終わり
「愚かな人間というのはいるものでございます。悪さをしようという者、その悪さを見て見ぬふりをする者、そしてその悪さに騙される者。そういう意味では愚かでない人間なんていないのかもしれませんが、しかしその男は際立っていました。愚かというよりはむしろ卑劣と申しますか、残酷、あるいは狂っていたと、そう言う方が正しいのかもしれません。
地震をぴったりと、日付に場所まで違わずに予言したことで人々は男を信用してしました。その噂はほんの数日のうちに江戸中に轟きました。圧倒的な知識と他の諸町民とは一線を画した、なにかオーラとでもいうのでしょうか、人の心を掴むのがとても上手かった。忽ちその影響力というのは幕府としても無視できないものとなりました。
そこで時の将軍綱吉公はその男を城に招いたのです。これは大変異例なことでございましたが、江戸の平和を願う綱吉公としては、ある意味で当然のことだったのかもしれません。
そこで綱吉公はその男にこう言いました。『これ以上江戸を騒がさないでほしい』と。するとその男は深刻そうな顔をしてこう言いました。『最後に聞いていただきたいことがございます』と。
男が何を予言したか、お分かりですか?」
「”大噴火”ですか」
「その通り。宝永の大噴火、それはどの山の噴火でございましょう。」
私は知っていた。その時の火口が今も残っている。
「富士山です」
「その通り。しかしここからが問題でございます。その男が将軍様に告げたのは『赤城山の噴火』でございました、それも『未曽有の大噴火である』と」
「”それは予言を外した”ということでしょうか」
「いえいえ、それはあり得ません。男は赤城山が噴火なんてしないことは”知っていた”のですから。しかしその男は続けました。『このままでは江戸が危ない。お逃げください』と。『低い場所では赤城の火が届いてしまいます、ぜひお逃げください』と
すると綱吉公はこう聞き返しなさいました。
『民はどうなる』
『一人残らず火に沈みます』
『それは助からないということで良いんだな』
『そうです』
『……そうか』
そこで綱吉公は『民を引き連れ逃げる』と仰いました。当然周りの者はそんな不審な男一人の言うことを鵜呑みにすることに、不遜ながら異議を唱える者もおりました。しかしながらそんなことが耳に入ることはありませんでした。江戸を守ることが至上の命題でございました。
『して、何処に行けばよい。駿府は先の地震で使い物にならぬ。何処じゃ』
『……高くて遠い場所……』」
「富士……山?」
「ご名答。富士山というのは信仰の対象でもある神聖な場所でございました。しかし将軍にそんな事情は関係ありません。民としては畏れ多い反面、神の加護にすがったということもあったのでしょう。
しかも言い出したのが地震を予言した男ということもあり、江戸の民衆もかなりの割合で信じておりました。その日からというもの、東海道は大混雑でございます。綱吉公も滅茶苦茶なことをしている自覚はありました様ですが、それもその男の力というものでございました。
そして十一月の二十三日、遂に噴火致しました、富士が。
あとは言うまでもございませんね。こうして今降っている灰と言いますのは、或いは遺灰かもしれません。」
「その男はどうしてそんなことをしたのでしょうか」
「理由なんてないのだと思います。滅ぼしたかったから滅ぼしたのでしょう」
江戸を守るどころか全ての人の心に取り入り、陥れ、江戸から全てを奪った男のことが許せなかった。
しかし事実こうして音一つない江戸がある以上、信じるほかはないのだ。
そこで気になるのがこの男のことだ。こうして江戸に一人残っていたり、というか私と一緒に現代からやってきたのだった。そんな不思議なことがなぜできるのだ。
そういえば話の男は噴火するのが富士山だと”知っていた”といっていた。現代からやってきたであろうこの老人は当然、『宝永の大噴火』を知っているはずだ。
「その男というのはあなたなんじゃないですか」
「なぜそうお思いなのでしょうか」
「あなたは一連の出来事にやけに詳しい。しかも未来人のあなたなら地震も噴火も知っているはずです」
「大体合っております、男の正体が私であるということ以外は。まあ、男の正体はそのうち分かります。 あなたはこの話を聞いて如何思われましたか。そのことの方が重要でございます」
うまくかわされた気がするが、今はこの老人の話を聞いておく方が良い気もした。
「許せません。民衆を煽動して町を滅ぼすなんて。また恐ろしいとも思います。現代にもそういう存在がいたとしたら同じような悲劇になりかねませんし」
「そうですか」
老人は極めて落ち着いた口調でそういった。そして少しばかり間を開けて続けた。
「話を聞いてくださって、ありがとうございました。私としてはそれだけで満足でございます。もうお戻りになりますか」
