。

「私、全然可愛くないし、みんなにもっ、……っ、避けられてる、気がする……」と、さらに昌子ちゃんは続けた。

 私は思わず、昌子ちゃんを優しい言葉で慰めそうになったが、やめた。もう昔みたいに、自分の気持ちと違うことは言いたくなかった。

「そんな、避けてなんかないから」と、周りのメンバーたちが一生懸命慰めた。

「あのさ……昌子ちゃん。自分のこと可愛くないとか言うの、やめた方がいいと思うよ。誰もそんなこと思ってないし、みんなが避けてるなんて、昌子ちゃんの思い込みだし。そんなこと言ってないで、練習がんばったらいいでしょ」と、私は言った。

 その言い方がきつかったのか、さらに昌子ちゃんを傷つけてしまったようで、彼女はさらに泣き始めた。


「五十嵐の言うとおりだよ」

 そう言って、私たちの輪の中にコンマスの黒崎友二さんが入ってきた。

 黒崎さんは第1バイオリンの首席奏者で、医学部の3年生だ。浪人や留年を繰り返していて、ほかの3年生よりいくつ年上なのか正確にはわからなかったが、かなり大人に見えた。

 彼は、きりっとした切れ長の目元が一見怖い印象を与えていたが、話してみるとすごくフランクで面白い人だった。黒縁の眼鏡がトレードマークで、浅黒い肌によく似合っていた。

 黒崎さんは、しょっちゅう医学部から遠く離れたキャンパスの部室にも顔を出していて、私もよく晩御飯に一緒に行くので、「五十嵐」とすでに呼び捨てにされていた。

「ごめんね、聞こえちゃった。俺、泣いてる女の子は放っておけない主義なんで」と、黒崎さんが言った。

「昌子ちゃんさ。ここにいる1年のみんなは、昌子ちゃんの仲間だよ。昌子ちゃんのことを避けたりなんてしないし、足を引っ張られてるなんて考えるやつもいないから」

 そう言って、黒崎さんは昌子ちゃんの顔をのぞきこみながら、頭を優しく撫でた。

「……うっ、うっ……。は、い」

「1年生なんて、みんなうまく弾けないのが当たり前なの。中には経験者もいて、上手なやつもいるけど、そんなのほんの一握りでさ。あとは慣れない楽譜と格闘しながら、みんな時間を見つけて練習してるよ」

「……ひっく。……はい」

「ほら、もう泣いてないで、笑顔見せて」

 そう言って、黒崎さんは、昌子ちゃんの頭をさらにくしゃくしゃ、としてから「ほら。お酒飲みすぎだからお水飲もうか。血中のアルコール濃度が高くなりすぎてますよ」と、お医者さんみたいに言った。

 昌子ちゃんが思わず笑顔をこぼした。

 黒崎さんは、そのまま昌子ちゃんの背中をさすりながら、少し離れた所に座らせて、お水の入ったグラスを渡していた。


「さすがだね、黒崎さん」と梨子が言った。

「うん。女の扱い、慣れすぎてる……」と一緒にいた男子も言った。

「だよな。恐るべし、黒崎さん」と別の男子も言った。私はそれを黙って聞いていた。

「ん? どうしたの、優」と梨子が言った。

「……私、さっき昌子ちゃんにきつく言いすぎちゃった」と私は言った。

「そんなことないって。慰めるだけじゃ昌子ちゃんのためにもならないし、ちょっとかまってちゃんすぎるよ昌子ちゃん」と、梨子がプンプン怒りながら言った。

「でも、私の言い方のせいで、すごく泣いちゃってたし……」と私は言い、落ち込んでしまった。

「優は悪くないって。むしろ、よく言ったよ」と、梨子が言った。

 そこへ、「ありがとな、みんな」と、黒崎さんが戻ってきて言った。

「あ、いえ。そんな。黒崎さんこそ、ありがとうございました」と、梨子が言った。

「いやいや。みんながいい子でよかったよ、ほんとに。彼女のこと俺も気にかけていくけど、みんなもよろしくね」

「はい」と、私たちは揃って返事をした。

「五十嵐、どうしたの? 元気ないみたいだけど。さっきのこともしかして気にしてる?」と黒崎さんが言った。

「そうなんです、優が昌子ちゃんに言いすぎたって落ち込んでて」と梨子が言った。

「なーんだよ、そんなの気にすんなよ。ほら、俺のふっさふさの胸毛見せてやるから元気だせ」と言って、黒崎さんがおもむろに自分のスウェットを捲り上げてきた。

「ギャ。いやいや~いらないです」と、私が拒否すると、「なんだよ、俺がせっかく……」と黒崎さんはブツブツ言った。

「変態ですか、もう」と私が怒って言うと、

「そうだよ。ありがとう」と黒崎さんがニッと笑って言った。その場にいた男子二人が、ぷっと吹き出した。

「褒めてないんですけど……」と、私は困った顔で言った。

「五十嵐は、別に言いすぎてなんかないよ。優しい言葉かけるだけが優しさじゃないだろ。優しい言葉かけるのは、このお兄さんに任せとけばいいの」と、黒崎さんは言った。

「お兄さん?……。あ、いえ……」

「コラ、おまえ、今俺の事おっさんって言おうとしたな」

「そんなこと……」と言いかけて私は吹きだしてしまい、その場にいたみんなも笑った。

「おまえらー。覚えとけよ~」

 そう言って、黒崎さんは、ほかのみんなの集まっている場所に戻って行った。


 そんなふうにふざけていた黒崎さんは、次の週に行われた弦パートの練習では、コンマスらしく弦のみんなの演奏を指揮していた。

 さらに、黒崎さんは、1年生だけを集めて、夏の合宿で発表する1年の合同演奏の練習の指導にもあたった。合同演奏の曲目は、シューベルトの交響曲第8番ロ短調「未完成」だった。第1楽章と第2楽章しかない未完のこの曲は、1年生が演奏するのに丁度よかったのかもしれない。

