④カークとご主人様
カークはトリーの様子を不審に思いながらも、言いつけられた分厚い本を彼女の私室へ運んだ。彼女はいなかったがちょうどアリスが来た所に行き会ったので、彼女の要望だと言って渡して引き返すと、名前を呼ぶ声が聞こえた。
「カークさん、お疲れ様です。レスター様がお会いになりたいそうなので、お願いします」
「ああ」
現れたのは同僚の一人、エディという青年である。少し暗い色合いの金髪と、穏やかな物腰は育ちの良さそうな好青年風で、他の従僕と同じお坊ちゃん育ちに思える。今日は跡継ぎ坊ちゃんの遊び相手を仰せつかっていたようで、日中は外から楽しそうに相手をしている声が聞こえていた。
「エディ、キリル様を構うのはいいが、妙な事を教えるなよ」
「もちろん、危ない事なんてさせませんよ。しかしキリル様には大人のいる場所が安全で何より楽しい、と認識してもらわないと。坊ちゃんは頭が良いので、我々を出し抜いて遊びに行く事を覚えたら大変ではありませんか」
何を隠そう父親が外出好きで有名である。レスターは護衛の重要性をわかっているので本当に一人になる事はないが、令息はまだ自分の高貴な身の上を理解できる年齢ではない。そして最近、屋敷のすぐ外には自分のための広大で面白い場所、腕の良い庭師が丁寧に管理している素敵な庭園が広がっている事に気が付いたらしい。ついこの間までよちよち歩いていたのに、今日は既に走り回る成長ぶりを見せつけていた。
「確か、齢が近い遊び相手を見繕う話があったと思うが」
最近侯爵領にはキリルと同年か年上の少年連れで挨拶にやって来る臣下や知り合いが多くなった。折に付けて紹介し、令息と幼少期から交友させる腹積もりなのだろう。
「その件はどうやら立ち消えになるみたいですよ、子供は秘密を守れないでしょうから。閣下が嫌がって」
「……」
「僕とアリスの事をおっしゃりたいのなら、我々は優秀ですからとお答えしておきます。あ、それから奥様は犬を飼いたいと仰せでしたので、そのうちワンちゃんが同僚になるかもしれませんね」
エディが素知らぬ顔で子供の使用人なんて、と口にしたので、カークは思わず相手の顔をまじまじと見つめてしまった。ここで働く事の最低条件は業務上知り得た秘密を保持する事である。大人であれば情報を漏洩させた代償の大きさをわかっているので抑制できるが、幼い子供は両親に詰問されればぺらぺら喋ってしまうだろう。自分の主人はそれを危惧しているのだ。
それは全くレスターの言う通りだが、今一つ納得がいかないのは昔、侯爵邸に子供の使用人がいた事があるからだ。カークが当時の侯爵にお目付け役を命ぜられたのが十二歳くらいだったのに対し、そのエディとアリスはもっと年少者である。
当時は世の中が荒れていて、保護者のいない彼らを不憫に思ったレスターが幼少期から仕事を覚えさせれば将来助かるかもしれない、とまた変な事を言い出して雇い入れたのだった。先代が健在であれば許さなかっただろうが、その時には既に持病も悪化して、使用人見習いの雇い入れに口を出す余裕はなかったらしい。
カークだって家令の親戚縁者という触れ込みのアリスはともかく、こんなどこの馬の骨とも知れない子供を屋敷内、それも主のすぐ近くにいるのはとても抵抗があった。侯爵家の情報を内部から探るために計画的に送り込まれた間者かもしれない、と忠言したのだが、レスターは一定の理解を示した上でカークにこう命じた。
「ではカーク、エディの監視も兼ねて使用人の何たるかを叩き込むように。後は任せた」
厄介な役割を押し付けられたカークは礼儀作法や基本的な剣術訓練を相当厳しくやった。しかしここを追い出されれば次はない、とエディもよくわかっていたらしい。一度も音を上げた事はなく、その根性だけは称賛に値すると思っている。そして拾ってくれた侯爵への忠誠心だけは強い。そうこうしているうちに月日が経って、彼も立派な使用人である。
