⑪お嬢様とカーク
領地内の総支配者に食ってかかる、という血迷ったとしか思えない所業をしでかした息子に、当り前だが父は放心状態であった。家を継げなくなった事を端的に伝えて外へ出ると、折しも世の中が一番混乱している時期だったので、どこへ行けばいいのかさっぱりわからなかった。
カークが己の無力さを噛みしめている時にやあ、と現れたのは侯爵邸の庭師のラックで、随分探したんだと文句を言われた。彼は同じ屋敷に勤めた誼、と言って住み込みの仕事先を紹介してくれたのである。
ラックはその後、月に一度か二度カークの顔を見に来ては、部外者には機密を喋れないよ、と庭木や薬草について延々と喋った。けれど彼の口ぶりや街の噂を鑑みるに、どうやらトリーは持ち直したようだ。それがわかっただけでも楽になった。
「お料理おじさんこと、次期厨房総責任者のアンガスがせっせと卵料理を作っていてね、滋養があるんだって。試作品を味見させてくれるんだけど、そろそろ羽が生えてニワトリになりそう」
差し入れだよ、とパンや焼き菓子をカゴ一杯に手渡してくれた。正直、草むしりしかさせてもらえない見習いでは住み込みとはいえ食事の取り分にも気を遣うので、とてもありがたかった。
「あの手の、子供の顔をまともに見ようともしないで上から押さえつける父親は、弱みを見せた瞬間にもうお終いさ」
どこの家も一緒だよ、と庭師は言う。権威は地に落ち、家の中は息子の積年の恨みで大荒れだ、と。そんな事を喋って大丈夫なのかと訊ねると、これはただの一般論、と返された。
「本当に草むしりやっているのか……」
ラックの話を整理しながら草むしりを続けて数か月が経った頃、カークを客人が尋ねて来た。日焼けしたな、とレスターは久しぶりに顔を合わせた所見を述べた。
近くに乗って来たらしい馬車と従僕達が待機しているのが見えた。彼らの後ろにいる御者のロバートがこちらに手を振って、彼にお世話になったカークは一応会釈をしておいた。
「カーク、今回の事は本当に申し訳なかった」
止めて下さい、とカークは慌てたが、相手は頭を下げたままだった。父は息子にもひた隠しにしていた持病が急に悪くなって、なるべく早く爵位を令息に譲る事になってしまったとレスターは言う。
「トリーは持ち直した。まだ油断はできないが、食欲があるうちは大丈夫だと思う。貴殿のおかげだ」
卵をたくさん食べて鳥になって羽を生やして空を飛ぶつもりらしい、とレスターはトリーの状況を教えてくれた。その話だけだと何とも平和だが、実際は街の多くの人々と同じように、後遺症がこれからも続くのだろう。薬草園でも既に、そんな人達のためのせっせと敷地内の草むしりと土を耕す作業に追われていた。
「港が落ち着かなくては、領地を守る事もままならない。次期当主としてお願いする、家に戻って欲しい」
しかし、とカークは自分の処分は既に決まった事だとレスターに説明した。しかし次期当主は私だ、とレスターも譲らずに繰り返した。
頼む、と主人に頭を下げさせるわけにもいかなくて、結局はカークは三か月の謹慎処分が明けた後、再び使用人として屋敷に上がる事になった。
「笑ってくださーい」
侯爵家の令息、キリルがソファにもたれた父の膝上に陣取って顔を覗き込み、先ほどから何か反応を引き出そうと試みている。
トリーが、ついに家を継ぐために実家に戻ったカークを屋敷に呼んで、もちろん兄とキリルも同席だ。義姉は女主人としてもうすぐ始まる会食のために、厨房に最後の打ち合わせに向かって席を外している。
「あなた、お兄様! 旦那様、侯爵閣下! レスター様、ご主人様! ……わんわん!」
ちっとも効果がないが、令息は彼の周りにいる人の真似をして父を笑わそうと企んでいるらしい。微妙に声音や顔つき、口調を調整してそれっぽく演じて見せた。彼の新しい相棒が四足でくるくると回って、キリルを応援している。書斎にあった薬草事典をぱらぱらと捲ってこれだ、という頁から名前をつけられた屋敷の飼い犬、ジンジャーである。愛嬌のある顔をしているが、かなり利口らしい。一通りのしつけはすぐに覚え、静かに幼い主人の側にぴったり張り付いている。
「……ジンジャーを構う時のキリルの真似」
ほぼ無反応だったレスターは一転して息子を押さえ込んだ。キリルはくええ、と足をばたつかせているが、がっちり捕まってしまって哀れっぽい声を上げている。
「客人の前では静かにするように。……少し落ち着かせて来るから、アリス、エディも後は任せた」
お気遣いなく、と招待されたカークが口を挟んだが、レスターは線引きが大事、とどこかで聞いた事のある台詞を持ち出し、トリーの専属侍女に後を託して退室した。ちなみにキリルは父が構ってくれるので満足な様子だ。またね、とそのまま抱えられて行った。
