②お嬢様と本日は非番
さて、トリーがのんびり平和に暮らす侯爵邸の一つ、領地内の本拠地でもある田舎屋敷にも、十年の歳月が過ぎれば幾つか事件は起きるものである。その最たるものが、突然結婚を決めた兄のレスターだった。
兄は周囲の跡取り貴族青年達に比較して、かなり早く爵位を継いだ部類に入る。身分に相応しい高貴な佇まいだが、厳格な先代とは対照的に気さくで社交に明るく遠出が大好き、妹の面倒を見ながら飄々と自分の役割をこなす生活を送っていた。
そんな兄だが王命である、といきなり重々しく口にした。そして妻を迎える、と続けた。家令から床磨きまで全ての使用人が集められた場での報告である。兄はしばらく領地を留守にしていて、久しぶりに帰って来た第一声がそれであった。
事前に手紙で話を聞いていたトリーと、その後ろに控えていた専属侍女のアリスなどの一部の上級使用人を除き、誰もが目を丸くした。
それも前々から少しずつ仲を深めた間柄ではなく、国からお達しがあったのだ。兄はそれに従って、ほぼ国土の反対側の領地で生まれ育った女性を、妻として侯爵家に迎え入れる事にしたのだと。当のレスターは眉一つ動かす事なく、もう決まった事だといつも通りの無表情であった。
北の地は近年の凶作続きで運営が苦しく、兄の結婚は支援の旗印とされている。兄自身が国王たっての依頼であちらへ赴き、現地で人員の調整や陣頭指揮に関わった縁でもあるらしい。
そんな風にして後日、義姉となる女性がわずかな使用人を連れてやって来た事務的とも言える手続きの一連を、トリーもいつかは自分に起こる事だとして覚悟した。知らない土地へ、知らない相手のところへ行くのかもしれない、と。
「お嬢様、そろそろ起きて下さいませ」
トリーの一日は、専属で面倒を見てくれている侍女の声で始まる。アリス、という少し年上の大人しそうな雰囲気の侍女が、まだシーツに包まっているこちらへと話し掛けた。顔を出して様子を窺うと、既に身支度を整える準備は揃っている。
「アリス、今日は何をする日だったかな」
「お昼は奥様からお食事に、旦那様は昨晩遅くにお戻りになったようで昼食を摂り次第、東屋まで顔を出すようにとお言葉を預かっています」
アリスの声を聞いているうちに、そう言えば昨日も寝る前にそんな用事を聞いた事を想い出した。社交界で持て囃される兄だが、たまにふらりと外出する悪い癖は治らず、結婚しても子供ができても頻度が少し減っただけで、たまに護衛を引き連れて出かけてしまう。視察のついで、とは言うが遠出したくて予定を組んでいるのだろう。
「お兄様に反省の気配はないようね」
「お忙しい身でいらっしゃいますから」
アリスはトリーの雑談に事務的な口調で応対しながら、てきぱきと主人の身の回りを整えていく。髪を綺麗に編んで衣装を整える間、トリーはのそのそと起き上がり、ベッドの縁に腰を下ろしてされるがままだ。朝食として綺麗に切り分けられた果物と絞り汁を口にしている間に身支度が丁寧に整えられた。
「先ほど、商会から馬車が到着しまして。頼んでおいた衣装と、それから奥様と一緒に注文した日傘が届いたようですね。王都へ先に送る準備がありますから後で確認して下さいな」
わかった、とトリーは返事をした。もうすぐ、王都で大きな慰霊祭があって、自分もそこへ参加する事になっていた。頭の中でその日付を確認して、もうそんなに日が迫っているのか、とも思う。まだまだ先、と軽く考えていたが、もう数日後にはこの田舎屋敷を発っている事になる。
王都では先日、ずっと建設中だった国の施設がついに完成した。何万人もの人を収容する巨大な施設で国王陛下主催による一番最初の催しが、十年ほど前に続いた災害や流行病の収束を忘れないための式典である。神話にあるように、腕に自信のある高貴な年若い青年達による勝ち抜き剣闘試合が予定されていた。
大人も子供もたくさん亡くなる中、自分が生き残ったのは貴族の人間で、治療や薬が優先的に回ってきたためだ。その事を絶対に忘れてはいけない、と思っている。
「ところでトリー様、アリスの手品が見たくはありませんか?」
