天秤の正義
楕円形に作られた競技場のダートを取り囲むように群衆が埋め尽くしている。その群衆たちの頭部はまず間違いなく馬の頭部であるのだが、二足歩行であることを示すように茶色や白色、黒色だったりする足がすらりと二本伸びている。
近似した生物を挙げるとすれば、エジプト神話に登場するアヌビスだろうか。遠目から見て半獣の姿であることは間違いなかった。
私はアヌビスたちに見つからないように物陰から遠見に見ている。半獣たちはとても興奮した様子で熱量を含んだ歓声を上げげている。訳のわからない言語を発しているが、それが怒気を、嬉々を含んでいるのだけはわかった。半獣たちの瞳は赤く充血していてその半獣たちの先に映るのは頭部の髪の毛を刈り取られたらしい四足歩行で駆けている生物たち。ここで「生物たち」と呼称をつけたのは私の脳の処理が間に合わず言語化に成功していないことを意味する。正体を掴むために特徴をいくつか挙げるとすれば卵型の頭部、四足歩行、・・・恐らく五本の指だろうか。必死に思考をしようとするも、自死を決意した鳥が窓に突進し死と共に暗闇に飲み込まれるように、私の思考は何かにぷつりと閉ざされてしまう。その何かは自分が受け入れられないほどの衝撃波を伴った事象に対して、人間が持つ無意識の防御装置のようなもの気がした。しかし、その場で呆然と数分を立ち尽くしていた時、私の理性が段々と事実を克明に知らしめようと働き出した。
そして私は、目が眩むような「あっ」という驚きに全身が支配され独り言ちた。
「人間だ。」
間違いなく人間だった。私の目の前で半獣たちの卑しい歓声を浴びながら走っているのは私と同じ人間だ。私は、徐々に赤血球が体全体に酸素を運ぶのをやめてしまったかのような眩みと寒気さに襲われた。
彼らは四足歩行で駆けているものの、何か作為的に仕組まれた効果で四足歩行にせしめられた、つまりは摂理を超越した様子なのである。通常なら、私は彼らが私と同じ人間であることを顔の作りからものの数秒で人間だと捉えることができたはずなのに、彼らが四足歩行であるという事実が私の思案を鈍らせたのだった。
子供の頃、歴史の授業で、私たち人間は科学技術と呼ばれるものを駆使しAI(人工知能)、学習型のプログラムを作ることに成功したが、AIの発展の中でAIを有した強力なネオヒューマンが生まれ第一国の覇権を巡って戦争になりネオヒューマン側が勝利し、人間は第一国から締め出され、現在の第三国に移ったと教えられた。
そしてネオヒューマン側は遺伝子操作により絶滅寸前であった人間の数を増やすことに成功した。
私は目の眩むような驚きに飲まれた。たとえ人工的であっても人間がこんな風に賭け事の道具として扱われていることにマグマのような怒りが、腹の底からふつふつと湧き上がってくる。また、それはこうした現実を知らなかった自分に対しての怒りでもあった。早く第三国に戻り、この事実を大本営に報告しなければと感じた私は、アヌビス達に見つからないように、宇宙船に戻ろうとした。
まさか不時着をしたところがこんな場所だと誰が予測できたであろう。
位置レーダーの故障で渡航禁止場所であったこの第一国に降りてしまったのだ。不時着した場所は砂地帯で、あたりにはあの競技場しか見えなかったが好奇心から競技場へ行ったのだ。
私は平時より心拍数の上がった心臓を落ち着かせながら、なんとかアヌビスたちに見つからないよう、不時着した宇宙船へ戻った。
「ほっ。よかった。なんとかパワーは戻った。」
緊急用の燃料を使い、私は自分のスペースシャトルであるR607小型宇宙船を起動させ第三国への帰路に着いた。
宇宙空間に散りばめられた瞬く星々を通過し、そのまま私は上官に先ほど目にした恐ろしい事実を知らせるため、カスティリャ地方の基地へ向かった。
基地近くの駐船上に船を下ろすと、私はその足で、砂岩に覆われたカスティリャの砂漠地帯の砂風を鬱陶しく払いのけながら基地へと向かった。
私の属する第三師団は村田軍曹をトップにおよそ30名の自衛官が国防の任務についている。
「よお、戻ったか。やに険しい顔をしてやがんな。一体どうしたんだ?」
「ああ、海塚か。ちょっと信じられないことがあってな。今から上に報告しに行くところなんだ。村田軍曹はいらっしゃるか?」
