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⑩お嬢様と手を火傷した猫


 翌日、至急の件だと領地から要請を受けて、兄はエディと一緒に今朝早くに領地に戻ったらしい。悪くならないうちに食べるようにとカゴに入った桃と伝言が残っていた。それならば遠慮なく、と一つ手に取って淡い甘い香りを楽しんでいるうちに、食べたくなってしまった。

 本当は仕事場に入り込むのは邪魔な上に気が散るからよろしくない、とそれこそカークに大昔に言われたような気がするが、今は都合よく忘れる事にした。こんにちは失礼します、と昼食が終わってそろそろ次の支度を、という空気の厨房に足を踏み入れた。


「お、お嬢様……?」


 使用人達を前に、お兄様もお義姉様に剥いてあげる事がある、と説得した。小さい果物用の小刀を手渡されて、使い方の簡単な講座が始まった。切る対象をしっかり持って、刃が進む先に指を置かない、と最低限の注意事項の後で実演までしてもらって、いよいよ初めて果物の皮剥きに挑戦した。

 周囲の恐々とした視線を横目に、トリーは手元に集中した。刃物ではなく果物を回すように、と助言を受けて早速取り組んでみたものの、やはり一筋縄ではいかなかった。まだ早い季節に収穫される種類の桃なのでそこまで柔らかくないのが幸いで、三つめくらいでどうにか人前に出せそうな程度の見た目になった。


 途中でアリスが探しに来たが、トリーは内心で平謝りしながら、作業台に隠れてやり過ごした。その後ようやく皮剥きを終えて、大急ぎでお皿に並べてもらって部屋に戻った。

 お嬢様ったら、とやって来たアリスにお詫びに食べてもらった。今日はなんだか元気がなさそうな様子であったので、彼女を元気づけるような言葉を探した。


 すると今度はそこに、先生がお見えですよとカークが書類を山積みにしてやって来た。兄と慰霊祭で活躍したエディが王城から帰還したと思ったのに、早々に両者共に領地に帰ったせいで、目を通してもらう予定だった書類や問い合わせが山積みのままらしく、忙しそうにしている。


「ところでカークは覚えている? 屋敷で一番高価な物についての、お兄様の見解」


 昔、東屋に兄妹で涼んでいる時に、レスターがこんな問題を出した事があった。その場にはカークとたまたま居合わせたアリスとエディもいて、謎かけに首を捻ったのだ。ちなみに兄の答えは使用人、である。


「それは人件費の話を皮肉っておっしゃったんですよ」

「またあなたはそうやって、話をつまらない方向におさめようとするんだから。私が女主人になったら、お兄様の方針を引き継いでやらせていただきますからね」


 トリーはカークの反応を見ながら今後の話の切り出し方を決めようと思って、少し踏み込んだ発言をしてみた。結果として書類を床にぶちまけるというカークらしからぬ失態に、隣のアリスは目を丸くしている。

 大丈夫なの、と尋ねてみたがカークはそれどころではないらしい。家庭教師の先生がお見えになるのでしょう、と尋ねたがそれは後にしてくれ、と本人らしからぬ事を言い出した。そこで私が時間を稼いできますので、と元気が出たらしいアリスが気を利かせて退室した。



「……ご存じだったのですね」


 そうなの、とトリーは返事をした。この上なく申し訳なさそうなカークがおそらく謝罪の言葉を並べようと口を開くのを制止した。黙っていたのは自分も全く同じである。

 一切れどうぞ、と切った桃を勧めたが使用人としての立場があるためか固辞された。しかし食べなさい、と命じるとちゃんと味わっているのか疑わしい顔で咀嚼している。


「お兄様に打診されて驚かなかった? だって私、お義姉様みたいに、地図でしか知らないような場所に、身一つで嫁ぐ事になるかもしれないって思った夜もあったのに、正反対の案を出されたんだから」


 トリーはカークの反応を窺いながら話を続ける。兄は彼に任せておけば、と言うけれど昨夜の話を聞いた後では余計に、彼の本当の気持ちを確認しなければという思いに駆られた。


