8月31日の後悔と次の季節へ(前編)
8月31日の正午、夏の長い休みが終わろうとしている。
雨宮と初めて出会った日から、そう気温は変化していないいけど、今日で夏休みは終わるし、あと2週間もしたら確実に夏は終わり始める。
でも、私はまだ終わられてはとても困る。
なぜなら、毎年、毎年、私を苦しめてくるあいつをやっつけてないからだ。
もっと早くからやっとけばよかったと、頭に慣れた後悔がよぎる。
「雨宮~もう無理。やめて開き直りたい」
「そんなに、課題の量はないんだから、頑張りなよ」
そんなに課題の量はない?そんなはずはないと思う。課題を全部私の上に置いたら、窒息するくらいはあるよ。絶対。
「雨宮はもう終わってるんだから、私の焦りはわからないよ」
「普通は、焦らないようにやるべきだと思うけど」
私の正面に座っている、雨宮の正論が痛い。でも、そんなことはわかっているけど、コツコツできたらこんなに毎年苦労していない。
「まあ、一緒に勉強してあげるから、頑張ろう三島さん」
「はーい」
なんだかんだ言って、一緒に勉強してくれる雨宮は優しい。
雨宮も一緒にやってくれるし、私も文句を言わずに集中して課題に手を付け始める。
黙々と勉強をしている二人の間には、シャーペンがノートの上を滑る音だけが響いている。
その音が、私の手をカリカリと動かしてくれる。家にいたときは、あんだけ手が動かなかったのに、雨宮の部屋で、雨宮と一緒ってだけでこんなに変わるのはとても不思議なことだ。
でもそのことが、なんか、いいなって思う。
それから一時間は集中して課題に取り組んだ。さすがに、集中力がなくなってきた。正面を見ると、黙々とノートに顔を落としている雨宮のつむじが見える。
一時間も集中力を保たせていて、素直に雨宮はすごいなと思う。
でも、そんなに集中している所を見ていると、私の中に住んでいる小さな悪魔が「いたずらしたい」て囁いてくる。
せっかく、一緒に勉強してくれている雨宮に悪い思いつつ、私はそんな悪魔の囁きに負けて、雨宮のつむじを人差し指で思わず押してしまった。
雨宮は、つむじを押された瞬間、顔を上げてすごい勢いで後ずさった。
あ、やりすぎちゃったかもと思ったけど、驚いた様子が可笑しくて、まあいいかと思ってしまった。
「三島さん、そういのやめてよ」
雨宮の冷めた瞳が、私の瞳を刺してくる。
「ごめん、ごめん、ちょっと集中力が切れちゃって」
「はぁ、私まで切れちゃったじゃん」
「ごめんって」
「まあ、一時間も頑張ったし、休憩する?」
「する、する!!」
少し不機嫌に顔を歪めていた雨宮の表情がフッと和らいで、私に飴となる時間をくれた。
「私、紅茶を入れてくるけど、三島さんも飲む?」
「うん、飲む」
「わかった」
雨宮は、そう言って台所のほうにトコトコ歩いていった。
こう真面目に勉強をしていると、雨宮の部屋でひとりになった私は少し先のことを考えてしまう。
雨宮は、進路どうするんだろうって。
私は、進学するつもりは一切ない。だって、あの家からいちはや、経済的にも精神的にも自立してしまいたい。
でも雨宮はどうだろ。勉強を真面目にしているし、成績もいつも学年の上位のほうにいる。
「やっぱり大学にいったりするのかな」
そう一人で呟いてみたけど、雨宮の進路を推測すればするほど、なぜか心がどんよりと曇ってくる。
別に、進路が違うイコール私たちの関係が切れるってわけじゃない。関係が切れるかどうかは、私たちの努力しだいだ。
「うん~自信ないな」
「なんか言った?三島さん」
物思いに耽っていたら、雨宮がお盆に陶磁器のマグカップを二つ乗せて、部屋のドアをあけて入ってきた。私は、独り言を聞かれかけて、少し動揺してしまった。
「いやなんでもないよ」
「そう。はい紅茶」
「うん。ありがとう」
無地の白い陶磁器に入っている紅色の液体が湯気を立てている。エアコンでよく冷やされている部屋だから、真夏なのに熱い紅茶を飲んでも、美味しく感じる。
爽やかな口当たりの紅茶を飲んでも、さっき、私の心に生まれたモヤモヤはまったく晴れない。だから、それとなく雨宮に聞いてみることにした。
「ねぇ、雨宮って成績いいよね」
「うん、いいけど。なんで三島さんそれを知っているの」
「だって、いつもテストの成績で十位以上に名前があるから」
「あー、そんなものもあったね」
雨宮は、なんでもないような風に言うけど、いくら私たちの進学校一歩手前くらいの中堅校だとしても、成績上位十位に常連で名を連ねるのは普通にすごいことだ。ちなみに、私はかなりビリの方だ。
雨宮の成績ならもっと上の高校に行けそうなのに、なんで今の高校に来たんだろう。意外と家が近かったからとかかもしれない。
「じゃあさ、雨宮は進学するの?」
「急にどうしたの三島さん。進路の話なんかして」