 黒崎さんが、威厳に満ちた様子で指揮台の上でタクトを振っていた。いつものふざけている様子とは別人みたいで、そんな彼のギャップに私は強く惹かれた。

「かっこいいね……黒崎さん」と、隣で見ていた梨子も、黒崎さんを見つめながら私に呟いた。


 練習が終わって、アパートに帰るときに、梨子と二人で話しながら歩いた。

「梨子、もしかして黒崎さんのこと、好き、なの?」と私は訊いた。

「え、うん。多分。いや、どうかな。ただの憧れなのかな」と、梨子は自信なさげに言った。

「そうなんだ……。私もさ、実は黒崎さんのこと、いいなぁって憧れてて」

「やっぱり? そうだよねぇ。優もそうなんじゃないかな、って思ってたんだ」と、梨子は言った。

「好きなタイプまで似てるなんてね。私たち、どこまで気が合うのやら」と、私は言った。

「そうだよね。じゃあ、これからお互い隠し事はなし。遠慮もなしだよ」と梨子が言った。

「わかった」

 私たちは、黒崎さんに片思いする者同士、そんなふうに約束を交わした。


 その週の日曜日、私は大学入学以来はじめて奈緒と会った。

「ひさしぶり~、奈緒」

「優~。元気だった? ちょっと服装大人っぽくなったね」

「そっかな。奈緒こそ」

 そんな会話を交わしながら、2人で街の喫茶店に入った。私はポットで出された紅茶を飲み、奈緒はブラックのホットコーヒーを飲んでいた。2人がともに頼んだニューヨークチーズケーキは、きめ細かなしっとりとした生地で、濃厚なチーズの味わいだった。それをゆっくりと味わいながら、お互いの近況を語り合った。

「全然話し足りないし、これからうち来ない? よかったら泊まってって」と、奈緒が言った。

「えー、急に良いの?」

「もちろん! ゆっくり話したいよ、私」と奈緒が言った。

 そんなわけで、私は初めて奈緒の暮らす家にお邪魔することになった。


 奈緒の家は、中心繁華街から少し離れてはいるものの、バスに乗って5分ほどの場所で、歩いても行ける距離にあった。

 市場が立ち並ぶ商店街の先に、大きな建物が見えた。黒い瓦屋根は色褪せており、薄い茶色のモルタル塗りの外壁には所どころ小さな亀裂が入っている。それは、古ぼけているというよりは静かに時を重ねてきたといった風情だった。

 玄関は、間口がとても広く、木製の細かい縦格子の引き戸だった。玄関の壁には、長年掛かっていた旅館の看板が外された所が跡になっていた。引き戸を開けると、からからから、と小気味良い音がなった。

 玄関の向こうには長い廊下があり、深い緑色の絨毯が敷かれた階段が見えた。少し薄暗い廊下の奥の方に洗面所とお風呂があった。1度に4人くらい並べそうな大きな洗面台は古い水色のモザイクタイルが使われており、お風呂は石造りのもので、レトロな雰囲気を醸し出していた。

「わぁ……、素敵だね」と、私は、思わず感嘆の声をもらした。

「ありがとう。古いけど懐かしさがあって、私も結構気に入ってるんだ」

「いいね……。あ、今日お兄さんは?」

「アニキは仕事。夜8時頃まで帰ってこないと思う。あ、そうだ、うちのアニキも、優と同じ大学の管弦楽団にいたんだよ」

「えっ! そうなの?」

「うん。帰ってきたら、アニキと話してみなよ。いっぱいオーケストラの話教えてくれると思うよ」

「うん、楽しみ」と私は言ったが、初めて奈緒のお兄さんに会うことに緊張していた。

 私と奈緒は日が暮れるまで、縁側に腰かけて語り合った。

「そろそろ晩ご飯作るけど、何食べたい?」と奈緒が訊いた。

「え、奈緒が作ってくれるの? 何でもいい! うれしい」

「今日はアニキの分も作ってあげることになってたから。と言っても簡単なものしか作んないけどね」

「へぇ~。すごい、奈緒……。私なんて、外食ばっかりだよ」

 

 そんな他愛もない話をしながら、2人でオムライスの準備をしていたら、奈緒のお兄さんが予想より少し早めの時間に帰ってきた。

「あ。アニキもう帰ってきた」と、奈緒が言った。

 私は、緊張しながら、奈緒と玄関に向かった。

「お邪魔してます。はじめまして、五十嵐優と申します」とお兄さんに挨拶をして、顔を上げると、なんとそこに立っていたのは、以前お世話になった心理士さんだった。

「あっ、えっ? 五十嵐さん?」

「えぇっ? 鈴木先生? 奈緒のお兄さんって、鈴木先生、だったんですか!」

「え~、奈緒のお友だちだったの五十嵐さん。ていうか、俺、先生じゃないからね。心理士だもん」

「でも、私にとっては、お医者さんも心理士さんも、『先生』ですから」

「え! なになに、2人知り合いだったの?」と、奈緒がびっくりして言った。

「うん。高校の時、心療内科に通ってた時にお世話になった心理士さんが、鈴木先生で……」

「そっか~。そうだったんだ」

「あ、でも、先生はどうして新潟にいらっしゃるんですか?」と、私は訊いた。

 鈴木先生は、上越のあのクリニックで働いていたのに……。

「あぁ。あのあと、あそこのカウンセラーも増えてきたし、俺は母校の教授に新潟に呼ばれたこともあって。お世話になった病院を出て、こっちに来て学校カウンセラーの仕事をしたり、児童相談所で相談を担当したり、病院のデイケアセンターに行ったりしてるんだよ。こっちに来てから、前よりも仕事の幅が随分広がって、すごく勉強になってるよ」

