⑤お嬢様とお月様の表側
侯爵邸の敷地内には薬草園がある。陽射しに向かって枝葉を広げた木が植えられていて、腰かけるのにちょうど良さそうな椅子まで配置されていた。子供の頃にここで隠れて妖精さんを待ち、ところが実際にやって来たのは、と懐かしい記憶が思い起こされた。
トリーはそこに座って、侍女のアリスが薬草の収穫をしている様子を見学している。別にアリスの仕事ぶりを監視しているわけではなく、買ったばかりの新しい日傘の使い心地を見たかったのだ。外の空気を吸いたいのだと一緒に外へ出て、ぼんやりと考え事をしていた。
アリスが持ち出して、今は彼女が作業中なのでトリーが預かっている手帳を開いて文字を追う。匂い袋に使う薬草の種類や量が事細かに、几帳面な字で綴られていた。
「いい感じですね、奥様にもらった日傘」
「模様にもちゃんと意味合いが込められているんですって」
生い茂る薬草の間から、アリスの声が聞こえた。白い日傘にはこの辺りでは珍しい、幾何学模様が刺繍されている。国土のほぼ反対側から嫁いでやって来た彼女の出身地では、女性の持ち物にも多く取り入れられているそうだ。以前に可愛いと褒めたので、わざわざ用意してくれたらしい。軽いのに機能性もしっかりしていてこれから重宝しそうな季節がやって来るだろう。
「トリーちゃん」
「あら、キリル」
名前を呼ばれて顔を上げると、ちょうど甥っ子が、屋敷の方向から走って来て、こちらに気が付いて手を振りながら小道を進んで行った。その後ろから一定の距離で乳母やら従僕やらが彼を追いかけ、トリーとアリスに気が付いて会釈をしながら、彼らも通り過ぎて行った。春を迎えた庭園は明るく、小鳥の賑やかな声や小さな蝶々がひらひらと舞っている。小さな子供は興味津々で、新たな発見を求めて毎日毎日入り浸っているらしい。
平和な時間だ、とトリーは彼らに手を振ってから、再び手元に視線を戻した。数日後に迫った王都への滞在自体は二週間もないので、アリスは無事に帰って来た後に使うための薬草を収穫している。いつもの清楚な濃紺の仕事着ではなく、庭仕事に支障がないような動きやすい恰好である。彼女はとても働き者なので、トリーの世話がお休みの日には屋敷内の別の仕事を手伝えるように、厨房用や清掃用も本人が所持している。先ほどから小さな園芸用鋏を手に、かがんで丁寧に薬草を収穫して回っていた。カゴを幾つも満杯にしているので、どうやら乾かしてトリーや屋敷の住人達が枕に仕込む匂い袋の他、厨房で料理に使う用途の分も一緒に集めているようだ。
「今、たくさん咲いているのは月見草?」
「そうですよ。重宝されている薬草です」
トリーが罹った病気の薬として侯爵家が開発に多くの投資をした、原料の一つが月見草という薬草だ。自分の体質にも合っていたらしく、縁起が良いと庭にも観賞を兼ねてたくさん植えてくれた。手帳には図鑑から書き写したらしい薬草の効能や使用法、種類ごとの分量などが事細かに記載されている。頁を捲って行くと、持ち主が代わったらしく、見慣れたアリスの字が増える。
「これってもしかして、前の方はカークの字?」
「そうですよ。記録をきちんと残して下さってあって、とても助かりました」
カークは兄の従僕だが、トリーの事も何かと気にかけてくれた。匂い袋なんて気休め程度ですが、と前置きしながら、トリーが好きな香りやよく眠れるような種類や配合を色々と試してくれたのだ。庭師と仲が良いせいなのか、薬草の事を仕事の合間によく調べていた。この屋敷の使用人達は皆、仕事熱心である。ありがたい事だと思っている。
「カーク、……カークか」
月見草に集中しているアリスには聞こえない声で、トリーは呟いた。数日前の兄からの話が頭から離れない。カークを結婚相手として考えてみないかと言い出したのである。まだ検討段階とは言いながらも、実際に口に出したからには、考えないわけにもいかない。
兄はトリーに最良の相手を選ぶだろう。書斎で遭遇したカークはそう言った。まさか自分がその一番手に挙げられているとも知らずに。
見立てとしては間違ってはいない。トリーは兄から離れた場所に行かずに済んで、こちらの結婚に伴う負担は軽くなる。しかしその先を考えようとすると、トリーは彼の、兄の意向に振り回されて、ため息をつきたくてもつけない、いつもの生真面目を装った渋い顔しか思い浮かばない。