「カークさんなんてお休みの日なのに、一体何のお話でしょうかね?」
エディに話を振られたが、カークも何も聞いていない。全体への伝達事項ならば家令を通して朝礼なりを開けば済む話だ。主人の執務室の前まで来て、ちらりとエディと目を合わせ、軽く深呼吸した。ノックに応じた中からの返事を待って、二人は入室した。
「二人共、悪いな。申し訳ない」
昨夜遅くに帰還したレスターは、昼食を挟みつつ存分に午睡を楽しんでいたらしい。どことなく気だるげな調子である。いつものように、少しも悪びれない様子で二人を招き入れた。
お土産だ、とレスターはいつもと同じ素っ気ない口調で、お菓子の缶を開ける。中身を一掴みして、こちらに差し出した。お気遣いなく、と口にしたカークとは対照的に、横のエディはありがとうございます、と小さい子供かと呆れるくらい躊躇なく受け取った。正直でよろしい、と彼の両手に乗り切らない程のお菓子が追加で積み上げられる。
「まず先にエディだが。王都で出回っている噂を知っているか」
先日、王都では異国の大昔の闘技場施設を模した施設が完成した。今後は重要な国事や式典等をそこで行うらしい。その一番最初の催しが神話に謳われるような風習に乗っ取っての剣闘試合である。選抜した若者同士による御前試合で優勝した者に、夕刻に行われる祭事での大切な役回りを勝ち取る名誉が与えられる予定になっていた。
高位貴族は式典を盛り上げるために必ず代表者を選出せよとのお達しを受け、侯爵家でも栄えある若者を選ぶ事になって、領地内でもそれなりの数の希望者が名乗りを上げた。そこから一人選出する担当者として手を挙げたのが、仲間内で『安請け合い』と呼称されるエディである。負ければそれで閣下の護衛が務まるのかと大恥をかき、勝てば各所から恨みを買いそうなこの仕事を、いつもと同じくあっさり二つ返事で引き受けた。
とりあえず一次選抜は侯爵お気に入りの従僕から勝負で勝ち星をあげた者同士で勝ち抜き戦としよう、となった。しかし誰もエディを倒せなかったため、そのままちゃっかり代表者、という話になった。
当然領地内から納得できない、と反発する者も続出したが、何やらレスターが直々に事情を説明に、もとい息抜きがてらに話をしに出掛けて行った。それが今日の話である。
「ところが、見事優勝すれば爵位や領地が王命で下される、といつの間にかそんな噂がまことしやかに囁かれるようになった。既に出場者には試合が始まる前から他の候補を蹴落とすための工作やら駆け引きに奔走している者も出ている。これは式の本来の主旨や人々の祈りの気持ちに水を差す、由々しき事態であると、そう思わないか?」
おっしゃるとおりです、とエディは即答した。カークはどう答えたものかを思案して、無言を通して言葉を見送った。
慰霊祭は予定通りに進行するが、噂で出回っているような報酬は最初から存在しない。しかし当日の進行に悪い影響が出るかもしれない。出場予定者があからさまにやる気をなくし、慰霊祭の神聖な空気に水を差すような事態は避けたい。日頃から国王陛下に不満を持つ者は、これ幸いに悪評として流布するに違いない。万が一にも求心力の低下に繋がる事態は何としても避ける必要がある。
なるほど、とカークは一つ納得がいった。レスターは領地内の各所へ、自分の子弟が王都での試合に参加して活躍したところで大して得る物はない、という事情を説明するために向かったのだ。侯爵領は施設の建設にも慰霊祭の段取りにも出資という形で深く関わっている。
それで、と主人はエディに向き直った。報酬の件で揉める者は出さずに、当日の試合は進行通りに進める方法がある、と。
「そういうわけでエディ、何としても優勝してみせろ。報酬は私個人の財布から相応に出す」
