⑦お嬢様と来客受付係
一行はその後、問題なく都会屋敷に辿り着いた。王都には順調に、各地から人が集まりつつある。宿代が高騰し、寝る場所にあぶれた者のために教会の敷地が解放され、篝火を焚き天幕を張って炊き出しが行われているらしい。兄の手が空いていれば、差し入れを持って見学に行きたがるだろう。
街はそんな状態なので、慰霊祭が終わって落ち着くまではなるべく侯爵邸から出ないように指示をされた。トリーはアリスの手品を観賞したり、大人しく読書にスケッチ、刺繍を楽しむ事にした。元から領地でそのような生活を送っているので、場所が違うだけでいつもと同じだ。
多くが初対面である王都屋敷の使用人達は、あれこれとトリーの世話を焼きたがった。田舎屋敷を走り回っている甥っ子に靴下を縫い始めると、彼女達も各々裁縫道具を持ち出して、おしゃべりに興じながらの作業である。
都会屋敷には当主に、こんな珍しい美味しい物を手に入れたのでどうぞ、もしくは会う約束を取り付けたいという使いの者が次々現れる。お菓子をはじめとした差し入れの品が積み上がって行った。ワイン貯蔵室もそろそろ満杯、と管理を請け負っている使用人が苦笑している。屋敷中の窓辺とテーブルの上も、花瓶でいっぱいになりつつあった。
そんな大人気の兄は慰霊祭の運営に関わる側の人間として、王宮に留め置かれている状況らしい。顔を見せない代わりに短い手紙のやり取りをまるで日記のように交わした。そろそろどこかに自由に出かけたくなって来た、と書いてある。トリーはもう少しの辛抱だと兄を慰める内容を書いて返信を従僕に託した。カークの事には特に触れられる事はなかった。お菓子やお花、お酒の差し入れがたくさん来ていますよ、と話を振ってみると、品物の処遇は任せた旨の返事が来た。
お菓子は開封して中身を確認した後、使用人総出でも食べきれない分は手紙と一緒に王城への差し入れにも詰め込んだ。こんなに食べきれませんよ、と従僕も苦笑している。お城でお世話になっている人に配って、と押し付けた。
トリーも実食の結果、味や包装や缶のデザインが可愛らしい、いくつかの菓子店の商品を購入した。一筆添えて、侯爵家が支援している施設や、教会で慰霊祭の対応に追われている役人や司祭達にも差し入れとして届けてもらった。
「お兄様は人気者なのね」
「侯爵の身分でいらっしゃいますからね」
カークの回答は身も蓋も無い。彼は他の従僕達とは別の仕事を任されているようだ。都会屋敷の責任者と一緒に、来客の対応に当たっていた。
彼の応対は総じて礼儀正しいが、相手によって門の前、玄関先、応接室と明確に区別がされている。つい先ほども窓の外で、初々しい雰囲気の若い使用人が緊張した面持ちで、カークに用件を伝えていた。主人から預かった手紙を無事に受け取ってもらい、安堵した様子で帰って行った。トリーにとっては身近なカークもアリスもエディも、職歴で言えば十年近いので、年若い使用人の初々しい仕事ぶりは新鮮な眺めである。
「手伝える事があれば、何でも言って」
トリーが張り切って申し出ると来客対応係達はしばらく相談をしていたが、やがて方針が定まったらしい。
それまでの室内用のドレスも着替えさせられ、髪もアリスが綺麗に結い上げてくれたところで、直接屋敷に出向いて来た来客の情報がカークからひそひそと耳打ちされた。今到着したのは、トリーもお世話になっている服飾店である。仕立ての責任者です、と客人は当たり障りのない挨拶から始まって、今年の流行について一しきり熱弁が振るわれた後、こちらの要望も加味した上で一着注文する事になった。とにかく詳しい上に向こうも話し上手なので、ついつい引き止めて長話してしまった。
一週間近くあった侯爵邸での待機時間も、そんな風に楽しく過ごしていればあっという間に終わりつつある。おかげで教本を見なくても御礼状がすらすらと書けるようになった。そうカークに自慢したのだけれど、喜ばしい事でございますね、といつもの真面目な定型文句である。こちらはかなり疲れが溜まって来ているらしい。
「そう言えば、エディ君は? 一応、侯爵家が推薦した形になるから一言声を掛けるように、お兄様の手紙に書いてあったの」
「そういう事でしたら、顔を出すように伝えます」
