8月31日の後悔と次の季節へ(中編)
気づけば、外が暗くなっていた。
ひたすら手を動かしていたら、山のようにあった課題が全てなくなっていた。
達成感とともに、肩や腰を伸ばす。凝り固まっていた体がポキポキと鳴る。
正面を見ると、相変わらず雨宮は集中して黙々と手を動かしている。前に休憩したときから三時間以上たっているのに、ノートに顔を落としたまま、上げる気配が一切しない雨宮はすごいと思う。
やるべきことが終わった私は頬づえをついて、黙々と勉強を続けている雨宮をただ眺める。
カリカリと動いているペン、それに連動して動いているような手、下を向いた顔からチラチラと見える淡泊な表情、しゃれけのない肩まで伸びた青みがかった黒髪、それらの要素から私は目を離せないでいる。
雨宮と二人っきりの部屋で、ただ黙々と勉強する。
ただそれだけのことなのに、カメラで切り取って大事に取っておきたいと思うほど、特別なことに感じる。
理由はわからないけど、この関係と空間と気持を大事にしなきゃいけないと、頭が猛烈に訴えかけてくる。
ただ、ぼんやりと雨宮を眺めていると、集中が切れたのかおもむろに顔を上げる。私と雨宮の瞳がパチリと合う。雨宮が少し驚いた表情をしてから、恥ずかしそうに目を伏せる。そのしぐさがいじらしくて可愛いいなと思う。
雨宮は人と目を合わせることが苦手なのか、私に話しかけるときすら目をあまり見てくれない。だから、私は積極的に雨宮の瞳を見る。そうすると、雨宮は恥ずかしそうにするから、それが可愛いくてもっと目と目を合わせたくなる。
「雨宮、課題終わったよー」
「そう。良かったね三島さん」
「今年は、早く終わったからちゃんと寝られるよ!」
「はぁ。なんで、そんなに誇らしげなの」
と、ジト目をした雨宮に呆れられる。
「だって、小中高で初めての快挙だもん」
「小学生のときからこんなかんじなの」
「うん!」
「そ、そう」
私が自信満々にそう言うと、雨宮は処置なしとでも言うように肩を竦めた。
勉強がおわったからか、雨宮の表情にいつもの冷めたものが戻りつつある。
冷めていて涼しげな表情の雨宮もいいけど、さっきの柔らかくて機嫌が良さそうな顔もたまには見たいと思う。
あの表情の雨宮がまた見られるなら、勉強なんて大した苦痛にならない。
「雨宮、また、一緒に勉強しようね」
「い、いいけど」
「ほんとに!やったー!」
雨宮は、私が積極的に勉強をやると言ったことにとても驚いたのか、目を軽く見開いてから、若干噛みつつ、一緒に勉強をすることを了承してくれた。
そんな感じに、適当に雨宮と話してると、だんだんとお腹が空いてきた。時刻は7時を過ぎていて、夜ご飯にちょうどいい時間だ。
雨宮に夜ご飯を食べうことを提案しようとして、彼女の瞳を見た瞬間、私じゃない方のお腹から大きく空腹を告げる鐘がなった。
「わ、私じゃないよ」
雨宮はそう言ってごまかしたけど、私から目を逸らした時点で、お腹を鳴らしたと白状しているようなもんだ。
「あはは、雨宮それは無理があるよ」
「ほんとに、わたしじゃない」
雨宮がそう強がるからそれを崩すように、私は彼女の目が逸れた方向に体ごと回り込んで、再度私の瞳と彼女の瞳を合せる。
「ほんとかな」
「ほんとだし」
雨宮の瞳には、相変わらず真実が浮かび上がっていた。
「ほんとに?ここには二人しかいないよ」
「うっさい。わかってるよ」
雨宮の冷たい言葉も、うつむきがち言うから威力がない。
むしろかわいいと思う。
「で、三島さんは今日、食べてくの?」
「うん。もちろん」
「そう。じゃあ用意するね」
「あ、ちょっと待って雨宮」
そう言って、台所にスラスラと行こうとする雨宮を私は慌てて呼び止める。思ったより大きい声が出てしまって、雨宮がビクッとしたのが背中から伝わってくる。
