躁鬱の話
鬱真っ只中である。
不思議なもんで、鬱のときのほうが筆が進む。
今回の鬱は半ば自業自得で、3日ほど薬を切らしてしまったからだ。
今出されている薬が、副作用の関係で、一旦抜けてしまうと再度服薬するのに、少しずつ様子を見ながら量を増やしていかないといけない薬で、私的適量まで出してもらえるようになるまであと2週間くらいかかる。
つまり、あと2週間ほどは不安定に過ごすはめになる。
躁の関係で、上げすぎても困った症状が出てくるので、なかなか調節が難しい。
主治医も難儀していることだろう。
今日は久しぶりに外に出られた。
生理やら風邪やら鬱やらで約3週間ほど寝たきりだったので、体が思うように動かない。
スーパーに買い物に行ったのだが、目の前を歩く推定80代のおばあちゃんと同じように腰を曲げて歩いている自分に気付き、落ち込むやら笑えるやら。
10年も病んでいるとこんなことは日常茶飯事ではあるけれど、今でも時々、私の人生どこで踏み外したかなぁと考える。
心療内科や精神科にかかったことのある方は言われたことがあるかもしれないが、私の主治医はよく、「考えるのは止めなさい。考えても解決しないんだから。」と言う。
長いことそれができずにいた。
だって人間は頭を使ってなんぼである。
学校で学ぶにしても会社で働くにしても人と付き合うにしたって、人間は頭をフル回転させ、悩み、試行錯誤し、最良と思われる選択をする。
その繰り返しで人生は回っていく。
でも、私の頭はそうやって考え始めると誤作動を起こす。
何度も社会復帰を目指したが、ことごとく頭が空回りをして、それに心がついていけず、しまいには粉々に折れてしまう。
こうなると、日常生活を上手く遣りきれるようになるまでに半年から1年かかる。
その間は廃人である。
死ぬことばかり考える。
自傷し始める。
過呼吸でのたうち回る。
家族とすら会話がままならなくなる。
意味もなく泣けてくる。
毎週毎週薬の量ばかり増えていき、頭は朦朧としてただただ生きていることへの自責と絶望に支配されて眠る。
最近になって、やっとこの病気と上手く付き合うコツみたいなものがわかってきた。
アホになることである。
それがつまり、医師の言う「考えない。」と言うことなんだろう。
調子が悪いときは諦めて寝る。
ちょっと良くなってきたら家族のためにメシの支度をし、洗濯をし、掃除をし、風呂に入り、歯を磨き、ときどきスーパーで特価の野菜を買ってみたりする。
できるときに、できることをする。
いい意味で、諦めは肝心である。
そうやって力を抜くと、案外浮いていられるものである。
現在、私は障害者手帳を持ち、障害年金をいただいている。
批判の声もあるかもしれない。
甘えだという方もいるだろう。
その通りかも知れない。
私も抵抗があったから。
「死ぬくらいなら、年金貰って心の負担を軽くして、生きなさい。」
主治医の言葉に後押しされて、手続きする決意をした。
でもまだ諦めちゃいない。
力を溜めて、いつかもう一度トライしてやる。
そんなわけで、来るべき日に備えて時々ジムに通っている。
毎日通えるようになったら、また働けると期待を込めて。
世の中には、私と同じような病気と1人きりで向き合っておられる方もいらっしゃるだろう。
鬱で働けなくなってまず一番に直面する問題はお金だ。
それを苦に、自殺を選ぶ人もいる。
私はその点、両親が健在で実家に住まわせてもらっているから(嫌な顔はされるけど)、恵まれている。
もし1人きりだったら、私はもういないかもしれない。
今苦しい気持ちでこれを読んでいる誰か。
アホになりましょう。
なんか馬鹿みたいだけど、なんやかんや言ってアホは強い。
あなたの側にいませんか?
アホみたいにポジティブな変な人。
それが最強なんです。
死にたくなったらとりあえず眠ってみる。
起きたら脳が少しはまともになってるかもしれないから。
遠い未来を考えて絶望するなら、足元だけ見てりゃいいんです。
今日1日生きてたら花丸。
私もそうやって今、息をしています。
アホになりましょ。