①お嬢様とお屋敷の妖精
トリーがベッドで息を潜めていると、遠慮がちなノックの音がする。失礼します、と扉を少し開けて顔を覗かせたのは、兄のお目付け役をやっているカークだった。年齢は十二か十三で、領地内の立派な家柄の、生真面目な跡継ぎ息子でもある。
トリーは書斎の前からこっそり部屋に戻ったつもりだったのに、どうやら追いかけて来たようだ。兄の所在を訊ねると食事中との返事である。そこに昼休憩をもらったらしく、書斎で本を選んでいたらしい。
「お嬢様、本を取りにいらっしゃったのではなかったのですか?」
彼が言う通り、トリーは次に読む本を選ぶために書斎へ行ったのだが、中にカークがいたのでこっそり引き返した。しかし足音でわかった、と神妙な顔つきの少年は言う。
「理由もわからずに避けられたら私も悲しいです、トリー様」
「……だって、がっかりしたと思って」
トリーは観念して被っていたシーツから抜け出し、カークに入室を許可した。先日、トリーは友達が欲しくて、齢の離れた兄にたくさんお願いした。侯爵家の令嬢として年齢の近い女の子をお茶に誘う予定を正式に組んで招待状を配り、可愛らしい衣装まで購入したのだ。なのに当日、熱を出してしまった。中止の連絡と、各所に謝りに行く羽目になった兄は随分がっかりしたに違いない。
トリーは以前にもっと小さい頃に大きな病気に罹り、死んでいたかもしれない程に重篤だったそうだ。その後も頻繁に熱を出して、医者はそのせいで身体が弱いのだと言っていた。兄はそんなトリーをとても心配していて、元気になって良かった、といつも言う。少しも責めたりはしない。それが申し訳なかった。
「カークもそう思ったでしょう?」
「……私は熱が下がって、こうしてまたお嬢様とお喋りできてよかった、と思っていますよ。そこを疑われたら悲しいです」
トリーはカークの顔を見上げた。兄と同じように優しい眼差しだ。ごめんなさい、と謝った。大丈夫です、と答えてくれる彼に甘える事にした。
「それで、何の本を読みたかったのですか?」
「そう、私、すごい発見をしたの」
トリーはカークが話題を変えてくれたのでありがたく便乗し、できるだけ明るい声で喋りながら何冊かの本を彼に見せた。熱が治まってもベッドからは出ないように、と先生に言われてしまったので、新しい世話係のアリスが書斎から持って来てくれたのだ。子供向けの説話集が数冊と、古くからある教訓の言い回し辞典を見比べて楽しく読み進めていたのである。
「ほらこの、『火中の栗』ってお話の意地悪なサル、続きがあったのよ」
要約するとサルが猫を騙して火傷を負わせた上、熱々の栗を全て奪った話である。トリーはこのお話を読んで随分と憤慨したのだが、全然違う国から持ち帰られた童話集に、なんと続きが載っていた。サルは他の皆に酷すぎると責め立てられて国を追い出されたらしい。東の果てに辿り着いたサルは懲りずに今度はカニの親子に目をつけるが、蜂と栗と穀物粉砕器の妖精によって、半死半生の報いを受けるのであった。
「……お言葉ですがお嬢様、続きの部分は異国の童話ですよね?」
「でも栗の妖精はわざわざ暖炉に入って、自分の身体を熱々にしてから襲い掛かるの。これってきっと『因果応報』ってやつなのよ。その言葉もこっちの教訓辞典に載っているでしょう」
トリーの大発見に、カークは何とも言えない表情を浮かべている。彼が対等な立場であれば、そんなわけがあるか、と指摘したに違いないが、彼は使用人である。余計な口は出すまい、と口を閉じて神妙な顔つきである。
トリーは異国人もきっと秋には栗を収穫して食べるんだろうな、とか火傷が痛くて泣いている猫ちゃんの手に包帯を巻いてよしよし、と慰めている空想をしていた。ベッドから出られなくても本を読み込み、書いていない事に想像を巡らせ遊んでいたのである。
「カークは好きな言葉ってある? 私が好きなのはね、『卵を割らなきゃオムレツは作れない』。料理長に教えてもらったんだ」
トリーは滋養があるから、という理由で卵料理をたくさん食べさせられていた。このお屋敷の料理長の腕は格別で、一日に三回もある食事とおやつの時間がいつも待ち遠しい。卵には限りない可能性が隠されているそうで、焼いたり茹でたり黄身と白身を分けたり一緒に混ぜたりと多種多様な形で目の前に現れるのだ。
