看板娘
五六年もぶらさがっていると、世界は代わり映えしない退屈な劇になった。いつも来ていたおじいちゃん来なくなったわね死んだのかしら、あの子しばらく見ない内に大きくなったわね生意気ね、そこの家のお母さんランニング始めたけど三日ともたないでしょうね前もそうだったもの、ホラまた犬が車に轢かれたわ猫かもしれないね……
最初の一年は何事も新鮮だった。自分の前を通る人々の一挙一動に興味を持ち、時折ちらりと向けられる視線に胸をときめかせた。
私の中で微笑むモデルはセクシーな美女だったので、私は彼女と自分を重ね合わせる事にした。彼女の半分露出した胸を盗み見する男性の目に何度も興奮した。お世辞にも美人とはいえないような女性の、彼女を睨みつける顔は愉快でたまらなかった。
物欲しげに彼女をじっと見つめる少年の赤い唇が尖っていた時などは、私は自分に唇が無いことを悔やんだ。それ以来彼が前を通る度、顔がこちらを向いていなくても、私は彼をぼうっと見つめるようになった。赤い唇は白い肌に映えてとても素敵だった。一度、彼がとなりをすれ違った老人を指差しながら、口の端を片方だけ釣り上げて笑った顔を見たが、私は何となく恥ずかしくなって、モデルの女性がもう少し若かったらいいのに、と思った。
彩りのある日々は素早く枯れていった。写真のモデルは変わらず美しい顔と体を保っていたが、私は自分が衰えていくのを感じた。
太陽の熱気と風雨の冷気は交互に現れて私の表面を削り取っていった。何しろ神経が無いので痛みは感じなかったが、私はゆっくり、しかし確実に死んでいった。もともと、看板の私が生きているはずはないのだが。
私は人前に晒され続けたままだった。しかし色褪せた私に関心を持つ者はいなかった。相変わらず私はモデルでモデルは私だったが、通行人はそのどちらにも興味が無さそうだった。
ただよう陽炎が夏の暑さを象徴するある日、私は恐ろしいことに気付いた。あの赤い唇の少年、彼が私の前から消えたのだ。私は通行人の顔を一人一人丹念に見て、彼の唇を探しだそうとした。しかし、彼の唇が彼以外の者にくっついている筈もなく、私はだらしなく開いている人間の口、全く魅力のない暗い穴ばかり見つめて一夏を過ごした。
草花が枯れ、落ち葉が道を覆いはじめた頃、彼は再び姿を現した。しかし、その再会は私をがっかりさせるものだった。
彼の赤い素敵な唇は、青く冷たい唇に変貌し、ギラギラ光る輪がいくつもそこに突き刺さっていた。唇だけではない、透き通るように白かった肌は日焼けしてシミまで浮かんでいたし、服から靴から鞄まで、全て重苦しい色に染まっていた。ただひとつ色素の薄い髪だけは、ナスのヘタのようにちょこんと申し訳なさそうに頭に乗っかっていた。
失望した私にとって、彼の腕にからまっている女の腕はさほど問題では無かった。
彼と彼の恋人は、私の前を通過する時いつも何かを話し合っていた。恋人に向けられた彼の顔は明るかった。目はそのファッションほど鋭さを備えているわけではなく、むしろ人を愛しむ喜びを知っているように思えた。しかし、どんなに気の良い人間になったとして、変化した彼が私をひきつけることは無かった。私の彼に対する興味はあの唇だけにとどまっていたのだ。私は彼を愛することができなかった。看板なのだから当然だろうが。
冬、私が看板としての役目を終える前の晩、彼らが手を繋いで現れた。珍しくお互い黙り込んだまま、ゆっくりとした足取りで歩いてきた。雲のかかった月の淡い光が二人の道を照らしていた。
二人がちょうど私の真前に来たとき、女が首に巻いていたマフラーがほどけて腹の前までずれ落ちた。女がそれを直そうとするのを彼は手で制した。二人は向かい合う格好になって、そのまま彼は女のマフラーを巻き直しだした。途中で手が女の胸に当たったらしく、女はぱっと顔を伏せてしまった。
マフラーが元の位置に戻ったあとも、彼の手は女の肩にあった。彼はうつむいている女の名前(と思われるもの)を呼んだ。女はゆっくりと顔を上げた。月にかかっていた雲は払われ、青白い光が女の赤い顔を映し出した。彼の頭はそこへ導かれるように近付いた。二人の間を隔てるものは無くなった。重なる影はどこまでも伸びていくように思われた。
私は嫉妬したわけでは無かった。怒ったり、悔しがったりしたわけでもなかった。けれど私は悲しかった。看板にも心があるのなら、私は心の底からあふれ出る悲しみを感じていた。
かつてこれほど美しいものを見たことがあるだろうか?四季にも人間にも自分の美貌にも、あの唇にさえもここまでショックを受けただろうか?……そう考えると、看板の自分が、あの場面に相応しくないことが悲しかった。あの美しい一場面に、看板という存在として彼らから分け隔てられていることが淋しかった。私は彼らをただじっと見つめる傍観者だった。彼らの形を縁取る光や風が羨ましかった。
今、看板としての形を失い、塵となって宙を舞う私は、幸運と言うのだろうか。しかしまだ、あの場面を再現することはできないままでいる。