雨宮は優しい(中編)
「暑すぎる」
高く登った太陽が私の首を炙っている。
空に無防備にさらしいている、頭に日差しが集まってがんがんと痛む。
真夏の気温が、私の体をジリジリと熱する。そのせいで、体が火照ってしかたない。
喉が、張り付いて離れないほど渇いているのに、水筒はもう空で、財布は忘れたから自販機で飲み物を買うことすらできない。
「これは、熱中症かな」
家までは、あと20分も歩く。
とにかく涼しい所で休憩したほうがいい。でも、もう立っているだけつらい。
今朝の天気予報によると、今日は今年一番の暑さらしい。それに、今日まで夏休み前のテスト期間だったから、とても忙しかくて寝不足だった。
「さすがに、一夜漬けはまずかったな」
この暑さが、一夜漬けというむちゃをやった私への罰なのかもしれない。
睡眠不足のつけを払うように、体力がドンドン減っていく。家までの距離は、少ししか減ってないのに。
あーもう限界だ。
太陽に熱せられたアスファルトに私の膝がつく。少しでも早く涼しい所で休んだほうがいいのに、私の足はもう少しも前に進んでくれない。
「これはまずいな」
どんどん、意識が遠くなっていくような気がする。
私、死ぬのかな。そんなことを考えてしまうくらい、今の私は弱っている。
「ねぇ、ねぇ、大丈夫?」
「え.......」
頭の上から、涼しげな声が聞こえてきた。誰かに、「大丈夫」なんて心配してもらったことなんていつぶりだろうと、ぼんやりとした頭で考える。
思い出せないままぼんやりしていると、頬に冷たい物があたった。
「これ、よかったらあげるよ」
「ほんとに、ありがとう。助かる」
涼しげな声の主がくれたのは、ペットボトルの麦茶で、私はキャップさっとあけて、勢いよく飲み始める。
生き返る。砂漠で遭難した人が、偶然オアシスを見つけたらこういう気分になるんだなと、なんとなく思った。
麦茶を飲んだら、相変わらず体調は最悪だけど、遠くなっていた意識は、しっかり自分の近くに戻った。
麦茶を恵んでくれた人に、お礼を言うために体の向きをそちらに向ける。
目に入ったのは、私と同じ制服を着た見覚えのある女の人で、こちらを心配そうに見ている。彼女の表情は、冷たいけど、その瞳には、優しげな光が浮かんでいる。
ちょっと冷めた感じだけど、彼女、かわいい顔しているなと、なんとなく思った。
「麦茶、ありがとね」
「どういたしまして、具合悪いの」
「うん、ちょっと寝不足でね」
「じゃあ、私の家すぐそこだから、治るまで来なよ」
そう、彼女は突拍子もなく、私を家に誘った。彼女が、あまりにも自然に、なんでもないよに言うから、一瞬何を言っているか理解できなかった。いくら私が病人で、同じ学校の生徒だからって、今日初めて話した人を、家に上げるのは普通じゃないと思う。さすがに優しすぎる。
でも、今けっこうつらい。相変わらず、頭はがんがんと痛むし、体が火照って気持ち悪い。だから涼しげな彼女の、普通じゃない優しさに縋ってもいいような気がする。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「じゃあ、ついてきて」
そう彼女は言って、無言で肩を貸そうと少しだけかがんだ。やっぱり優しい人だな。
私は、その優しさに甘えて、彼女の肩に腕を回す。肩から彼女の体温が伝わっていくる。
その感触になぜか私は安心してしまう。それは、今私が弱っているからなのか、はたまたまた別の理由なのかは、ぼんやりとしている頭では、判別できない。
私が、しっかり肩を掴んだのを彼女は確認すると、ゆっくり歩き始めた。
「ねぇねぇ、君さ、同じクラスの人だよね?」
「うん、そうだよ」
最初、見たときに見覚えがあった理由は、どうやら同じクラスだったからしい。ぼんやりとした頭では思い出せなかったけど、横を歩いている彼女を見ていたら、急に思い出した。
でも、彼女とは一度も話したことがない。もちろん名前も知らない。
「じゃあさ、名前教えてくれない?」
「雨宮秋葉」
「雨宮秋葉ね。覚えたよ。ちなみに私の名前は、」
「知ってるよ、三島春乃だよね。」
「おぉ、覚えてくれたんだ」
なぜか雨宮は、私の名前を覚えてくれていたけど。私は、雨宮の名前を覚えてなかった。こういう時、少し気まずい。
でも、雨宮の横顔は、そんなこと気にしてませんとでも言うように、無変化だった。相変わらず、冷めた顔をしている。
なんて考えていたら、大きな10階建てのマンションが見えてきた。そのタイミングで、雨宮が「着いたよ」と言うから、ここが雨宮の家らしい。
ほんとにすぐに着いた。歩き始めて3分もたってない。
「六階だから、エレベーター乗るよ」
「うん、わかった」
エレベーターを六階で降りると、雨宮は軽い足取りで歩き始める。一方、私は重い足取りで歩き始める。雨宮にとっては、なんてことないのかもしれないけど、私は結構緊張している。