「ああ。多分、蜃気楼にいると思うが。それより信じられないこと?一体何だってんだい?」
「お前にも後で知らせるから。また後でな。」
私は依然として気になっている同僚の海塚を背に歩みを進めた。エレベーターで最上階である蜃気楼と呼ばれる最上階へ上がった。
私は事の顛末を話したが村田上官は驚いた様子を見せなかった。
「知っているよ。そんなことは。」
「知っていた?では村田上官は、人間があんな風な扱いを受けていることを知っていながら見過ごしていたというんですか?」
「全くもってそうだ。しかしあれは人間ではない。」
「どういうことですか?」
「あれは人工的に大量につくられたものであるから人間ではないのだよ。」
「でも人工的にって言ったってどう見ても私たちと同じ人間じゃないですか?」
「先のネオヒューマン対人間の争いに敗れた末、第三国にその人間側の残党が移り住んだのが私たちの祖先であるのは君がよく知っている通りだ。しかし、ネオヒューマン側は人間達の死骸から遺伝子操作を行い人間のいわばクローンとでもいうべきものを生み出すことに成功したのだ。そして、そのクローンは君が目にしたように第一国の賭け事の道具であったりに使われているんだ。何せ第三国の奴ら、ネオヒューマンは賭け事というものが好きでね。週末には毎週、人間を競技場で走らせ、どの人間が一番早く走るかといった遊びに興じているわけだよ。」
「お言葉ですが、上官、私たちと同じ容貌をしている人たちがあんな風に扱われていることにあなたは何も感じないのですか?」
「ネオヒューマンの第一国は我が国にとっての重要な宇宙貿易の相手国である。よってその第一国で流行っている賭け事に苦言を呈すればいつだって、自国の死活的な資源である鉄や食料を止められる可能性だってあるんだ。だから、おいそれと苦言を呈すことなんか出来やしないんだ。」
「・・・だからって。・・・」
「まあ長いものには巻かれろということだよ。私はこれからちょっと出るんだ。もういいかね。」
「・・・はい。失礼します。」
「まあ、くれぐれも変な気だけは起こさないようにね。」
釘をさすような村田上官の乾いた言葉が宙に浮いた。
私は、第三国を見下ろせる大展望台の長椅子に腰を下ろしていた。
「なんてこった。上官はこの事実を知っていながら見過ごして来たのか。こんなことが許されるなら、これから先、俺の正義は一体どこに向けたらいいんだ。
第一、あの人たちは感情がないようには見えなかった。そうだ。あの人たちには私たちと同じ意思がある。彼らは私たちと同じ第三国で暮らすべき人たちなんだ。絶対にあのままにさせておいてはいけない。しかし、一体どうすればあの人たちを連れてこれるのだろうか・・・」
私の思案は暗礁に乗り上げた。
しかし、どう考えても自分一人ではあの人たちを救うことはできないだろうし、何せ上官がああ言っている以上助けようとすればそれは叛逆罪にとられる可能性も充分にある。そんなことを考えながら日も暮れ始めたので、私はひとまず自分の家へ戻った。
「お父さん!お帰りなさい!」
家へ戻ると子供の倫太郎がかけ寄って来た。
「おう、ただいま。」
宇宙探査のため数週間家を空けていたので、倫太郎の顔を見るのは久しぶりだった。数週間のうちに何やら子供の背が伸びた気がするのはただの気のせいだろうか。もう子供は五歳になるが、なかなか遊んでやれていない。
倫太郎に続いて妻もリビングから出て来た。子供を一人で見ていてくれた妻に感謝と申し訳なさがないまぜになったような表情を浮かべながら妻に微笑みかけた。
「ただいま。ようやく帰れたよ。」
「お帰りなさい。」
その日の晩飯はご馳走だった。食卓にはビーフステーキ、マグロの煮付け、発泡酒など、私の好きなものばかりが並べられた。こうした日常もこの国が平和であるからこそ生まれるもので、その平和がなければ成立し得ないものであることは明白であった。
この第三国の食料自給率は45%で他の第七国や第九国、さらには、あの第一国に最も食料を頼っている。よって、第一国との良好な関係によってこの国が自らの胃袋を潤し続けられていることは明白であった。