「見たい、見たいです」
しかし過去に計画されたお出かけは大体、体調不良で台無しになっている。最近は薬や身体の成長に連れて改善されてきたが、不安な事に変わりはない。
そのタイミングを見透かしたように、専属のアリスは小気味よく指を鳴らす。お淑やかなアリスだが、ちょっとした特技があるのだ。彼女の手に突然現れた、白くて可愛い花に気を取られて、嫌な記憶は遠ざかった。
アリスも年齢は十代の半ばだが、職歴は十年近くあるベテランだ。その上、使用人のまとめ役をしている家令の縁戚者であるため、将来はもっと上の役職に就くだろうと言われている。そんな彼女が手品、手品と嬉しそうに披露してくれるので、入ったばかりの新人は戸惑うらしい。
「すごい、魔法みたい」
トリーはアリスの手品のタネを見破る事ができないので、いつも感心してしまうのだ。未だに使用人として屋敷に留まっているカーク辺りには毎回よく飽きないですね、と呆れられてしまう。それならカークは手品のタネを見破れるの、と尋ねると露骨に目を逸らされる。彼もトリーよりずっと先に大人になって、しかし未だに兄に振り回される使用人の一人であった。
「楽しみですね、王都へ向かうのは。奥様とレスター様にお会いする時に、楽しいお話を収集するとよろしいかと。お二人は私達よりずっとお詳しいですから」
アリスは手品が上手く行った、喜びに満ちた表情のままで言葉を続ける。彼女の穏やかな笑みと声を聞いているうちに、不安な気持ちは薄らいだ。アリスはあの手この手でトリーの意識を別の方向へ向ける手段に余念がない。それに上手く乗せられて、今までは体調不良でなかなか侯爵邸の近辺から出ずに過ごしていたので、単純に楽しみな気持ちが心の多くを占領した。
本日は天気もよく、冬が明けてから一番暖かい日になりそうだ。兄の妻、侯爵夫人が外で食べるのはどうかと提案し、庭には天幕が張られた。椅子と卓が持ち込まれ、トリーはそこにお呼ばれして義姉と跡継ぎの坊やと昼食である。
義姉は高位貴族出身という立場に相応しい、年齢にそぐわない落ち着きと気品とを兼ねた女性である。自分の侍女がこっそりと、血縁関係のないはずのレスターに纏う空気が似ている、と評していた。
「美味しいですね」
「それは何よりでございます、奥様、お嬢様」
今日の厨房担当は、料理長のアンガスではないらしい。まだ若い侯爵邸の料理人は味が盛り付けが素晴らしいと褒められ、誇らしげに義姉の話に耳を傾けている。故郷には他にもこんな調理法があって、と珍しく饒舌な彼女に、今日の会食は大層好評らしい。
トリーはそれを横目にしながら、銀の匙で美しく盛り付けられたデザートを掬った。リンゴを酒と砂糖などで煮て、瑞々しい味わいの侯爵邸定番である。口に運ぶとつるりと、喉の奥へ滑るように落ちて行く。義姉の故郷にはリンゴ畑が広がっているらしく、彼女の大好物なのだ。
このデザートは元々、トリーが大好きな桃で作ってくれたのが最初だ。熱を出した時に、これを食べて命を繋いだのだと兄が今でもよく口にする。
一方、天幕の外の芝生にいる甥っ子キリルは活発な気性らしく、早々に食べ終えて庭を走り回っていた。いつもは真面目な顔で控えているだけの従僕達が、今日に限っては追いかけっこに参戦しているのである。
中でも兄のお気に入りのエディという年若い青年が、優れた身体能力をいかんなく発揮して、坊やを捕まえ損ねた振りで地面に受け身をとって颯爽と態勢を整え起き上がった。それを見たキリルは目を輝かせて真似をしようとしたが、危険だと判断したエディがさり気なく彼の両手をとってくるくると回す遊びに移行している。
「こんなに素晴らしいお庭を毎日走り回っているので、先生も足腰の発達が早いとおっしゃって。小さい馬を連れて来てはどうか、なんて気の早い事です」
「良い考えではありませんか。好きな事は伸ばしてあげましょうよ、お義姉様」
何しろ子守りがたくさんいるので、跡継ぎはのびのびと走り回っている。夜会に従僕を引き連れて謳歌している兄もきっとこんな風なのだろう。トリーは坊やがこちらに預けて遊びに行った、自分の宝物らしい玩具のラッパを弄びながら、義姉の話に耳を傾けた。