「このまま侯爵家の思惑通りに進んだら、がっかりさせるかもしれない。私が相手じゃなかったら、もっと幸せになれたかもしれないって後悔したくないし、して欲しくない。だから、貴方の気持ちを教えて欲しくて」






「そんな事はありません、お嬢様」


 以前に書斎で偶々行き会って、彼女から自分の結婚について意見を求められた事があった。その時はレスターに任せておけば大丈夫だと伝えた事を覚えている。


「お嬢様はもう、どこへでも行く事ができます。貴族社会でそれだけでやってはいけませんが、大勢の人に好かれると私は思っています」


 腹の探り合い、騙し合いと足の引っ張り合いが横行する中で、けれど素直に人の美点を称賛する事ができる彼女の素直さは、きっと大勢の人を味方につけるはずだ。


「世界はずっと広くて、美しいものとすばらしいものがたくさんありました。貴方の兄上様に振り回されながらでしたけれど、生まれ育った場所からずっと遠い場所で、目にした光景は楽しかった」


 お兄様に振り回されてカークは大変ね、とトリーはいつも心配してくれるけれど、仕事として各地に赴く事は決して嫌ではなかった。


「私は閣下から与えられる仕事をこなすのが精一杯の、つまらない男なのです。生まれた家がたまたま良かっただけの、それも貴族社会全体から見れば、何一つ自慢できる程度でもありません。領地内だけでも既にエディという大変役に立つ男が頭角を現し、そしてたくさんの貴公子達がお嬢様に次々と求婚するのでしょう」


 それが目に見えているのに、主人は最初にカークに話を持ち掛けて来た。卑屈もいい加減にしろ、とレスターは言い、こうしてトリー本人を前にしても、自分を見てくれとは口が裂けても言えなかった。


「お嬢様はいかに私が使えない、取り返しのつかない事をしでかしたのか、ご存じでない」


 卵を割らなければ、オムレツは作れない。人はそう己を鼓舞して困難に立ち向かうけれど、手を爛れさせて、鉄鍋から卵を取りだそうとも、元の形は決して取り戻す事はできないのだ。


「お嬢様がまだお小さかった頃に、熱を出してもう助からないかもしれないとお医者様に言われて」


 数日前までは元気だったはずの、お屋敷の可愛らしい小さな女の子は一転して、悪い夢のように高熱にうなされている。大勢の人間が同じ病で亡くなった。呼ばれた医者も沈痛な面持ちで首を横に振って、できるだけの事はします、とだけ言った。自分はお目付け役をしていて、後ろで突っ立っている事しかできなかった。

 やめてくれ、神様、連れて行かないでくれ。こんなに小さいのに。苦しめないでくれ。滅多に感情を露わにしないはずのレスターの慟哭が、耳にこびりつくようにまだ残っていた。その兄の声が届いたのか、ひと時だけ意識を取り戻して、熱いと目を潤ませた。呂律の怪しい口調で兄に、桃が食べたいけどまだあるかな、と尋ねてまた目を閉じてしまった。


 用意できるかもしれない、とカークはレスターに申し出た。毎年この時期に少しだけ、早く収穫できる希少な品種がある事を覚えていた。生家に差し入れとして届けられていて、取り扱う商家に問い合わせれば入手できるかもしれない。屋敷に使用人として上ってから、初めて役に立てるかもしれない。そんな風にも考えた。


 自分の父は、今の当主に逆らうなと言った。令息として逃げられない立場のレスターが追い詰められているのは明らかだったのに、領地の絶対的な支配者の不興を買う事を恐れ、大多数の人間が遠巻きにしているだけだった。余計な口出しは、自ら火の中に飛び込むような事だと。


 カークは火急の要件として、一時的に屋敷を離れる許可を求めに向かったが、侯爵には冷たい目線を向けられた。お前は医者なのかと問われ、私に意見する気なのかと詰問された。命令に逆らえば、家を継げなくする事など造作もないのだぞ、と。