「あ、そうだった! ねえカーク、妖精さんを捕まえるの。手伝って」
「……よ、妖精ですか」
カークはあちこちに飛ぶ話題についていくのに必死のようだ。いつもは兄のすぐ側について、挙動を見守るのが仕事。その妹のトリーにとっても貴重な話し相手でもある。てっきり熱を出して落ち込んでいると思いきや、この調子なのですっかり閉口している様子だ。
「カーク、もっと笑ったりびっくりしたりしないと、お兄様みたいにやり方を忘れちゃうよ」
トリーには齢の離れた兄のレスターがいて、侯爵家の継ぎでもある。優しくて優秀な兄だが喜ぶのも怒るのも、楽しくてもさっぱり表情には変化が表れないという困った癖があった。高位貴族の跡継ぎとして厳しく育てられたせい、と本人はこれまたどうでも良さそうな口調で話すのである。
「私はこのお屋敷に、使用人として上がらせてもらっている身ですから」
「でもカークだって立派な家の跡継ぎだって、みんな言っていたよ」
カークに噂しているのは具体的に誰かと尋ねられたので、料理長に庭師に御者、とお馴染みの面子を挙げた。年長者達は年端もいかないお坊ちゃんが、使用人の仕事を頑張っているのに感心して、とても可愛がっているらしい。
「それでね、妖精さんはきっと羽が生えてて、髪の毛がきらきらしてて、小さくて可愛くて綺麗なの。さっきは、捕まえ方が書いてある本を読もうと思ったんだ」
「妖精なんていませんよ」
「じゃあどうしたらいいの」
カークは首を捻りつつ、書斎から世界の奇説びっくり大全集という分厚い本を引っ張り出して来た。重そうな本を、トリーがクッションに埋もれてくつろいでいるベッドの上で見やすいように広げた。彼は床に膝をついている。
「カークもここに座ったら?」
「いけませんよ、お嬢様。先ほど申し上げたように、主人と仕える者とで線引きをきちんとしなくては」
座って、とお願いしてみたが、頑なに全く同じ台詞を繰り返された。変なの、とトリーはまだその辺りがよくわかっていない。しかし彼の大真面目な顔つきを見る限り、とても大切な取り決めなのだろう。
「これが妖精ですよ。畑を掘り返したり、家畜を盗んで悪さをする類」
考え事はカークの声で引き戻された。彼の開けた頁には挿絵があって、小汚いじゃが芋みたいな生き物が描かれている。牛の放牧されている囲いの中に潜り込んだのを人間に見つかって、農機具で追い回されていた。
「こちらがもう少し厄介な奴」
頁の下の章分類には妖精、妖魔の類とある。陰鬱な古戦場や人里離れた暗い森から姿を現し、旅人や荷馬車に悪さをする想像上の生き物。
「私が捕まえたいのはこんな化け物じゃなくて、もっと可愛い奴なの」
兄に振り回されるのに慣れているカークは、トリーがわあわあ言っても全く動じない。温かな眼差しと称するには若干呆れの気配が混じっている、何とも言えない目でこちらを見上げていた。
「これはどうですか。厨房に住み着いて、つまみ食いをする代わりに掃除や竈の管理を行ってくれる奴。これなら侯爵邸の厨房にいるかもしれませんよ」
カークが指先で示す説明文を追ってトリーが本をのぞき込んでいると、部屋の扉がノックされた。すぐ横にいるカークがぴし、と姿勢を固くする。
扉を開けた兄のレスターは金色のきらきらした髪、すらりとした体格、冷静な眼差しを持ち合わせ、数多の人が思い浮かべる王子様はきっとこんな感じだろう。兄は侯爵家の跡継ぎだが。
「……トリー、どうだ調子は」
これが本場の妖精、とのんきにおしゃべりしていたカークは一転、緊張した面持ちで兄へ向き直って目を伏せた。誰もいない時に話し相手になってくれる彼は、ただの使用人に戻ってしまう。
「失礼しました、レスター様」
「別にいても構わないが」
「……」
カークは立ち上がって黙って一礼して、トリーにも一瞬だけ視線を合わせて退室してしまった。止める暇もありはしない。
「お兄様はカークが嫌いなの?」
「特段そのような事実はない」
トリーのベッドに遠慮なく、やれやれと座りながらの兄の声は淡々としている。一応、ここにいた使用人の事は決して嫌っているわけではないらしい。
「カークは父上から、私の日頃の奇行を監視するように命じられていた。逐一素直に報告すれば私の不興を買い、かと言って誤魔化せば父上から職務の遂行を疑われる。どう転んでもカークは可哀想なわけだな」
