③お嬢様とまだ何も聞いていない人
カークはこの日、非番であった。しかしいつも通りに身支度を整え食堂で朝食を摂り、向かった先は家令の執務室である。休みの日なのにと苦笑されつつも、いつものように仕事を手伝わせてもらえる事になった。
生家に戻ろうと思えば帰る事ができる距離ではあるが、明日は早朝から仕事もあるので、結局は侯爵邸で過ごすつもりだった。
時間は十一時を過ぎた頃、少し前に料理長が家令とカークの分の食事を運んで来て、そのまま雑談をしながら自分用らしい軽食を味わっている。使用人のまとめ役である家令は忙しくて、食堂へ行く時間すら惜しんで領地とここで働く人間の為に邁進しているのだ。
「いやあ、悪いねカーク君。私はすごく助かっているんだが」
「いえ、お気遣いなく。自分の後学のためですから」
「……ほんと、昔から可愛げがないよな。少しはアリスちゃんやエディを見習えよ」
「またそんな憎まれ口を。一番可愛がっているじゃあないか、アンガス」
全然そんな事はない、とカークとアンガスが声を重ねたので、家令は仕事の手を止めてしばらく笑っていた。穏やかな壮年の家令に対し、料理長は貴族の邸宅より下町の酒場の店主の方がずっと似合う男である。しかし屋敷中の誰もが、彼の腕と舌の正確さだけは一目置いていた。
「でもカーク、実際そう遠くないうちに使用人は辞めるんだろ? 跡取り息子だし、お前の親父さんは何か言って来ないのか?」
「それは……」
実際、アンガスの指摘する通りではある。前に帰った時にもこちらの顔色を窺いながら、父はそろそろ引退を考える時分に差し掛かっている、と遠回しに言われている。しかしカークがまだ子供だった頃に、当時の侯爵の要請を受けて屋敷へ奉公に出す事を決めたのは父であるからして、あまり強くは言って来ない。
「……それでは人生の大先輩にご教示して頂きたいのですが、料理長がかつて一人前、と認められた日はいつだったんでしょうか。そしてその日には特別な何かが起きたんですか?」
それなりに長くレスターに仕えていると、当然周りには辞める人間も出て来る。多くは自身の結婚や親兄弟のやむを得ない事情を理由に挙げた。
ただカークにとっては何かを以て一区切りにするには、ここも生家も平和が過ぎるのである。こんな事なら自分の年齢が二十歳に差し掛かった時に区切りが良いので、と辞しておけばよかったかもしれない。
ところがちょうどその頃に申し訳ないが、と自分の主人はいつも通りのあまり悪いと思っていない口調でカークを呼び出し、執務室に大きな地図を広げた。北の領地へ使者として向かって欲しい、と頼まれた。侯爵家の将来に大きく関わるのだ、と言われれば断れなかった。
その後も主人の結婚や令息の誕生と色々なお祝い事も重なって忙しくなり、屋敷を辞する機会を逃していた。
「よしいいぜ、ついて来いよ」
しょうがない奴、と呆れられるかと思いきや、アンガスは満更でもなさそうな顔でカークを部屋の外へ誘う。仕事の手を止めて彼の後に続き、階段を降りて一階にある厨房へ向かった。今日は外での食事を侯爵夫人が御所望らしく、この時間帯にしては珍しく静かである。料理は鍋ごと、天幕を張った外へ運ばれて行ったらしい。
「いいか、これが俺の師匠からもらった道具一式。その時は使用人じゃなかったが、師匠の味を覚えて遜色ない一皿だと認めてくれて、自分の店を出せと言われた。それが俺の区切りだったな、言われてみれば」
アンガスは仕事道具が納められているらしい戸棚の奥へ手を伸ばし、長方形の大きな木箱を取りだした。刃の長さや形状に違いのある刃物が一揃い、箱の中に納められている。
「従僕の剣と同じくらいに切れるからな、気を付けろよ」