「そうだったんですね。お忙しそうですね」

「いやぁ、そんなことないよ。それにしても、こうやって五十嵐さんにまた会えるなんて思わなかったから、すごく嬉しいよ、俺」

「私もです」

「ちょいちょい、アニキ。私の友だち口説かないでよ~」と、奈緒が言った。

「こら。何言ってんだ、口説いてないから」

「それなら良いけど、アニキ距離感いつもおかしいからなぁ」

「そんなことないだろ~、なんだよ。ごめんね五十嵐さん、コイツ変わってるから付き合うの大変でしょ」

「いえいえ。すごく優しくて頼りになる友だちです」と私は答えた。

 それを聞いて、鈴木先生はすごく嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとね。おい、奈緒、良かったなぁ。良いお友だちを持って」

 なんだか、鈴木先生のイメージがちょっと変わった気がして、私は先生の顔をポカンとして見つめた。

「ん? どうかした? 五十嵐さん」と、先生が言った。

「あっ、いえ。先生ってよくしゃべる人だったんだ、って思って。なんだか私の知ってる先生と雰囲気が違って意外でした」

「ふふ。アニキ面白いでしょ?」と、奈緒が言った。

「面白くないわ~別に。そりゃ、心理士として働いてるときは、ふざけたり気を抜いたりできないからね。でも、普段はこんな感じだよ」と先生が恥ずかしそうに笑って言った。


「あ、そういえば、先生も管弦楽団に入ってたんですか?」と私は訊いた。

「うん。そうだよ。え? 五十嵐さんも入ってるの?」

「はい。バイオリンをやってます」

「そうなの? 俺もバイオリンだったんだよ。え~、じゃあ今度会えるね」

「え?」

「今度のオーケストラの親睦会、OBも呼ばれてるんだよ。指揮者の先生も呼ばれてるでしょ?」

「そうでしたか。知らなかったです」

「今は黒崎がコンマスだよね?」と先生が言った。

「はい。そうです。知ってるんですか、先生」

「もちろん。同じバイオリンだったから、よく一緒に飲んだり出かけたりしたなぁ。久々に会えるの楽しみだよ」

「黒崎さんって、どんな後輩でしたか?」と、私は訊いた。私が、あまりに根掘り葉掘り黒崎さんのことを訊くので、鈴木先生が、「ねぇ……。もしかして、五十嵐さん黒崎のこと、好きなの?」と言った。

「そんなっ。ち、違います。ただ、すごく尊敬してるだけで……」と私は慌てて答えた。

「あいつは手強いよ~。とにかくモテまくってるから。バイオリンの腕は一流だし、すごく優しいから、女の子たちみんな、骨抜きにされるんだよ」

「アニキ、『骨抜き』って……。表現がおっさん~」

「うっせー。あ、失礼。……とにかく、五十嵐さん、黒崎にあんまりいれあげちゃダメだよ」

「ちょっと、アニキ、それは余計なお世話だわ。……と、言いたいところだけど、私もなんか心配になってきた。優、あんまり男の人に免疫ないんだから、そんなハードル高い男の人やめときな」と、奈緒が言った。

「うん……、そうだね。でも、本当に、黒崎さんはただの憧れの先輩だから」と私は答えた。

「そっか、そっか」と奈緒が笑顔になって言った。

「ところで奈緒。おまえは男に免疫ある風な口ぶりだったけど? まさか、彼氏いんの?」と、鈴木先生が言った。

「いない、いない、そんなの。でも、日々あらゆるジャンルの漫画でオトコについて学習はしてるから、少なくとも優よりは詳しいはず」

「ぶはは。おまえって……、やっぱ変わってんなぁ」と、鈴木先生が吹き出した。

 私も、一緒に笑った。

「ひどいなー、2人とも」と、奈緒が頬を膨らませて怒っていた。

 その日は、親友とゆっくり会えたし、さらに意外な人と思いがけず再会して、とてもうれしい1日となった。

 翌朝、1階にある広い台所で、3人で一緒に朝ごはんを食べて、奈緒の家のあまりの居心地の良さに、「私もここに住みたくなってきたよ」と思わず言った。

「ぜひぜひ。大歓迎だよ。部屋はまだ余ってるから、いつでも越しておいでよ」と、鈴木先生は冗談とも本気とも取れるような口ぶりで言った。

「絶対、ここに住んだら楽しいって、優。今のアパート解約してここにおいでよ」と、奈緒はかなり熱のこもった口ぶりで言った。それも楽しいかもしれないな、と思いながら私は奈緒の家をあとにした。


 雲1つない快晴の天気がしばらく続き日中は汗ばむ陽気となってきた。キャンパスには青々とした松の木が生い茂っていて森林の中にいるような匂いがした。オーケストラでは、1年生の私たちも練習が本格的になってきた。