怪訝そうに振り返った雨宮を、私はひらひらと手招きする。
「どうしたの三島さん」
「いや~いつも夜ご飯をご馳走になっているから、今日は外で食べない?もちろん私のおごりで」
私がそう早口で言うと、雨宮は露骨に嫌そうな顔した。
「三島さん、そういうのべつに気にしなくていいよ」
「そう言わずにさ」
「めんどくさいからいい」
「雨宮は、ほんと、つれないな」
まあ、ここまでは想定済み。だから私は最終手段にでることにした。
「じゃあ、明日からここに来るたびに、封筒に500円くらい入れて持ってくるね」
「いや封筒は余計だし、だいたい夜ご飯500円もかかってないよ」
雨宮はげんなりした表情で色々と突っ込んでくる。
「じゃあ、私のここに来るたびにワンコインを納めるか、いまからディナーを奢るか、雨宮が選んでよ」
そう私は選択することを迫ると、雨宮は息を長ったらしく吐いてから、お礼の押し売りですかとでも言いたげな表情をして、諦めたように口を開いた。
「じゃあ、遠慮なく奢ってもらうかな」
「ほんと!じゃあどこがいい?」
「うーん、ここから近いしサーイタリーで」
雨宮のリクエストは、雨宮の家から徒歩一分くらいでつく、安いイタリアンのファミリーレストランだった。遠慮しなくてもいいのに。
「じゃあ、そうと決まればさっさと行こうか」
「はいはい、ちょっと待ってて」
私たちは、軽く外に出れる格好に整えて、雨宮の家から出る。
外に出ると、秋の匂いをかすかに含んだ風が頬を撫でる。気温はまだ全然暑いけど、遠くから聞こえる虫の声に清涼さを覚える。だからか、夏休み真っ只中のときよりは、若干暑さがマシになっている。
二人の間に会話はなく、爽やかとも鬱陶しいとも言えない曖昧な風がただ二人の間を流れている。
その風に身を任せるように歩いていく。
雨宮は、私の斜め後ろについて歩いている。
そのまま一階にエレベーターで降りて、エントランスホールを抜ける。雨宮の家の前の国道をサーイタリーの方へ歩いていく。
ただ、なんとなくこのまま黙々と歩くのは、なぜか面白くないと思った。だから、雨宮と手でもつなごうと、斜め後ろを歩いている雨宮が私の横に並ぶように一瞬だけ立ち止まった。
横に並んだ雨宮が、怪訝そうに顔をあげて私を見る。
「雨宮、手でもつながない?」
私は、雨宮の顔を見ながら、平然とした声で提案してみた。
「え、なんで?」
「なんとなく」
「べつに、つなぐ理由ないでしょ」
雨宮は、そう答えのない迷宮に閉じ込められたような表情をした。私は、雨宮がなんでそんな顔をしたのかがよくわからなかった。部屋にいたときは普通につないでくれたのに。
「雨宮の部屋では、普通につないでくれたじゃん」
「部屋は、二人っきりだからいいけど、ここは外じゃん。恥ずかしい」
「べつに、周りに人はいないよ」
「だとしても、私はつながないよ」
そう、雨宮はそっけなく私の提案を断る。そんな雨宮の態度に、私は少しむしゃくしゃした。だから、強引かなと思いつつも、ぷらぷらと所在なく浮いている雨宮の手を握った。
相変わらず、雨宮の手には私に充実感をくれるものが宿っている
雨宮は、一瞬だけ驚いてから、フッと諦めたような呆れたような表情をして、私の手を握り返してくれた。
「はぁ、三島さんがしつこいからだよ」
そう雨宮が言い訳するその声音には、まんざらでないものが含まれていて、私は安心した。
手をつないだまま無言で国道を歩く。二人の間に流れているものは、相変わらず自然のものだけだけど、さっきとちがって、今は満足感が心を満たしていて、まったくつまらなくない。
難産だった。明日か明後日までに後編出せるように頑張ります。