___「くれぐれも変な気は起こさないようにね」_____
村田上官の言葉が脳裏にこべりついて離れない。
自分が第一国の食べ物を口にしている事実こそが第一国との関係を維持しなければならない何よりの証拠であった。
不意にあの競技場での様子が思い出され私は突如、筆舌に尽くしがたい吐き気に襲われトイレに駆け込んだ。そして、口腔から吐き出された粘液質の液体を見つめながら鬱ら鬱らと意識が遠のいていった。
ボワっとした、蛍光灯が点滅するような感覚が瞼の裏に映り、私は目覚めた。
同時にあれが全部夢であったらいいのにと考えてしまう。
私は葛藤した。自らの正義感と職務の立場において、自分がどうすればいいのか、数日の間苦しみ抜いた。
ある晩、倫太郎が寝たのを確認した後、自分の良心の呵責から少しでも逃れるために、事の成り行きを全て説明した。
すると妻は、
「あなたはそれでいいの?あなたが自衛官として大切にしているものは何なの?私は同じ人間がそんな状況になっているのに放っておける人と結婚したつもりはないわ。あなたは私にあなたとの結婚を後悔させるつもりなの?」
私は胸を打たれた。自衛艦としての役割は子供達の未来を守ること。それが第一であった。が、しかしそれは、見たくないものに目をつぶった上で果たせる類の役割でないことは明らかであった。
妻からの金言を受け取った私は大きな決意を胸に、海塚に明日会って話したいことがあるという旨のメッセージを送った末、自分の寝床でまどろみに包まれた。
翌日、私は海塚に事の顛末を全て話した。そして救出に協力してくれるよう頼むと海塚は、
「協力するよ。自衛官養成所では共に辛酸を舐めた仲じゃないか。それに、友が正しい方向に行こうとしているのを妨げる奴がどこにいるってんだい。」
「海塚・・・お前って奴は・・・ありがとう・・・ありがとう・・・。」
私は喉の奥からこみ上げてくる嬉しさを抑えながら、
「じゃあ計画ができたらまた呼ぶから。くれぐれも村田上官には勘付かれないようにしてくれよ。あの人は勘が鋭いから。」と釘を刺した。
「・・・ああ、もちろんその辺は抜かりなくやるよ。平常心を持って軍務に取り組むこととするよ。」
しかし、いくら海塚が協力をしてくれるといっても人数が二人に増えたところで、多勢に無勢であることは明白であった。
カスティリャの大図書館で計画を練っていくと、第一国のアヌビスたちの犠牲は避けられないかもしれないと、感じた。なぜなら二人であの人たちを救うとなると、爆薬を使うことに止むべからざる必要性があったからだ。
もちろん爆薬を使うことがそのままファラオを死に至らしめることには繋がらないが、その可能性の大きさは認めざるを得なかった。
二つの命を天秤にかけ選ぶ時、選ぶ基準は何になるだろう。遠く過去を探してどんな偉人を連れてきて選ばせてみてもそれが恣意的な決断になることは避けられないであろう。私はその恣意性にアヌビス、つまりはネオヒューマンの命を奪う権利が内在しているのか考えた。
___なかった。____
恣意性の中にそんな権利はないことは考えるまでもないことだったのかもしれない。ではどうするか。誰も殺さない方法を考えるしかない。私の計画はまたもや暗礁に乗り上げたのだった。第図書館を出て、ジョギングで軽く汗をかこうとカスティリャの市街へ出た。ちょうどイースターの祭りがやっているらしく、水牛の肉、水蜜桃などの屋台が所狭しとたくさん出ている。私は普段、緊張を要する任務のため神経痛に悩まされていたが、それも祭りの様子を見ると幾分和らいだかの面持ちになる。
雰囲気を楽しみながら闊歩していると背中に鈍い痛みを感じた。
(ん!背中を蹴られたのか)
私は目の前に降り階段がある場所で背中を蹴られた。転げ落ちた私は、階段の角に頭をぶつけ意識を失った。
目を覚ますと私のぼやけた視線は鉄格子を捉えた。背中に鈍痛を感じる。
(くそ、なんて酷いことをしやがんだ。一体誰だ。私のことを蹴ったのは。)
周囲を見渡しながら私は奇妙な思いに包まれた。何故なら私が入れられた牢は見覚えのあるものだったからだ。
(ここには軍の研修で来たことがあるぞ。確かここは軍の施設の地下で国家機密に関わる犯罪を起こした者を、つまりはA級犯罪者と呼ばれる者たちを入れておくための牢だ・・・!)
