【色彩フラグメント/金沙羅】
夏明きの近付く夜空に、濃淡様々な光の粒子が散らばるのを稚児は眺めていた。千手観音の腕のようで、しなだれた稲穂の憂鬱のような金色の瞬きを。
一般的に誤解されている事が多いが、視力を失った状態というのは、必ずしも暗闇に覆われた状態という訳ではない。むしろその逆である場合がほとんどだ。
その稚児──知歩も、撹拌する光の世界を生きていた。
仰向けに寝転んだ視界の片隅で、華が開いては空気が震える度、知歩の胸を息苦しさが襲った。その理屈を知る由もない彼女は、その度に息を潜めたり、あるいは泣き出しそうになったりを繰り返しながら、光の奔流の中を揺蕩っている。
職人達が腕に縒りを掛け、如何なる工夫や趣向を凝らしてみたところで、目の見えぬ稚児にとっては、金色の油絵の飛沫が僅かに多いか少ないかの違いしかない。
知歩の母は、台所の腰掛けに着座して我が子の姿を眺めながら、奈落に突き落とされるような絶望と、奈落の足元を微かに照らすぬくもりとを同時に感じていた。
相反する感情に流されそうになる夜を、知歩とこうして幾度も過ごすうちに、全ての世俗から我が子を隠して、自身もこのまま隠匿してしまいたいと願うようになった。
花火大会の特等席だと云う売り文句に絆されて購入を決意したこの高層住宅も、今では不幸せを知らしめるだけだ。それは満たされない幸福を映す鏡であり、埋められない空白を季節と共に報せ続ける呪われた居城。
せめて我が子に憶える愛情の、最後の一欠片を捨て去る事が出来れば、私自身はこの呪いから解き放たれるかもしれないのに──。彼女は笑う。自嘲気味に。
そんな母の苦悩さえも、知歩は膨張した光の一環としてこの世界に捉えている。一人の稚児にとっては、苛立った母親が時折立てる物音や、憂いを含んだ嘆息のほうが肝要であった。あるいは眠りに落ちていく時の、自身の肌同士では感じる事の出来ない体温。そういったぬくもりの方が、知歩にとっては何倍も肝要だったのだ。
しかし彼女が、何ものにも代え難い安息の想いを、母親に伝える手段を得るのはまだ何年も先の話である。
とん。ととん。ととととん──。
小さく開く華の姿を、知歩の父は遠方より眺めていた。あの輝きのすぐ近くで、今日も苦しげに頭を抱えているであろう妻を慮りながら。
背伸びして手に入れた新築住宅は、恵まれた立地を少しも活かせずにいた。身の丈を越えた生活を維持する為に、こうして仕事の波に呑まれている自分を歯痒く思う。
儘ならない人生に匙を投げたくなる衝動と、自身が築き上げた家族を死んでも守り抜かなければという責任感。その両極が生み出す陰影が、彼の心をまた少し摩耗させる。
家族という存在の脆さと、その不確かさを彼は知っている。彼は彼の生まれ育った家庭で、いかに家族という存在が馬鹿馬鹿しいものであるのかを思い知ったのだ。
だからまさか、自分が家族を築きたいなどと思う日が来るとは、思いも寄らなかった。彼は、彼女とならば思い描くことが出来たのだ。ありありとした眩しい生活を。信じるに値する未来を──。それなのに。
どん。どどん。どどどどん──どんっ。
特大の華が開き、びりびりと窓枠が震えた。照明を落とした居間には、気紛れな火の玉が引っ切り無しに明暗を描いている。役目を与えられない遮光カーテンは、窓の端に括られたままだった。
いつの間にか眠り呆けた知歩の手を、母は握りしめている。世界を見る事の叶わぬ我が子は、何色の夢を見るのだろうなどと夢想しながら。
彼女は自身と我が子を夜風から守るように、薄手のブランケットに共に包まった。まるで花のような姿で、そのまま深い眠りに落ちていく。たしかな体温が互いをあたため合い、羊水に浸かるような安息の中で。
夏明きの近付く夜空に、静かな星明かりだけが明滅している。
深夜遅く帰宅した父は、居間に咲いた花の美しさに、自分がまだ幸せの中に居るのだと悟るのだった。
たとえそれが、思い描いていたかたちではなくとも──。
知歩の夢は、きっと金色に包まれている。