⑧お嬢様とお月様の裏側
「……はい、ええ」
彼は不思議そうな顔をしながら頷いた。トリーはやっぱり、と思わず呟いた。つまりカークの側も、トリーを婚約者にするかどうか検討するように兄から要請されている。それでいて、今日まで何もなかったように対応されていたわけなのだ。
いつもならカークから絶対に飛んで来るはずの線引きをして下さい、という注意もなく、田舎屋敷にいた頃から何度か話を切り出そうとして止める、と様子が少し変だったのは気のせいではなかった。
「王都までの物見遊山の道すがら、二人でお話をされたわけではないご様子ですね」
そう、とトリーは頷いた。時間はたっぷりあって、そのつもりで兄もカークを案内役に任じた面もあっただろうに、相手が何も言ってこなかったのはどう考えても不自然だ。
「カークは兄の無茶苦茶な命令を、断れなくて困っているのでしょう」
「……ええと、困ってはいるのかもしれませんね。繊細なところのある方ですし、重要な案件ですから。お嬢様の御意思を大切になさりたいようですよ、横で話を聞いていた限りでは」
トリーも決めかねている。特に、一向に話を切り出そうとしないと判明したとなれば尚更である。侯爵家にとっては良い話で、トリーは遠くに行かなくて済み、カークは流行病の痕が身体に残っている事も知っている。
だがずっと優しくしてもらっていた、断れない人間に押し付ける案だとは思えなかった。
「お嬢様、お月様には決して、裏を見せる気はありませんよ」
恥ずかしがり屋なんでしょうかね、とエディからの付け足しを聞きながらトリーは目を瞬いた。数日前の自分の発言を何故知っているのだろう、とこちらの疑問を読み取ったらしい。彼は人好きのする笑みを浮かべた。
「アリスからです。お嬢様は博識なんだと盛んに感心していました。それでは、発言の許可を頂けますか?」
どうぞ、とトリーは頷いた。彼は懐から侯爵家の封蝋がしてある手紙を取り出した。彼は慎重に、丁寧に封を剥がして書面を手元に開く。
「レスター様からお二人の動向に注意を払って、必要ならさりげなく誘導するように指示を受けているのです」
どの辺りがさりげないつもりなのかは不明であるが、レスターお気に入りの従僕は書面に静かに目を落とした。変なところで茶目っ気を見せる男である。兄に可愛がられる要因なのかもしれない。ふむふむ、と一通り内容を読み込んだようで、手紙を懐にしまった。
「カークはお兄様に、嫌だと正直に言えないだけではないの? 立場があるから逆らえないだけで」
「お嬢様。主人を選び、命令に従うかどうか判断するのは、全ての使用人に付与された権利ですよ」
「権利を行使したら職を失うかもしれないのに?」
嫌なら出ていけ、と主人に追い出されて生活基盤を失うのと引き換えるなら、保証された権利という言い回しは不自然に感じた。ましてや、カークは侯爵家に仕える家柄出身なのだから、全てを放り出して逃げ出す判断を簡単に下せるものではないだろう。
「その通りです。嫌なら辞めるなり、火の粉の降りかからないように立ち回るべきです。そもそも、権利として使ったところで雇用主に大した損失を与える事もできません。代わりの人間がやって来るだけですからね。しかしそれでも、自分を守る最後の剣に他なりません。私はレスター様にそう教えて頂きました。もしもの時は遠慮なく剣を手に取って構わない、と。そのために持たせてあるのだとも」
トリーは従僕の権利に関するたとえ話を聞きながら、視線は彼らに当たり前のように付与されている、黒い鞘にある細身の剣を見つめた。人の命を簡単に奪える道具を少しも脅威に感じないのは、使い手達との間に絶対の信頼関係があるからに他ならなかった。
「そして使用人の剣ですが、何もかも失う覚悟でカークさんは一度、本当に鞘から抜きました。大切なものを守るために、侯爵に逆らった事があるそうです」
「……え」
トリーは座ったまま、エディの話をもう一度頭の中で繰り返した。自分が知らないカークの一面を意味ありげに匂わせておいて、冷えて来ましたね、と相手は静かな動作で立ち上がる。続きは、と促そうとしたが彼は笑みを浮かべるばかりだ。
「いかがでしょう、月の裏側に行ってみたくなられたのでは?」
トリーの記憶の中のカークはいつも真面目な態度を崩さず、兄に逆らわず、それからトリーには優しかった。彼が剣を手にしていたのは、屋敷の近くで訓練していたのを見掛けた程度しかない。
「それは私がお屋敷に上がる前の出来事ですので、詳細までは」
それなら十年は前の事になる。まだ兄が家を継ぐ前で、カークはお目付け役だった。トリーは病にかかる前なのか後なのか、彼の話だけではわからない。気になるところで話を止めたエディは、そろそろ中に戻りましょうか、と素知らぬ調子である。