はい、とエディは迷うことなく命令を受け入れた。横で聞いていたカークは何て無茶な、と思った。いつも冷徹な表情を崩さないレスターが微かに満足そうな声音で、多少の事前工作は請け負うと言った。
「では、試合の順番を一番最初に、一番手強い相手に当たるよう、組み換えて欲しいのです」
エディはほとんど即答で答えを出してしまう。失敗する可能性ではなく、どうしたらやり遂げられるかしか既に頭にはない。何故こんなに自信満々なんだろう、とカークがこの後輩を、羨ましくて、それから苦手としている理由だった。
案件が一つ片付いて良かった、とレスターはお茶を給仕に運ばせた。カートを押して運んで来た侍女は最近入って来た新顔で、エディが後は大丈夫ですよと笑顔で引き受ける。ほっとした様子で引き返して行った。彼が淹れたお茶で一息ついたところで、それで、レスターはようやくカークに向き直った。
「カークに婚約者候補になるような女性は……調べた限りではいないようだが」
てっきりその剣闘試合当日の業務連絡だとばかり思い込んでいたので、意表を突かれた格好になる。レスターは王都で式典に参加、夫人は領地に残って侯爵領の慰霊祭に出席する予定だ。本当は自分がこちらに残って主人の代理を務める予定が、トリーが珍しく王都へ行きたい、と主張したので、カークが都会屋敷まで安全に連れて行く役目を仰せつかっていた。
「今の私はまだ、責任ある仕事を任されている身です。自分が生涯を、家と領地とレスター様への忠誠を守って行く相手に対して、不誠実な事はしたくないのです」
使用人として忙しく動いている状態で、跡継ぎ息子として将来の結婚相手が満足できるような時間を割く余裕はないのである。お願いだから早く帰って来て、と悠々自適な隠居生活を送るつもりだった父も急かしてはくるけど、それはそれである。要するにまだ手をつけていないだけだが、大義名分だけは考えてあった。
へえ、とレスターはカークの返答を聞きながら、じっとこちらを見ていた。何もかも見透かしているような眼差しは、主人が軽く息を吐いた事で不意に逸らされた。
「ではカーク、妹と結婚しろ。貴殿をトリーの正式な婚約者に据える。妹が成人したらそのまま妻として迎え入れるように」
あまりに予想外の方向から結論が出され、カークが持っていたカップを落とさなかったのは奇跡だった。ははあ、と珍しく間の抜けた声を横のエディが零し、そしてレスターは対照的に重大な案件が一つ終わったとばかりの饒舌さである。
「エディ、お前の試合を観戦したいそうだ。今まで病気がちだったのは事実だが、慰霊祭の日に一日何事もなく過ごせば、体力的な問題はこの先もなんとかなるだろう。少なくとも、屋敷を切り盛りする一端を担う事はできる。私は可愛い妹を遠くに嫁がせて寂しい思いをしなくて済む。いじめられてやしないかと心を痛める必要もあるまい。カークにも別に悪い話ではないからな、よし決まり」
お待ちください、とカークは間髪入れずに主人に詰め寄った。しかし何だ、と冷静な声を返されると自分がどこから抗議をするべきなのか、混乱した。
「お嬢様の御意思はどうなるんですか……!」
「どこの世界に屋敷から出た事のない人間に重大な判断を委ねる当主がいるんだ、無責任な」
主人は実に上級貴族らしい考え方を披露した。対するカークは先ほど、書斎で本人に向かって閣下に任せておけば、と太鼓判を押した事を激しく後悔した。何一つ大丈夫ではなかった。
しかし私には、と口を開きかけたのを、主人は鋭い視線で制した。
「私も今まで社交界で様々な人間を、妹の結婚相手という視点も兼ねて観察してきたつもりだ。その貴公子共を差し置いて、一番先に貴殿に話を持ち掛けた意味をもう一度考え直してもらおう。謙虚も過ぎればただの卑屈だ、カーク」
気持ちが育つように取り計らうのが年上の男性としての義務である。レスターは助言のつもりなのかそれだけ言い残して、二人の従僕に退室を命じた。