一本手に取らせてもらってそのずっしりとした重さに、料理人、非戦闘職種の持ち物、と侮る事ができないのは、持ち主の仕事ぶりをよく知っているからかもしれない。思わずじっと見入っていると、いつの間にか配膳を終え、侯爵夫人にお褒めの言葉を頂いて満足げな厨房の使用人達が戻って来た。自分達の後ろからアンガスの宝物を一緒になって覗き込む。
「料理長、これは業物だな」
「だろう? 俺が師匠から持つ事を許されたんだ」
アンガスは誇らしげに一通り喋った後、満足したようで夕食の下準備に取り掛かった。カークは一人で家令の執務室へと戻り、再びペンと紙を捲る音だけになった。一方、外からは楽しそうな笑い声と楽器の演奏が聞こえて来た。
机から外をちらりと横目に見やれば、暖かな陽射し、整えられた敷地内。穏やかな団欒を形成するのは、そこで笑い合う主人一家、そして見守る使用人達である。
令息が庭に持って来たお気に入りの玩具であるラッパを見て、音楽好きの使用人が竪琴や洋琵琶を披露しているらしい。そういう曲なのか即興で演奏しているのか、不思議な音色が開け放した窓から入って来た。楽器の音と拍手、それから聞こえる笑い声は一様に明るい。なんとも平和なお屋敷である。
当主が変わればこんなに変わるものなのか、とカークは窓の外の春の陽ざしに目を向けた。自分が子供の頃は一体何だったのか、と何となく物悲しい気分になる。当時の事なんてすっかり忘れてしまったように、古株の人間も一様に楽しそうだ。
「……混ざって来たら?」
「いえ、大丈夫です」
今の時間に庭に出ているのは夫人と、当主であるレスターの妹のトリーだけらしい。屋敷の主でもある肝心のレスターは昨日の夜遅くにようやく領地内放浪の旅から帰還し、今はまだ自室で休んでいるのだろう。職務や家族との時間の合間に、時折一人になりたがる当主を夫人は広い心で容認している。
正妻という立場とはいえ別の家の人間を迎える時、屋敷はしばしば緊張感に包まれるそうだが、予想されていたような衝突もなく、遠い場所からやって来た夫人以下、数人の使用人達はこの屋敷の空気にすっかり馴染みつつあった。
使用人の部分に限れば、家令の人徳だろう。主人一家もお互いに気遣いつつ、特にトリーは奥方を姉として慕って積極的に交流を深め、それも彼女がこちらへ溶け込むのに一役買ったのだ。あの小さかった女の子が、とカークは何とも言えないしんみりとした気持ちに蓋をして、家令の仕事の手伝いに熱心に打ち込んだ。
しばらくして、家令の執務室がノックされた。
「お疲れ様です。……今日は休みだったよね、カーク君」
「ええ、勉強させてもらっているところです」
「そう、私も旦那様の行動記録を書くところまでが仕事だ」
扉を開けたのは、夫人が嫁ぐ際に連れて来た唯一の男性使用人でカークの同僚だ。休みの日なのに、という苦笑めいた視線をこちらに寄越しつつ、家令から書類を受け取って、空いている机に座ってこれから記載する内容を考え込んでいる。レスターがあちこちに出歩くのに、夫人に対する疚しさは一切ない事を示すために毎回一緒に連れて行かれ、詳細な行動記録を残すのが仕事である。
「昨晩はどこまで?」
「初めてじっくり見せてもらったけど、港の規模はやっぱり圧巻でしたよ」
ここは豊かなわけだ、としみじみ呟く同僚の言葉に、カークは思わず顔を上げた。自分の生家があるためだ。しかし、事前に訪問する予定にはなかったはずである。
「何をしに行ったのですか?」
「うん? もちろん視察ですよ。それからカーク君のご両親にも挨拶してきたとも」
彼は何でもなさそうに返事をして、どこで誰と会ったのかを詳細にまとめるために頭を捻り始めたので、それ以上聞き回るのは気が引けた。何か用事があるなら自分を通せばよかったのに、と何だか腑に落ちないままカークも自分の手元に視線を戻した。
「ついでに書斎へ行って返して来ます」