「ところで、エディ君は誰の味方なの?」
「私がお屋敷に来た頃、閣下のお側で仕事をする事を嫌がる人もいました。けれど使用人達が夕食の後でくつろいでいる時間に、窓の外から『追加であと千と十二本、素振りだ』とカークさんのご指導の声が聞こえると、不思議とお前も大変だな、頑張れよ、と言ってくれるようになったんですよ。率先して憎まれ役を演じていたわけですね。同時に、庇っていてくれたのだと今では思っています」
「……エディ君には厳しかったよね、カーク」
「ええ、あの人は昔からそういう人ですよ。自分の本心を少しも語ろうとはしない。お嬢様も、お屋敷にたくさんの贈り物が届いたのをご覧になったでしょう。あの手この手で皆が閣下の気を引こうと必死な中、あの人だけが涼しい顔で高みの見物をしている。流石に有力な家の跡継ぎは違う、と私は羨ましくて仕方がないです。それとも、あのカークさんだけは何か違う考えなのでしょうかね」
厳しい態度とただの意地悪は違うのだと、エディは話を締めくくった。屋敷の扉が開き、中から明かりがこぼれた。それでトリーは、エディと随分話し込んでいた事に気が付いた。
「……お嬢様、風邪を召され……。思ったより暖かそうですね」
「ええ、アリスは気が利くの」
ご飯を食べに行くように言付けた自分の侍女は、外で風に当たりたいと言ったので暖かそうな膝掛けやストールを用意してくれた。なかなか戻らないトリーを心配したらしいカークがわざわざ持って来てくれたらしい上掛けがどこか寂しそうに見えたので、夜に欲しいかもしれないからちょうだい、ともらっておいた。
「ありがとうカーク。かえって気を遣わせてごめんなさいね。ところで、舟と梯子、お月様に会いに行くのならどちらが素敵かしら」
トリーがカークを見上げると、いつの間にか建物に切り取られた中庭の空、彼の後ろに月が昇っていた。まだ日が沈まりきらない空にかかる白い月は静かに、いつもと同じ表を地上に向けている。空にあるものは絶対に手が届かない。けれどたとえば月の高さにかかる梯子、宙に浮かべる小さな木の舟が、不思議と頭に思い浮かんだ。今はどうしてなのか、そのまま手を伸ばせば届いてしまうような気がした。
「……舟と、梯子?」
「お月様があんまり綺麗だったの、心配かけてごめんなさいね。おやすみなさい、カーク。明日はどうぞよろしく」
「……ええ、おやすみなさい」
エディ君もおやすみなさい、とトリーは軽い足取りで屋敷の中へ戻って行く。
「何をそんなに話し込んでいたんだ?」
舟と梯子って何なんだ、とカークは中庭に立つ同僚を振り返った。明日の慰霊祭に向けて一言激励を、とトリーに頼まれたので呼び出した同僚である。
「……お嬢様はお月様を捕まえに向かう気になったようですよ」
奇妙な事を言い出したエディは妙に取り澄ました顔をしている。レスター様の近くで仕事をしている時と同じだ。中に入りましょうよ、と使用人棟の勝手口へ歩き出した。
「僭越ながらご忠告します。梯子を掛けるか、舟を調達するかして上がって来た後、掴み掛かって来るおつもりですよ。ちゃんと抱き止めて差し上げて下さいね。誤って拳が顔に当たったら痛いですよ」
「お、エディ! 明日は頑張れよ、屋敷でご馳走作って待っているからな!」
ちょうど夕食を済ませたらしい男性使用人達が、明日の慰霊祭の侯爵家代表を取り囲んだ。エディは自分と違って人懐っこいので、彼らと楽し気に談笑しはじめた。
「とにかく『当たって砕けろ』ってやつだ! お坊ちゃんなんて蹴散らして優勝だ、優勝」
「お、カークもいたのか。何か激励してやれよ。教育係だったもんな」
他の使用人達は仕事終わりで気分が良いようで、立ち去る前に輪の中に巻き込まれてしまった。あまり無茶はするな、程度の激励しか想定しなかったので、言葉を探すのにしばらくかかった。
「……『卵は割れたら戻らない』というわけで怪我をしない程度に頑張ってくれ。急に離脱されると困る」
「なんで俺と反対の格言選んだの!?」
機嫌悪いのかよ、と騒々しいのを尻目に、カークは寝起きのために割り振られている部屋に戻った。換気をして明かりをつけ、明日の身支度の確認を終えて一息つくと、夜風にふわりと窓掛が揺れた。その向こうには先ほど二人が月、月と繰り返すのでさぞかし見事な眺めだろうと思ったのに、満ちるのはまだ先だ。何の変哲もない空であるように思える。
舟と梯子、と日常生活にはあまり縁のない道具にカークは首を捻った。トリーの目に、世界は一体どのように映るのだろう。子供の頃は全然違う二つの物語をくっつけてこれが続き、と言い張っていた姿を思い出す。
カークは部屋の明かりを消した後もしばらく、窓の外を眺めていた。