「それで実は、犬を飼うのはどうかと思っていて。私も幼い頃は白い犬がいつも近くにいて、それが友達みたいなものだったから……」
「まあ、それは素晴らしい」
まるで物語のようだ、とトリーは義姉に羨望の眼差しを向けた。トリーが子供の頃に読んだ本の中で、主人公には大抵、大小様々な相棒が常に冒険に出ていたのだ。一人と一匹は種族と言葉の壁を越えた、かけがえのない友情で結ばれるのである。きっと北国の大きくて真っ白で、毛足の長い優しそうな犬だったに違いない。
そんな風に想像を膨らませていると、向かいに座っている義姉は苦笑している。
「……正直、犬が友達だったと知ったら笑われるかと思って。どうぞ、私のを一切れ差し上げますよ」
トリーは果物が好きね、と義姉も食後のデザートを口に運んでいる。美味しい、とお上品に口元を綻ばせた。
「そうなんです。熱が出て危なかった時も、アンガス料理長が作ってくれた桃を食べて持ち直したんだって、未だに兄が言うんですよね」
本来は夏の暑い時期の果物だが、早く収穫できる種を調達して、それで食べさせてくれたのだ。ありがたい事ですね、と義姉の言葉に頷いていると、そばに控えていたアリスが小さな声で次の予定の時間が迫っている事を知らせた。
「お義姉様、私はお兄様に顔を出すように言われているのです。そんなに時間は取らせないとも聞いていますので、今から行って参ります」
「それなら、途中まで送って行きましょう。坊やを見ておいて」
ここでのんびりしていて下さい、とトリーが言う前に義姉は立ち上がった。一緒について来ようとした侍女達をやんわりと制す。さあ、と彼女は日傘を差して、トリーを敷地内の木立の奥へと誘う。その先に、兄が好んでよく休憩しに行く東屋があるはずだった。
敷地内であるため、数人の護衛とトリーのお付きの侍女であるアリスだけが後ろから静かに続いた。
「ね、暖かくなってきましたね」
足元は庭師が整えて、小さな黄色い花がぽつぽつと咲いている。それを観賞しながらのゆっくりとした足取りだ。
「お兄様はまた朝帰りだったと聞きましたが」
「……私の横にこっそり潜り込んで来たのが明け方でしたね、そう言えば。昼食前には坊やがお腹の上に乗って跳ねたりラッパを吹いたりして、起こそうとしていたのだけれど」
明け方まで何をやっていたのやら、とトリーは呆れてしまった。仕事で誰かと会っているのはわかるけれど、と普通は喧嘩に発展してもおかしくない案件なのだが義姉は苦笑している。海のように寛大な心の持ち主が伴侶で兄は幸せだと思った。
「『どうしてそんな時間になるのかと言えば、用事が済んだら一刻も早く帰還するべきだと思っているからだ』なんて堂々とおっしゃるのだから、笑ってしまった私の負けですね」
つまりは疚しい事は一切ない、と兄は言いたいのだ。一切悪びれない兄の態度に、日傘がなければ頭を抱えているところに、義姉の静かな声がこちらに問いかけた。
「あなたは結婚して、他所の土地へ移りたいと思った事はない?」
「私は……」
トリーはまだ未婚の娘なので、兄のように侯爵領を自由に、身体の事もあったので大手を振って歩けるわけではない。けれど海を臨み、豊かなこの土地の事を愛していて、わざわざ離れたい気持ちはなかった。今となっては慣れ親しんだ使用人達も、その離れがたいうちに入る。
「もちろん、侯爵家のためとあれば、どのような役割でも果たすつもりではありますけれど」
「ここはいいところだから、あなたの気持ちがよくわかります」
義姉はじっとトリーの顔を見つめた。兄が向けてくれるのと同じ、自分に対する温かい感情を受け取る事ができた。
しかし何より、貴族階級である以上、逃げられない役割は必ず存在している。家のために結婚する、それは全ての貴族女性に求められる条件だ。ただトリーの場合は立派な兄という当主は結婚し、まだ幼いとは言え既に跡継ぎもいる。このまま何事もない時間が過ぎれば、二子、三子と侯爵の血を引く人間は増えていく予定だ。少なくとも自分の進退に家の存続の全てが懸かるわけではないから、トリーは恵まれている。だからこそ、たとえ国土の反対側に行くように兄から要請されたら受け入れるつもりでいた。