つまりカークは難しい年ごろに差し掛かった令息の挙動に目を光らせるように、当主である父が任じたお目付け役だ。臣下の息子である以上カークは逆らえないし、兄にも敵視される立場だったわけで、可哀想に板挟みである。
「どうにかしてあげないのですか」
「カークはお目付け役を先日、クビになった。それで正式に私の手下になったから、今後は私の奇行に振り回されるのだ、可哀想にな」
兄の表情からは、トリーにはその処遇が良いのか悪いのか判断がつかなかった。ほどほどにしてあげてくださいね、と兄に頼む。しかし相手はそれ以上発言しなかったので、相変わらず何を考えているのかはよくわからなかった。困ったことに、兄はいつもこの調子である。
父の方は現在、社交シーズンを迎えた王都で侯爵として活動していた。数年後にはもう爵位を譲って引退するそうで、兄も数日中にそちらへ向かって、各所に顔を出す必要があるのだそうだ。
それ以上の接触はない。いくら血縁があろうとも、高位貴族なんてそんなものだと兄は言う。世話は使用人、教育は専門家を呼べばそれで済む。当主、夫人、令息に令嬢とそれぞれの役割が振られているだけの家族だと。いつもと同じ、何もかもがどうでもよさそうな口調で妹を諭した。
それじゃあ寂しいです、とトリーは訴えた。すると兄は、自分は近くにいてやれるから、と返事をした。兄の美点の一つはその場しのぎの発言をしない事が挙げられる。それを知っていたので、少しだけほっとしたものだ。
カークとは何を話していたのかと話は戻され、妖精さんを捕まえる算段を取り付けていたのだ、と本を開いて説明する。
「妖精さんか。頭の固いカークは何と?」
「この本を持って来てくれました。お兄様、妖精さんが毎朝お庭で、私に一番綺麗に咲いた花を届けてくれてるのですって」
へえ、と妹の話を聞きながら、兄は書面を眺めている。これは可愛くないでしょう、と挿絵に対する同意を求めた。それは画風の問題ではないか、と返事をした。
トリーが寝込んでいた間、窓際の小ぶりな花瓶には必ず一輪の花が届けられた。ただその綺麗な花は、世話係が部屋に入るよりも先にトリーのところへやって来るのだ。
それをできる使用人、となると庭師だと思って午前中に会いに行った。しかし彼は片目を閉じて、悪戯っぽく笑って見せる。妖精さんが庭師の周りを飛び回って、明日一番きれいに咲く花を聞き出そうとするらしい。
「そんなわけで誰かが花を持って来てくれるのですけど、妖精さんですって」
「なるほど、まあ確かに屋敷にいるのは妖精だろう。銀貨を報酬に払っているから」
銀貨、とトリーが首を傾げると、妖精には唯一銀だけが触る事のできる金属だそうだ。他にもいつもありがとう、とお菓子の缶を妖精宛に置いていくと、次見た時には無くなっているらしい。
「お花をくれた妖精さんにお手紙を書きました。ありがとう、とても励みになりましたって。けれど宛名を何と書いたらいいのかわからなくて」
「この侯爵邸に親切な妖精さんはたくさんいてな。彼らの心遣いのおかげで、私達兄妹は快適に暮らす事ができる。ありがたい話だ」
兄は珍しく、しみじみとした口調で言った。おかげで床はいつもぴかぴか、お風呂に入りたいと思ったら浴室にはちょうど良い温度のお湯で満たされ、汚れた食器は翌日には綺麗に磨かれて、美味しい料理が盛り付けられている。
要するに下級の使用人達は、主人には存在を悟られないように仕事をするのが優秀さの証、とされている。レスターと違って厳格な現当主の屋敷ではそれが一層求められているというわけだ。
しかしまだ幼いトリーにはそんな冗談は全然通じなくて、このお屋敷には可愛い妖精達が本当に住んでいるものだとすっかり思い込んだ。
「それでお兄様、明日の早朝に妖精さんを捕まえたいんです。アリスにとても早起きを頼んでもいいですよね?」
先ほど、レスター様がよろしいとおっしゃれば大丈夫です、とアリスは言ってくれた。アリスというのは、トリーの友達を決めるお茶会が中止になった後で、兄が臨時で紹介してくれたまだ子供の使用人である。慣れない仕事にあたふたしているのが可愛くて、トリーは優しい女主人として、ゆっくりで良いの、と声を掛けるのだ。兄はおやつと夕食をきちんと食べて、体調に問題がなければ、と快く許可をくれた。