 部活とは別に、みんな個人的に町のバイオリン教室にも通い、基本的なレッスンを積んだ。バスに乗って少し離れたバイオリン教室に通うのも月謝を払うのも、正直楽ではなかったけれど、早く上手く弾けるようになりたかったので頑張れた。そのほか、1年生1人ずつに2年の先輩1人が担当についてくれて、日時を合わせて部室で教えてくれた。私の担当は、丸山さんという男の先輩だった。丸山先輩は、明るく優しい人で、教え方も丁寧だった。

 彼は、関西出身で誰とでも仲良く話せるコミュニケーション能力の高い人で、明るくノリも良いので、バイオリンのメンバーの中でムードメーカー的な存在だった。向日葵みたいに明るい丸山先輩のことを嫌いな人は、誰もいないんじゃないかと思われた。丸山先輩が私の担当になって、梨子やほかの1年生に羨ましがられた。


 5月半ばの平日の昼下がり、私は、丸山先輩との待ち合わせ時間より早く部室に行き、1人で練習をしていた。

「そこ、走らないで。気を付けて正確なリズムで弾いてごらん」

 そう言われてキョロキョロと辺りを見渡すと、部室の窓のすぐ外に黒崎さんが立っていて、顔を近づけてきた。

「黒崎、さん。こ、こんにちは」

「頑張っててえらいぞ~五十嵐。どれ、オジサンが教えてあげようかね」と、言って、黒崎さんは部室の中に入ってきた。

「ほい、さっきのとこもう1回弾いてみ」と言われ、未完成第1楽章終盤の、速いリズムで細かく刻みながらクライマックスへと向かう箇所を弾いた。細かい音の動きをクレッシェンドで表現しなければいけないので、1番苦手な部分だった。緊張で汗ばんだ指でバイオリンの盤を押さえ弓を動かした。

「あぁ、ほら、また走ってる」と黒崎さんが言った。

「はい。すみません」

「弓持つ右の肩に、力入りすぎだよ。もっと力抜いて、弓動かしてみ」

 そう言って、黒崎さんに肩を触られて、弓を持つ腕を持たれて動かされた。

 黒崎さんに触れられている部分に、意識が全部持っていかれ、私は何も考えられなかった。全身から汗が一気に吹き出してきた。

―緊張するけどでもうれしい。こんな贅沢な時間ずっと終わらないでほしい。―

 そんなふうに思っていた。


 しばらくすると、丸山先輩が「ちわーっす」と明るい声で言いながら部室にやってきて、私はちょっとがっかりした。まぁ、いつまでも黒崎さんのことを私が独り占めできるわけないのだけれど。

 丸山先輩が、「黒崎さんすみませんっ。俺が担当やのに」と恐縮して言った。

「いいのいいの、若い子構いたかっただけだからオジサン」と、黒崎さんはニヤニヤして言った。

「セクハラはあかんですからね、黒崎さん」と、丸山先輩が言った。

「わかっとるわ。そんな怖い顔で言うなー」と黒崎さんは言って、じゃあまたな~と、どこかに消えていった。

「よかったな五十嵐。黒崎さんにマンツーで教えてもらえたなんてラッキーやな」と、丸山先輩に言われた。

 私が「はい!」と元気に嬉しそうに言うと、「めっちゃ素直に喜ぶなぁオマエ」と丸山先輩に笑われた。


 その数日後、管弦楽団の親睦会が開かれた。

 私ともう1人の1年生の男子は、OB生の接待担当に任命されていたので、鈴木先生たちを出迎え、席に案内して、一緒に食事したりお酌をしたりした。

 私は、みんなの前では、先生のことを「鈴木さん」と呼ぶようにした。

 鈴木先生は、周りにいたOB仲間に、「俺の妹の親友なんだよ」と私を紹介してくれた。

 ほかのOBの先輩たちは男性がほとんどで、みんな落ち着いていて穏やかな優しい人ばかりで、さすが大人だな、と思った。OBの先輩たちは、オケの中で誰と誰が付き合っていたとか、そういう情報を教えてくれた。