雨宮は、不審げな視線を私に投げる。
「いやまあ、高二の夏だし」
「一応、大学に行くつもりだけど」
雨宮は、意外とあっさりと進路を教えてくれた。ちょっと調子に乗って、志望校まで聞いたら、この地方で一番頭のいい県外の大学の名前をあげた。
なんとなく、今いる二人の世界線が違う気がして、一瞬だけ雨宮が二重にブレて見えた。
思わず目を逸らしてしまった。
もっと心がどんよりとした。
「三島さんは、進路どうするの?」
「私は、就職する」
「そう。三島さん、勉強きらいだもんね」
雨宮が、穏やかな声音で柔らかく私をすこしだけ肯定してくれる。
今日の雨宮はけっこう機嫌がよくて優しい。もしかしたら、一緒に勉強するのが雨宮の琴線にふれたのかもしれない。
「うん」
高校を卒業したら、私たちの道は確実に大きく分かれる。それを雨宮はわかっているのかな。
もし、わかっているならなんで、そんな「ちょっとコンビニに行ってくるね」みたいな、気軽で、なんでもないようなことのように言うの。
私は、こんなに薄暗くて、憂鬱な気分なのに。
さっき、目を逸らしてから、私は雨宮の顔を見れてない。
最初から私と雨宮は違う世界にいて、本来は私と母ような関係だったけど、何かの間違いで、一瞬だけ世界が交わって心地のいい関係を結べただけ。だから、ちょっとの揺らぎでこの関係が、すぐ切れてしまいそうで、そのことがひどく恐ろしい。
二人の間に、沈黙が降りて紅茶を啜る音だけが虚しく響く。今はこの沈黙がすごく痛い。
だから、私はうつむきがちに机を見ながら、なんとかこの沈黙を破ろうと口を開きかけた時、机に置いてあった私の右手に、安心感のある温かいものが恐る恐ると触れてきた。
「三島さん。手、つないで」
頭の上から、いつもの涼しげな声に、幾分かの切実さを含めた雨宮の声が聞こえてきた。
その声に、上から引っ張られるように、私は頭を上げた。
雨宮の瞳が、私の視界にしかっりと映る。私は、金縛りにあったように、その瞳から目を離せなくる。だって、その瞳には、寂しさと名残惜しさがありありと浮かんでいたからだ。
雨宮は、自分の気持ちを素直に言わない。でも、雨宮の瞳には、いつも彼女の正直な気持が浮かんでいる。
そんなことが、顔を上げた瞬間、頭の中を駆け巡った。
その跡に残ったものは、確かな安心感で、それを感じるだけで、さっき心の中を、どんよりとした曇天にしていたものが、スッと晴れて青々とした、軽くて清々しいものに変わる。
「うん」
私が、了承の返事をすると差し出された雨宮の左手が開かれる。私は、その手をとって一本一本指を絡めて、握る。
雨宮が、少し戸惑いながら、がっちりと握り返してくれる。
がっちりと握られた手から、温かい雨宮の体温と、確かな安心感が伝わってくる。
私が恋人繋ぎをすると、今度は、雨宮がうつむいてしまった。耳まで真っ赤にしてうつむく雨宮はとても可愛いと思う。
いつもは、こんなことをしたら、「恋人じゃないからやめてよ」と冷たく言われそうだけど、雨宮はなにも言ってこない。ということは、雨宮は私と恋人繋ぎをするのは嫌じゃないらしい。
そのことがすごく嬉しくて、うつむいて恥ずかしがっている雨宮をついついからかいたくなる。
「あ、雨宮照れてる。かわいい」
「み、三島さんが変なことをしたから」
「でに、嫌じゃないんでしょう」
「うん...」
しばらく、私たちは手を繋いだまま紅茶を啜る。相変わらず、二人の間に会話はないけど、さっきと違って紅茶を啜る音が、なにか特別なものに感じる。
白色の陶磁器のマグカップに入っていた、最後の一口を飲み干す。
これを飲み始めたときは、心はあんなどんよりと重く苦しかったのに、飲み終わるときは、 軽く、清々しいものに変わっている。
そのことが、私はすごく嬉しい。
やがて、雨宮も紅茶を飲み終わると、おもむろに手を離して二人分のマグカップを片付け始める。
いつもは、手を離れたあとは、すごく寂しく感じるのに、今は全然寂しくない。だって、さっきまでがっちりと握られていた私の手には、雨宮の体温が確かに残っているから。
休憩は終わりと言うように、雨宮が部屋から出ていく。それを見届けてから、すぐに私は手を動かし始める。
台所から帰ってきた雨宮がそのことに少し驚いていて、それを私は可笑しく思う。さらに手を動かすスピードが上がる。
黙々と二人で勉強をしている空間を感じる。
それを思えば思うほど、先のことなんてどうでも良くなる。
先ことは先の私がどうにかするし、今のことは今の私がどうにかする。
そんな気分になっていく。
課題を残した後悔は、まだ心のなかにあるけど、課題を残したおかげで、この時間と空間を得られたと思うと、来年も夏休みの課題を残しとこうかなと思った。
自分は、夏休みの課題は計画的にやるタイプでした。(夏休みの日記以外)