雨宮は優しい(前編)
外は今日も茹だるような暑さだ。高く、高く登った灼熱の太陽が、ベランダに洗濯物を干している私を容赦なく焼いてくる。こんな日は、家事をするだけで汗を掻く。
暑い、暑いベランダから撤退するために、さっさと洗濯物を全部干し部屋に戻る。
部屋は相変わらず、視界は騒がしいほど物がたくさんあるのに、耳に入ってくる音は何もない。雨宮の家も静かな家だけど、物が片付いていて、清潔にしてある。掃除の苦手な私が家事をしているこの家は、だいぶ生活感がありすぎる。
「おなかが空いた」
洗濯をひとまず終えた私に、おなかが控えめに主張してくる。お昼前の良い時間だし、私はご飯を食べることにした。
とりあえず、冷蔵庫を開いてみる。中には、冷やし中華と焼きそばが一人前ずつ入っていた。野菜室も見てみると、きゅうりが一本とトマトが一個だけ入っていた。
「これなら冷やし中華かな」
冷蔵庫の中身がなさすぎるから、そろそろ買い物にいかなきゃと思いつつ、まな板と包丁を台所の引き出しから取り出す。
野菜たちをザルに入れて水洗いをし、きゅうりから切り始める。上下のヘタを取ってから、きゅうりを斜めに傾けて、端から薄く切っていく。それから、切ったきゅうりを軽く重ねて、今度は縦に細長く切っていく。
きゅうりの切れる音、まな板に包丁が当たる音が台所に響く。心地のいい音がする野菜を千切りにする作業は結構楽しい。
千切りにし終わったきゅうりを適当な皿に移す。
次に鍋を取り出して水を汲む。適当な量の水を鍋に入れたら、火にかけて沸騰させる。
沸騰させている間に、トマトを切り始める。トマトのヘタを切り取ってから、大きく半分に切る。半分は、ジップロックにいれて冷凍保存する。もう半分は、小さめにくし切りにする。
切り終わったトマトをきゅうりのある皿に移して、まな板と包丁をシンクに置いておく。 野菜を切り終わったが、まだ、鍋の水は沸騰していない。少し待ち時間ができた。
暇だから切った野菜を眺めてみる。きゅうりとトマトは、とてもみずみずしくて涼しげだ。
さすが、夏野菜だなんて思っていたら、鍋の水が沸騰した。
冷蔵庫から冷やし中華を取り出して、麺の入っている袋を破って鍋に入れる。 袋に書いてあった、茹で時間三分をタイマーではかって麺を茹でる。
麺を湯掻いていたら、タイマーが音を立ててなった。鍋の火を止めて、シンクにおいてあるザルに麺をいれる。水道水で冷やしたら、水を切って野菜を入れている皿に移す。
最後に付属のめんつゆを上からかけたら、冷やし中華の完成だ。
冷やし中華と箸をもって、椅子が二つしかない居間の机に移動する。私の対面に座る人は今日もいない。というか大抵いない。でも、私はそれで平気だ。
一人でご飯を食べるの慣れているし、仮に対面のイスにすわって、一緒に冷やし中華を啜ったところで気まずいだけだ。
対面に座る人、すなわち母は、凄まじい仕事人間だ。仕事にかまけるばかり、私が物心が付く前に父と離婚したらしい。その時、私の親権で揉めたらしいけど、経済的な理由で母に引き取られてから、ずっと母と二人暮らしだ。
私が小さい頃は、ハウスキーパーさんが来ていたけど、私が大きくなって家事をできるようになると、家事は全部私がするようになった。
私が母の帰る家を維持して、母が私の生活費を稼ぐ。その役割分担が、私と母を家族として繋ぎ止めているたった一つ要素だ。関係は冷え切っているけど、私はこれでいいと思っている。今更母と話すことなんてなにもない。
なんて考えていたら、冷やし中華が空になっていた。
「なんか、味気ない」
雨宮と食べたほうが美味しい...