線引きをして下さい、といつもカークは言った。自分は仕える側であり、トリー達兄妹とは立ち位置が違うと。それなのにこんな話が出て来るなんて、やはりカークだって十分に高貴な身分に入るじゃないか、と当時の彼に言ってやりたい気分である。
ねえアリス、と畑の中にいる自分の使用人に声を掛けた。
「カークについてどう思う?」
「カークさんですか? 使用人の先輩ですからね。厳しい方なので、仕事に対する姿勢を含めて尊敬しています」
アリスはきょとんとした表情で返事を寄越した。近々ある給与査定のための意識調査が近いうちにある事は確かなので決して無闇に話を振ったわけではない。
どうしてカークの事を聞くのか、と疑問を持たれないように、トリーは次々と他の使用人達の名前を出した。料理長や庭師に対しては、腕前を尊敬している。御者の古株使用人ロバートは小さい頃から良くしてもらっていて、とすらすらと答えが帰って来た。
アリスからは大人しい印象を受けがちだが、使用人の総まとめ役である家令の縁戚という事もあるのか屋敷内の他の使用人達の事まで詳細に把握している。
「じゃあ、エディ君」
「エディは同期ですよ」
それだけ? と聞くとそうですよ、とそれまでの明朗なやり取りと比較して、どこか不自然なくらいに素っ気ない返事である。
「アリス、ちょっと異性との関わりについて話を聞きたいのだけれど」
トリーの問いかけに、アリスにしては珍しく間の抜けたような返事が薬草畑から聞こえて来た。トリーは少し声を大きくして、同じ質問を繰り返した。
「……お嬢様、大変心苦しいのですが今は仕事中でございます。そのような話題にはお答えしかねます」
どうやら、からかっていると思っているらしい。ここで働く使用人の年齢は様々だが、若い女性使用人であれば退職する時は大抵、自分の結婚が理由である。他にもここに勤めた者同士、というよりは身内や知り合いを紹介してもらって、という形に落ち着いた人間も何人か思い浮かんだ。
「アリス、私は今までにないくらいに真面目なの」
「……その手帳は一体何でしょう、お嬢様」
「これを出すと、真面目に話を聞いているように見えるんですって」
カークによると従僕達はそうやって見習いに仕事の要点を教え込むらしいが、アリスにはどうも野次馬根性の象徴に見えるらしい。トリーは椅子から立ち上がって、日傘をさして彼女がいるところまで歩いた。アリスの方も薬草を集めるのに使っていた鋏を一旦カゴにしまって、改めてトリーに向き直った。
「……その手のお話は改めて、家庭教師の先生にお尋ねになるのがよろしいかと」
「先生は『殿方にお任せするのが良い』とおっしゃるの。私が知りたい話は全然して下さらない」
深窓の令嬢はそんな事はまだ知らなくてよろしい、と言う。正式な結婚相手が決まって嫁ぐ時期が決まればその分野の教育も始まるそうだが、知りたいのは今である。アリスはトリーより二つ三つ年上で、勝手に姉のような側面もあると思っている。
「エディと私は気安い仕事仲間ですよ。もう十年近く一緒にレスター様にお仕えしている身です。励まし合ってやって来た同期としてより一層、侯爵閣下への忠誠を……」
アリスはすらすらと、まるであらかじめ用意してあるかのような口上を述べ始めた。侯爵邸の使用人の多くはカークのようにしっかりとした家柄の関係者や紹介だが、何人か例外がいる。アリスとエディは兄が行き場のない可哀想な子供、として連れて来て小さい頃から仕事を教えこんだ、特殊な経歴と言える。
大人達に囲まれた中、二人が励まし合って仕事を少しずつ覚え、今となってはトリーにとっても、兄にとっても替えの効かない使用人として成長した。
噂をすれば何とやらで、こちらに近付いて来る姿があった。アリスが固まった気配を察知し、トリーは白々しくちょっと休憩、と言いながら椅子まで戻った。おそらく兄の用事で外へ出ていたのを、今しがた帰って来た様子である。
「あらエディ君。ご苦労様」
「こんにちはお嬢様、今日もいい天気ですね」
従僕のエディは背がすらりと高く、物腰は柔らかい。人好きのする笑みを浮かべて、トリーに挨拶をした。トリーは兄が都合の悪い報告書を読む時のように目の高さまで持ち上げて視界を隠した。耳だけはしっかり二人のやり取りに集中する。