翌日の早朝、本当に起こしていいのだろうかと言わんばかりのアリスから、遠慮がちに声を掛けて来た。トリーは即座に飛び起きて、早く早くと侍女を急かす。彼女はまだ小さいのに、てきぱきとトリーの髪を整え可愛い衣装を用意した。
そうして手を繋いで外へ出ると、空にはまだ月が残っている。少し明るくなった空で、まだ白く美しく輝いていた。二人は昨日のうちに庭師に聞いておいた、妖精さんがやって来るであろう花壇の一画に身を潜める。やがて屋敷の方から足音が聞こえて来て、トリーはどきどきしながらそうっと顔を覗かせた。
「あれ、カークだ。朝から何しているの?」
「ト、トリー様? ……このように朝早くから一体、何をなさっているので?」
「妖精さんが現れるのを待っているの」
カークの珍しい眠たそうな表情は吹き飛んで、待機していた女の子二人を訝し気に見つめた。トリーは花瓶の一輪の花と庭師の証言を説明しながらカークの顔と行動を見ているうちに、ようやく真相を悟った。
「え、じゃあ毎朝お花を届けてくれていたのは、カークなの」
「からかわれたんですよ、レスター様達に」
「どうして」
「使用人が心を砕かないんでどうするんですか、お嬢様に」
カークは呆然としているトリーから今朝咲いたばかりの花に視線を移した。小さな植木バサミで一輪摘み取ると、こちらに恭しく膝をついて目線を合わせてから、差し出した。
久しぶりに目にした、カークの笑みは少し難しい。呆れているような、諦めているような、寂しいような、苦々しいような色々な感情をひっくるめて笑うので、トリーはいつも心配になるのである。何を考えているのか不明瞭な兄と、当主である立場の父。他にも、彼を縛り付けている物はたくさんある。
「どうぞ、今朝の分です。正体が妖精じゃなくて残念だったかもしれませんけど。体調はいかがですか」
「……悪くない」
「せっかく早起きしたのですから、朝の空気って特別ですよ。散策に参りませんか?」
お花を受け取ったトリーが頷くと、カークはひょい、と身体を軽く抱え上げた。ちょっと待って、と少し慌てて、自分の背後を窺った。一緒になって妖精さんの登場を待っていたアリスに、カークは使用人の先輩として威厳たっぷりに下がってよろしい、と告げた。また後でね、とトリーの言葉にも、随分と早起きを強要されたはずの彼女は少しも気を悪くした様子もない。
「お気遣いありがとうございます。お楽しみくださいませ」
小さな女の子は恭しく頭を下げた。彼女を置いて、カークは庭園の奥へ足を向ける。朝露がきらきらして、空気はひんやりと心地良い。本来の意味合いの妖精が、どこかに本当にいそうな気がした。静かで、秘密めいている、朝を迎えたばかりのこの場所のどこかに。
「お姫様みたいな持ち方してよ」
「承知しました」
試しに我儘を言ってみると、何の躊躇いもなく叶えられてしまう。ただ、微かに笑うような気配があって、思わず彼の顔を見上げてみたけれど、使用人である彼はそれを表に出すような事はしない。ただただ、取り澄ましたようないつもの顔だ。
「どうしてそんな面白くなさそうな顔をしていらっしゃるのですか」
「だって、カークに兄様もアリスも皆も優しいから、私はつまらない」
兄が言っていた妖精さん、とはつまり使用人の事だ。なるほど、一部を除いて姿を現さず、けれど主人のために尽くしてくれる。
自分は侯爵家の人間である。カーク以下、使用人達は従う立場になる。大抵の無茶な要望は叶えられてしまうのだろう。それが何とも居心地の悪さを感じさせた。いつか自分はそれに見合うだけの何かを、彼らに返す事ができるのだろうか、と。
「私の拙い抱っこでは不満ですか」
「そうじゃない、……なかなか快適よ。ねえ、カーク。カークにとっての理想のご主人様って、どんな?」
「……ちょっと、返事をしかねます」
せっかく、いつかそんな風になりたいと思ったのに、彼は困ったような口調である。何を言っても彼の主人であるトリーの兄の悪口に繋がるのではないかと危惧しているらしい。いくら尋ねても口を割らずに、あっちの木の枝に妖精さんがいるとか何とか言って、露骨に誤魔化しにかかった。