「……では、失礼します」
「ええ、いってらっしゃい」
兄のお気に入りのぼんやりする場所、庭園の東屋が見えたところで、トリーは義姉やアリスや護衛達と別れて一人で進んだ。
「お兄様、トリーが来ました」
声を掛けた相手は自分の兄ながら、見た目だけは貴公子という言葉のよく似合う青年である。明け方に夫人のベッドにこっそり入れてもらった男とは思えない高貴な佇まいだ。アリスは目が合うととても緊張しますと言っていた。一見するとその通りの怜悧な貴族青年だが、トリーにとっては唯一の兄でもある。
そんなレスターは目を閉じてじっとしていたが、トリーがやって来ると目を開けた。座りなさい、と促されたので素直に従う。木々の間から丁度良い具合に陽光が当たって、日向ぼっこには最適の位置である。東屋はトリーが子供の頃に造られたのだが、年季は入っていも手入れが行き届いていて綺麗に整備されている。
「お兄様も食事の時にいらっしゃるべきでしたよ。お義姉様の故郷の味を楽しむ良い機会でしたのに」
「夜遅くに戻って来たから、先ほどようやく起き出したところだ」
さっき同じものを食べた、と兄はまだ少し眠たそうだ。
「随分と気安い仲になったようだな」
「お兄様が、遠くから嫁いでくるお義姉様と、義理とは言え姉妹として、仲良くするようにおっしゃったではありませんか。それに、お義姉様はとてもお優しいのです、私の憧れ」
そうか、と兄は言った。それでは、と再度口を開く前に少し時間がかかった。穏やかな風が吹き抜けて、どこかで春を告げる小鳥が鳴いた。
「さて本題だ。カークについてどう思う」
「どう?」
いつもの兄であれば、用件をさっさと口にしてしまうのだが、今日は妙な間が空いた。こちらも、予想していなかった話の切り口に戸惑ってしまう。
カークはアリスより長く侯爵邸に、兄の従僕としてそばにいる。気がついたらいた。その頃は兄のお目付け役としてずっと後ろに立っていた。いつも真面目な顔をしていて、実家は侯爵領の要衝の維持管理を任されている。
子供の頃は使用人や身分についてはよくわからなかったが、色々な事を理解した今では大変だと思うし、それから継ぐべき家に帰らない事が少し気がかりである。それは決して、トリーだけが感じている疑問でもないようだが。
「どうしてカークなのですか?」
「……山積みの書類の一番上にカークの分が乗っているだけだ。その下にもまだまだたくさんある」
トリーはしばらく考え込んだ。庭の一画には兄妹しかいない。これもまた少し珍しい。つまり、本来はいるべき護衛も人払いされている。安全上問題はなく、そして会話は聞こえない程度の距離で待機しているのだろう。
給金の査定の話なのかな、とトリーは推測した。多分カークの話が終われば、アリス達、他の使用人の査定の話もするのだろう。山積みの書類、というのはそういう事だ。
それなら自分にも兄にも人払いがされている理由も納得できた。いつもなら兄のそばにはカークなりエディなり、護衛の能力に長けた者が静かに佇んでいる。先ほどの会食時にもカークの姿はなかったので、今日は家に戻って家族と過ごしているのかもしれない。
「カークだったら、何の問題もないではありませんか」
トリーはできるだけ褒めちぎる事にした。そこに他意はなく、たとえば専属のアリスや、家令、料理長のアンガス、庭師のラック、御者のロバート。他の侍女でもできる限り兄が給金の査定を増額、と気持ちよく書きつけたくなる文言を探した。
使用人達を適切に管理して、気持ちよく働いてもらえるように配慮する事は、いずれ自分が結婚して、その相手先の家でも必要な技能である。その一環として意見を求められたのだと思った。
「そうか」
トリーの熱弁を、兄は椅子の背に肘をつきながら、何か面白い物でも見るような顔つきで聞いた。一段落ついたところで、いつもの真意のわかりにくい声で口を開いた。
「そこまで好意的に思っているのなら、結婚相手として真面目に考えてみないか」