 なかでも、黒崎さんのモテっぷりは昔から凄まじかったらしく、何人も彼女と思われる女の人の名前が挙がった。

「優ちゃん、あいつには惚れない方がいいよ」と、鈴木先生が言った。

 ごく自然に、先生に「優ちゃん」呼びされて、私はちょっとドキッとしながら、「はい」と答えた。


 そんなふうに鈴木先生に忠告されたにも関わらず、私はどんどん黒崎さんが気になっていき、練習の時も、指揮台でタクトを振る彼をドキドキしながら見つめていた。

 それは、梨子も同じようで、練習が終わった帰り道はいつも2人で、黒崎さんのかっこよかったしぐさなどを語り合った。

「今日も、タクトを振る腕の血管がやばかったね」と私が言うと、

「譜面を確かめる時にずれた眼鏡を人差し指で直すしぐさが、キュンってするよね」と梨子も言った。


 それから夏休みがやってきて、4日間にわたる管弦学団の夏合宿が、長野県の志賀高原で行われた。

 この合宿は、12月にある定期演奏会に向けての集中練習が主な目的で、今年の演奏会の演目は、ドヴォルザーグの「新世界」と、ブラームスの「交響曲第1番」だった。

 合宿には、仕事の休みが合ったOB生も自分の車でやってきて、一緒に楽器を演奏したり、夜は一緒に飲んだりした。

 鈴木先生も2日目に合宿所に顔を出しに来た。

 その日の夜の宴会は、OBの人たちも加わって、とても賑やかになった。

 私と梨子は、黒崎さんのそばに行って飲みたかったけれど、黒崎さんは遠く離れた席で先輩たちと楽しく盛り上がっていて近づけなかった。

「しょうがないよね。黒崎さん、みんなに人気だもんね」と、梨子が言った。

「だね。やっぱり遠い存在の人なんだな、って思っちゃうね」と私も言って、周りの1年生のメンバーたちと飲んでいた。

 宴会が後半にさしかかる頃、仁一さんの方を見ると、周りの人たちは酔いがまわって眠ってしまったり部屋に戻ってしまったようで、仁一さんは暇そうにしていた。

 私は、フラフラと立ち上がって、彼の元にお酒を注ぎに行った。

「じーんさん。飲んでますか?」と私は話しかけた。

「あぁ、優ちゃん。寂しいオッサンの相手してくれるなんて優しいねぇ」と、仁一さんがふざけて言った。

「私も寂しかったので、お互い様ですよ」と私は言った。

「あぁ……、黒崎ね」と仁一さんが遠くにいる黒崎さんに目を向けて言った。

「それに、仁さんはオッサンなんかじゃないです。私の恩人ですから」

「え~? 恩人、なの? そんなこと全然ないんだよ、あのころなんて右も左も分かってない、超新人の心理士だったからね」

「そんなこと、ないです! じん、さんは、すごい……、ヒッ。……人なんですよぉ」と、私はしゃっくりが出て、呂律も怪しくそう訴えた。

「わ~、もう酔っぱらってるわ優ちゃん。もう部屋に戻って寝な」と仁一さんが言った。

「やです~。戻りません~。これから、じん先生のカウンセリング、受けるんです」

「何言ってんだよ、もう。ハイハイ、ほらとりあえずお水飲んで」

「はい。で~、センセー。全然自分のことを相手にしてくれない男性に、どうしたら振り向いてもらえるでしょうか?」

「もう、優ちゃん。あいつはやめとけって……」

「だって……。やめたいけど、どうしても目で追ってしまって……」

「はぁ……。まったく」

「どうしたら、早く、大人の女になれるんですかね」と、私は呟いた。

「優ちゃんは、無理に背伸びなんてしなくていいから。そんなにあいつが好きなら、素直に気持ちをぶつけるしかないんじゃないかな」

「そんなこと、できない~」と私は言って、テーブルに突っ伏した。

 私は完全に面倒くさい酔っぱらいになってしまっていた。

 

 すると、そこに丸山先輩がやってきて、「おい、五十嵐大丈夫か? 飲みすぎやろ」と、心配そうに言った。

 私は、「だいじょうぶです~」と言って、そのままテーブルで潰れていた。

「あぁ、丸山君」と仁一さんが言った。

「どうも、鈴木さんお久しぶりです。すんません、五十嵐が迷惑かけてもうて。俺、五十嵐の担当なんですよ」と、丸山先輩が言った。

「そうなんだ。全然迷惑なんかじゃないよ。優ちゃん、俺の妹の親友でよく知ってる子なんだよ」と仁一さんが言った。

「え、そうやったんですか? それは知らなかった。あ~。ほら、五十嵐起きて。もう部屋に戻りな」と、丸山先輩に腕を掴まれ、起こされた。さすがにこれ以上周りに迷惑はかけられないので、 私は、おとなしく丸山先輩に付き添われて部屋に戻った。


 翌朝は、二日酔いがひどく、朝食のテーブルについても何も食べられなかった。

「ほら、優ちゃん。これ飲みな」と、仁一さんが、二日酔いに効くドリンクを買ってきて手渡してくれた。なんて優しいんだろう。

 梨子が、私と部屋に戻ってから、「鈴木さんって、優のこと好きなんじゃない?」と言ってきたが、「そんなわけないでしょ。私の友だちのお兄さんだから世話焼いてくれるだけだから」と答えた。それに、仁一さんには、大学時代から付き合っている彼女がいた。

 昨夜飲みながら、そう彼が話してくれた。彼女は上越に住んでいて遠距離恋愛なのだそうだ。仁一さんは、バイト先でその彼女と出会い仲良くなったが、同じバイト仲間の男友だちもその彼女のことが好きで、いわば「三角関係」状態なのだそうだ。

「そいつとは今でも仲が良いし、すごく大事な友だちだと思ってるけど、彼女のことは譲れなくてさ。でも、彼女、そいつとも頻繁にデートしてるみたいで、『ただの友だちだよ』って俺には言うけど……。もしかしたら、あいつのことを好きなのかもしれないな」と、仁一さんは言った。そんな仁一さんの苦しそうな表情が、私は見ていて辛かった。

 

 4日間の合宿が終わり、私たち一年生の発表もなんとか無事終わり、ほっと一息ついていた。それでも、夏休みはまだ始まったばかりだった。

 合宿の後に、黒崎さんが、私と梨子に「今度、同じ学部の友だちとキャンプに行くんだけど、暇だったら一緒に行かない?」と言った。もちろん、私と梨子は2つ返事で行きたいと返事をした。

 そうして、私と梨子、黒崎さんと医学部の友人2人の5人で、海へキャンプに出かけた。

 初めて会う黒崎さんの友だちは、2人ともすごく優しくて大人っぽい人たちで、私と梨子はすぐに打ち解けた。黒崎さんが友人に見せる顔は、部活での顔とはまた全然違って新鮮だったし、そんな中に私と梨子を混ぜてくれて、なんだか特別な存在になれたみたいで嬉しかった。

 夜になって、バーベキューの炎をみんなで囲みお酒を飲みながら色んな話をした。黒崎さんの友人2人にはそれぞれ長く付き合っている彼女がいて、どんな人なのか話してくれた。