「それにしてもアリス、やけにたくさん収穫したじゃないか。一人でこんなに運べないだろうに」
「……いいよエディ。早く戻らないと」
「だから、ついでだって。どうせ食堂に寄るんだからさ。お嬢様だっていらっしゃるんだから」
それでは、とエディはトリーに挨拶して、アリスにはじゃあねと小さく言い残して収穫したカゴ三個分の薬草を持って行ってしまった。
通りすがりの男性使用人が、他にも仕事のある侍女をちょっとばかり手助けして、世間話もそこそこに自分の仕事に戻って行った。屋敷ではありふれた一幕とカークなら切り捨てるだろうけれど、とトリーは古い几帳面な筆跡を見つめながら考え込む。
エディが馬を戻した厩舎とこの薬草園、そして食堂との位置関係を思い浮かべると、ついでと言いながら随分と遠回りである事は確かだ。やはり単なる同期、で片付くような関係ではないのだろう。
アリスはそそくさと去っていった同期を、どこか拗ねたような表情で見送っている。けれど仕事中、と気持ちを切り替えたらしく真面目な顔つきに戻って、園芸用の鋏を持ち直してまた、収穫する作業を再開した。
「アリス、お月様ってずっとおなじ側を向けているって、知っていた? 本に書いてあったの。お月様には表と、絶対に見えない裏があるの」
トリーは風にそよそよと揺れる可愛らしい小さな花を眺めた。本で読んだ知識をそのまま、自分の侍女に説明した。月が満ち欠けで見える部分に差異があれど、見えているのは表側なのである。人間でいえばずっと顔を正面に向けたまま空に昇って、また沈む時もそのままなのである。
「お月様の裏側は絶対に見えないの」
「……お嬢様は博識ですね。そんな風に考えた事はありませんでした」
二人は何となく空を見上げたけれど、正午に近い時間なので月は見えない。トリーの狭い世界において、使用人達という存在は大きい。けれど身分と立場があるから、トリーから見えない事がたくさんある。むしろ、裏側に大切に秘めておきたい事の方が多いだろう。
トリーは兄に、少し時間をくれるように頼んだ。兄はそれを了承して、日を置いてもう一度話をする、と言った。もし自分がカークと結婚しますと返事をしたら、相手は断りたくても断れないのだ。
線引きをきちんとして下さい、と彼の言葉がもう一度頭の中で繰り返される。それは必要以上に立ち入ってくれるな、という意味合いにもとれる。侯爵家が彼に持ち掛けようとしている事は、それを無視する事のように思えた。
ぱたぱたと軽い足音が聞こえて、今度は再びキリルが顔を出した。し、と口元に人差し指を立てて、トリーの後ろに回り込んだ。そのまま息を潜めてじっとしている。木陰にいるのに、日なたに出ているかのように背中だけ暖かい。
「お嬢様、キリル様を……」
見掛けませんでしたか、と屋敷に続く小道をやって来たのはカークである。どうやら甥っ子はまたお守り役達を相手取って追いかけっこのつもりらしい。
「まあ大変、大丈夫なの?」
「お坊ちゃんは賢いので、無断で遠くには行きませんよ。旦那様にお叱りを受ける事になりますから」
本日はお守り役らしいカークはいつもの仕事中に比べ、少しばかり柔らかい表情でこちらに歩み寄って来た。トリーは少しばかり緊張したけれど、彼は膝をつくようにして、視線はトリーの後ろをじっと見つめている。
「……お嬢様」
「……どうかした?」
何か言いたい事でもあるかのように、しばらく彼はそのまま黙っていた。しかしそれはトリーの勘違いだったらしい。誤魔化せないと観念した、日傘に入り込んで背中にぴったり張り付いていた坊ちゃんが出て来たのを、カークはしっかりと捕まえた。
「照れた時の笑い方が一緒なんですよ、お嬢様と」
言葉につられるようにカークの顔を見ると、失礼します、とカークはキリルを抱え上げるところだった。ばいばい、と背中から顔を出して無邪気に笑う、ご機嫌のキリルを見送る。
今日もお元気でいらっしゃいますね、とキリルに軽く手を振るアリスも、薬草の収穫は一段落したようだ。トリーも立ち上がって、そろそろ昼食のために屋敷へ引き上げる事にした。
カークの事はよくわからないな、と心の中で呟いた。そんなに嬉しそうに報告する事だったろうか、と。自分があんな風に無邪気に笑ってカークの顔を見上げていた事についても、複雑な思いである。