雨宮が、自分の部屋の前につくと、ポケットから鍵を取り出して、ガチャリと軽く開ける。
そして、軽く部屋の敷居を跨ぐ。
その、雨宮の軽さに背中を押されるように、私も雨宮の部屋の敷居を跨ぐ。
そうして、私は初めて雨宮の部屋に入った。
◇◇◇
雨宮の家は、私の物がたくさんある家と違って、よく掃除が行き届いて、物が少なく整理されている。廊下一つとっても、私の家は何かしら物が常に放置されていてけど、雨宮の家は薄茶色のフローリングが端から端まで見えている。
廊下をぬけて雨宮の私室に入ると、雨宮はエアコンをつけてから、部屋にあるベッドの布団をおもむろに整え始め、いつの間にか持ってきいたタオルを枕にかぶせる。
なんとなく、雨宮は人の看病に慣れていると思った。
「三島さん、ここで寝ててね」
汗をかいたまま他人のベッドに寝るのは、結構申し訳ないと思うけど、相変わらず、私の体調はよくない。だから、ここは雨宮の好意に素直に甘えることにした。
雨宮は、私がベッドに横になったことを確認すると、何かを取りにリビングの方に歩いていった。
だんだんとエアコンが効いてきて、部屋に冷気が満たされていくのを肌で感じる。
部屋の天井を眺めながら、雨宮がほぼ初対面の私を助けてくれる理由を考えてしまう。だけど、頭に浮かぶ答えはなにもない。
でも今は、雨宮の冷めた表情のなかにある優しげな瞳に、縋りたいと思う私の心と、「大丈夫」と声をかけて、麦茶をくれた雨宮の行動だけで、この部屋で過ごす理由は十分だと、根拠もなく思った。
「三島さん、麦茶飲む?」
「うん、飲むよ」
雨宮は、大きめなコップいっぱいに麦茶を入れてリビングの方から戻ってきた。
雨宮が手渡してくれたコップから伝わる冷気が、体温の高い手を冷やしてくれる。
特に、お互い話すこともなく、私がゆっくりっと麦茶を飲む音だけが二人の間に響いている。
「そういえば、さっきくれた麦茶どうしたの?」
「三島さんが、今飲んでいる麦茶が私があげたやつだよ。ぬるくなっていたからコップに移して、氷をいれといた」
「ありがとう。雨宮は気が利くね」
「そうかな」
少し褒めると、雨宮の目に気恥ずかしさがほんの少しだけ浮かんだ。その冷めた表情もこころなしか和らいで、少し温かいものが宿っているように見えるのは、気の所為だろうか。
「そうだよ!今日はほんとに助かったから感謝してる」
「べつに、目の前にいる病人を無視するのは、なんかよくないと思っただけだし」
雨宮にとっては、ほんとそれだけかもしれないけど、私にとってはそれだけではない。
私が弱っているときに見る景色は、寂しくてがらんとしたもので、今日もどうにか家まで帰れば、そういう景色を家で見ながら休むことになったはずだけど、雨宮が助けてくれたおかげ、そうはならなかった。
体を起こして、雨宮の顔と瞳をしかっりと見て言う。
「それでも、ここまでしてくれてほんとありがとう。雨宮」
私がしっかり感謝を伝えると、雨宮はさっきまでの冷めた表情を完全に崩した。
「.......うん、どういたしまして」
相変わらず、頭はまだ痛いし、体は暑い。でも、さっきまでの冷めた表情を崩して、恥ずかしそうにうつむく雨宮を見ていると、いままで空っぽになっていたところが、少しだけ埋まっていくような気がする。それは、今の状況がもたらしているのか、それとも雨宮がもたらしてくれるのかはわからないけど、できれば後者がいいなと私は思った。
「ちょっと、やることがあるから三島さんあとでね」
そう言って、雨宮は足早に部屋から出っていった。逃げたな。
まあ、なんかかわいいからいっか。
部屋にひとり放置された私はやることもなくて、病人らしく目をつぶる。目をつぶってぼんやりと、エアコンの冷気に身を任せていると、だんだんと眠くなってきた。
初めて来た家で、寝落ちするも無防備すぎるような気がするけど、昨日からの疲労が眠気となってぐっと押し寄せてくる。その眠気に私は抗えず、意識を手放しそうになる。
病人だし、雨宮の部屋だし、まあいいか。なんて、ぼんやりとした頭で考えながら、さっき外で倒れかけたときと違って、一定の安心感を感じながら私は意識を完全に手放した。
「三島さん、起きて。三島さん」
耳に雨宮の声が聞こえて、体がゆすられる。ちょっとずつ意識が手元に戻ってくる。頭はスッキリしていて、体は火照ってない。体調は完全に戻ったらしい。
目を開くと、雨宮の顔がすぐ近くに見える。私の顔を覗き込んでいるのだから、当然、目と目が合う。雨宮はそれにびくりとして、慌てて目をそらす。ちょっと悲しい。
窓の外を見ると、結構暗くなっていて、時刻は午後七時を回っている。
結構寝てしまった。
「うーん。おはよう?かな、雨宮」
「三島さん、朝じゃないからそういうのいいよ」