戻る……。ここで戻ったら歴史が変わってしまうことになる気がするのだが。
「私は元の世界に戻れるのでしょうか」
「それは心配には及びません。この長い歴史、通り道の一つや二つが変わったところでゴールは変わりません」
そういうものか。
「どうやったら戻れるんですか」
「戻るのは簡単でございます。目を瞑って三つ数えたら元の世界。この町を滅ぼした張本人の目の前にいらっしゃることでしょう」
そんな恐ろしい人のもとに行って大丈夫なのだろうか。はっきり言ってサイコパスだ。
「案ずることはございません。あなたに直ちに危害を加えるようなことはしないでしょう」
――そういえば老人は『聞いたら後悔する』と言っていた。が、私が後悔するような話ではなかった。まあ、いいや。
「では目を瞑ってください。それでは3……2……1…………」
は。
あ、戻ってきた。そうだ。龍馬くんと勉強してたんだ……。
ん? 『この町を滅ぼした張本人の目の前にいらっしゃることでしょう』……
ああ、龍馬くんだったのか…………
それなら……いいや…………
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何事もなかったように私は勉強を始めた。しかし日本史の教科書に宝永の大噴火のことなんてほとんど載ってない。全部嘘なんじゃないかとも思えた。
それにしても夢でも見ていたのか、それとも全て気のせいなのか。しかし灰の感触といい寒さといい、リアルな感覚ははっきりと覚えている。
まあいい。今は勉強だ、と芯を繰り出した。
九時。かなり長居してしまった。とても良い時間を過ごせた。
「そろそろ帰るか」
時計を一瞥した後こちらを見ずにそう言った。
「うん」
なんか、疲れた。けど改めて龍馬くんのことが好きになった。人々を動かして歴史を作った男と一緒にいるなんて、自分は何もしていないけどなんか嬉しい。
「お帰りですか、くれぐれもお気をつけて」
その顔は翁というよりは小尉のような少し不気味というか、不安を催すようなものだった。
私たちは店を出た。駅までは一緒の道だ。夜中に二人で歩くのもどきどきしてたまらない。大学に入ったらこんなこと毎日のようにできるのだろうか。そんなことを想像すると何もない夜道を歩くのも楽しくなる。
「”江戸時代”、どうだった?」
「びっくりしたよ。龍馬くんってすごいんだね」
「なにが」
その口調は民衆を煽動したとは思えないような覇気のなさだった。
「なにって、宝永の大噴火だよ」
「…………」
彼は急に押し黙った。
その顔には微塵の笑みもない。
彼は段々と歩くスピードを緩めた。
「お前見たのか」
怖い顔をしていた。
「見たって何を?」
彼女は震えた声でそういった。
「滅びた江戸だよ。人っ子一人いない。」
「……うん」
彼女は先ほど見た景色がただの気のせいでも、夢でもなさそうなことを知った。
「別れよう」
彼の目はまっすぐ前を向いている。予想外の言葉に彼女は一切の動きを止めた。冷や汗をかいた。青ざめた。
足早に駅に向かう彼を目ですら追っていない。
「え? なんで? ちょっ」
ぼーっとしている場合ではないように見えた彼女は、力の入らない足でよろけながら走って追った。
尚も歩き続ける彼に後ろから抱き着いた。
「っ。放せ」
「嫌だ」
「放せ」
「嫌だ!」
「放せ、殺すぞ」
妙に説得力のある彼の言葉に、腕の力すらも抜けた。
「じゃあ、今後俺には関わるな」
そういうと駅に真っ直ぐと歩いて行った。
彼女は後姿を虚ろな目で追った。
彼女は後悔した。言わなければよかったのだと。
彼女は後悔した。老人に話なんて聞かなければよかった。
今一緒に勉強なんてしなければよかったと。
ふらふらと立ち上がると涙も流さず、乾いた眼で駅の方に顔を向けた。
何かを考える余裕なんてなかった。いつもと同じ動きしかできない。決まった動作で定期券をタッチして、何も考えることなく階段を上った。
時間はもうかなり遅かった。ホームはとても空いていて、澪は列の先頭に立っていた。
「おい、まじかよ。止まってんの?」
「うわぁ。え? ああ、人身事故らしいよ」
「なぁにしてんだよこんな時間に」
「飛び込みだって。動画上がってるわ」
「まじかよ」
「「…………ああ」」
「飛び込む瞬間写ってんじゃん。こんなん写ってていいのかよ」
「いいわけねぇだろ、そのうち消される」
「……ん?」
「どうした」
「これおかしくね?」
「なにが?」
「これどうやって撮ったんだ?」
「どうやってって反対側のホームからだろ」
「いやそうじゃなくて飛び込む瞬間が写ってるってことは飛び込む前から撮ってるわけだろ?」
「あ、ほんとだ」
「これじゃあ飛び込むのを分かってるみたいじゃん」
「「こっわ」」