「友二はモテるんだけどさ、でも女と長続きしないんだよなぁ。女を幸せにできない男なの」と黒崎さんの友だちが言った。

「おい。そんなことないだろ」と、黒崎さんが苦笑いして言った。

「ダメな男なんだよ、ほんとに。優ちゃんと梨子ちゃんは、コイツに引っかかっちゃダメだよ」ともう1人の友だちまで、そう言った。

「ひどいな、お前ら~。俺だって、彼女の事ちゃんと幸せにしたいっていつも思ってんの」と黒崎さんが言った。

「こいつさ、彼女いても、いつもオケのことが一番だし、オケの色んな女子と仲良いから、彼女色々心配が尽きないわけ。で、うまくいかなくなって。っていうのがいつものパターンね」と、友だちが言った。

 それを聞いて、私と梨子は、黒崎さんに、部活以外で彼女がいるらしいことを察した。


 夏休みの後半、久しぶりに練習のために部室に顔を出すと、丸山先輩とばったり会って一緒に練習をした。練習がひと通り終わった後に、丸山先輩に「五十嵐、このあと暇?」と訊かれた。

「はい。暇ですけど……」と私が答えると、「じゃあ、ドライブ行かへん?」と先輩が言った。

 山のドライブコースを頂上に向けて登って行くと、上に着いた頃には陽が沈んでいた。

「ここからの夜景、きれいやろ? 新潟に来て、一番気に入った場所やねん」と丸山先輩が言った。

 高いビルなんてほとんどなかったけれど、遠くに海も見えて、田んぼが広がり、中心部分には街の明かりがキラキラと瞬いていた。

「ほんとですね。きれい……」と、私はそんな美しい新潟ならではの夜景を眺めた。

「あのさ。五十嵐……。俺さ……お前のこと好きやねんけど」と丸山先輩が唐突に言った。

「えっ? 私、ですか? ど、どうして」

「どうしてって……。好きになんのに理由なんて必要?」と、丸山先輩は私の目をまっすぐ見つめてそう言ってきて、私は黙ってしまった。

「五十嵐、誰か付き合っとる人おるん?」

「あ、いえ。そんな人、いません」

「ほな、俺と付き合ってくれんかな?」

「でも……、ごめんなさい。私、ほかに気になる人がいて……」

「それは、なんとなく分かっとったよ。でもさ、友だちからでもええからさ。五十嵐のこと絶対大事にするし、五十嵐の嫌なことは絶対せんから」と、丸山先輩は言った。

 私は、丸山先輩のことは良い人だと思っていたしすごく信頼もしていたので、彼の熱意に押され、(友だちからなら付き合ってみようかな)、と思ったので、「じゃあ……、友だちからなら……」と言った。

「ほんまに? ありがとうな。マジでうれしいわ~」と丸山先輩は、目を細めて満面の笑みでそう言った。


 そうして、私は丸山先輩と付き合い始めた。

 梨子が、「そっか、そっか~。いいなぁ。丸山先輩、優しいし面白いし、結構カッコいいし。2年の先輩の中にも丸山先輩のこと好きな人いるみたいだよ。きっと、幸せになれるよ。良かったね、優。あ……、でも、さ。黒崎さんのことは? いいの?」と言った。

「うん。いいの。黒崎さん彼女いるんだし、きっと私みたいな子ども、一生相手にしてもらえないし、気持ち伝える勇気もないから」と私は答えた。

「んー、そっか。私も、そろそろほかの人に目向けて行かないとかもだね」と、梨子が言った。


 数日後、奈緒の家に遊びに行った時に、私は丸山先輩と付き合い始めたことを奈緒と仁一さんに報告した。

「おめでとう、優~」と奈緒が言った。

「良かったよ、優ちゃん。丸山君、本当にいいやつだししっかりしてるし、彼が相手なら安心だよ。黒崎は魅力的な男かもしれないけど、優ちゃんの事泣かせそうだから俺は反対だったからね」と仁一さんは言った。

「うわぁ~、アニキ、めっちゃ保護者面じゃん……」と奈緒がひいたそぶりで言った。

「たしかにな。ごめんごめん、優ちゃんには幸せになってほしいからさ、俺」と仁一さんが言った。

「仁さん、ありがとうございます。奈緒も。ありがとうね」と、私は答えた。


 その後、丸山先輩とは、何度かデートをした。

 先輩は、すごく私を大事にしてくれたし、いつも私を笑わせてくれた。それに、デートの日は毎回早い時間に私を家に帰してくれた。

「五十嵐、無理して俺といっぱい付き合うてくれんでええからな。時々俺に時間くれて、ちょっとずつ俺の事知ってもろて好きになってくれると嬉しいんやけどな」と、丸山先輩は私に言った。

 部活終わりにみんなで夕飯を食べたあとは、丸山先輩と一緒に私は帰るようになり、部員公認の仲となっていった。

 丸山先輩と仲の良い女子の先輩たちは、「ふ~ん。マルは、結局若い子がいいんだねぇ。彼女できて良かったねぇ」と、少し嫌味っぽく言った。

 黒崎さんは、「マル~。五十嵐のこと大切にしろよ~。俺の可愛い可愛い後輩なんだからな」と丸山先輩の首を絞めながら言った。私は、少し胸がちくっとした。


 12月初めに、コンサートホールで管弦楽団の定期演奏会が行われた。

 この日は、奈緒と仁一さん、それに両親も聴きに来てくれた。私は、ロングスカートの黒いドレスを見に纏って、誇らしい気持ちになった。

 ステージがライトに照らされ、客席は静寂に包まれた。1本のオーボエのAの音に合わせ、コンマスがAの音を出す。それは、練習の時とは違う厳かな響きに感じた。コンマスの音に合わせて弦楽器のAの音、隣の弦のDの音が鳴り始めると管楽器が重なってくる。波が高まり広がっていくように様々な楽器の音色が加わった後、チューニングが終わると波が引くように静まり返った。靴音を響かせ指揮者が入ってきて、合図とともに奏者が起立する。客席の拍手が聞こえた。