カークは本日、家令に勉強させてもらったお礼を述べてから、引き受けた六冊の蔵書を腕に抱えて、家令の執務室を後にした。一応ノックすると、中から声がする。どうやら外での楽しいお食事会はお開きになったらしい、トリーが顔を上げた。
「カークは今日、お休みだったのね、家に帰っているのかと思ったのに。アリスは休憩と、早めの夕食を食べに行ったの」
お付きの侍女は見当たらない。こちらの考えを見透かしたように返事が飛んで来た。以前は急に体調を崩す事も多々あったために、専属のアリスという娘が始終張り付いていた。本人はそんなのは昔の話だとばかりに平然としている。
「……私の顔に何かついていますか」
彼女は兄と同じく明るくお喋りで、いつもなら何かしら面白いお話をして下さるのだが、今日は黙っている。その割にはこちらをじっと観察している様子だが、カークが本を戻し終わって彼女に取って欲しい本はないかと思って視線を向けると、さりげなく目線を外された。
何か様子が変だと思っていると、あの本取って下さらない、と令嬢はすました顔で、棚の一番上を指差す。カークが了承して書棚に近付くと、右手を伸ばして届く高さではあるが、重そうな本なので多少心許なく感じた。
その空気を察したらしく、直ぐ足元にトリーがわざわざ踏み台を運んで来てくれた。食事を運ぶカートと同じ構造で、彼女が足先で、かちりと輪留めを踏んで固定した。その音は妙に部屋に響いた。
お気遣いありがとうございます、と台を借りようとしたが、先にトリーがひょい、と軽い動作で飛び乗った。
「ねえ、カーク」
「な、何ですか」
何故か壁際に追いやられた形になるが、相手の意図がよくわからないので困惑するばかりだった。同じ高さに目線が来ていて、危ない事と距離が近い事のどちらを忠告するべきか迷っているうちに、彼女が先に口を開いた。
「私が結婚したらどう思う?」
「……どう、と申されましても。特に重大な障害が発生しない限りは結婚するのでしょう、侯爵家の名前を背負って」
「私、どこかの奥様としてやっていけるのかしら。お兄様もお義姉様もアリスもいない場所で」
彼女は真剣な眼差しでこちらを見つめた。トリーが幼い頃に罹った流行病は、彼女のその後の人生に少なからず影響を残している。レスターは妹の側に付く使用人を選んでいるため、屋敷内ですらあまり知られていない話だ。
薬の研究開発への投資と、領地内、この侯爵邸で穏やかに過ごした事で、症状自体はほとんど緩解しているのは救いだった。髪型や衣装に気を使えば、ほとんどの人間が気が付かないだろう。少々身体が弱いのが難点だとしても、貴族女性とは総じてそもそもそんな感じである。
しかし世間では正式な夫人の子供ではない非嫡出や、身体に大きな傷があるとか素行がよろしくない事と同様に、結婚や職業に大きな影を落とすとされている。
「何か気に病まれるような事があるのなら、レスター様に早めにお伝えするべきですよ。不安な気持ちを無下にするような事もないでしょう。あなたの兄君、閣下はお優しいですから。トリー様のために最良のお相手を選んで下さるはずです。それは私が保証します」
カークはレスターをずっと近くで見て来た。世間で言われているような完全無欠の人間ではないが、少なくとも自分より弱い立場の人間に対する姿勢に疑問を持った事はなかった。カークが言葉を探して口にするのを、トリーはじっと聞いていた。
「……そっか、そうね。カークの言う通りだと思う」
トリーは拍子抜けする程あっさりと引いて、ひらりと台から下りた。いつもの見慣れた、あどけない、屈託のない笑顔ではない。上流階級の女性特有の、どこか一枚壁を隔ているような大人びた表情である。そしてもう平気だから、とこちらを見上げた。
「ごめんなさい、変な事を聞いて。お休みの日だったのにね」
カークが発言の意図を尋ねる前に、彼女はそそくさと退室してしまう。本当にトリーが読みたかったのかどうか、疑問が残る難しい本が手元に残された。