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『死霊』と死

『死霊』では、長男・高志の恋人である尾木恒子の姉が、「一角犀」と心中するという過去が語られる。また、高志の地下活動時代、裏切り者の同志を粛清する場面が回想される。三輪高志にまつわる挿話には、死を基調としたものが多い。

 予定されていたプランでは、『死霊』最終章において、三輪与志と津田安寿子はマンホール下に広がる地下世界で、各々息を停めて「心中」するという結末があった。『死霊』全体が主人公たちの死によって締めくくられるという構想があったのである。

 では、果たして、「死」と『死霊』の基本的なコンセプトである「存在への探求」の関係はどのようなものであるのか。

 ここでは、存在についての探求と『死霊』における死についての関係を考える。


 一般的な意見として、たとえば、自死を意志するということは、自己の存在へ目を向ける切っ掛けのひとつであるように見える。

 われわれは、そうすることで、「死」という自己の精神と肉体の消滅を意識せざるをえない。するとそれは、自ずから「私」という存在についての考察の端緒となるかのように見える。

 また、他人の死を見つめることが相対的に他者の存在、自己の存在を見つめる切っ掛けとなるように見える。


 では、『死霊』において、死はどのような位置に置かれているのであろうか。


 先に述べたように、三輪高志は最も死に近い登場人物の一人である。彼にまつわる挿話は死に満ちており、彼自身も病魔に侵され死の床にある。

『死霊』における死、について見ていくとき、三輪高志と、彼が主軸となる五章に注目するのは相応しいことのように思える。

(今後、もう一人の死にまつわる人物、首猛夫についても考察する予定である。)


 果たして、三輪高志における死とは、どのようなものなのか。

 そこでヒントになりそうなのが、夢魔が提示する自由自在のユートピアに対して高志が提示すテーゼと問いの二つである。


『死霊』五章の高志と夢魔の対話の中で、《意識=存在》を達成した《淡い光の波動する王国》の段階を夢魔は提示する。

(われわれは、《淡い光の波動する王国》の命名についても、考察する余地がある。)

 それに対し、高志は、まず「存在への平手打ち」をせねばならぬ、と述べる。


「それは決っている。まず心をこめて痛切になさねばならぬ俺達の第一撃は、平手打ちさ……。」

「ほう、平手打ちだって……?」

「そうさ。存在への刑罰がまずそこに決定的に与えられねばならないのだ。」

『死霊』五章


 そしてさらに高志は、《自己自身》にならざる《自足する微光の王国》の在りようを問いかけ、夢魔の口から、万象を変容へと突つき動かす原動力が《自同律の不快》に他ならぬことを引き出す。


 つまり、「存在への平手打ち」の必要と、《自己自身》になり得ぬ自在宇宙の矛盾が、高志の夢魔への反論である。


『死霊』において、存在を攻撃し傷つけること、それによって存在の姿を明るみに出し、全的顛覆原理としての虚体を現出させること、これが重要なモチーフとなっている。

 また、そのための原動力としての「自同律の不快」、つまり自己にどうしてもなり得ぬわれ、という問題の「未解消性の力」が基本的かつ重要な前提である。


 ところで、自死や他人の死とは、一見して確かに自己や他者の存在について自覚し、考えを深め、存在への問いに誘う端緒となるが、同時に、「自同律の不快」の解消となってしまう危険性も含んでいる。

 われわれは自己の死によって「私」を失うことで、存在への探求の切っ掛けとなる不快の原理まで失う恐れがある。

 また、われわれは他者の死を通して、「死」を存在への問いにおける唯一の重大事である、また生物としての死が存在の消滅である、という誤謬に満ちた認識に陥りかねない。


 高志の「存在への平手打ち」は、われわれが陥りやすい誤謬に対するアンチテーゼであるように考えられる。

 まずこのテーゼから慎重に読み取るべきは、決してそれが心理的・肉体的な破壊ではないという点だろう。

『死霊』における存在とは、正確に言えば一貫して共有されている存在の問題とは、それが個々に存在することで他の非存在を無きものとし、存在一般として万物の夢みる宇宙を不可能にしている巨大な矛盾である。

「存在への平手打ち」とは、この存在に対して初手にするべきアプローチであり、「存在を目覚めさせること」、「存在に裂け目をつくること」が主眼の試みであると考えられる。

 存在とは、(少なくとも存在の実相への問いを解かぬうちは)「死」ぬものではない。存在を完全に破壊しようとすることは、差し当たり、三つの宣告の中の一つとして想定されてはいるものの、まだ志向されてはいない(文庫版『死霊Ⅱ』p227)。

 そして、「自同律の不快」は、そもそも、《自足する微光の王国》においてでさえも解消されない、存在へ近づく思惟の根本的姿勢である。それは「死への自覚」に存在するだろう。不快を原理として、自死を志向する場合でも、その場合に存在への眼差しが主題となるのは、「自同律の不快」が前提としてあるからに他ならない。


 このように考えていくと、意外なことに、『死霊』においては、死はあくまで存在を覚醒させる幽玄な雰囲気醸し出す文学的装置であって、存在への探求を渇望させる原動力ではないように見える。しかし本当にそう位置づけられているかを確定するには、まだ考察が必要なように思われる。

 それに、このように考えることで、また別の視座が現れた。存在の裂け目や、存在の目覚めといったものは、『死霊』におけるさらなる存在論の理解への糸口になるかもしれない。そして、存在への探求の原動力たる「自同律の不快」の重要性が改めて明らかとなった。


 われわれは、五章における残りの議論をまだ残している。そのさらなる検討によって、『死霊』における死についてのヒントをえることができるのだろうか。またわれわれは、ここではほとんど踏み込まれなかった要素、首猛夫や虚体に対する考察によって、より深く進んだ段階へ足を踏み入れることになるのだろうか。

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