 ブラームスの交響曲第1番の第2楽章には、バイオリンのソロがあって、黒崎さんの美しいソロ演奏を聴くことができた。これを聴いて、彼のことを好きにならない人が世の中にいるなんて、私には信じられなかった。それほど彼のバイオリンの音色は、甘く切なく美しく、うっとりとさせられた。

 そして、黒のタキシードに身を包んだ彼の凛々しい姿を、私は目に焼き付けた。すごく素敵な彼のことを、ただ見つめるだけで私は十分だと思った。


 演奏会が終わった夜に、私は丸山先輩の家に泊まった。男の人の家に泊まるなんてそれが初めてだった。

 夜、ビールで少しほろ酔いになった先輩が、私を抱きしめキスをした。先輩はそっと私を床に寝かせ、私は、静かに目を閉じた。

「ほんまにええの五十嵐」と先輩が言った。

「はい」と、私が返事をするのをゆっくり待ってから、丸山先輩は優しく大事に私を抱いた。


 先輩と身体を重ねている時、ふいに脳裏に翔の顔が浮かんだ。気がつくと、涙が頬を伝っていて、自分でもどうして急に涙が出たのか分からず、戸惑った。涙が出たのは久しぶりで、高校2年生の時、大阪からの帰りの電車の中で散々枯れるまで泣いたのが最後だった。

「ごめんっ。やっぱ嫌やった? ごめんな。大丈夫?」と、先輩がおろおろして言った。

「あ……いえ。ごめんなさい。大丈夫、です。ちょっと緊張してしまっただけですから……」と私は言った。

 丸山先輩は、私の髪を優しく撫で、パジャマを着せてくれた。

「今日はもう寝よか」

「でも……」

「無理に続けることないねん。俺はくっついて眠れればそれでええねん」と先輩は言って、私を抱きしめた。先輩に、すごく申し訳ない気持ちになり、私は自分が心底嫌になった。


 それから、私は色々と理由を付けて、丸山先輩と会わなくなっていった。クリスマスの日も一緒に過ごそうと言われたのに、断ってしまい、自分でもすごくひどいことをしていると思った。


 年末年始は実家に帰り、両親と久しぶりにゆっくり過ごした。その後、新潟に戻ってきてから、久しぶりに奈緒の家に泊まりに行って、丸山先輩との話を奈緒に聞いてもらった。

「そっかぁ。その先輩とうまくいってほしかったけどな……。でも別に自分をひどいやつだなんて思わなくていいよ。みんな多かれ少なかれそんなこと繰り返したりするんじゃない?」と奈緒が言った。

「うん……。ありがとね、奈緒」

 私は、まだ夕方の5時頃だったのに、次々とビールや酎ハイの缶を空にしていった。

「でもさ、優。ちゃんとその先輩に別れたいって話さないとダメだと思うよ。避け続ける訳にはいかないんだし」

「うん。そうだよね」

 そんな話をしていたら、ちょうど仁一さんが仕事から帰ってきた。

「仁さん、明けましておめでとうございます」と私は言った。

「明けましておめでとう優ちゃん。久しぶりだね。元気だった? って、お~い。キミたち、もうそんなに飲んでんのかい」

 仁一さんは、炬燵の上に広がったお酒の缶を見てそう言った。

「えへへ」と私と奈緒が笑った。「お正月なんだしいいでしょ、このくらい」と奈緒が言った。

「仁さん……、私、丸山先輩と……やっぱりうまく行かなかったです……」

「えっ。そうかぁ……。残念だったね……。大丈夫? 優ちゃん」

「私は大丈夫です。でも。丸山先輩は何も悪くないのに……、自分でもひどいなって思っちゃって、すごく申し訳なくて」

 奈緒は、気を利かせてくれたのか、そっと炬燵から出て、台所に向かった。

「私、丸山先輩の気持ちに応えたかったし、応えられそうだって思ってたのに……」

 私は仁一さんに、丸山先輩が今まで私に優しくしてくれたことを全部聞いてもらった。

「いいやつだね、丸山君。ほんとに」と仁一さんは言った。

「はい。ほんとに、良い人すぎるくらい良い人で……」

 そう言って、私はうなだれて炬燵の天板の上に頭を付けた。

「優ちゃん、大丈夫?」

「はい……。私、どうしても、翔のことが頭に浮かんできて……。もう、なるべく思い出さないようにして今を楽しみたいって思ってたんですけど……。やっぱり忘れることなんてできなくて」