「なんだってこの私がこんな所に入れられているんだ!」
そんな風に嘆いていると、
牢の外の渡り通路から不意に村田上官が現れた。
「上官?どう言うことですか?これは・・・」
君は本当に遺伝子操作によってクローンの人間が作れようになったと思っていたのかね?」
「どういうことですか?」
「この施設はな、A級犯罪者を第一国の人間競技場に送りつける奴を捕らえておくための施設なんだよ!つまりお前が見た人間は人工的に作られたのではなく、この牢獄から送られたお前とほとんど変わらない普通の人間なんだ。
ははは。歴史教育っていうのはな自分たちの国に都合が良いように子供を洗脳していくためのものなんだ。お前が学校で教わった歴史は嘘っぱちもいいとこなんだよ!だからお前がこれから行くところは第一国の賭博場だ。そこでお前はアヌビスたちの玩具として死ぬまで鞭打たれ続ける人生が待ってるんだよ!はははははは。
「警告したぞ?俺は。これ以上深追いしないようにな。だが、お前がそれを破ったんだ。上官様の命令は従わないといけないよなあ!。」上官は愉悦を存分に表しながら私に指を指した。
「やめてくれ、俺には息子がいるんだ。」上官の背後から視線を落としたまま海塚が出て来た。
「海塚・・・まさか、お前・・・・」
「すまんな。でも俺もこうするしかねえんだよ。こうしねえと俺は叛逆を起こそうとしている者を知りながら隠すことになるんだ。それがどんなに重い罪になるかお前にも分かるだろ?」
「・・・だからってお前が俺を裏切るとは思わなかったよ。」
「・・・お前にお前の正義があるように、俺にも俺の正義があるんだよ。俺の正義は俺の妻、そして生まれてくる子供を守るための正義。司る権力に媚び、へつらいながら暮らしを守るための正義だ。その正義とお前の正義を比べてどちらが良いものなのかなんて、誰にも分かりゃあしないのさ。」
私はその言葉を聞かされた時、静かに目を伏せた。
(そうだ。これはあいつがあいつなりの正義を考えた結果なんだ。だから俺はあいつのことを非難する権利はないのかもしれない・・・だけど・・・やはり俺は・・・)
「まあ、移送までには何日か日にちがあるから、残り少ない第三宇宙での暮らしを楽しんでくれよ。ははは。」
俺はいつ移送の日が決定するのか心底震えていた。そして、そんな生きた心地もしない日が何日も、過ぎ180日間が過ぎようとしていた。俺は薄暗い牢獄生活の中で自我が失われてしないようにパイプベッドのボルトを一本抜き取り鉄壁に毎日一本の線を引き何日が過ぎたのか記録していた。
「まさかこんなことになるなんてな。俺は家族を残して死ぬことになるのか。誰か俺をこの地獄みたいな世界から救ってくれ・・・!」そんなことをもう何回考えただろうか。
獄中生活の中で一番痛感したことは。神は救ってくださらない。ということだ。いくら信仰を重ねても神は私をこの絶望的な状況から救っては下さらなかった。
飯は一日二回配膳されたが、献立は栄養が考えられた物が多かった。これは凡そ私が第一国に運ばれた時、栄養失調の状態では賭け事の道具として話にならないからであろうことは容易に想像がついた。死ぬことも脳をよぎった。でも、家族の顔が頭から離れずついには決行できなかった。生きているか死んでいるかも分からないような状況の中で、私は毎日を消化していた。
私は一体どうなるのであろう。第三宇宙へ連れて行かれ、鞭で叩かれ走らされ怪我をすれば治療など到底してくれるはずはないであろう。そんなことを考えて続けていたとある日。私の牢に新たな囚人が入ってきた。
「早く出してくれよ、俺は無実なんだ!」
最後の抵抗を講じながら、小柄な小太りの男が私を牢に入れた男に押さえつけられながら入ってきた。
私は長い間人と会話をしていなかった。だから、新たに牢に人が入ってきてくれたことに感謝をしている自分に気づいた。
小太りの男と目があった私は、好奇心を隠さないような表情で、
「おい、お前名前は?」
と問うた。
「あ?誰だお前?」
「俺は自衛官だ。」
「はっ。自衛官様がなんでこんな薄暗い牢にいやがんだ。嘘をつくにももっとましな嘘をきやがれ。」
「本当だ、お前何をしたんだ?」
「俺は何もしてねえよ。ただいきなり自衛艦に国家転覆罪?とかなんやらいい勝手な言いがかりをつけられてここまで連れてこられたんだよ!冗談じゃなええ!」ここまで運ばれてきた私と小太りのKは司法を介さずに身勝手に入獄させられたという共通点があった。私はその時恐ろしい予測にハッとした。
司法が隠蔽、つまりは、軍に忖度を行なっているのかもしれない!私を入獄させたのもきちんと国家転覆罪の書類が裁判官のテーブルの上に載せられているのかもしれない!であるならば、私が楯突こうとしたのはあまりにも巨大な権力に対してであったのだ。