私は、とりあえず体を起こして、ベッドの近くにある麦茶を飲み干す。
氷が溶けて、少しぬるくなっていたけど、それがまた寝起きの喉には優しくて、美味しかった。
「雨宮。麦茶ありがとうね」
「どういたしまして。コップしまってくるから」
と言って、雨宮は私が握っているコップをひったくるようにとって、リビングのほうに行ってしまった。コップを流しに持っていくくらい私がやるのに。
雨宮が部屋を出っている間、私はベッドに腰掛けて、寝起きの少しぼんやりとした頭をシャッキとさせる。
そういえば、荷物ってどうしたっけと思い出す。部屋を眺めると、端の方に私の荷物がまとめてあった。とりあえず、荷物をとって帰支度を始める。
「あれ、三島さん帰るの?」
「うん、もう暗いしね」
「そう」
「雨宮、今日はほんと助かった。今度お礼するね」
「今度.....?」
私が、お礼をするために、次の約束を取り付けようとすると、雨宮はとても戸惑った顔をした。何に困惑した一瞬わからなかったけど、すぐにあることを思い出した。
私たちは、今日は初めて会話した。つまり、友達関係ではないし、知り合いですらない。だから、雨宮にとっては、私との関係は今日だけという認識なんだと、すぐに思い至った。
それは違うと、直感的に思った。
何が違うのかはまったくわからないけど、とにかくここで関係が切れたら後悔すると思った。でも、その気持の詳細を自分自身にすら、うまく説明できない。
だから、私はなんとでも次の約束をつけようと、言い募る。
「ランチ一回奢るからさ、お礼させてよ。だめかな、雨宮」
「わかった。機会があったらね」
一応。約束の同意らしきものをくれた。できれば確約がほしいけど、これ以上しつこくすると、逆に失礼だ。
「じゃあ、私、帰るね」
「うん」
お互い、黙って廊下を歩く。玄関で靴はいて、ドアに手をかける。
後は、お別れのあいさつをするだけだ。たぶん、雨宮は下のエントランスまでは見送りに来てくれない。今日初めて話したけど、そのくらいはわかってしまう。
だから、今日はここまでで終わり。
そしてこれからは、たぶんない。
でも、それは嫌だなと素直に思う。お別れのあいさつだけじゃなくて、再会を願うあいさつもしていって今日を終わりたいと思うのは、私のわがままだろうか。
ドアを開けかけて、少なくとも雨宮にお別れのあいさつだけはしようと振り返る。
雨宮の表情は相変わらず冷めているけど、その瞳には、寂しいような惜しいような気持ちが、ありありと浮かんでいた。
その瞬間、私は自分の視野が狭すぎたことに気づいた。
-友達じゃないなら、今、なってしまえばいいと-
そう気づいて、私はその考えを熟考せずに、すぐ口を開いた。
「ねぇ、雨宮。私と友達にならない?」
私がそう言った瞬間、雨宮は目を見開いた。そして耳まで真っ赤にして、目を伏せ、顔も伏せてしまった。
ちょっと失敗したかなと思ったけど、なにもやらずに、関係が切れてしまうより良いと思った。
数秒間、二人の間を沈黙が支配する。その沈黙が、私に緊張することを強いてくる。嫌な汗が脇に流れる。
雨宮が、迷うように顔をあげる。その表情には、困惑や、疑心や、期待や、安堵感などが一気に浮かんでいて、とても複雑な表情をしている。
でもそこには、さっきまでの冷めたものはなくて、人の体温ぐらいの温かさをしたものがある。
これが雨宮の素直な気持ちなんだと、なんとなく思った。
雨宮が、私たちの間にある嫌な沈黙を破るように、口を開く。
「三島さんは、私との友達になりたいの」
「うん、なりたいと思ったよ」
「じゃあ、そういことでいいよ」
そう雨宮が、恥ずかしさをごまかすすようにそっけなく言った瞬間、私の嫌な緊張感は、安堵感に変わった。
「ほんと、やった!じゃあ、よろしくね雨宮!」
「うん、よろしく三島さん」
「もう、友達なんだからさんづけやめてよ」
「やめない。三島さんは三島さん」
雨宮が、そっぽを向いて冷たいことを言う。でも名前の呼び方なんてほんと些細なことだと感じるほど、私の心は、舞い上がっていた。だからしつこく言わない。
「雨宮、また遊ぼうね」
「うん。またね。三島さん」
友達になっただけで、さっきと大きく何が変わったわけじゃないけど、雨宮は次の約束を確約してくれた。それがまた私の心を軽くする。
「じゃあ、そういことで私は帰るね」
「うん。わかった」
私は、手に掛けていたドアを押して、雨宮の家の外に出る。
敷居を軽くこえて雨宮に手を振る。
雨宮が振り返してくれる。それを見て、私は少し調子に乗る。
「じゃあ家、また遊びに来るね」
それだけいって、雨宮の返答を聞く前にドアを閉める。
足は軽い。こんな心がぽかぽかして、嬉しい気持ちを持てたのはいつぶりだろうか。私は、そんなことを考えながら、軽い足取りで家路についた。