部屋にはトリーとカーク、それからアリスとエディが残された。仕事中の彼らはこういう時は良い意味で空気として振る舞うので、二人共取り澄ました顔をしている。
「カーク、エディ君はいつ屋敷に戻してくれるの?」
「ほとぼりが冷めるまで、という条件でこちらに預かっています」
慰霊祭で大活躍したエディは現在、少々有名人になり過ぎたので、カークの家に出向していた。彼はカークが侯爵邸の家令や頼れる使用人の先輩方に、屋敷の運営についての不明点を長々と書き記した書状を託されて顔を出してくれる。
アリスが寂しがるのではないかと思っていたが、二人の関係も落ちついたらしく、会う事のできる時間を大切にして仲良くやっています、と彼女は嬉しそうだった。
カークは屋敷を正式に辞したので、様子は領地内の会合等で顔を合わせる兄に訊ねるしかない。彼がどうしているかと訊ねると、無難な対応をしていると返答されたので、おそらくは使用人だった頃と似たような真面目な態度で参加しているのだろう。今まではレスターの付き人としての参加だったのが、招待客に回ってどうやら辟易しているらしい。
「輪の中心にいると疲れませんか?」
「私は楽しいと思うけど」
トリーも領地内の年齢の近い少女達と交流を持ち始めた。最初は遠慮していて当たり障りのない会話だったが、回数を重ねて彼女達の為人を大体把握したところである。最近のお茶会では両親へのちょっとした不満や将来に向けての情報交換が活発に行われている。
流石ですね、とカークはしみじみと呟いた。こちらの顔を見ながら、食前に出されたお茶を口にしている。あの兄あってこの妹だな、とでも思っているに違いない。
トリーもあちこちに招待状をはじめとした手紙を書いている中で、カークに出す時はすごく時間が掛かる。一応、彼が自分の婚約者であると領地内には大々的に発表した。その点も踏まえて丁寧に書き綴ると、とても他人行儀な文面に仕上がってしまった。
「会いたいから遊びに来てって、付け足して書くべきだと思う? アリス」
横で見守っていたアリスはもちろんそうですよ、と即答してくれたけれど、やはり文面にしたためるのにはかなり勇気が必要だった。義姉を見るに、そう言う気持ちが伝わった方が関係が上手く行きそうなのを頭では理解している。しかしいざ実行に移すとなると、かなり高い壁が目の前に立ち塞がっているかのようであった。
「美味しいね」
「ええ」
結局は、そろそろ桃が食べ納めだから会いに来て、とどこに重点があるのかよくわからない手紙に落ち着いた。この果物の美味しい時季が過ぎるころには秋も終わりに近づき、収穫祭も控えて領主業は忙しくなるのだろう。季節が巡るのは早いものだ、とトリーはいつも思っていた。
「それでね、カーク。先生方が、『節度のあるお付き合いを』と口を揃えるの」
「そうあるべきでしょうね」
兄と義姉が席を外しているので、トリーは思い切って話を振った。家庭教師達は領地内でのお手本となるような振る舞いを、と言う。カークも教本みたいなお堅い反応かと思いきや、こちらの様子をじっと観察しているようだ。
「いつもの素敵な想像力は、私を相手にしては不調ですか」
「相手がちゃんと決まると生々しいというか、……待って、そんな人に言えないような想像は断じてしてない」
一体何を想像したのか、自分以外の三人の空気が固まってしまったので、トリーは慌てて弁解した。
「……ダンスの練習に誘うのは節度のあるうちに入ると思うのですが、いかがでしょう」
「私も、私もそのくらいが妥当だと思う」
気を遣ってくれたらしいカークが、トリーを立ち上がらせた。お互いにちゃんとした服装の一環で絹の手袋を嵌めているのに、じんわりと伝わって来る手の温かさがすごく変な気持ちになってしまう。
夜風が心地よいのも今のうちですから、とカークにテラスへ誘導された。外へ出ると涼しい風、虫の声と月明かりが二人を出迎えて、顔の熱は多少引いた。
「……まあ、私もトリー様がお月様がお気に入りだそうなので、何か気の利いた文句の一つでも覚えるために、先人の意見を参考にしようと本を読んだのですよ。しかし『月の裏は恋人達の秘密の隠れ家』と記述があって、思わず頁を閉じました」
「……その本に興味が湧いたのだけど、題名は?」
トリーは純粋な気持ちで聞いたのに、何故かカークはご容赦下さいと言い張った。なるほど、と察して、そういう本なら仕方がないと返事をしておく。しかしただの普通の詩集です、と必死に彼は否定して来て、どうやら単純に恥ずかしかっただけのようだ。
そんな焦ったカークの表情は初めて目にしたので、トリーは月明かりを頼りにしっかりと目に焼き付けておく事にした。案外可愛いところもあるようだ、とまだ三年ほどある素敵な婚約期間に思いを馳せた。