たくさんいる従僕達の中で、カークが侯爵邸からほとんど動いていないのとは対照的に、エディは一度も姿を見ていない。トリーは、彼と仲良しのアリスもこちらにいるのに変だと思って尋ねると、どうやら理由があったようだ。
「剣闘試合の出場者同士で、嫌がらせや小競り合いが起きているそうです。エディが都会屋敷にいないのは、万が一にも巻き込まないためでしょう」
エディはレスターについて王宮にいるか、雑用や新人の案内を請け負ってあちこちを移動しているそうだ。行動を読ませないようにして、厄介なもめ事を上手に回避するためである。
「王宮はいいの?」
「あそこは警備が厳重なので大丈夫、ついでにその恩恵に預かろうというのがレスター様の考えです」
いかにもな兄の考えにトリーは何と返事をしたものか困ってしまう。
「いわゆる泡沫候補ですからね。華々しい経歴や血筋を強調するわけでもなく、誰かを出さないといけないから仕方なく、といった風な情報が回っていますから、集中的に狙われる可能性は低いかと」
そうなのね、と感心しながらカークの話を聞いた。要するに兄が、エディに危害が及ばないように情報を操作しているのだ。しかし剣闘試合という滅多に開催されない行事を、楽しい事が大好きなレスターが見逃すわけがない。お気に入りの従僕をわざわざ出すのだから、何か考えているのだろう。
何だと思う? とカークに尋ねた。街中も混雑しているようで、家庭教師の先生を待っているのだが定刻になってもなかなか現れない。最初は露骨に目を逸らしていたカークも、しつこく尋ねると観念したように口を開いた。
「閣下は彼に実力を示せ、と命じています。私がいずれ従僕を抜けてそれまで引き受けていた仕事は、今後はエディにやらせる気なのですよ。他の人間に決してできない事をやって見せるように、と」
兄は相変わらず無茶苦茶な指示を出すものだ、と思う。それでどうにかしろ、と命じられたエディは何をする気なのだろうか。何を考えているのかよくわからない奴なので、とカークも詳細は知らない様子だ。
そしてさらりと、カークもいずれ兄の側仕えからは離れる事を言及した。対応した客人達も都会屋敷の使用人達も気になるようでさり気なく話を振る人が数名いたが、彼は適当に流していた。
「ねえカーク、大変な事に気が付いたの。カークが生家に戻ってもお兄様は仕事を振るだろうし、総量はかえって増えるのではないの」
これまでは兄にくっついている印象だったが、任されている街の管理に加えて、今回のように兄の代理のような形、意向を汲んで対応したり、各地へ赴いたりも仕事になるのかもしれない。
それなりの家の跡取り息子でもある彼は、今日から自由、これで兄に頭を下げる日々とはおさらばだ、となるのだと思い込んでいた。実際は配置が換わって肩書が立派になって、そして仕事が増える。
そうですよ、とカークは当たり前の顔をして、いつも通りの生真面目な顔で淹れてもらったお茶に口をつけている。大量の茶菓子を横目に、身体の半分が砂糖になって来たと辟易している様子だ。
「……そんな憐れむようなお顔をなさらなくても」
「いつ帰るの?」
「そのうちに」
「十年前からロバートが同じ事を言っている。どっちが先になるのかな」
使用人最年長の御者との定番のやり取りを思い出した。ロバートもよく、自分はそろそろ退く身ですので、と事あるごとに口にするのだ。トリーも昔は聞く度にしんみりとした気分になったものだが、最近はもうはいはい、と軽くあしらうのがお決まりになりつつある。
「寂しくなるね」
「すぐに慣れてしまう事ですよ」
「それは自分に言っているの? それとも私?」
カークが珍しく返事に窮したらしく、開きかけた口を一旦閉じた。いつものように、線引きが大事だと諭してくると思ったので不審に思っていると、先生がお見えですとアリスが先生を連れて戻って来た。私はそんなに薄情じゃない、くらいは言ってやるつもりだったのに、問いかけの答えも含めて有耶無耶になる。
今日来てくれた先生は普段、侯爵領で面倒を見て下さるのだが、実家は王都にあるらしい。どこの家も浮足立っていて、と苦笑している。いかにも社交界の事情に通じていそうな妙齢の女性はさあさあ、と手を叩いた。