「え、今、私なんて...」
一人でご飯を食べていることは慣れている。家に誰もいないことも慣れている。
おかしい、慣れているはずなのに。
「はぁ...私どうしたんだろう」
気がめいる。やめよう。
気を逸らすために、お昼に使った食器たちを洗う。今日は暑いから、泡を流す水が冷たくて気持がちいい。カチャカチャと食器どうしが当たる音が台所に響く。洗い物はめんどくさいけど、このいい音とも不快な音とも言えない食器の音は好きだ。
なんて考えていたら、シンクにあった食器は、横の水切りラックに全て収納されていた。
これでお昼までにやろうとしていたことは全部終わった。ちなみ午後の予定はなにもない。
時刻はまだ午後の一時で、夜まで結構時間がある。
「何、しようかな」
私は、家でできる趣味は何もない。だから家にひとりでいるときは、大抵、だらだらテレビを見るか、家事をするか、寝ている。
今日は、もうやるべき家事もなければ、眠くもなければ、だらだらテレビを見たい気分でもない。あと、私が家でできそうなことは勉強ぐらいだけど、夏休みが終わるのはまだまだ先だし、高校二年生だからまだ受験の危機感もない。第一、私は大学進学をするつもりはない。
となると、消去法的にこの視界だけ騒がしい部屋で、だらだら過ごすことになる。 そう思うと少し気がめいる。こういう日は、特に雨宮の家に行きたくなる。
「暇だし、雨宮の家に行こうかな」
外は、相変わらず体が溶けてどろどろになりそうな暑さで、正午の高い位置にある灼熱の太陽が、アスファルトをジュウジュウと焼いている。この中を歩いて雨宮の家に行くのは、なかなか億劫だけど、この部屋でだらだら過ごすよりマシだ。
それに雨宮の家は、寒いぐらいエアコンがきいている。一方私の家のエアコンは、古いせいかききが悪い。
「よし、決めた。雨宮の家に行こう」
まず、初めて雨宮と話した日に交換した、彼女の連絡先にメッセージを送る。
送ったら既読がすぐに付いて、『来たいなら、好きに来ていいよ』と返信が来た。
雨宮らしいそっけないメッセージだいけど、返信の速さが、全然そっけなくない。
その事実に、私の口角が上がる。
外に出るために、余所行きの服をクローゼットから取り出して、部屋着から着替える。 洗面台にいき、おろしていた髪を後頭部でお団子にして、鏡で全身を軽くチャックする。今日は、トップスに白色のシャツ。ボトムスに薄い藍色のパンツというシンプルな格好にした。まあ雨宮の家に行くだけだしね。
「よし、準備OKかな」
財布とスマホだけ入れた小さなバッグをもって、玄関に向う廊下を歩く。
玄関でスニーカーに履き替えて、ドアノブに手をかける。
私は、『行ってきます』と『ただいま』を言ったことがない。ハウスキーパーの人がいたときも言っていなかった。あの人は、徹底的に私と線を引いていたから。
今は、言っても何もならないからね。
なんて考えながら、ドアを開けて、何かになりそうな雨宮の家に向かった。
◇◇◇
雨宮の家は、私の家から徒歩10分くらいでつく。 そのたった10分間ですら、私は真夏の気温に耐えられない。家に引き返したくなる。 でも、不思議なことに、私の足は雨宮の家に向かい続けている。
陽炎がゆらゆらしている道路を歩き続けること10分弱、雨宮のマンションが見えてきた。 雨宮の家は、郊外にあるファミリー向けマンションといった雰囲気で、とても小綺麗だ。
この暑い外気から逃れるために、さっさとエントランスホールを抜けて、エレベーターに乗り込む。6階のボタンを押して、雨宮に一報を入れる。
六階についたエレベーターから出て、雨宮の部屋に歩いていく。足取りはとても軽い。
雨宮の部屋のチャイムを鳴らす。気の抜けた音が耳に響く。