 けれどその時のカークには、何の役にも立てなかった自分の将来の地位が、苦しんでいる小さな女の子を少しでも助ける事に対して、天秤に掛けるような事だとは微塵も思えなかったのである。


 屋敷の階段を転げるように降りて、食堂で話し込んでいたロバートに馬を貸してくれと頼み込んだ。トリーが食べたがっている事を説明すると、老御者は渋い顔で桃なんて柔い果物は急いで運ぶと潰れて種だけになるだろうと現実的な指摘をした。すると横で話を聞いていた料理長が、一緒に行って現地で瓶詰に調理して、布でぐるぐる巻きにすれば運べる、と申し出てくれた。その協力があってようやくレスターに渡す事ができたのだ。







「それでも、カークは行ってくれたのでしょう?」

「……私の考えなしの言動を、レスター様が庇って下さったのです。私が将来の地位と、生家を失わないようにして下さった。その代わりに閣下も、トリー様もお父君との溝を埋められないままになってしまった」


 辛うじて残っていたかもしれない和解の可能性を、修復不可能な程に決裂させたのはカークだった。先代は病が酷くなっても最期まで許さず、レスターもそんな父君を見限って接触しようとしなかった。

 家令も料理長も庭師もロバートも、レスターを庇いながら何とかやっていたのに、自分は臣下の息子としてもっと上手に立ち回らなければいけなかったにも拘らず、結局迷惑を掛けた形になってしまった。その上、使用人の先輩方がいなければ目的を達成する事も出来なかったに違いない。

 そして、父君と形だけでも和解できていれば、家を継いだ後のレスターがあれほど苦労する事もなかった。


「……そんな風に考えていたの? 私が馬車でぐうぐう寝ていた時も、街で蜂蜜の味がするクッキーを食べた時も?」


 ええ、とカークは短く答える。せめて主人のために尽力しようと今日まで自分なりに仕事をして来たけれど、守ってくれた分を返す事ができたとは到底思えなかった。


 話を聞き終えたトリーはしばらく黙ったままで、考え込むように目を伏せていた。再び彼女が顔を上げた時、その眼差しには意を決したような真っすぐさだけがあった。

 

「お兄様はわかりにくいけど、でもちゃんと周りの人を愛している。お義姉様にも、キリルにも優しい。アリスとエディのような子供に居場所と役割を与え、心を砕く事ができる。カークが今のお兄様、私が好きなお兄様と私を守ってくれたの。炎の中に手を伸ばす行為を承知で、救い上げてくれた」


 ありがとう、とカークの手にはまだ見えない火傷の痕がまだ残っているかのように、労わるように握っている。トリーの手はひんやりと冷たくて小さくて、けれど絵本の頁を待ちきれないように捲っていた頃の幼さはもうなかった。


「私、お屋敷の使用人でも、お兄様の頼れる部下でもない時のカークに会ってみたい。あなたの事がもっと知りたい。そのためなら月の裏側までだって行く。行ってもいいでしょう? 梯子を掛けるか舟を昇らせるかはまだ決めていないけど、夜空の旅はとっても楽しいと思うの」


 想像してみて、とトリーは笑いかけた。月、と数日前にも同じ言葉が、彼女の口から発せられたのを思い出す。ほとんど毎日、少しずつ周期的に変化させながら夜空に姿を昇らせる天体を、カークは特別な存在に捉えた事はなかったけれど、彼女にとっては違うのだろう。


「少しずつ、これからの自分に何ができるのかを考えたいの。子供っぽいところは治すから、いつか私の事を好きになって。いつか、お兄様とお義姉様みたいな夫婦にカークとなってみたい」


 どこまでも真っすぐな思いを向けられて狼狽えかけたけれど、何とか年長者の意地を以て持ちこたえた。もったいないお言葉を、と反射的に答えようとして、使用人の言動は求められていないのだと、別の言葉を懸命に探した。


「お嬢様の楽しい旅のお供を、精一杯務めさせていただきます。……どこまでも、いつまでも必ずそばにいますから」

 

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