 そう言うと、目に涙が滲んできた。

「すみません……」と、私は仁一さんに謝った。

 仁一さんは、私の髪の毛をくしゃくしゃっと撫でた。

「いいよ。泣きたい時は思いきり泣けばいいんだから」と、仁一さんが言った。

 仁一さんの大きな手が、私の頭をしばらく撫で続けてくれていた。


 私は次の日に丸山先輩に会いに行き、別れたいと告げた。

 先輩は、「そ、っか……。ずっと避けられとるって思っとって嫌な予感はしとったんやけど、やっぱりそうか」と言った。

「ごめんなさい」

「いや、謝らんといて。でも……、俺のどこがダメだった?」

「ダメなんかじゃないです。ただ、どうしても、忘れられない人がいて……」

「そう、なんやな。それやのに、無理して付き合うてくれてたんやな優ちゃん。ほんまにごめんな。ありがとな」

 丸山先輩はそんなふうに言って、どこまでも良い人すぎて、却って私は辛くなった。


 その後、春になり1学年も終ろうとしていた頃、梨子ともう1人1年の女子が、管弦楽団を退部した。

 梨子はバイオリン教室の高い月謝や管弦楽団の部費を払い続けていくことが大変になって、退部を決めた。

 私も、梨子と一緒によっぽど辞めようかと思ったが、バイオリンが少し弾けるようになってきた頃だったし、もう少し続けてみようと思い、かろうじて留まった。でも、いつも一緒に過ごしていた梨子が退部してしまい、すごく寂しかった。


 そうして、私は大学2年生になり、オーケストラには新入部員が入ってきて、私は『先輩』になった。梨子たちが退部した後、さらに同学年の数人が退部して、新2年生のメンバーは、かなり少なくなっていた。

 オーケストラの練習や行事は、お金もかかるし時間も取られるので、学業に専念したい人はやめていく人も少なくはなかった。

 私もこのまま部活を4年間続けるのは難しそうだと感じ、どこかのタイミングでやめた方がいいかもしれないと考え始めていた。


 新入部員の歓迎会なども終わり、落ち着いた日々を過ごし始めていたある春の日の夜のことだった。

 丸山先輩が私のアパートの部屋を急に訪ねてきた。先輩はお酒臭く、かなり酔っているようだった。

「五十嵐~。俺さ、どうしてもお前の事諦めきれへんよ」と、先輩は玄関先で言った。

「先輩……、ほんとにごめんなさい」と私は言った。

「なんでや。俺、誰よりもお前の事大事にできる自信があんのに……。よく言うやろ、1番好きな相手より2番目に好きな相手と付き合った方が幸せになるって。あ、それは結婚の話か。なら、俺と結婚せえへん?」

「何言ってるんですか……。先輩、かなり酔ってますね」

「酔ってへんよ。俺は本気やから」

「……。先輩の気持ちはありがたいですけど、でも、私先輩とは付き合えません」

 それを聞いて、先輩は辛そうに顔を歪めた後、私を玄関のドアに押し付け、キスをしようとしてきた。怖くなった私は、先輩をはねのけて、走ってその場から逃げた。

 そのまま、梨子の家に逃げて、その夜は梨子の家に泊めてもらった。

「しばらくうちに泊まりな、優」と梨子が言ってくれたので、私はそうさせてもらうことにした。

 ところが、次の日の夜遅くに、梨子の家にも丸山先輩はまた酔っぱらった状態でやってきて「五十嵐来てない?」と言った。梨子が「来てないです。どうしたんですか? そんなに酔っぱらって。急に家に来るなんて、何かありましたか?」と言った。

「なんでもないよ。突然ごめんな」と言って、先輩は帰って行った。

「どうしよう……、なんか先輩、人が変わったみたいでこわい……」と私は言った。

「ほかの先輩に相談した方がいいよ、優」と、梨子に言われた。

「うん。でも、たまたま酔ってたからかもしれないし、もう少し時間が経ってから相談してみるね」と私は言った


 私は奈緒に頼んで、彼女の家に泊めてもらうことにした。そこなら丸山先輩は知らないし、大学からも離れていて安心だった。

 奈緒もすごく心配して、「しばらくうちにいたらいいよ優。部屋、余ってるから好きに使っていいし。大学通うのはちょっと大変になるかもだけど、バスもいっぱい出てるからさ」と言った。そうして、私は、何日か奈緒の家に泊めてもらうことになった。


 私は、奈緒の家でお世話になる間、朝早く起きて玄関の掃き掃除をしたり、簡単な朝ごはんを作ったりした。

 朝、仁一さんが、ジョギングをするために早起きをしてきて、「優ちゃん、そんなことまでいいのに」と、驚いて言った。

 仁一さんがジョギングから帰ってきてから、3人で一緒に朝ごはんを食べた。

「だし巻きも味噌汁も、うまいよ優ちゃん」と仁一さんが言ってくれて嬉しかった。

「ありがとうございます。どっちも奈緒が教えてくれたんです」と私が言うと、奈緒が「まあね~」と言った。

「そうかぁ。優ちゃんずっとここに住んで、味噌汁作ってよ」と仁一さんが言った。

「ひえ~っ。なにそれアニキ。プロポーズ?」と奈緒が言った。

「はぁ? お前はなんですぐそういうこと……。違うよ優ちゃん、そういう意味じゃないからね。そうじゃなくて、ほんとにずっとうちにいてくれていいんだよ」と仁一さんが言った。

「ほんと、優うちで暮らせばいいよ。家賃、格安だよ」と奈緒も言った。

「え~、本当にそうしちゃおっかなぁ……」と私は笑いながら冗談でそう言った。


 それなのに、3日、5日……、と奈緒の家に滞在しているうちに、あまりに居心地が良くて、さらに奈緒から毎日のように「一緒に住もう」と言い続けられて、私は本気で奈緒の家に住みたくなってきた。

 そしてついに、本当に奈緒の家に住まわせてもらうことに私は決めた。



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