ならした三秒後くらいに、冷めた顔をした雨宮がドアを開けてくれる。顔を冷めているけど、ドアを開けてくれる早さ的に、雨宮も楽しみしていたのかな。
そうだったら、少し嬉しいと思う。
「どうぞ、三島さん」
「うん、お邪魔するね雨宮」
雨宮の家の玄関先で靴を脱ぐ。その靴をしっかりと揃えてから、後ろを振り返ると手を差し出されていた。雨宮の決して大きくもないし、小さくもない、なんだかんだいって最初にここに来た時以外、毎回握っている手だ。
「雨宮、手どうしたの?」
「三島さん、手、つないで」
雨宮の顔が赤い。耳まで真っ赤だ。雨宮の肩まで伸びている青みがかった黒髪と、真っ赤に染まった顔のコントラストがなんと可愛らしく思う。
雨宮からスキンシップを取りたがるのは珍しい。珍しいからちょっとからかいたくなる。
「雨宮から手をつなぎたがるの珍しいね」
「別に、今日は特に暑いから、三島さんにベタベタされたくないだけ」
「ほんとに?雨宮がつなぎたいだけじゃなくて?」
「三島さんがつなぎたくないなら、べつにいいよ」
からかえばからかうほど、雨宮の顔が真っ赤なまま、不機嫌に歪んでく。かわいい。
でも、これ以上からかうのは、雨宮が逃げてしまいそうだ。どんな理由があれ、せっかく雨宮から求めてきてくれるチャンスだから、逃すの非常にもったいない。
私は、雨宮の大きくも小さくもない、白くて愛らしい手を凝視する。
その手に、私の左手を添えて、握る。
雨宮の顔が上がって、私と目が合う。
雨宮の右手の温もりが、私の左手を通して、体に、心に、するりと入り込んでくる。 ものすごくポカポカする。雨宮にも、私の左手の体温が伝わってればいいなと思う。
私の顔を凝視している雨宮の表情は、真っ赤に染めたまま目を見開いて動揺している。私の体温を感じている余裕はなさそう顔だ。
次第に、雨宮の動揺が収まると、いつもの冷めた顔に戻ったけど、目元は少し緩んでいる。
「よし、部屋に行こう雨宮」
「うん...」
手をつないだまま、雨宮の部屋まで歩調を合わせて歩く。私たちと間に、決して会話は多くないけど、それがまた心地がいい。沈黙していても平気な人と出会えたのは久しぶりことだ。
そんなことを考えていたら、雨宮の部屋についた。相変わらずエアコンがガンガンきいていて気持ちがいい。さっきまで暑すぎる外を歩いていた私にとっては、まるでオアシスだ。
「ねえ、三島さんなに飲みたい」
「うーん、麦茶でいいよ」
「わかった」
そういって、雨宮は私の手を離して台所に麦茶を取りに行った。雨宮が離した私の手は、所在なくぶらぶらと曖昧に揺れている。雨宮がすぐ戻ってくるのはわかっているけど、さっきまで伝わっていた、雨宮の体温がなくなると、少し寂しくなる。
「はい、三島さんの分」
「雨宮、ありがと」
雨宮が持ってきた麦茶を、テレビの前にあるちゃぶ台においておく。雨宮の空いた右手を見る。
視線に気づいたのか、雨宮はスッと右手を私に差し出す。その手を、私の左手がしっかり握る。
また、雨宮の体温が伝わってくる。手を繋ぐことが、こんなに気持ちよくて、心地よくて、安心感を得られることを、私は、雨宮の手を通して初めて知った。
手をつないだまま、いつの間にか私たちの定位置となった、ベッドの前に二人そろって座る。
「雨宮の手って、なんかかわいいよね」
私が、つないでいる手を雨宮の目線の高さまで持ってて、そんなことを言ってみる。
「なにそれ、ちょっと三島さんキモいよ」
ひどい事を言われた。
「そんな言い方しないでよ」
「三島さんが、変なことを言うのが悪い」
「実際、白くてかわいい手をしてると思うよ」
私が、いくら褒めても雨宮の冷めた表情は、温かくとも、柔らかくならない。愛想が良くなれとは思わないけど、手をつないだときみたいに、目元だけでも緩んでほしい。