いくら平和のためと言っても自衛官の実態がこんな姿であっていいはずないじゃないか!理想を捨てて現実的に考えてばかりじゃあ世界はちっともよくならない。」
私はKに自分たちが連れて行かれるであろう国の実態について話すべきか迷った。いたずらに不安にさせても事態はこれっぽっちも良い方向には進まないのが目に見えていたからだ。
「なあお前、出身はどこだ?俺はカスティリャだ。
私とKは話すことによって自分たの不安がわずかではある取り除かれた。
「はははは。じゃあなんだお前、奥さんは中等学校からの馴染みであったんか?」
「まあそういうことになるな。
羨ましいぜまったく。俺も若い頃はスリムで、なかなかの好男子との評判であったんだがな。まったくこのビール腹ときたら。こいつのせいでまったく今となってはモテもしねえ!」
ポッコリと膨れた腹だけが女子から好かれない原因ではないような気もしたが、私はコクコク頷き、堪えていた。何せ完全に二人だけの空間であるから、いたずらに機嫌を損なうようなことはしたくなかったのだ。
だがそんな日も長くは続かなかった。
「お前たち、出ろ。」
冷ややかな監視員の声音が私の背筋を凍らせた。ついに執行の日が来たのだ。
移送用の巨大な宇宙船が空から水の膜を突き抜けて降りて来た。私たちはそれに乗せられた。
私たちは目隠しをされた。そして腕にチクリと何か刺されたようだ。
「何をしたんだ?」
「・・・まあ、焦らずともそのうち分かるさ。」
はじめのうちは何も感じることはなかったが徐々に体に違和感を覚え始めた。
体の至るところのベクトルを変えてしまうような感覚と共に激しい痛みに襲われる。
すると背骨が折られたかのように私の腹とと太ももがくっつくようにして二つに折れた。
私は立とうとしたが異変に気付いた。視界の中心にある二つの手のひらがが砂地に触れているのだ。私は立つと言う動作を忘れてしまったのだろうか。いやそんなはずはない。獄中生活の中でも最低限の運動はしていたのだから。ではこの状況をどうやって説明できるだろうか。気をぬくと、地を舐めんとばかりに頭が垂れるこの状況を。足の関節は前方に曲がり、まるで猫や犬などの四足歩行に変化してしまった。地に手足をつきながら駆け回らなけばならない。生きていくとはそう言うことになってしまったのだ!
飼われた人間たちを収容する小屋の一区画に私は鎖で繋がれた。
「彼は・・・確か・・・」
隣にはあの日初めて走らされているのを見た顔と同じ顔をしている人がいた。
飼育員が隣の区画に白衣を着た人間?を連れてきた。飼われている人間を診るために雇われているのだろうか。
「彼は・・・確か・・・」
隣にはあの日初めて走らされていた人が偶然にも隣の区画にいたのだ。
「××××××××××××××××××××××××××××××××」
「いやこれは厳しそうだな。」
「××××××××××××××××」
「俺はまだ走れる!殺さないでくれ!」
「××××××××××××××××」
頭部を一発アヌビスが隣の区画の男を殴った。そしてその男は連れて行かれた。
ついに、私が出る始めてのレースが到来した。怪我をすれば治療をしてくれる保証などどこにもなかった。つまり、骨を折ってしまったらそれは死を意味するのだ。
私の上にアヌビスがのり、目の前のゲートが開いたと同時に一斉にほか七人も走り出した!私は少しスタートが遅れた。刹背中に激しい痛みに襲われた!鞭だ!
これが鞭の痛みか!嗚呼なんという痛み!私はこのような痛い目に合わされながら残りの生涯を送っていかなければならないのだろうか!次に襲ってくる鞭が恐ろしくてたまらない!もっと早く、叩かれないように早く走ればならない、
ファラオたちの欲望をむき出しにした歓声が上がっている。手の皮膚はただれて変色し、手のヒラは鋼鉄のように固く、内に凝縮したような厚みがある。私はいったいどこから来たのだろうか。私はどこへ行くのだろうか。皮とにかく鞭が怖いのだ。あの激しい痛みが。
そんな日を繰り返す中でついに、私はなぜここにいるのか、こうなる前は何をしていたのかそんなことすら忘れてしまっていた。
倫太郎の書記
父は謎の失踪を遂げた。母は何か知っていそうな様子を見せていたが何も語ってはくれなかった。自衛官としての父が誇らしかった。しかし、最近父が何やら毎日痛い目に遭っている夢を見るのだ。心配でたまらない。15を迎えたら自分も自衛官の道を目指そうと思っている。父の正義がなんであったのか、僕は知りたいと強く思っている。もし生きているなら必ず会いに行く。