「さ、お嬢様も外出ができなくて退屈でしょう。カークさん、授業に付き合って下さるかしら」
カークが返事をする前に、先生は遅くなった分を取り返すようにテキパキと指示を出した。今日はお洒落ですね、と先ほどの来客対応そのままのしっかりした格好のトリーを見て、何か思いついたらしい。
「夜会へ出かけ、さる家柄の男性から誘われた態で行きましょう」
「歌劇の冒頭みたいな設定ですね、先生」
「いやいやトリー様、あなた様は侯爵家のお嬢様ですよ。いつかきっと必要になる練習です」
果たしてどうだろう、と兄の意向を思い出した。検討するように言われて時間だけが経ち、しかしなかなか答えは出せないままの宿題である。トリーも先生の案に大賛成して立ち上がった。その高貴な人物として設定されたカークは状況説明についていけないらしくてまだ椅子に座りっぱなしだ。
「まあ、今夜はあのカーク様がいらっしゃるだなんて! 私、心の準備ができておりませんのに。ああ、こちらにいらっしゃる……どうしたらいいのかしら」
「お嬢様、内心の動揺を表に出さないのが淑女ですからね。その調子です」
トリーがそれらしい適当な台詞とは裏腹に、内心を表に出さないように、兄や義姉を見習った高貴な佇まいに先生からお褒めの言葉を頂いた。たまたま持っていた洋扇子を優雅に開いて、できるだけ余裕たっぷりに見えるように彼を見下ろした。
「……この部屋で真面目な授業は本当に始まるんでしょうかね」
「それは高貴なカーク様次第ですのよ」
「……左様で」
それでは一曲、と立ち上がったカークはいつも通りの口調でトリーを誘う。喜んで、とこちらも彼の手を取りながら自然に応じた。見上げた先の、兄に無茶な指示を出された時のような渋い表情は、すぐに裏側に引っ込むようにして見えなくなった。
彼が屋敷を去ったらこの見事な切り替えも見られなくなるだろう。それだけでも寂しいな、と思った。
家庭教師の先生が帰った後、トリーは夕方の中庭へ出た。都会屋敷は立地の良い、他の貴族の邸宅が集まっている区画に建っている。この大きな街に人がひしめいているのが信じられないくらい、中庭は静かな夕暮れだ。トリーはベンチに座りながら時計を確認して、日が少しずつ長くなっているのを感じた。
ほどなく、待ち人が到着した。こちらに気が付いて、恭しく礼をとった。後ろについていた見習い従僕らしい少年がその動きを慌てて真似ている。
「エディ君、おかえりなさい。随分大変みたいね」
「お気遣いありがとうございます、お嬢様」
エディは見習いをトリーに紹介してくれた。侯爵家と付き合いのある商家の出身らしい。年齢は同い年くらいだけれど、トリーは落ち着き払った口調で、これから頼りにしています、と女主人らしい言葉を選んだ。相手は素直に、神妙な面持ちで頷いている。
エディは懐から封書の束を取りだし、新人へ手渡し管理者に届けるように指示を出した。用件が終われば自分も行くから、と先に屋敷の中へ入らせる。
「エディ君も、もう教える側なのね」
「カークさんに習ったように、教えているだけですよ」
エディが屋敷へ来た時はまだ子供で、兄はカークを教育係に命じて使用人として必要な技術を教えこんだ経緯を、トリーも覚えていた。もう先輩なのね、と当時のカークを褒めたのだが、兄に向けるのと似たような渋い表情を返されたのが懐かしい。
「旅は順調だったようで、何よりでしたね。なかなか顔を出せずに、申し訳ありませんでした」
「いいえ、楽しく過ごせたの。それで明日は、くれぐれも怪我をしないようにね」
「精一杯、力を尽くす所存です」
華々しい経歴の若者に肩を並べて、エディはレスターのご指名で出場する。奇しくも、主人であるレスターとトリー、彼の幼馴染にして同期のアリス、それから先生役のカークが勢ぞろいする事になる。さぞ緊張するに違いなかった。
それで、と彼は顔を上げてトリーの言葉を促す。兄からの伝言に、手紙で伝えきれない用件はエディを呼び出して残すように、と書いてあった。
「……内緒にして欲しいのだけれど。間違っていたら、申し訳ないけど聞かなかった事にしてね」
はい、とエディは素直に少し声を低めた。
「お兄様はカークに、私との婚約の話が出ていると伝えた?」