「三島さんも、スラッとして、奇麗な手をしてると思うよ」
雨宮は、相変わらず冷めた表情で、そっけなく、私のちょっと大きく手をきれいと褒めてくれた。雨宮は普通こんなことは言わない。さすがに不意打ちすぎて、今は私がどんな顔をしているわからない。
「三島さん、顔赤い」
「だって、雨宮が変な事言うから」
雨宮に珍しくからかわれて、さっき雨宮が言ったことと、同じようなことを言ってしまった。
「三島さんだって、変な事言った」
「いや、雨宮の手がかわいいのがわるい」
「はぁ、三島さんがしつこいから、もう私が悪いってことでいいよ」
雨宮は、不服そうにそう言ってそっぽを向いた。
雨宮によると、私はどうやらしつこいらしい。雨宮は優しい人だから、しつこい私にいつも折れてくれる。私は、ついついその優しさに甘えてしまう。
「ねぇ、ねぇ、雨宮。お昼何食べたの?」
「パスタ」
雨宮は、すごく偏食さんだ。
「もう、パスタばっかじゃん。飽きないの」
「ソースを変えれば飽きない。それに親がいればパスタ以外の物も作ってくれる」
雨宮は、親の話をあまりしない。もちろん私もしない。
高校生はそれが普通なのかもしれない。でも、私がここにいるときに、雨宮の両親を見たことないから、もしかしたらと思ったけど、そうではないらしい。
まあ、放任主義なのは変わらないのだろうけど。その放任主義のレベルが私と雨宮では、かなり差がある。
もう、私と母親の冷めきった関係は慣れたけど、今の雨宮の話は、冷たい物をほんの少しだけ、私の心につれてこんでくる。
でも、つないでいる雨宮の手からそれ以上の温かさが流れ込んでくる。この温かさを感じながら、適当に思いついたことを言ってみる。
「じゃあ、今度ペペロンチーノでも作ってあげようか」
「別に、そんなことしなくていいよ」
「えー、私が作ったペペロンチーノ一緒に食べようよ」
「てか、三島さん料理できるの?」
雨宮が不思議なことを聞いてきた、ペペロンチーノくらいなら簡単にできる。そんなに、不審げに料理の腕を聞くような料理じゃないと思うだけど。
「いや、ペペロンチーノのくらいなら余裕だよ」
「そう、じゃあ気が向いたときに頼むね」
「頼まれました」
そう言って、私の間に慣れた沈黙がおりた。二人にある静寂のなかに入ってくる音は、時計の針と遠くからかすかに聞こえる蝉の声だけで、それが心地よくてテレビをつける気すら起きない。
結局、雨宮の部屋でもだらだら過ごしているけど、雨宮と手をつないでいるだけで、無為な時間からとても有意義な時間に変わる。
人生のほんの一瞬くらい、仲良くなったばかりの友達と、夏の午後の暑さとエアコンの涼しさに身を任せて、ぼんやりと揺蕩う時間があってもいいと思う。
「ねぇ、三島さん眠いから、寝てもいい?」
確かに、ぼんやりとすると眠くなる。雨宮の顔も少しトロンとしている。
「いいよ」
雨宮は私に許可をもらうと、手を離してベッドに上がって仰向けに横になった。
手が離れると、さっきまで伝わっていた体温が、残滓すらなく消えてしまう。なぜか私は、そのことにひどく寂しさを覚えた。
「雨宮、手、離しちゃだめ」
「わかってるから。はい」
雨宮はそう言って、左手を差出して目をつぶった。
少しすると、規則正しい呼吸音が聴こえてきた。その息遣いを聞きながら、私は雨宮の寝顔を覗き込んで見てみる。
相変わらず、寝顔でも冷めた顔しているけど、その顔の表情には、いつもより柔らかくて優しげなものが浮かんでる。
その表情を見ると、私は雨宮と初めてあった日のことを思い出す。それは夏休み直前のとても、とても、暑つくてしょうがない日のことだった。